月、水と働いて、二二時半ごろ帰巣。
去年の三月に「塔のある街」という作品を書いた。これがじぶんの最初の小説である。題に元ネタがあるわけでないが、そう名付けた直後から、梶井基次郎の「城のある町にて」を連想することがままあった。さきほど飯を食ってから椅子に座っているとき、そのことを思い出していると、「塔のある街」のあの街を舞台にして、梶井基次郎みたいな私小説やるのもいいのでは? と思いついた。「城のある町にて」を読み返して、構造や展開をなぞってオマージュとまではやらないだろうが、それっぽいモチーフを変形させたかたちで取りこむ、と。さらに、それぞれ街の住人であるべつの語り手をあと三、四人用意して、短篇連作みたいにするのもいいかもしれない。「塔のある街」というあの最初の一篇は、あくまで外部から来た旅人である「わたし」の視点で描かれたものだということになる。
ドストエフスキーに『悪霊』という長篇がある。じぶんの兄は東京外国語大学でロシア語をやっていた。それなもので実家に新潮文庫ならびに光文社古典新訳文庫のドストエフスキーが何冊かあるのだけれど、じぶんはいまだその作品を『悪霊』のほかに読んだことがない。しかもそれは兄の蔵書ではなかった。『悪霊』は、しょうもないダメダメな革命左翼がわちゃわちゃやってるみたいな作品だった記憶がある。これを現代日本に置き換えて、ネトウヨ(ってもしかするともう死語なのか?)とか、陰謀論者とか、反ワクチン団体とか宗教勢力とかがわさわさやってるような長篇書くのも、わりとおもしろいかもしれないなと思った。食後に椅子に座ってちょっと休んだあと、米をといだり歯を磨いたりしてから湯に浸かっていたあいだのことだ。
最近はあと、翻訳の勉強をしたいなとときどき思う。勉強といっても、原文読んで、既存訳読んで、ああここはこう訳すのか、なるほど、こういう日本語にするのか、というだけのことなのだけど、そろそろじぶんもシェイクスピアあたり原語で読んでおきたいなと思う。光文社古典新訳文庫の安西徹雄の訳がじぶんとしてはかなりいい印象で、これを原文と見比べて読めば学びになるんじゃないかと思うのだ。正確に言えばかなりいい印象を受けたのは『十二夜』で、ほかの作品までかなりいい印象を受けるかどうかはわからない。『ヴェニスの商人』も読んだとおもうが、こちらは『十二夜』ほどにかなりいいという印象を受けたおぼえはない。いずれにしても当該文庫の安西徹雄の訳は全部読んでおきたい。また、氏はちくま学芸だかで翻訳指南書みたいなものも出していたはずなので、それを読むのもよさそうだ。もうひとつ、シェイクスピアというと、出版社わすれたんだが、真っ黒いカバーの対訳シリーズがどっかから出ていたはずだ。遠いむかしに図書館で借りたのだけれど、註が専門研究書的にくわしくて、ここまでの興味はないやと途中で挫折した記憶がある。あれもいまだったらたいそうおもしろく読めるだろう。ほか、新潮文庫の『ヘミングウェイ全短篇』を三冊とも買ってあるので、そいつらを読み、これはよさそうというやつをじぶんでも訳す、とか。おいおいそういったことをやっていきたい。あと『パウル・ツェラン全詩集』を三巻とも買っちゃって、毎日少しずつ音読していくとか。
上記したシェイクスピアの対訳シリーズというのは、たぶん研究社の対訳・注解シェイクスピア選集というやつだ。大場建治というひとが手がけているシリーズで、岩波文庫の『じゃじゃ馬馴らし』がこのひとの訳。むかし読んだ。これといった記憶は残っていないが、悪い日本語ではなかった、むしろけっこうよかった気がする。あとこの文庫本も註がくわしかったおぼえがある。それもそこそこおもしろく読んだような気がする。