2019/5/27, Mon.

 一一時一〇分になってようやく起床することができた。上階に行って、アイロン掛けをしている母親に低い声で挨拶をした。声の調子はまだ戻りきっていない。それからしばらく、まだ何となく眠気が残っているような感じがして、意識が冴えていなかったので、ソファに凭れ掛かり、身体を横に倒して目を閉じて休んだ。そうして一二時が近くなってから立ち上がり、母親が盆に用意してくれた食事を卓に運んだ。ドナルド・トランプの来日、新天皇との会見、日米首脳会談などについて伝えるニュースをぼんやりと見やりながら食事を取り、取ったあとは抗鬱剤や風邪薬を飲むと、布巾でテーブル上を拭いてから皿を洗った。そうしてジャージに着替えて下階に戻り、コンピューターを起動させた。LINEでT田からの返信が入っていた。昨日の夜、彼に化していた『灯台へ』をついに読み終わったというメッセージが入っていたのに気づいて、返信しておいたのだった。六月二日にまた彼とは会う予定があるわけだが――いつものグループで、代々木公園の音楽イベントに行ったあと、うさぎカフェとやらに繰り出すらしい――その時に、また純文学の小説を貸してくれと言うので、ちょっと考えて、それでは梶井基次郎にしようと返信しておいた。それからSkypeのやりとりも確認し、そうして日記を書きはじめたのが一二時半頃だった。途中で今度は、Hさんに近況を尋ねるTwitterのダイレクト・メッセージも送っておいた。そうしてFISHMANS『Oh! Mountain』を流しながら打鍵を進めて一時間半、現在は二時を過ぎたところで、音楽はaiko『暁のラブレター』に移っている。
 それから風呂を洗ったのが先だったか、それともAくんへの返信を綴ったのが先だったか? どちらでも良いのだが、つい数時間前のことをこうも思い出せないとは。ともかく、多分このタイミングで風呂を洗いに行ったはずだ。そうして戻ってくると、携帯を取ってAくんから昨晩来たメールの返信を綴りはじめた。日記を書いている途中、『ダブリナーズ』の感想をまとめてブログにアップした際に、今日の読書会で語ったことを文章化したから読んでくれというメールを送ってあったのだった。それに対する返信の再返信を綴ったのだったが、最初は携帯をかちかちと操作して文言を入力していたところが、途中から、これは長くなりそうだぞと気がついたのでコンピューターに触れて、日記に文章をさっと書いてからそれを見つつ携帯の方に写すという方策を取った。以下が返信の全文である。

Aくん、こちらこそいつもありがとう。良い時間を過ごさせてもらっています。

考えてみると、我々の読書会が始まったのは確かAくんが大学を卒業した年、すなわちこちらが未だ四年生だった頃のはずですから、おそらく二〇一二年のことです。そうするとこの会も――昨年中はこちらの調子の問題で休止が挟まりましたが――もう七年も続いていることになります。これはちょっと、驚愕の事実です。本当にそんなに経ったのでしょうか?

しかし、七年ものあいだ、毎月顔を合わせてずっと会合を続けてきたのだとしたら、それ自体なかなか大したことではないでしょうか。

ところでブログを少々読ませてもらいました。かなり一般向けに書かれている印象ですが、このようにまとめる習慣をつければ、読んだ本の記憶など、より強固に残るのでしょうね。

昨日も口にしたことであり、上に書いたこととも関わることですが、何かの営みを行うに当たって一番重要なのは、それを続けるというただ一点、そこに尽きると思います。続けた者こそが偉大なのです。質だのスタイルだの個性だの評価だの影響だのは、とにかく続けていればあとから勝手についてきます。

何かを続けるということは、それを習慣として、それとともに日々を生きるということです。僕の場合だったら、日記とともに生きること、いや、むしろ、日記それ自体を生きること(ここに強調の傍点を付したいところです)、と言いたい。僕は本気で、この世を離れるその日まで文章を書き続けたいと願っています。勿論、それは相当に困難なことでしょうが。

ヘンリー・ダーガーという人物をご存知でしょうか? 世界一長い小説を書いたと言われている人間です。彼は半世紀ものあいだ、誰にもそれを見せることなくたったひとりで書き続けたのですが、死後にアパートの管理人が、その部屋に残された膨大な量の文書を発見し、日の目を見たのです。今では彼の作品は、アウトサイダー・アートの代表作と目されています。また、次回の課題書になったエミリー・ディキンソンも、生前はまったく無名でしたが、死後に千篇以上の作品が発見されて、評価されることになりました。

僕はヘンリー・ダーガーのように、「世界一長い日記を書いた人間」として歴史に小さな名前を残したいという野心を抱いていますが、しかし本質的には、「世界一」という称号が重要なのではまったくありません。そうではなく、彼らの営みを自分なりに引き継ぐ人間がいるということこそが重要なのです。

プルーストは死ぬまで『失われた時を求めて』を書き続けました。ヴァージニア・ウルフも自殺するまで文章を書き続けたし、カフカも日々日記に断片を残し、死の直前まで自作の校正を続けました。彼ら彼女らがそのようにして、何かを書き続けたという誰にも否定できないその事実(ここにふたたび強調符号を添えたいところです)、これを引き受け、それに対して報いる後世の人間が必要なのです。それが文化が、芸術が、そして人間の世界が続いていくということなのです。

だから我々も、自分なりにものを書き続けましょう。そして、それについて考え、話し合い続けましょう。我々のそれぞれの営みや読書会が、これから先も長く続くことを切に祈って、今回の長い返信の筆を擱きます。

 それで時刻は三時半過ぎくらいだったはずだ。とすると、二時過ぎに日記が終わったのだから、返信を作って送るのに一時間半ほど掛かっている計算になるのだが、本当にそんなに掛かったのだろうか? 何かほかのことをしていて、それを忘れているということはないだろうか? わからないが、その後、Nさんのブログを読んだ。昨晩Twitterで、彼女がブログを始めたことを知っていたのだ。以前読ませていただいた小説に比べて記述がぐっと具体的になっており、なかなか良いように思われたので、その旨リプライを送っておき、そうして四時前からベッドに移って読書に入った。小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』である。小林康夫が書いた最後の小論で取り上げられていた武満徹の文章が美しく、なかなか面白そうで、彼のエッセイを読んだり、彼の音楽を聞いてみたりもしなければなるまいなと思った。武満徹の文章は、例えば次のような調子だ――「ひとつの生命が他の別の生命を呼ぶ時に音が生まれる」! この一節だけでほとんど詩ではないか?

ひとつの生命が他の別の生命を呼ぶ時に音が生まれる。その、沈黙を縁どる音の環飾りが音階となり、やがて、音階のひとつひとつは光の束となって大気を突き進み、あるいは、河の流れのようにほとばしる飛沫となって大洋へと解き放たれる。それは、無音の巨大な響きとしてこの宇宙を充たしている。
 (武満徹『樹の鏡、草原の鏡』; 小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、355より孫引き)

 本を読んでいるあいだ、窓外では鴉が間歇的に声を上げ、雀がちゅんちゅんと短く囀り、そのほか何の鳥のものなのかわからないが、細いピアノ線を擦っているような鳴き声も合わさって、空気が常に揺らぎ、波打っていた。そうして四時半過ぎまで読むと、出勤前に小腹を満たしておこうというわけで、上階に行き、おにぎりを一つ作った。それを握りながら階段を引き返し、自室に入ってさっさと食ったあとは、すぐに歯磨きをした。歯磨きをしているあいだはふたたび本をめくり、口を濯いでくると仕事着に着替えた。さすがに暑いのでベストは身につけず、ワイシャツにスラックスだけの姿である。ネクタイも締めずにバッグに入れて持っていって、締めないで良いかどうか室長に尋ねるつもりでいる。部屋にいてこうして打鍵しているだけで肌に汗が湧き、左手首につけている腕時計の裏などじっとりと湿り、髪の奥の頭皮にも微かな汗腺の滲みが感じられる暑さである。
 五時七分まで日記を書き、記述を現在時に追いつかせることができたところでコンピューターを閉ざし、財布に携帯、水玉模様の水色のネクタイが入った鞄を持って上階に行った。母親は仕事に出ていて不在、一人の居間から玄関に出て、扉をくぐるとポストに近寄り、夕刊を取った。上り階段を引き返し、玄関のなかの台の上にそれを置いておいてから、扉に鍵を掛けて出発した。道に出てすぐ、竹林の向こうに低くなった太陽がオレンジ色に焼け上がっているのが目に入ったが、横から射してくるその光線は、もはや目を刺すほどの威力は持っていなかった。坂を上っていき、平らな道に出ると、八百屋の来ている三ツ辻から白い髪の老婆が一人、歩いてきた。低く掠れた声でこんにちは、と挨拶をしてすれ違うと、老婆は通り過ぎたあとから、急に暑くなりましたねとさらに掛けてきたので、はい、と答えて先を進んだ。三ツ辻では八百屋の旦那があれは何やら測っていたのだろうか、その場にしゃがみこみ、その脇にT田さんの奥さんが立っていた。こんにちは、と挨拶すると、八百屋の旦那が、今日はさすがに暑いなと、ネクタイもつけていないこちらの軽装を見て言う。こちらは、風邪を引いてしまいましたと低い声で言って笑った。T田さんの奥さんはこちらのことを、生徒たちに対して怒ったりしなさそう、と言う。そうですね、全然怒らないですと答えて、車が通り過ぎてそちらに視線を向けたのを機に、じゃあ行ってきます、ありがとうございますと言って歩き出した。教室に行ったらクーラーでまた喉が悪くなるんじゃねえのと旦那は言うので、歩き出しながら、そうですねと笑って応じて、気をつけて、との続く言葉を受けた。
 空気は温もっており、汗が身の内から湧き出していた。空にはコーヒーの表面に生まれる牛乳の膜のような薄い雲が混ざっていた。裏通りへと道を折れると、左の家の庭には赤々と鮮やかな薔薇が、右の家には躑躅が大きく咲きひらいていた。そのなかを通って行き、裏通りに入ると、鶯のふくよかな声が響くなかを歩いていく。鶯の鳴き声というのはまさしく「放つ」という言葉が似つかわしく感じられる。「ほー……」の部分で弓を引き絞り、「ほけきょ」の部分で一挙に矢を放つようなイメージだ。あるいは、「ほけきょ」のその音は、サイエンス・フィクションに出てくるレーザー銃のような、科学的で人工的な響きに聞こえなくもない。
 一軒の家の前に、金平糖が集合したような形の、ピンクあるいは紫めいた色の花が咲き連なっており、何の花だろうと近づいたが、こちらの知識のなかには含まれていないものだった。女子高生の集団が背後で騒いでいるなか、歩いていくと、白猫が家の前にいたが、今日の暑さにさすがに猫もやられているのか、日蔭に姿勢を崩してだらしなく寝そべっていたので、その憩いを邪魔することはするまいと構わずに通り過ぎた。
 職場に着いてなかに入ると、室長は面談中だった。グレーのスーツ姿の見知らぬ若い女性がいて、近寄ってきて(……)だと名乗り、今日から研修させてもらうことになりましたと言うので、低い声でFですと挨拶し、すみません、風邪を引いていてと謝った。今日から研修との言葉に、新人講師だと思ったのだったが、あとで判明したところでは――直接訊いたのではないが――そうではなくて、おそらく教室長研修のようなものなのではないか。授業はせずに、電話に出たりコンピューターを操作したりしていた。年齢はどのくらいだろうか、三〇には達していなかったように思われるが、物怖じせずにあちらから話しかけてきて積極的にコミュニケーションを取ろうとする物腰の自然さや電話応対の調子からすると、大学を卒業してまもないという風でもないように感じられた。大学を出てから何年間かどこかに務めていて、それから我が社に転職してきたというような境遇だろうか? 授業終わりには、室長がやはり面談中だったので――この日、室長と自分はほとんど言葉を交わさなかった――代わりに授業記録のチェックを担当してもらった。その際にも結構質問してきたりして、危なげない感じだった。
 それから教室の奥に進むと、そこにも新しい顔があった。高年の男性で、お疲れ様ですと声を掛けると、(……)と名乗り、今日が初めてですと言った。しかし、どこかほかの場所で働いていたこともあるらしい。それはほかの塾ということではなくて、タブレットのシステムに早速対応していたところから見ると、おそらく我が社の他教室という意味だろう。それでよろしくお願いしますとがらがらの声で挨拶し、バッグをロッカーに入れて、ホワイトボードの表面の極々幽かな影の反映を鏡代わりにしながらネクタイを締めた。
 そうして授業、この日は一時限で二人が相手だった。(……)くん(中三・英語)と、(……)くん(小六・理社)である。(……)くんは(……)先生の授業から連続で引き継ぎ。範囲は現在完了。簡単な問題なら出来るが、英作文などの難しめのものはまだまだといった感じ。授業態度は比較的真面目。落としたものを拾ってあげた時や、貸出のイヤフォンを持っていった時など、いちいちありがとうございますときちんと口にするので、育ちが良いと言うか、礼儀というものを知っている種類の子のようだ。それをのちに(……)さんに話すと、体育会系なのも関連しているかもしれませんねとの返答があった。身体は細く、あまり体育会系という印象はなかったのだが、凄く日焼けしていたので、部活で焼けたんだろうなと思いましたと彼女は言った。その可能性もあるかもしれない。ただ、授業中ペンを置いている時間が何度かあり、そこにこちらが振り向いたり姿を現したりすると、取り繕うように素早くペンを持って問題の続きをやりはじめるという場面が見られた。
 (……)くんは真面目な子で、今日は初回だったがノートもきちんと、欄からはみ出すくらいにたくさん書いてくれた。質問にも知っている事柄ならばスムーズに答えてくれる。問題は解説を見ながら解いて良いとしたのだったが、知識はまあまあといったところではないか。それなので宿題には今日やったところをもう一回というのを含んだ。何の教科でも知識というものは同じだけれど、理社は特に反復しないと覚えられないだろうから、今後もこの方針は堅持していきたい。それに加えてその日の授業で扱っていないところを一頁ほど出せるようになればさらに良いだろう。こちらの事情としては社会は特に問題ないが、理科は本来出来ない教科なので、彼の持っているのと同じテキストを用意して、授業中に問題を確認しながら進めた。もう長くやっているのでその程度のことはお手の物だが、しかしこれは相手が二人だったから出来たことであって、三人相手になるとなかなかそうした暇はないだろう。
 授業が終わると入口近くに立って、がらがらの声でありながら生徒の出迎え見送りをこなし、それから片付けをしたあとに先にも書いたように(……)さんに授業記録をチェックしてもらった。そうして退勤。駅のロータリーを通って駅舎内を覗き、電車で帰るかどうかちょっと迷ったが、やはり歩くことにした。裏路地に入って見上げると、星も月も見えない暗夜である。昼間は薄雲が掛かっていながらも青味もよく見える空だったのだが、今はどうやら雲が湧いて全面を覆っているらしかった。右手にバッグを提げながら進んでいると、空気にはやはり温もりが籠っており、風も弱々しいのが僅かに流れるのみで、夜気に特有の清涼さが感じられなかった。裏通りを歩きながら、行きの道中のことを初めから思い出そうと努めるのだったが、いくらも辿らないうちに思念は遊泳して別の事柄に逸れていき、それに気づくたびにもとの場所に引き戻すけれどまもなくふたたびはぐれていく、といったことを繰り返した。
 街道に出てしばらく行き、ふたたび裏道に入ってまもなく、黒々と蟠る道端の樹木の梢から、ジージーという、夜鳴く蟬のような、砂っぽい線形のノイズめいた虫の鳴き声が大きく響き降っていた。それが木の傍を過ぎて、下り坂に入ってだいぶ遠くなってからも明らかに聞こえるので、めっちゃ届くやん、と心のなかで突っ込み、振り返り振り返り坂を下りていった。あまりに遠くまで届くので、木ではなくて自分の背にでも虫がくっついているのではあるまいなと一瞬疑いを差し挟んでしまったくらいだ。木の間の下り坂を抜けて家の傍まで来てから空を見上げると、やはり星は一つも見られず、雲の幕が全体に掛かっているようだった。
 帰宅すると居間の母親に挨拶し、暑い、と呟きながらワイシャツを脱いで椅子に掛けておいた。テレビは歌番組を流しており、今は星野源が"恋"を披露しているところだった。それから台所に入って水を一杯飲み、そうして下階に下りた。服を脱いで汗ばんだ肌を解放し、肌着とジャージの姿になると上階に引き返し、食事である。おかずは麻婆豆腐や、昼にも食べたものだが、魚のフライをカツ丼風に玉ねぎや卵と混ぜて煮たもの、それにキャベツの生サラダに玉ねぎスープだった。麻婆豆腐を加熱して、丼にたくさん盛った米の上に掛ける。そうして卓に移って食事を始めると、まず麻婆豆腐丼をすべてかっ喰らってしまった。テレビは先ほどから引き続き歌番組を放送しており、今は青春ソングという括りで数々の歌が流されていたが、大衆に膾炙したヒット曲というのは、歌詞にせよサウンドにせよ、やはり「物語」に抵抗なく寄り掛かったものばかりで、特に見るべきものはないようだった。順々に皿の上のものを平らげていき、抗鬱剤や風邪薬を飲んでおくと食器を洗い、ソファに移った。この時はテレビはニュースに移行しており、ドナルド・トランプ安倍晋三首相とともに大相撲を観戦している様子が映されたのだが、トランプ大統領は終始顔を少し顰めたような風情で、外観上はあまり楽しんでいないように見えた。母親が用意してくれた缶詰のパイナップルを食べると、入浴に向かった。湯のなかに浸かり、汗を流して出てくると、パンツ一丁の格好で階段を下り、自室に戻った。そうして一〇時直前から小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』を読み出し、三〇分ほどで読了した。それから確か、隣室に入ってしばらくギターを弄ったのだったと思う。いつものようにブルース風のフレーズを弾くのではなくて、ゆっくりとしたテンポで、スケールにこだわらず一音一音を鳴らしていき、旋律未満の音の連なりを感じるようにした――しかし最終的にはやはり、普段通り、ペンタトニック・スケールに乗って適当に弾き散らかすこともしてしまったが。部屋に戻ってきて、一一時半から日記に取り掛かりはじめたのだが、まもなくSkype上でIさんが、今日突然ブログの読者が一五人ほど増えて困惑している、一体何が起こったのだろうと発言した。何かわからないかと言うので調べてみた結果、はてなブログダッシュボードにある「購読中のブログ」欄、その右端に設けられている「こんなブログもあります」の区画に、Iさんのブログが紹介されているのを発見したので、その旨伝えた。するとYさんから、探偵だ、との反応があったので、「また一つ謎を解いてしまった……笑」と発言してふざけておき、日記に戻ろうというところだが、同時にAくんからのメールが届いていたので、そちらの返信を作っているうちに日記を全然書けないままに零時を越えてしまった。そこからようやく文章を綴りはじめたのだが、Skypeのチャット上ではH.Sさんが久方ぶりに姿を現して、「色が匂い立つ」という表現はどういうことなのだろうと問題を投げかけていた。それでチャット上では共感覚に関して皆の話が繰り広げられ、こちらもいくらか発言しておくなかで、上にも引いた武満徹『樹の鏡、草原の鏡』の記述をTwitterに投稿すると、まもなくIさんからSkypeのチャットで、『日本を解き放つ』は僕も読みました、というメッセージが届いた。武満徹の文章が素晴らしく、面白そうだったという点について二人で合意して、それからようやく本格的に日記に取り掛かり、John Mayer『Where The Light Is: John Mayer Live In Los Angeles』を流しながら打鍵を続けて、一時半前まで書いたところで今日は終いとした。コンピューターをシャットダウンして、一時五〇分頃からふたたび読書、新しく山岡ミヤ『光点』を読みはじめた。眠る前までに二〇頁ほど読んだが、今のところ強烈に気に掛かっている部分は特にない。平仮名へのひらきが結構多いなという印象はあって、例えば「みぎ」や「ひだり」もひらかれていて、「みぎ手」という表記が見られたりして、これはなかなか珍しいように思われる。一人称の語り手である実以子の母親は、彼女に理不尽に高圧的に、厳しく当たる抑圧的な母親であり、それに対して父親の方は娘の味方となることを欲しながらも、あまり充分にその任を果たせていないといった家族関係があるのだが、このあたりはいささかわかりやすく、図式的に描かれすぎているような気がしないでもなかった。しかし、まだまだ序盤である。
 二時半過ぎまで本を読んで、七時一五分にアラームが鳴るよう仕掛けておいてから、電灯のスイッチを押して明かりを落として布団に潜り込んだ。真っ黒な肌着のシャツを身に纏い、下は寝間着を履かずにパンツのみという涼しい格好だった。


・作文
 12:33 - 14:06 = 1時間33分
 16:52 - 17:07 = 15分
 23:31 - 25:25 = 1時間54分
 計: 3時間42分

・読書
 15:52 - 16:37 = 45分
 21:55 - 22:20 = 25分
 25:49 - 26:33 = 44分
 計: 1時間54分

  • 「Thinking Over」: 「自然にふれる」
  • 小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』: 327 - 406(読了)
  • 山岡ミヤ『光点』: 3 - 22

・睡眠
 4:10 - 11:10 = 7時間

・音楽