2021/1/23, Sat.

 自由時間が取れた初めての日曜日に、私はとまどいを全身に感じながら、できる限り誠実で、釣り合いが取れ、品位のある返事を書こうとし始めた。下書きを書いてみた。私は実験室に入れてくれた礼を述べ、敵を許し、おそらく愛する準備はできているが、それは改悛の確実なしるしを見せた時、つまり敵であることを止めた時に限る、と言明した。逆の場合、敵であり続け、苦しみを作り出す意志に固執する時は、もちろん許すべきではない。そのものを立ち直らせようと努め、そのものと議論することはできるが(そうすべきである!)、そのものを許すのではなく、裁くのが私たちの義務となる。ミュラーが暗黙のうちに尋ねてきた、彼の行動についての判断に関しては、彼が行なったとしていることよりも、はるかに勇気あふれる行為を私たちに対してなしとげた、二人の同僚のドイツ人の実例を慎重に引用するに留めた。すべての人が英雄として生まれるわけではなく、すべての人が彼のように正直で無気力である世界なら、彼の行動も認められるかもしれないが、そうした世界は現実にはありえない。現実には武装集団が存在し、アウシュヴィッツを作り、正直で無気力な人たちはその地ならしをしたのだった。だからこそアウシュヴィッツに対して、すべてのドイツ人が、そして人類全体が責任があり、アウシュヴィッツ以降は無気力であることは正当化できないのである。(……)
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、339~340; 「20 ヴァナディウム」)



  • 一二時半頃まで寝坊。しまった。久方ぶりの雨降りだった。
  • いつもどおりの行程を済ませて帰室してからも、まずボールを踏みつつ書見。飯吉光夫編・訳『パウル・ツェラン詩文集』(白水社、二〇一二年)。のちに書抜くためのページメモだけ取っていて、気になった部分を記しておく読書ノートのほうへのメモを全然取れておらず、さっさともどって取ろうと思っているのだが、なぜかやる気にならない。ゲオルク・ビューヒナー賞受賞時の講演である「子午線」を読みすすめる。芸術や詩について。言っていることは、わからないでもないという箇所もあるものの、全体を通して深いところまではよくわからない。
  • 二時台後半からは日記。ちょうど二時間ほど。二〇日の分を完成させることができた。それでもう五時が近かったが、というかたしか投稿するうちに五時に至ったのだが、からだが疲労していたのでベッドに移ってしばし休身。どうもやはり背、とりわけ肩甲骨の付け根とかそのあいだをやわらげるのが難しい。一応両腕をうしろに伸ばすストレッチをすれば多少はほぐれて一時は保つのだが、時間が経つと反動的にまたこごってくる。あと、合蹠は重要で効力抜群だが、合蹠だけをやっていても脚に負担が大きいというか、合蹠は脚をたたむほうの刺激の仕方になるわけで、それだけでなく脚を伸ばすほうの柔軟もやらないと傷める可能性があるなと思った。脚の、とりわけ裏側の筋を伸ばすには、おそらく、ベッドの上に片足を乗せて(普通に足先を置いて)伸ばすやり方が簡単で良いと思う。あとは前後方向への開脚。
  • To The Lighthouseを読みながらちょっと休んだあと、上階へ。ほうれん草を絞って切る。そしてアイロン掛け。済むと腹は減っていたがいったん帰室し、ストレッチをおこなった。そうして六時二〇分を過ぎて食事へ。新聞は、夕刊の文化面をまず読んだ。宇野重規講談社現代新書で出した新著、たしか『民主主義とは何か』みたいなタイトルだったと思うが、それが人気で売れ行きが良いらしい。民主主義の歴史を古代ギリシアからあらためて教科書的にたどり、なおかつ宇野当人の視点や知見も盛りこんでいると。直接民主制と代議制民主主義はまったく違うものだという差異が強調されていたりするらしい。民主主義という思想や制度は二五〇〇年前の誕生時から絶えず疑いと不信の目にさらされてきたとも記事には言及されており、たしかにそれを考えると現在の価値低下も特に目新しいものではないとも言えるのかもしれない。ずっと昔は民主主義なんていうものは衆愚政治に堕すのが落ちで、教育も財産もない連中に政治的権利をあたえるなんてとんでもないという考え方が支配的だったわけだし。思想原理としてはともかく、現在のような大衆化された民主主義というか、いわゆる近代的な国家制度としての民主主義が整備されたのも、ここ一五〇年だか二〇〇年だかの期間に過ぎないのだから、それはまだまったく未完成のもので、これから順次アップデートされていくだろうというようなことも語られていた。長い歴史を考えると民主主義的価値が強固に共有され普及した二次大戦後の状況がむしろ例外ということになるけれど、宇野は、第二次世界大戦の惨禍を経ても民主主義が生き残り力を持ったことにむしろ希望を見たい、と言っていたと思う。
  • 宇野の記事の左側は、東京都江戸美術館だったか、そんなような名前の、両国にあるという美術館でひらかれている和宮関連の展覧会について。和宮というとこちらの記憶に浮かんでくるのは、いつだったかのNHK大河ドラマ堀北真希がそれを演じていたことで、おそらく宮尾登美子原作の『篤姫』のときだったのではないか。篤姫宮崎あおいが演じていたはずで、彼女が嫁いだ一三代将軍徳川家定堺雅人がわりと頭のおかしい感じの、無害な狂人という風なキャラクターを演じていた。西郷隆盛役を小澤征悦がやっていたおぼえもあり、こちらがはじめて小澤征悦を目にしたのがたぶんこのドラマだったと思う。和宮が嫁いだ先の一四代将軍家茂が誰だったかはおぼえていない。展覧会では和宮が実際に使っていた道具の類とか、家茂と交わされた書簡とかが展示されていると言う。家茂という人はたしかその後最後の将軍となる慶喜と比較されて、若いけれど実に優秀ということで(いや、優秀だったのは慶喜のほうで、家茂は血筋がより正統に近いということだったか?)一四代に選ばれたはずで、たしかその対立にも南紀派となんとか派とかいって名前がついていて、高校日本史で学んだおぼえがあるが、もう忘れてしまった。家茂が長州征討のあいだに若くして病死したということはおぼえていたが、記事を読むと二一歳とあったので、そんなに若かったのかと思った。書簡から判断される限りでは、和宮との仲は良好だったらしい。和宮はその後、まさしく公武合体の象徴らしく、朝廷と幕府のあいだのつなぎ役として活動したらしく、江戸城無血開城の際にもいくらか寄与したとかいうことだ。
  • あと、夕刊のほうだったか朝刊のほうだったか忘れたが、一面に、中国全人代が海警局により大きな権限を付与する法案を可決したという知らせがあった。領海(と中国が主張する領域の)内に入った外国船を退去させもしくは排除するための国内法的基盤が整えられたということで、尖閣諸島周辺で日本の公船や漁船が追い払われたり、最悪の場合は攻撃を受けたりする可能性がより濃厚になったわけだろう。それなので、今日、すなわちこの翌日である二四日の昼に、テレビのニュースで日本の岸なんとかいう防衛大臣と新任のオースティン米国防長官が電話会談したと見かけたが、そこでも尖閣諸島日米安全保障条約第五条の適用範囲内であるということが再確認として明言されたわけだろう。岸という人は岸信夫という名前で、容易に予想されたことだが岸信介の孫であり、つまり安倍晋三実弟らしい。Wikipediaによると、「東京都に安倍晋太郎・洋子夫婦の三男として生まれた(現在の本籍は山口県熊毛郡田布施町)。長兄は、安倍寛信、次兄は晋三。生後間もなく母・洋子の実家、岸家の信和・仲子夫婦に養子として迎えられた。夫婦に子供ができず、信和自身が小児麻痺を抱えて政治活動が困難だったことに伴う縁組だった [3: 野上忠興著『気骨 安倍晋三のDNA』62頁] 」、「晋三と実の兄弟であることは知らずに育った。晋三との関係を知ったのは大学進学に際し戸籍謄本を取り寄せたときで、岸は「大学入学前だったと記憶するが、提出書類として必要な戸籍謄本を取り寄せて見ると『養子』とあった。見た瞬間アレッて思いました。そのときのショックは、それは大変なものがあった。それからひと月ほど『何で教えてくれなかったんだ』という思いもあって、頭のなかが一種錯乱状態に陥りました」と言っている [6: 野上忠興著『気骨 安倍晋三のDNA』63頁] 。信夫の政界入りに兄の晋三は賛成ではなかったとされる [5: “中国を驚かせた菅義偉首相の絶妙な閣僚人事”. JBPRESS. 日本ビジネスプレス. (2020年9月24日) 2020年9月24日閲覧。] 」とのこと。中国の動向にもどると、正確な文言を忘れたが、ことによると公海上でも取り締まりをおこなうのではないかというような言葉が法案にはふくまれていたらしく、外交筋は危惧をおぼえているようだ。
  • 食後は自室にかえって、以下の合唱祭関連の部分を先に書いた。
  • 今日、二〇日の記事を書いていて黒人霊歌二曲を聞くとともに、LINEで(……)と(……)に、高校三年のときの課題曲をおぼえていないかと訊いてみたのだが、合唱祭のCDを見てくれた(……)のおかげで、"火の山の子守唄"という曲だった。新実徳英という作曲家の手になるもので、作詞はなんと谷川雁である。谷川雁が作詞した曲を高校の合唱祭で課題曲に取り上げるとは、強硬な右派の人間からはそれだけでも日教組だ! と言われてしまいそうではないか? 谷川雁Wikipedia記事によれば、「1989年、作曲家新実徳英と共作で合唱曲「白いうた 青いうた」の制作を開始。これは「曲先」「塡詞」と言われる、曲が先で詩を後から当てはめるという合唱曲では珍しい手法で作られた。このことにより新実徳英は自由に世界中のスタイルの曲を書くことができ、それらの様々な曲に谷川雁が見事に対応する詩をあてることで他に類例をみない合唱曲集が生まれ、その後鎌倉や鹿児島で毎年この合唱曲集だけを歌うフェスティバルが開かれるほどに愛されることとなった」とのこと。新実徳英のほうで作品リストを見てみると、このひとも川崎洋とか谷川俊太郎とか、金子光晴とか吉原幸子とか、長田弘とか、面白いところでは『梁塵秘抄』など取り上げているが、なかに和合亮一の名が多く見られるのが二〇日の記事に名を記したひとびととすこしだけ毛色の違うところだ。で、肝心の曲はといえば、検索すると一番はじめにこれ(https://www.youtube.com/watch?v=wMFHJpZgLRM(https://www.youtube.com/watch?v=wMFHJpZgLRM))が出てくる。聞いてみるとしかし、こちらの記憶に引っかかっていた半音下降的な妙な推移の難所が見当たらない。たぶん、B部のはじめにあたる「火の山のふもと ナルコユリ咲く」のあたりにそれがあったような気がするのだが、おそらくこの動画で歌っているのはまだ幼い女児たちなので、難しいところは簡単にしてあるのではないか。あるいは、もともとこの曲は女声合唱曲としてつくられたようなので、我が高校でやったのが(ことによると音楽教師(……)の手による?)独自のアレンジだったという可能性もある。我が高校は共学だったので、当然ながら、女声二パート男性二パートの計四パートで歌っていたのだ。それでさらに音源を探ってみると、「都立高校 火の山の子守唄」(https://www.youtube.com/watch?v=u1ruPuUpE4w&ab_channel=n6292(https://www.youtube.com/watch?v=u1ruPuUpE4w&ab_channel=n6292))というものに行き当たった。このアレンジがそのままこちらが歌ったものとおなじかどうかはわからないが、B部はこんな感じの複雑さだったし、B部に入る直前の最低音の1度→7度(→B部の最初で6度)という推移はたしかに存在した。タイトルには「都立高校」としか記されていないが、もしかしたらこの音源はまさしく我が高校のどれかのクラスが歌ったものなのかもしれない。というのも、この音源を上げているひとのチャンネルを見てみると、「都立高校 44羽の紅すずめ」(https://www.youtube.com/watch?v=_qgEF3UzuNA&ab_channel=n6292(https://www.youtube.com/watch?v=_qgEF3UzuNA&ab_channel=n6292))という合唱もまた投稿されているからだ。東京都ひろしと言えども、"火の山の子守唄"と"44わのべにすずめ"を合唱祭で両方やった学校は、あの年の我々くらいしかないのではないかと思うのだが。上の"44羽の紅すずめ"は、高校生だから当然だが、さほど質の高いものではない。たぶんこちらが聞いて優勝を確信とともに納得した当時の三年A組の合唱も、こんな感じのものだったのだろう。しかしくりかえしになるが、高校の合唱祭で、すなわち合唱部などの活動としてではなく、ごく普通の一クラスがこの曲を、ともかくも最初から最後まで歌って成立させてみせたというのは、それだけでわりとすごいことだと思う。
  • 合唱というのはとてもすばらしい文化である。こちらが高校のイベントで一番好きだったのはまちがいなく合唱祭だった。文化祭や体育祭などどうでも良い。自分で舞台に立って歌うのは、緊張するし、あまり得意ではなかったが。一年のときは不真面目だったので練習にもあまり参加しなかったが、二年になる頃にはたゆまぬギターの訓練によって音感がついていて、練習中にあいつがずれているなとか、あそこがこれくらい低いなとかがよくわかるようになっていたので、それで面白くなったのだ。合唱祭だけは、正直、もう一度やっても良い。
  • その後、九時が近かったので音読。またしても「英語」だ。「記憶」のほうを一向に読めない。九時一〇分まで四〇分間。それから入浴へ。
  • そういえば思い出したのだが、三日前の水曜日にWoolf会で、(……)くんが伊藤銀次『DEADLY DRIVE』から"こぬか雨"を流して、これがかなり良かった。七〇年代にキリンジがいたらこうだっただろうという印象で、声や歌い方までふくめてかなり近かったと思う。キリンジの二人はたぶん普通にこのあたりの音楽をたくさん聞いて、多くの部分を踏まえているのではないか。伊藤銀次というひとについて何も知らなかったのだけれど、大滝詠一まわりの人間で、山下達郎シュガー・ベイブに参加したり、その二人とナイアガラ・トライアングルというユニットを組んだりしている。ナイアガラ・トライアングルというのは、その二期もしくは二枚目に佐野元春が参加していて、何かの拍子に佐野元春の名前が出たので、彼って最初は大滝詠一とやってたんですよねとこちらが口にしたところから伊藤銀次に流れたのではないか。佐野元春大滝詠一もこちらは全然聞いたことがないが、何か月か前に原田知世が『SONGS』か何か忘れたが歌番組に出ていて、そこで"A面で恋をして"というナイアガラ・トライアングルの曲を歌っていたので、それではじめてそういう曲やユニットがあったことを知った次第だ。伊藤銀次 "こぬか雨"はかなり良かったので、七〇年代八〇年代の日本のシティポップというのか、そういう方面も掘っていきたい。
  • 風呂のなかでは雨の音を聞いていた。雨はまだ降り続いており、聞いていると窓の外でゆるやかに、間を置いて波打って、近く迫りまたひかえめに遠のいていく。激しいというほどではないが、網の目のこまかそうな響きで、ほとんど縞模様になるくらい隙間を空けずに隣接した格子のイメージが湧く。出て帰還すると、木曜日、二一日の記事を短く足して完成。Miles Davis QuintetRelaxin'』を流していたのだが、これがやはり良くて、片手間でなくてきちんと聞きたいと思ったので最初にもどし、"If I Were A Bell"、"You're My Everything"、"I Could Write A Book"と三曲連続で聞いた。このアルバムは、あるいはいわゆるマラソンセッション全体を通してそうなのかもしれないが、Paul Chambersの働きがすばらしい。五〇年代のジャズにおけるフォービートとして、手本と言うほかない演奏をくり出している。この三曲だったら特に最後の"I Could Write A Book"が、Philly Joe Jonesとも合わせてすばらしく、おそらくPaul Chambersがここではほんのすこしだけ先んじるようにして刻んでいるのではないかという気がするのだが、それがなければこの曲の明快な軽快さはなかったと思うし、"If I Were A Bell"でもピアノソロに入った途端に存在感がぐっとせり上がってくる。管楽器がなくなり、Red Garlandは例のしずかに転がす類のやや甘やかな弾き方をしているので、おのずとリズムの比重が高くなって際立つのだ。Garlandのタッチもしくはトーンとしては、"I Could Write A Book"のソロが一番うまく行っているかもしれない。絨毯の上を猫が歩いているみたいなやわらかな感触になっており、細部によっては、地にゆっくりと降り落ちてきた雪がすぐに溶けてなくなるようにして、ほとんど聞こえないくらいの音で消えていく。Garlandがそういう弾き方をしているのは、ボスであるMilesが当時Ahmad Jamalを気に入っていて、いいか? Jamalみたいにやれ、と言い聞かせていたからだとおよく耳にする。『Relaxin'』での演奏が御大のお気に召したのかわからないし、Ahmad Jamalのトリオとはやはり違うのではないかという気もするが、これはこれでひとつの形として成功しているようにも思う。つまり、ピアノが出しゃばらずに抑制と謙譲の美学を保持することによってリズムの心地よさが底から浮かび上がってくる、という意味では。ところでJohn Coltraneだが、この五六年時点の彼はまだ覚醒していないので、"If I Were A Bell"のソロではやはりぎこちなく、台詞回しも思うようにできていない感じがあるし、音を高める際にも目的地まで到達しきっていない、という事態が観察される。ただ、二曲目三曲目のソロはいままで思っていたよりもよく吹けていて、特に"You're My Everything"のほうは文句なく綺麗に歌えているように聞こえた。この段階でも、John Coltraneのメロディセンスというか、旋律のつくり方は悪くなくて、きちんと吹ければ良い歌い方になっていることはままあるし、ぎこちなくても、そういう風に歌いたいのね、というのはけっこう見えて、その姿勢自体はわりと買いたい気持ちになる。あと、トーンはもうここですでにほぼColtraneだなという感じがした。テナーにしてはややトレブリーな、あまりふくよかではない、中間的な音色というか。テナーサックスの音色としては、もしかするとColtraneは、トーンだけで見ると地味な、半端な位置にいるのかもしれない。RollinsとかBen WebsterとかColeman Hawkinsみたいな低音派でもないし、Lester Young - Stan Getzの流れほどに繊細で気体的な軽やかさにも行っていないし。ただ、すこしだけトレブリーなあの感じ、というのもそれはそれで特徴的な気もするのだが。三曲のなかで一番好きなのは、バラードの"You're My Everything"かもしれない。Red Garlandが弾きはじめたイントロを御大に制されてブロックコードに変え、それを受けてPhilly Joeもさっそくシンバルをロールしてかすかに添えだし、テーマに入る直前に一瞬ブレイクを置いたあとGarlandが四分三連の和音でしずかに下降していってトランペットのメロディ、という導入からして、風格と言うほかないようなものが漂っている。Milesのミュートによるバラードプレイは「卵の殻の上を歩くような」と評されたらしいが、うまく言ったものだなあと思う。ここでもそういうひんやりと繊細な歌唱が確立されていて、くわえて彼の場合はときおり、音の先端でトーンがかすかなざらつきを帯びる瞬間があるのだが、その擦過感は官能的である。つまり、エロい。
  • 三曲聞いたあと、一一時過ぎから日記に復帰。一時間綴って前日、二二日の分を仕上げた。するとからだが疲れたのでベッドに転がってツェランを読む。一時を回るまで読んでからカップ蕎麦を用意してきてエネルギーを補給。ウェブをちょっと見て怠けたあと、二時からまた日記。今日のことを途中まで記した。そうして二時四五分で切ってコンピューターを沈黙に追いやり、ふたたび飯吉光夫編・訳『パウル・ツェラン詩文集』(白水社、二〇一二年)を読みすすめた。もう本篇は終わって解説に入っている。読書ノートへのメモを取りたい。三時五〇分まで臥位で読み、消灯・就寝。

2021/1/22, Fri.

 (……)彼は完全なドイツ人ではなかった。だが完全なドイツ人、完全なユダヤ人がいるだろうか? それは単なる抽象概念でしかない。一般的なものから特殊なものに移行する時、常に刺激的な驚きが待ち構えている。輪郭のない、幽霊のような相手が、目の前で、少しずつか、あるいは不意に形を取り始め、厚み、気まぐれ、異常、破格構文を備えた同胞[ミトメンシュ]になる。(……)
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、329; 「20 ヴァナディウム」)



  • 「厚み、気まぐれ、異常、破格構文を備えた同胞」。
  • 正午過ぎに至った。また夜更かしが深くなってきているせいだろう。一時はせっかく二時半まですすめたのに、また消灯が遅くなって四時直前となっている。ふたたびだんだんとはやめていきたい。やはり心身を調えるということが最優先だ。日記など、もろもろのやりたいことやらなければならないことに縛られず、とにかくからだをいたわってしずかにするということを生活の中心に据えたほうが良い。それが習慣化して持続され、心身のコンディションが一層まとまっていくうちに、やりたいことやらなければならないこともおのずと高いパフォーマンスで取り組めるようになるのではないかと期待している。
  • 遅くなったので瞑想は省いた。上階に行くと父親が台所で、四角い卵焼き器を使って卵を焼いていた。半分食うかというのでもらうことに。ジャージに着替えたあと洗面所で丁寧にうがいをする。そうして食事。ものを食べながら新聞からジョー・バイデンの就任演説の和訳全文を読んだが、けっこう長かったし、テレビの音に意識を逸らされてあまりうまく読めなかったので、半分くらいで切った。もちろんスピーチライターがいるのだと思うが、悪くなく良心的という印象。アウグスティヌスを引いて、人間は愛を向ける共通の対象によって特徴づけられると言いつつ、米国民を特徴づける共通の愛の対象とは、尊厳だとか真実だとか言うあたりは、基本的ではありながらも悪くない気がした。キリスト者のひとびとに対するアピールもできるわけだし、実際、バイデンはわりと真面目なキリスト教徒だったと思うので、彼がアウグスティヌスを出しても突飛でわざとらしいという感じはしないのではないか。反対派のひとびとに対して、これからの四年間で私や私たちの言うことに耳を傾けてほしいと呼びかける身振りも、やはり必要で大事なことだろうと思う。私たちを見極めてほしい、その上で意見の相違が残るならそれはそれで構わない、ひとびとの意見が多様に食い違うことは米国の強みにほかならない、ただ、その意見の相違を致命的な分断につなげてはならない、という言い分。わりと悪くない言葉の流れだったように思う。
  • 皿と風呂を洗って帰室すると、Notionで日記を用意したのち、ボールを踏みながら飯吉光夫編・訳『パウル・ツェラン詩文集』(白水社、二〇一二年)を読んだ。四〇分少々で二時まで。詩全体としてのシニフィアン、すなわち統合的な意味や、そこに提示された言葉が、その外部からであれ内部からであれたくされているはずの思念・思想・心情などはよくわからないことが多いのだが、まずはそこに記されていることをよく見据えて、その射程とかつながりとか断絶とかニュアンスとかを見分け見極めることが第一歩だろうというわけで、文字をじっくりと見つめるように読んだ。詩篇の部は終え、散文の章へ。最初はハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶で、これは例の有名な、あらゆる喪失にもかかわらず言葉だけが残りました、という発言をふくんでいるスピーチだ。おなじくあまりにも有名な、投壜通信の比喩もここにふくまれていた。
  • 二時で洗濯物を入れに上へ。この頃には雲が多く流れて空気は白っぽい色に寄っていたのだが、ベランダの端にはそれでもあかるみの線条が見られたし、首の裏に温もりがほのめく瞬間もある。晴れ晴れしくはないのだけれど空気はあきらかに温かく、穏和で、流れるものの質感もやわらかくほどけたような感じだった。
  • 洗濯物を片づけたあと、便所で糞を垂れているあいだに、「(……)」というタイトルの詩のアイディアを思いついた。アイディアというか、そんなに大したものではなく、ただこちらの性分をイメージにたくして語るだけのものだが。
  • もどってくると今日のことをここまで記述。二時半過ぎ。五時には労働に行かなければならない。今日は音読をきちんとやりたい。あとは先にも書いたように、ストレッチなどをじっくりやってからだをまとめる。それでだいたい時間は尽きるのではないか。日記は二〇日から完成できていないし、兄へのメールも返信できていないのでよろしくはないのだが、明日明後日が休みなのでわりと余裕はある。
  • そのまま間髪入れず調身に入った。合蹠を丁寧にやるのがやはり基本だ。あと今日は腕から肩にかけてもよく伸ばした。プランクも一回か二回。板のポーズすなわちプランクは、合蹠と同様、おりにふれて頻繁にやるのが本当は良いのだろう。しかし、毎日けっこう入念にからだを伸ばしほぐしているはずなのに、一夜通過すると肉がまた固まり、冷えているのはどういうわけなのか。それでも以前より強張り方はよほどマシで、固くなっていてもちょっと伸ばせば簡単にほぐれるようにはなってきていると思うが。左右に開脚して太腿上、ほぼ膝先のあたりに手を置き、やや前傾するようにして力を入れる姿勢も、基本的だが大事だ。要するに力士が四股踏みで足を下ろしたあとの姿勢みたいなやつである。これをやれば、脚の筋もそうだが、肩の筋もけっこう刺激できる。
  • 五〇分ほど柔軟して三時半になったので上階に行き、「どん兵衛」の鴨出汁蕎麦を用意して帰室。ウェブを見ながらそれを食ったあとは音読。「英語」である。本当は「記憶」のほうも読まなければならないのだが、英文のほうが読んでいて面白いので、もしくは気持ちが良いので、そちらばかり読んでしまう。音読もやはり毎日やるべきだ。とりわけ外国語を身につけるとなると肝要だ。さっさと英語の能力を高めるだけ高めて、次の言語に行きたい。ドイツ語をやらなければならないなと思っている。フランスも捨てがたいしいずれやりたいが、ムージルの「合一」の二篇と、ハイデガーと、何よりもローベルト・ヴァルザーのことを考えるとやはりドイツを先にしなければならないだろう。ローベルト・ヴァルザーが書き残した文章はそのすべてを読む。すべてだ。
  • 音読して四時四〇分を越えたので身支度。スーツに着替えて出発へ。居間の食卓灯をつけ、カーテンを閉ざしておく。洗濯物も半端に放置するのでなくすべて片づけたいし、今日だったら勤務に行く前に味噌汁くらいつくっておきたかったのだが、そのためにはもっとはやく起きて時間的余裕を確保しなければならない。家を出る前に便所に入って小便を放っていたが、そのあたりから、やっぱり売れる小説をつくって金を稼ぐしかないのでは? という皮算用がまた脳内を訪れていた。死ぬまで毎日生を記し、文を読んでは文をつくる生活を、いまのところは続けていくつもりでいるわけだけれど、正職に時間を割く気はないから、このまま行けばギリギリの貧困生活で綱渡りを続けていくか、ディオゲネスの末裔たる族 [うから] の一員、すなわちホームレスになるか、死ぬか、(……)で無料提供されているというボロボロの空き家に棲むか、過疎地に行って農業をやるか、実家に寄生しつづけるか、生計をほかの他人に依存しながら生きていくか、だいたいそのうちのどれかになるわけだ。できればギリギリの稼ぎで文章を金にすることなく生きていきたいのだけれど、歳を取って以降もそれを続けるとなると厳しいだろう。こちらがこの浮世を渡っていくためにそなえているたづきと言ってしかし、多くの他人よりもたくさんの文をつくってきたということ、言葉のつらなりを生むことに多少は馴染んでいるというくらいのことしかない。だからやはり、金を稼ぐことを目的としていくつか作品をこしらえるよう目指すほかないのではないか。本当は嫌なのだが。売れる物語をつくるとなったら、ともかくもまずは直木賞を取っている作品をいくつか、もしくはいくつも読まなければならないだろう。あとはいまだったらやはり漫画。人気になって莫大な、とまでは行かずともそれなりの金を作者のもとに届けている漫画作品をたくさん読んで、面白く、人口に膾炙する物語の方法論を学ばなければならない。とりあえず直木賞作品はどれか読んでみようかなとは思う。ちょうど昨日だか一昨日だか、今回の受賞者も発表されていたし。正直あまりやる気にならないが。芥川賞のほうは例の『推し、燃ゆ』というやつだった。
  • そういう皮算用をしながら夕刻路を行く。寒気というほどの冷たさは感じなかった。今日はやはり比較的暖かかったのではないか。坂道に鳥の声は今日もない。わりと猶予があったので、急がずゆっくり歩を踏んで上っていく。最寄り駅に着いて階段にかかると、淡青の西空を背景に近間に立った木の先端が黒く際立ち、常緑樹らしく残っている葉の、不規則にこまかく曲がり折れる輪郭を持った影が、いくらか燃え伸びたまま停まった火の動きの影像と見える。空には雲が塗られているものの、西の下端はきちんと磨かれた墓石の表面みたくまっさらで、一層淡い、白混じりの水色に澄んで清涼、そこから東のほうに向きかえれば、あきらかに日が長くなったことがわかる。駅前の道路や家や宙を包んでいる青味の暗さが先日よりも一見して軽く、大気はまだあまり沈んでいなかったのだ。ホームに入ってベンチに座ればしかし、正面にあたる北の丘の周りはもう宵で、その足もとにある家は二階の窓がヒーターを思わせるオレンジ色に染まっており、そこにすっと人影がひとつ生まれると、電車が入ってきて見えなくなるまで動かなかった。
  • (……)へ。ホームを行く。この数分の間にももう暮れていて停まっている電車の向こうの暗さが濃くなったが、空の青味もまだ強い。駅を出て職場へ。勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 一〇時過ぎに退勤。急いで駅へ。電車に乗り、最寄りに着いて下車。月が頭上、西よりに出ていた。下に弧を向けた三日月、もしくはそれより少々太った月で、雲もあるようでいくらか煙糸に巻かれたようになっていた。駅を抜けて木の間の下り坂を急がず行く。前をさっさと下りていく男性の吸っている煙草のにおいが、マスクをつけていても鼻に入ってくる。それは悪い香りではない。平らな道に出てからふたたび月を見たが、先ほど駅で見上げたときよりもなぜかあきらかにオレンジもしくは朱色の色味が強くなっていた。煙糸に捕らえられて曖昧な光を身のまわりに引っかけているのは同様。
  • 帰宅すると飯吉光夫編・訳『パウル・ツェラン詩文集』(白水社、二〇一二年)を読みつつ休む。いつもどおりである。その後、食事へ。新聞でジョー・バイデンの就任演説を最後まで読んだが、やはりなかなか悪くないスピーチのように思われた。American Anthemという曲の一節が引かれていた。たゆまぬ「努力と祈り」の無数の積層の上にいまの我々がある、我らもそれを続け、次につなごう、我々の時代が終わったとき、子どもたちは私たちのことを口にし語るだろう、おお、アメリカ、アメリカよ、私は最善を尽くした、みたいな感じの歌詞で、自分にとって特別で、重要な意味を持つ曲であり言葉だとバイデンは言っていたと思う。現在の危機にどのように対応したか、どのように取り組んだか、その解決に向けてどのように努力したかによって、私たちは「裁かれる」ことになる、とも彼は言っていて、この「裁かれる」という言葉選びには、やはり遠く、キリスト教徒としての観念が響いているような気もする。あと、最後のほうで、「歴史の呼び声にこたえる」という言い方を彼はしていて、つまり現在の状況に対してなすべきことをなしていくらかなりとも良い方向に持っていくことに成功すれば、のちのひとびとは私たちを、歴史の呼び声にこたえたのだと語ってくれるだろう、みたいな文脈だったと思うのだけれど、この言い方はちょっと格好良いなと思った。
  • American Anthemについていま検索してみると当然色々話題になっているわけだが、これはGene Scheerというひとが書いたものらしく、Wikipediaによれば、〈American Anthem, written by Scheer in 1998, was first performed by Denyce Graves for President Bill Clinton and Hillary Clinton at the Smithsonian Institution, launching President Clinton's “Save America's Treasures” initiative〉とのことだ。二〇〇三年にはTake 6がやり、二〇〇七年にはNorah Jonesも、Ken Burnsという人が手掛けたThe Warというドキュメンタリーのなかで歌っているらしい。
  • あと、バイデンは、新しいアメリカの物語を語ろう、実現していこうというようなことを呼びかけていて、それは礼節と尊厳の、愛と癒やしの、そして何よりも真実の物語だ、と言っていたのだけれど、このなかではやはり礼節と尊厳という言葉が一番こちらの感性にふれる。特に尊厳。
  • 食後は入浴して帰還。久しぶりに熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)の書抜きができた。当然のことだが、外出して活動して帰ってきたあとは、ストレッチをきちんとやっていても、どうしても脚とか腰とかが疲れていて、デスクの前で椅子に座っていても腰の両側がこごってわだかまっているような感じが湧く。だから本当はやはり、さっさと寝るか、すくなくともベッドに移って書見の時間にしたほうが良いのだろう。立位で打鍵するという手もあるが。この日はそれでも水曜日のこととこの日のことをすこしだけ書き足し、ツェランをほんのすこし読みすすめて三時四六分に消灯。

2021/1/21, Thu.

 (……)たまたまその翌日、運命が私にまた違った種類の、比類のない贈り物を用意していた。若い、生身の女性との出会いだった。外套を通しても、寄りそう体のぬくもりが感じられた。彼女は通りに漂う湿った霧に包まれても快活で、まだ瓦礫が両脇に残る道を歩いていても、辛抱強く、賢く、自信に満ちていた。私たちは数時間のうちに、一時の出会いではなく、一生、お互いを分かちあえることが分かり、事実、そうなったのだった。数時間のうちに、私は自分が新しくなり、新しい力に満ち、体は洗われ、長い病から癒え、やっと人生に喜びと活力を抱きながら入っていけると感じた。私のまわりの世界も同じように不意に癒え、私とともに地獄に降りて戻ってこなかった女性の名と顔ははらい清められた。本を書くことも違った冒険になった。もはや病み上がりの患者がたどる苦痛な道のりでも、他人に同情や思いやりを乞うことでもなく、明晰に構成する行為になり、しかもひとりぼっちの営みではなくなった。それは化学者の作業に似てきた。重量を計り、分割し、計測し、確実な検査を基に判断し、なぜという疑問に答えるよう努める化学者の仕事に。私は生き残りが語る時に感ずるほっとするような解放感以外に、書くことに、強烈で、新しい、複雑な喜びを覚えるようになった。それは学生時代に、微分という厳粛な秩序の中に分け入る時に感じたのと同じ喜びだった。正しい言葉を探し、見つけること、あるいは創造すること、つまり、短かくて、強力な、つり合いの取れた言葉を探すことは、胸のおどるような体験だった。それは思い出の中から事物を取り出し、それを最大限に厳密に、少しの邪魔物もなく描くことだった。逆説的なのだが、私の恐ろしい記憶の荷物は、富に、種子になった。私は書くことで、植物のように成長していると感じていた。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、237~238; 「12 クロム」)



  • 一〇時に起床することに成功。今日は正午に美容室を予約していたので、遅れるわけにはいかなかったのだ。天気はまたしても晴天。一〇時五分から二一分まで瞑想した。昨晩床についたのが四時ちょうどで、滞在としては六時間なのでやはりいくらか眠いらしく、瞑目の内の意識はいつもよりあまりはっきりしない様子だった。上階へ行くと父親は新聞を読んでいる。母親は一〇時から仕事と聞いていてすでに不在だったが、今日は会議だけだったらしく、こちらが外出からもどった昼過ぎには帰宅していた。この日はうがいをするのを忘れた。ハムがなかったので冷凍の、簡便に使える業務用の豚肉のこま切れと合わせて卵を焼き、丼の米に乗せて食う。新聞は、炬燵テーブルの天板上に移った父親が白い陽射しを浴びながら読んでいたので、このときは読まなかった。それでなんとなく短歌を考え、「故郷とは罪の記憶と性の色 都会の空は今日も儚い」という一首をつくった。「故郷とは罪の記憶と性の色」はすぐにできた。最初は、「罪と呪いと性の色」にしようとしていたが。下の句の「都会の空は」もすぐに出てきたが、これはまあたぶん、封建的で閉塞的な田舎から匿名的な解放感と孤独の幸不幸にあふれた都市へと出てきた若者、というありがちなイメージがあったのだろう。あったというか、上の句がまとまった時点でそういう肖像=物語が出てきたのだろう。「都会の空は」以降にちょっとかかった。「今日も儚い」もありがちだし、感傷に寄ってもいるが、まあ良いかな、と。先のイメージにもとづいて、自分のことをまったく知らない、という種類の内容にするか、あとは中村佳穂 "忘れっぽい天使"のなかにある「街の上に正論が渦を巻いてる」というフレーズを思い出して、「正論」という語を入れたいなという気もしたのだが、「都会の空は今日も~~」という締め方がなんとなく一番はまるような気がしたので、あとは最後の四音だけが問題となった。色々考えはしたのだけれど、「~~ない」が音の流れとして一番落ち着くような気がして、わかりやすくて面白味はないが、儚い、でいいやと。この場合は、「はかない」にひらくとあまりピンとこなかったので、漢字表記にした。平仮名の「は」が面倒臭いのは、入れるところによっては「わ」と読み違える可能性が生まれてくるというか、読み違えまでは行かないとしても、「わ」の音が同時に想起されて一瞬道を乱す場合があるという点だ。
  • 風呂を洗って帰室。居間に上がってジャージに着替えるときに南窓の向こうをちょっとながめたのだが、陽射しは満ち満ちていて近所の瓦屋根も白々と濡れていたものの、風もけっこう流れている様子で、(……)さんの屋根の上に取りつけられた鮎の幟が、左右に身を回しひねりながら水平に生き生きと泳いでいたのだ。室に帰ると一一時頃だった。Notionを用意し、出かける前に足裏をほぐしておきたかったので書見。飯吉光夫編・訳『パウル・ツェラン詩文集』(白水社、二〇一二年)。詩だろうが小説だろうが思想書だろうが新聞だろうがそれ以外の本だろうが、どれも言語であることには変わりないのだから、結局は身とその内をしずかに落ち着かせてじっくりと対峙し、言葉と文のひとつひとつに視線をつかの間宿らせて、そこで発生するものを待ち、招き、拾う、というだけのことだ。そして拾ったもののうちで自分に明確なかたちを成して見えたものを記せば良い。言葉に限らず、音楽であれ風景であれ、自分自身であれ、人間関係であれ、全部そうだ。結局はすべて世界であることに変わりはない。意識が明晰になると、自己忘却的に対象に没入することも、自分自身のほうに退却して拘泥することもすくなくなり、常にあちらとこちらのあいだの中間地帯に身を置いて周囲からそこに流れてくるものを(もしくはその空間の内から発生してくるものを)ただキャッチするだけ、というような意識及び感覚のあり方になるような気がする。ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネス方面の技法が目指している現在時への恒常的集中、いわゆるいま・ここを絶えず観察しつづけること、というのはそういう感じなのではないか。仏教が言う不即不離というのもたぶんそういう方向性のあり方なのではないか。
  • 最近では外を歩いて風景を見たりするときも、見た風景を言語化しようとすることをやめようという気持ちのほうにやや傾いている。やめよう、といっても生きている限り勝手に言語は湧いてくるのでやめようはないわけだけれど、以前のように、見聞きしたものをなるべくその場で十分に言語化しておこうという意識はもうなくなったし、能動的にそういう思考操作をすることをやめようということだ。それよりも、見聞きしているその感覚のほうに意識をより差し向けるようになってきているつもり。というか、能動的に向かっていくのではなくて、起こるものを待ち受け、自然に来るものを自然に受け取る、というような感じ。
  • 一一時四五分頃で書見を切り、服を着替えて出発。正午なので道には陽射しがまだまだ濃く、のろのろと殊更にゆっくり歩を踏んで温みを身に吸収する。林中を通る細い坂を上っていった。出る前にすこしだけ開脚して筋を伸ばしたが、脚が思いのほかに軽く、上り坂でもスムーズにひらいてからだを送っていく。ただあまりはやく行くと鼓動が高くなって、美容室でマスクをつけて仰向けになって洗髪するときに苦しいだろうと思われたので、急がずゆっくり上っていった。上ったところの脇で、茶髪の若い男性と中年以上の男性が向かい合ってカップ麺を食っていたが、たぶんあれは(……)さんではないか。そこは(……)の持っている小さなスペースのはずだし。若者のほうが息子なのかどうかはわからない。普通に息子ではなくて雇っている人かもしれない。(……)家の、おそらく長男に当たる人はたしかこちらのひとつ下で、小学生のときにこちらはそろばん塾に通っていたのだけれど、そこで一緒だったはずだ。当時はそれなりに仲良くする時間があったはずだが、しかしもはやほとんど何もおぼえていない。
  • そろばん塾にはまた(……)という、これも一学年下の男子が通っていたのだが、あるときに、おそらく塾が終わったあとで道が薄暗かった気がするのだけれど、塾がひらかれていた家屋の前で彼と喧嘩だかふざけ合いだかになり、こちらが振り回した自転車のチェーンがあちらの側頭部に勢いよく当たり、出血させてしまったという出来事があった。普通にかなり痛かったと思う。それで非常に臆病でおとなしい少年だったこちらは、自分が他者に対して暴力をふるって痛苦を与え、血を流すような怪我をさせてしまったという事実に恐れおののき、強い罪悪感をおぼえて泣き出さんばかりに謝った記憶がある。もちろんそれまでに子ども同士で多少の喧嘩をしたり暴力をふるいあったりとかは何度もしていたし(ただしこちらは気が弱くからだも強くなかったから、だいたいいつも負ける側というか、主に暴力をふるわれる側だったと思うし、小学校三年生か四年生のときには、いじめまでは行かないけれど、(……)という同級生に頻繁に肘打ちをされたりすることが辛くてちょっと問題になったことがあった)、小学校五、六年あたりにかけては人を殴ったり蹴ったりは多少やっていた記憶があるのだが、血が出るほどの傷と怪我を相手に負わせたというのはたぶんこのときがはじめてだったと思う。それでかなりビビったのでいまだにおぼえているのだろう。行き過ぎた、一線を越えた、という感覚がおそらくあったように思う。いまから考えるとそこまで大したことではないし、相手も許してくれたのだけれど、ああいう、致命的ではない程度の痛みと傷と暴力の交換経験というのは、やはり抑止力としてある程度は必要だなという気はする。べつに必要ではないのかもしれないが、ただ、学びにはなったなとは思う。そういう経験があったからというわけではないが、その後こちらは、中学二年生あたりを最後に、たぶん一度も他人に明確な物理的暴力をふるっていないと思う。つまり、他者を殴ったり蹴ったりということは、中学校三年間を通してたぶん二、三回しかやらなかったと思うし、そのあとはおそらく一度もやっていない。忘れているかもしれないが。また、首をつかむということは、昨年父親と悶着を起こしたときにあった。
  • 美容室に到着。客はこちらだけ。コロナウイルス対策で受け入れる客をすくなくしているようだ。たぶん、一時間にひとりくらいのペースにしているのではないか。消毒をしてから洗髪してもらい、鏡の前へ。前回切ったときは(……)夫妻のフォトウェディング直前で、せっかくそういう席に行くのにあまり短くそろえて書生みたいな見た目にしても、ということで、側頭部を刈って頭頂のほうはやや残し、ワックスでうまく流すみたいなちょっと洒落っ気のある髪型にしたのだけれど、やっぱりショートが楽でいいなと思いましたというわけで、今回は普通に短く書生にしてもらった。とはいえ、なんかもうすこし格好良い髪型を探りたいなという色気は、以前よりは感じないでもない。髪を染めようとはまだ思わないが。
  • この店でもコロナウイルス対策の給付金を申請して、エアコンを替えたり換気のできる設備を取りつけたりしたというのだが、その金はまだ来ていないらしい。申請するにしても書類を一八個も書かなければならなかったらしく、また、不正給付が出てきたからだろう、次第に審査が厳しくなって、登記証明が必要だとか写真が必要だとか手続きが面倒臭くなってきて、煩雑で大変なので途中でやめてしまったという同業者もいるという話だった。そうなると食事系の店の人とか、マジでいまは存亡の危機で未来が見えず気が滅入っている人が多いだろうに、そのような煩瑣な事務手続きを頑張ってやろうという気力もなかなか湧かないのではないかと思った。役所のほうも役所のほうで、人手が足りないわけだろう、アルバイトの人員なのか、臨時職員的な人が多くなっているといい、質問をしてもわからなくて少々お待ち下さいねという感じになることが多かったと。あっちはあっちで大変なのがわかるから、あんまり強くも言えないよねえ、と苦笑していた。
  • そのほかに印象深くおぼえている話は特にいま浮かび上がってこない。もうすこし何か話したはずだが。ちょうど一時間くらいで散髪を終えた。会計をして退店をしようという段で、次の客である老婆がやってきたので、それを機に雑談を切り上げて、礼を言って退店。小さいカレンダーをいただいた。ビニール袋に入ったそれを右手に提げながら、天気も良いし歩く時間をつくろうというわけで、遠回りして帰ることに。街道の北側を、温かな陽に照らされつつまれながらゆるゆると行く。最寄り駅前のフェンスまで来ると、いつもだったらこの天気この時刻ならその向こうの枯れ茎の茂みのなかでスズメたちがガサガサやっているのだけれど、今日はその音がまったくなく、道を渡って向かいにあるススキの茂みや、そのそばに立っている裸木のほうから鳴き声が頻りに、無数に降りそそいでいた。なんだろう、あちらに根城をうつしたのか? どういう原理で場所が変わっているのかまったくわからない。
  • もうすこし夕方に近くなって太陽が西に寄ってくるとだいたい街道の北側のほうに日向が多くなるのだけれど、このときはまだ南側がいっぱいに光を浴びていたのでそちらに渡った。するとそこは、眼下が斜面になっていて、片側から下っていく一面にはススキの群れなどが見られ、反対側の上部縁には家が宙に接し、そちらの下方は林がひろがっていて、ここは北側背後にあたる線路の向こうから水路が続いているはずなので、谷間にはその水の道が通っていると思うのだが、その姿や水の流れは草や斜面に隠れて見えない。こうして見るとかなりなんというか、単純に我が町ってやはり自然が豊かだというか、もっと都心に近いほうだとこのくらいの草地のひろがりも見る機会はないのだろうなと思う。最近はますます、そういう身の回りの自然の様態が、以前よりもはっきりと、明晰に目に映るようになってきている。
  • 街道をそのまま西へ。表通りを歩くと車の音が絶えず横を過ぎていき、それはやはりけっこう鬱陶しい。一律に続き、ほかの音が塗りつぶされてしまうので。しずかなほうがやはり歩いていると落ち着くし面白いところはある。途中、右方の、道路と段を越えた先の木から鳥が一羽飛び立って、青空のなかを、鳴き声を落としつつ、上下に不規則に波打つ軌跡を描きながら、街道の上を渡り、左側の家並みの上も越えて、人間の目には誰であれそこに道があるとは認識できないであろう道行きをたどって、裏路地の向こうにある木立へと移っていった。鳥というのは右のあそこから左のあそこまで、三秒か五秒くらいで移動できるのだなあと思った。
  • 今日はなぜかわからないが、鳥が、鳴き声だけでなくその姿を木の表に見せていることが多い道だった。いつもは往路からの折返しに当たる地点から逆方向に裏路地に入って、陽を背にし、刈られたばかりで髪の防護のなくなった首もとに快い熱をあたえられながら今度は東に向かうのだが、その途中でも、竹林にまつわるようにして、たぶんヒヨドリだと思うのだけれど結構まるまるとした体躯の鳥が二、三匹、若緑の表面に寄り添っていたり、何か止まれるものの上に止まって鳴いたりしていた。あと、おなじところで聞き覚えのある特徴的な鳥声を聞いたのだけれど、あれがなんの鳥なのか固有種族名がわからない。坂道を下っていくと十字路の角に自販機がある。何かコーラでも飲みたいなという気分が差していたのだが、見ればコーラはなかったので、代わりにカルピスでも飲むかと思って、ストロベリー&ヨーグルトみたいな味のカルピスのボトルを一三〇円で買った。そうして帰宅。
  • ほか、この日のことはよくおぼえていない。夕刊でジョー・バイデンの就任演説の要旨を読んだことくらいか。演説会場にまつわる歴史=記憶としてキング牧師に言及したり、一〇八年前と言っていたか、ここは選挙権をもとめる女性たちが声を上げた場所だと述べていた。自分たちがどのような道をたどってどのような地点にいまいるのかを明確化し、過去のなかから継承していくべきものを継承していくという決意をはっきりと表明しているという意味で、悪くなく良心的だったように思う。そういう姿勢こそが本当は保守という言葉の、基本的な意味ではないのか? そのほか、「何度でも、向井豊昭と『骨踊り』を~岡和田晃×東條慎生×山城むつみ」: 岡和田晃「1:「脱殻(カイセイエ)」収録の意義、モチーフの連続と反復」(2020/9/2)(https://shimirubon.jp/columns/1701637(https://shimirubon.jp/columns/1701637))、Justin McCurry, "Doe your bit: Japan invents bags deer can eat after

plastic-related deaths"(2020/10/21)(https://www.theguardian.com/environment/2020/oct/21/japan-bags-nara-deer-eat-plastic-deaths(https://www.theguardian.com/environment/2020/oct/21/japan-bags-nara-deer-eat-plastic-deaths))、Justin McCurry, "Hospitals in Japan close to collapse as serious Covid cases soar"(2021/1/19, Tue.)(https://www.theguardian.com/world/2021/jan/19/hospitals-japan-close-collapse-serious-covid-cases-soar(https://www.theguardian.com/world/2021/jan/19/hospitals-japan-close-collapse-serious-covid-cases-soar))といったウェブ記事を読んだ。あとはツェラン。そのくらいだろう。

Hospitals in Covid-hit regions of Japan are on the brink of collapse, medical experts have warned, as the country battles a third wave of infections that has caused record numbers of people to fall seriously ill.

Japan reported more than 4,900 coronavirus infections on Monday, with serious cases rising to a record high of 973, local media reported.

Although Japan has avoided the huge caseloads and death tolls seen in some other countries, infections have doubled over the past six weeks to about 338,000, according to the public broadcaster NHK, with 4,623 deaths.

     *

Suga, whose handling of the pandemic has caused his approval rating to plummet, declared a month-long state of emergency in the greater Tokyo area on 7 January that was quickly expanded to cover half the country’s 126 million people.

But his own advisers have warned the measures, which include asking bars and restaurants to close early and people to avoid non-essential outings, are unlikely to have much effect.

Shigeru Omi, the head of the government’s subcommittee on the pandemic, said they would need to be in place for longer than a month, while the president of the Japan Medical Association, Toshio Nakagawa, said Suga should consider bringing the entire country under a state of emergency.

Nakagawa was also dismissive of government plans to offer subsidies to hospitals that free up more beds for Covid patients. “There aren’t enough doctors or nurses,” he said. “Even if hospitals are told to increase the number of beds, what can’t be done, can’t be done. If the number of infection cases keeps rising, the healthcare system could be wiped out.”

     *

With the number of deaths projected to exceed 5,000 by the end of the month, some hospitals are reporting a shortage of ventilators and other equipment used to treat patients with severe symptoms.

“They are waiting for the end of their lives without ventilators after available drugs failed to turn around their condition,” Hideaki Oka, a professor of infectious disease at the Saitama Medical Centre near Tokyo, told the Asahi Shimbun newspaper.

“As far as seriously ill Covid-19 patients are concerned, hospitals have already lost the ability to treat them all,” he said. “Fatalities could rise sharply in the days ahead.”

     *

More than 30,000 people with no or mild Covid symptoms have been asked to recuperate at home as more hospitals near capacity. As of last weekend, 14,806 people were being treated in hospital, while a further 7,781 were staying at specially designated hotels and other accommodations, Kyodo said.

2021/1/20, Wed.

 (……)私には決まった仕事は与えられなかった。私は化学者としては宙ぶらりんのまま、完全な疎外状態(当時はこの言葉は使われていなかったが)にあって、私を毒していた思い出を何ページも乱雑に書き散らし、同僚たちは私をひそかに無害の頭のおかしい人物とみなしていた。本は計画も手法もないまま、私の手の中でほとんど自発的に成長していた。それは白蟻の巣のようにもつれあい、込みあっていた。(……)
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、235; 「12 クロム」)



  • 一一時三五分起床。晴天。しかしもう一月も終盤にかかっているから、陽射しにさほど熱さや厚みはない。一一時三八分から二四分間瞑想。なかなか良い心身の総合具合だった。わずか五秒間だけであっても、きちんと停まれると良い感じになる。
  • 上階に上がり、うがいなどをしてから炒飯もしくはピラフの類で食事。新聞からは文化面を読んだ。磯田道史の「古今をちこち」。松永久秀東大寺大仏焼失の犯人と断定され、歴史上まれに見る極悪人と評価されたのは、彼が奈良の寺社や富裕層から税をめちゃくちゃ取り立てまくって嫌われていたのがひとつの原因だろうという話。その下には、河井弥八という政治家の日記の戦後篇出版が全五巻で完結したとの報。この人は戦前は侍従次長、戦後は参院議長などをつとめた人で、昭和天皇との関係もあつかったらしい。一九〇〇年くらいから死の年である一九六〇年までずっと日記をつけていたよう。色々内幕とか裏事情とかが記されているようだ。
  • 皿と風呂を洗うと帰室。(……)夫妻から日曜日に(……)で会わないかと誘われているのだが、感染の状況が気になるところではある。直前まで数字を見て、多少落ち着くようだったら、一緒に電気屋に行って小型ストーブを見るのも良いかもしれない。あと、どうせ(……)に行くなら図書館もちょっと見たいが、いまはひらいているのだろうか。と思ってホームページを見てみたところ、通常の時間でやっているようだ。
  • コンピューターでNotionを準備しておくと、今日もまずゴルフボールを踏みながら書見をした。ハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)。足裏が柔らかくなるとベッドに寝転んで脹脛もほぐし、そうして読了した。こまかいメモなどはのちにゆずるが、終盤はなかなかすばらしかった。それまで、こいつ本当に全然物語にしようとしないなと思いながら読み進めていたのだけれど、白鯨との闘いが迫るにつれてだんだんとふさわしい雰囲気が立ち籠めはじめ、三日に及ぶ追跡に入ってからは、物語的というよりはかなり劇的で(イシュメールにせよエイハブにせよ、まさしく、これは「劇」だ「芝居」だという自己言及を何度か口にしている)、エイハブの台詞回しなどすばらしかった。全体に、勢いと狂熱とが緊密に表現され、強く放出するような筆致になっていると感じる。とりわけやはり戯曲ではなく小説なので、描写があるのが良いところで、鯨が海中から飛び上がったときの水飛沫が刻々と変化していく記述とか、めちゃくちゃ凝っている磨かれているというわけではないとしても、実にまざまざとした具体性を湛えており、すばらしかった。やはりこちらはどうしても描写が好きである。描写というのは、生き物や事物の状態や動きの推移を、ひとつひとつ、比較的こまかく区分してとらえ、さまざまな技術を駆使しながらそれを言語のつらなりでもって表象する記述、ということだ。小説を読みはじめて最初に快楽を感じてよく書き抜いていたのは風景の描写だったし、自分の日記でもずっとそれを続けている。
  • 終盤の劇的な展開と、序盤のイシュメールの一人称物語と、海に出て以降の百科事典的な脱中心化された記述とのあいだで、やや調和が薄く、つながりがなめらかでないという感じ方もありうると思う。そういう点で、形としてはやはりちょっといびつな感じを受けないでもない。終盤は、正確にいつからか同定していないが、気がつけばいつの間にかイシュメールの姿が、語り手としても消え去っていて、つまり彼は「おれ」という一人称をまったく使わなくなり、その地位はエイハブらほかの登場人物を三人称でひたすら語りつづける匿名の役割へと転換している。それ以降、イシュメールの姿が多少なりともあらわになるのは、こちらが気づいた範囲では603から605にかけて差し挟まれる、熟練の捕鯨家の持つ超能力的な勘や洞察力についての註釈のみである。イシュメールも白鯨との闘いの渦中に参加していたにもかかわらず、みずからが語るその場面においては彼は自分を彼自身として提示しておらず、ボートからはじき出された名もない漕ぎ手のひとりとして語っていて、最後のエピローグで、実はあれがおれだったのだと明かす仕掛けになっている。一番はじめではイシュメールの物語としてはじまったはずの作品は、鯨学の試みなど捕鯨にまつわるもろもろの知の集積をあいだにはさんで、最後はエイハブやピークオッド号による悲劇の上演で終わっている。
  • 二時過ぎに読了した。そのまま今度は、飯吉光夫編・訳『パウル・ツェラン詩文集』(白水社、二〇一二年)を読みはじめた。というのも、もう少し脚をほぐしたかったからで、ベッド上に辞書を使って本をひらいたままで置けば、合蹠をして股関節や太腿を伸ばしながら書見をすることができる。この飯吉光夫訳は目次を見てみただけでも、「沈黙からの証しだて」とか「息のめぐらし」とかタイトルからしてすばらしい言葉が散見される。冒頭に収録されている「死のフーガ」は著名な詩のはずだ。原文がどうなっているのかわからないが、読点や句点をまったくはさまずに一行のなかに小さな文をいくつかつらねる方式はうまく行っているように思う。その小単位がいくらか組み替えられながら反復的に展開していく作品で、つまりこれがフーガということなのだろう。
  • 二時半で切って洗濯物の始末へ。タオルなどたたんで運んでおく。そうしてピラフの余りを温め、ごく小さなカップヌードルも用意して下階に帰り、それらを食ったあと今日のことをここまで記した。もう四時が間近い。今日は五時には出なければならない。そして帰宅したあとはWoolf会である。
  • いまもう二三日に至っているので、こまかなことは忘れた。勤務中のことを記したい。と言ってそれもさほどおぼえていないし、大きく印象深いこともなかったと思う。(……)
  • 帰路のことも忘れた。Woolf会については長くなる気がするので、明日以降にしよう。話題としては、六〇年代七〇年代あたりの先鋭的な合唱曲について、精神の不調とそれに対する対抗策について、小説について、など。
  • 本篇にかんしては、こちらの担当箇所については前日の記事に記したので良いだろう。その前の段落の後半、(……)くんの担当箇所では、Lily Briscoeの"I'm in love with you"、"I'm in love with this all"を、「心酔している」と訳していたのが良かった。岩波文庫の「このすべてに恋している」の直截さも捨てがたいが。
  • たしか(……)くんが沖縄のヒップホップの人を紹介したり、黒人霊歌のカバーらしきものを紹介したり、それをサンプリングしてKendrick Lamarがラップしている音源を紹介したりしたところからだったと思うが、合唱とか高校のときの合唱祭の話になった。黒人霊歌のカバーらしきものというのは、Tommy Butler "Prison Song"というもの。『The "Selma" Album: A Musical Tribute To Dr. Martin Luther King, Jr.』(https://music.amazon.co.jp/albums/B00LSSKV3O(https://music.amazon.co.jp/albums/B00LSSKV3O))というアルバムの二二曲目に入っている。だからたぶん公民権運動の時代に多く歌われたのではないか。ここで歌っているのはCarlton Williamsという人のようだ。(……)くんが画面共有して流したその曲が終わってはじまった次の曲も、その冒頭からしてめちゃくちゃにご機嫌な感じだったのだが、それはErnie Banks, "Higher"というやつだった。で、"Prison Song"をサンプリングしている曲というのは、Futureというラッパーの"Mask Off (Remix)"というやつ(https://www.youtube.com/watch?v=W6EPs8FYk3M&ab_channel=eijin(https://www.youtube.com/watch?v=W6EPs8FYk3M&ab_channel=eijin))で、Kendrick Lamarがフィーチャリングされているのだけれど、彼のラップがクソすごかった。
  • 思い返してみると、我が高校の合唱祭は、パフォーマンスの質はともかくとしても、曲の選択にかんしてはなかなかレベルが高かったような気がする。"44わのべにすずめ"は、三年A組に(……)という、音楽部(すなわち合唱部)の、たぶん部長だったひとが属していたので、おそらく彼がやりたいと言って持ってきたのではないか。当然練習も彼が主導してすすめたわけだが、よくもまあこんな曲を、音楽に興味のある人間がさほど集まっているわけではない高校の一クラスにおいて、有象無象どもを束ねてあれだけの質に持っていったなといまになっておどろく。あと、課題曲も三年ともけっこう良くて、一年のときはたしか"野ばら"だったはずだし、二年のときはElvis Presleyの"Can't Help Falling In Love"だった。三年のときの課題曲が全然知らないやつで、やたら難しくて、この年はどのクラスも課題曲はうまく行っていなかったおぼえがある。あれを同定し、もう一度聞きたくてこのWoolf会で話しているあいだに探したのだが、タイトルも思い出せないし、たぶん普通取り上げないマイナーなやつだったのだろう、検索しても全然それらしいものに行き当たらなかった。たしか、荒野のなかで一軒の家に灯がともっているみたいな、そういうタイトルか、あるいは歌詞のなかにそういう内容がふくまれていた気がするのだが。で、そういう風に課題曲が通り一遍でなかったのは、おそらくは音楽の教師だった(……)という先生のセンスだったのだろう。(……)くんや(……)さんのほうはと言えば、アンジェラ・アキを歌わされたとか森山直太朗だったとかいうことなので、それらよりはたしかに我が校の課題曲は面白く、やりがいのあるものだった。
  • (……)さんは合唱祭でアンジェラ・アキを歌わなければならなかったことが本当に嫌だったらしく、ヒットしたJ-POPを合唱にして学校でやるようになってから、合唱がおかしくなったというか、つまらなくなったと熱をこめて話していた。彼女は六〇年代七〇年代あたりの、前衛的と言って良いだろう合唱曲が好きらしく、林光とか三善晃という名前が上がったが、上述の木下牧子もたぶんその流れにあたるのだろう。その時代というのはたしかに、現代音楽のほうで活動している作曲家が現代詩に曲をつけていた頃で、林光は原民喜の「原爆小景」を合唱にしていることでたぶん有名なのだと思うし、岩田宏の「動物の受難」も取り上げている。たしか現代詩文庫の「動物の受難」のところにそのことが触れられていて、こちらはそれで林光という名を認識したおぼえがあるのだが、正確な記憶ではない。そのあたりのプログレッシヴ合唱曲と呼ぶべき音楽たちにはこちらもわりと興味がある。このとき(……)さんが紹介していたのはこの音源(https://www.youtube.com/watch?v=Ba4VCTXBhMM&ab_channel=tateshin1(https://www.youtube.com/watch?v=Ba4VCTXBhMM&ab_channel=tateshin1))で、三善晃の「三つの叙情」という組曲のひとつ、"北の海"というものだが、開始のピアノからしてもうあきらかにそちら方面のフレーズだし、よく合唱でこんなことやろうと思ったなと思う。いま現代ジャズの最先端で活動しているひとびとだって、あまりこんなことやろうとはしないぞ、という感じ。だいたい、この高度におどろおどろしい曲と詞のどこに「叙情」があるというのか。(……)くんはストラヴィンスキーみたいだと言っていたが、こちらはバルトークを合唱にしてしまったみたいな印象を持った。しかしバルトークなどきちんと聞いたことは一度もない。この三善晃というひとはやはり近代詩現代詩を色々取り上げているのだが、Wikipediaを見るとそのなかに、後藤明生という名前がふくまれているのにちょっとビビる。後藤明生を合唱曲にしようという人間がこの世に存在するとは。一九九二年の「あさくら讃歌」である。これで検索すると、福岡県立朝倉高校同窓会のページが引っかかり、そこ(http://www.itigen.net/01-jinnmyaku-gotou/01-2-jinnmyaku.html#name1(http://www.itigen.net/01-jinnmyaku-gotou/01-2-jinnmyaku.html#name1))には、「朝倉の地で詠まれた万葉の詩のほか、皇后陛下が皇太子殿下誕生のおりに作曲された「おもひ子」(宮崎湖処子の詩)や朝倉橘広庭宮ゆかりの謡曲「綾の鼓」などが織りこまれた合唱組曲「あさくら讃歌」は、混声合唱組曲のための八篇の詩として後藤明生が作詞しました」という説明がある。つまり、後藤明生が詩を書いていたのだ! 後藤明生が、詩を書く! 驚愕の事実ではないか?
  • あと、おのおのの精神の不調体験について話されたりもしたが、面倒臭くなってきたのでこれについては省く。ただ(……)さんにせよ(……)くんにせよ、難儀な時期を通過してきたのだなあという印象。こちら自身もそうだが。(……)さんは最近は体調がだいぶ良くなったと言うが、それでも音楽が聞けないとか映画が見られないとかいう状態があるらしく、それはやはりストレスとか負担とかがあって精神が圧迫されているということなのではないかと思ったので、自分が嫌だとかストレスだとか感じることを言葉として書き出し、客観化して距離をはさんで受け止めるようにすると良いですよと定番のアドバイスをして、いくらかお節介をかけておいた。あとは人間、生きていると、まったく動かないという瞬間が普通なくて、常に行為や行動に追われているような感じだから、たぶんそれも実はけっこう人にとって負担になっているのだと思う、と話し、瞑想っていうのはこちらの体感的理解では要するに、ただ何もしないということ、からだをまったく動かさずに停止し、能動性を消失させるということだと述べた。能動性を消失させようという能動性が残るではないかという、ややこしいけれどありがちな問題についてはいまは措くが、基本的なコツとしては、ただまったく動かずじっとしていると、それに尽きると思っている。わからん、もしかしたらその前にいわゆるサティの技法による観察力向上の訓練が必要なのかもしれないが。ともあれ、まったく動かずじっとしていると、なぜなのかわからないがからだの感覚が勝手にまとまってくるわけである。ヨガでいう死者のポーズもしくは死体のポーズもそれとおなじことで、これは仰向けの姿勢でただじっとしているだけのことだと紹介した。いずれにしても、たぶん人には、とりわけ現代の人には不動性が足りない。ひとびとは動きすぎている。
  • あとは小説について。(……)くんと(……)さんは小説を書いて発表し、講評しあうというグループに属しているらしい。ほか、(……)さん、(……)さん、(……)さんなど、こちらが知っているひとたちも参加しているようだ。字数は八〇〇〇字だか一万字だかそのくらいだと言うので、けっこう大変である。それで(……)くんが書いた小説というか小説を目指した文書みたいなものをこちらももらった。(……)さんもひとまず書きはしたものの、(……)くんが発表したのを読んで、これに比べたら自分の文なんてとても小説とは言えないただの作文だ、恥ずかしい、とおののき、発表して他人に読んでもらう勇気を失ったらしい。書いていると説明になってしまう、なんか論文みたいな感じになってしまう、と彼女は言っていたのだが、しかしその実、あとで冒頭をちょっと読んでもらって聞いたところ、普通に小説作品として何の問題もない立ち上がり方をしていて、なんだったら、怒られた少女(だったか?)が怒ってくるシスターの「右側にひろがる何もない空間を見つめ」、みたいな感じで、二者のやりとりの記述のなかにちょっとした具体性も差しこまれていたので、いや全然大丈夫ですよ、これは小説ですよ、ちゃんと描写になってますよと(……)くんと二人で励ました。(……)くんはちょっとフラナリー・オコナーみたいだと思いましたと言って、たぶんちくま文庫の全短篇からだと思うが、そしておそらくその上巻の二篇目に収録されている作品の冒頭だったのではないかと思うが、画像を貼って紹介していた。フラナリー・オコナーも、また読み返したいものだ。今度は英語で読んでも良いだろう。ただ正直、なぜか電子データで読む気にはあまりならないのだよなあ。Kindleか何かを買ったほうが莫大な量の作品を自由にもとめられるし、Woolfの文章などもたしか全部ほぼタダで手に入るのだったような気がするが。なぜかわからないが電子書籍を読もうという気が起こらない。パソコンでPDFなどを読むのもあまり得意ではない。やはり紙よりも目が疲れるということなのだろうか。

2021/1/19, Tue.

 ブルーニが話したクロム酸塩防蝕塗料と塩化アンモニウムの話は、時をさかのぼらせ、一九四六年の、厳寒の一月に私を連れ戻した。その頃、肉や石炭はまだ配給制で、誰も自動車など持たなかったが、イタリアに希望と自由があれほどあふれていたことはなかった。
 だが私は虜囚状態から戻ってきて三ヵ月しかたってなく、苦しい人生を送っていた。この目で見て、耐え忍んだことがまだ心の中で生々しく燃えていた。生者よりも死者に近く、人間であることに罪があると感じていた。なぜならアウシュヴィッツを作ったのは人間で、アウシュヴィッツが何百万人という人たちを呑みこんでしまったからだ。その中には私の多くの友人と、心にかけていた一人の女性がいた。私は話をすることで浄化されるような気がした。路上でパーティへの招待客をつかまえ、悪事の話を押しつける、コールリッジの「老水夫」になったような気分だった。私は短い血まみれの詩を書き、声に出したり、文章で、めまいのするような事々を語った。そうすることで徐々に本が生まれ出た。私は書くことで短い平安を得て、また人間になったと感じた。殉教者でも、卑劣漢でも、聖人でもなく、みなと同じで、家庭を営み、過去よりも未来を見る人間になったと思った。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、233~234; 「12 クロム」)



  • 一一時二二分の起床。一一時前には覚めて、布団のなかで自律訓練法めいてからだを平らにし、静止していた。起き上がって水場に行ってくると、瞑想。一一時二九分から四九分までちょうど二〇分。悪くはない。しかし、もうすこし長く座りたい気はする。これくらいでいいかなと思って目を開けて姿勢を解くと、思ったよりも経っていないのだ。三〇分をコンスタントに座るくらいにしたいような気はする。
  • 上階へ行き、ゴミを始末したり洗面所で髪を梳かしたり。髪の毛は二日後の木曜日にようやく切れる。前回散髪に行ったのが九月末のようなので、四か月くらい切っていなかった。うがいをして出てくると、電気代がやたら高くなっているという話があった。冬なので家中で暖房を使いまくっているから当然のことだが、こちらが今冬になって、階段下の室にあったのをかっぱらってきたヒーターも結構金を使っているのではないかと思われたので、エアコンかべつのストーブを使うことにした。エアコンのほうが安くなるのかどうなのかわからないのだが。ストーブにしても、以前使っていた小型のやつがいまは居間のこちらの席の脇に置かれてあって、食事を取るときのみ足もとを温めることがあるのだけれど、それをいま自室に持ってきたところ、定格消費電力は一二〇〇Wとなっている。で、昨日まで使っていた縦に長いタイプの遠赤外線ヒーターは、先ほど隣の兄の部屋に移してしまったのだが、それは四五〇Wと九〇〇Wとを選択できるもので、裏面の消費電力も九〇〇Wとあった。定格消費電力というのは機能を最大限発揮したときの消費電力ということらしいのだが、普通に考えれば、一二〇〇Wのほうが電気代がかかるはずではないか。だから旧来のストーブにもどしたほうがむしろ電気料金がかさんでしまうのではないか? だが、暖房効果や出力としては、あきらかにヒーターのほうが強い。ひとまず自室にいて冷たいのは主に足もとで、あとは暖房がなかろうとからだをよくほぐせばどうにでもなるし、最悪エアコンも使えるので、この小型ストーブをまた使ってみようかと思うが。ちょうどいい具合に、デスクの下にローランドの小さなギターアンプを置いてあったのだが、その上に載せれば椅子に就いた状態でうまく足先に温風が当たる位置関係になる。
  • 食事とともに新聞。金原ひとみのインタビューというかその類の記事を読んだが、特に面白い言葉はない。それから国際面。パレスチナ自治区で評議会選と議長選がおこなわれる予定と。いま、ヨルダン川西岸はファタハが、ガザ地区ハマスがそれぞれ統治している。二〇〇六年の選挙でハマスが圧勝したあと、翌〇七年にはガザ地区を実効支配したという話だったはず。現議長のマフムード・アッバスは二〇〇五年から現職にあるようで、批判が出ているとかいう。ファタハ側とハマス側が折り合うのかという問いもあるが、コロナウイルス蔓延下でもあるし、普通にイスラエルが選挙活動とか集会とかを取り締まってやらせないようにするのでは? という気もする。
  • また、西部スーダンダルフール地域で衝突、と。アラブ系の人が殺された事件をきっかけにして、アラブ系と非アラブ系で戦闘に至ったようだ。八三人が死亡と書かれてあったと思う。ダルフール紛争というのは名前しか知らないが、二〇〇三年あたりにはじまったらしい。
  • その他、アレクセイ・ナワリヌイの拘束にかんして。昨日の朝刊に帰国が報じられ、そこで、ロシアに着いたら直後に拘束される見通しとすでにあって、夕刊にはその情報通り空港での審査中に拘束されたという記事が載っていた。もともとナワリヌイはブヌなんとかみたいな、名前を忘れたが四文字の名の空港に到着する予定だったところ、直前でシェレメチェボという空港に行き先が変更されたという。このシェレメチェボ空港という名は、モスクワにいる兄の口から名前を聞いたことがあるようなおぼえがある。もともとのブヌなんとかみたいなところには支持者や記者が集まっていたのだが、そのうちの六〇人ほどが逮捕だか拘束だかされた。で、ナワリヌイも拘束されたが、裁判前手続きみたいなものが正式なステップを踏まず警察署内でおこなわれたとかで、弁護士を呼ぶのもその段にならないと許されなかったというのだけれど、そこでナワリヌイは、引きこもっている老人が恐れをなしてどうのこうのみたいな、文言をほぼ忘れてしまったがプーチンを批判する言葉を発したらしい。ナワリヌイの帰国から拘束までの様子は、独立系のメディアが終始インターネットで中継していたという。政権側もそれを弾圧せず、さしあたって一応は容認したようだ。
  • 食後、皿を洗い、風呂も洗う。蓋に洗髪剤だか何かの染みが生まれていたのでそれも擦って取っておいた。非常に天気の良い快晴なので散歩に出たいが、日記も二日前の一七日からまだ終わっていないし、歩きに出ればそれだけで書くことがかなり増えてしまうので躊躇うところがある。本当はそういう思考は良くないと思うのだけれど。歩きに出たければ出て、書くのが面倒臭ければ面倒臭いことは書かないか、短く済ませるという風にすれば良いのだけれど。そういうわけで、やはり散歩に行こうという気にいまなった。
  • 散歩に行こうという気になったのは二時過ぎの時点である。その前、部屋にもどってきてからはまずボールを踏みながらハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)を読んだ。三五分読んだあとに上まで綴ってから、ちょっと柔軟をするとともに着替えて散歩に出かけた。すでに二時半だったから太陽も林のてっぺんで細長くいびつな三角を描く木々の間に見え隠れするくらいにくだってきており、家のそばの道はもう全面蔭をかけられて青くなっていた。そのなかを行けばやはり多少冷え冷えとする。この記述をしたためている現在は二一日の午後四時前なので、記憶がだいぶ薄れてしまって印象が蘇ってこないのがやはり残念ではある。散歩から帰ってきてすぐに書けば、見聞きし感じたことをもっと色々と詳細に記せたのにという思いは捨てがたい。だが仕方のないことだ。
  • すこし進んで公営住宅のあたりまで来れば日向がひろがり、まぶしさが顔と瞳に迫ってきた。たしかこの日はけっこう風が強かったようなおぼえがある。それで、(……)さんや(……)さんの宅の裏にあたる枯木の斜面が、風を受けながら、わずかに残った草や葉をすれ合わせて音を立てていた。空はあかるく、雲の気配もひとしずくも窺われず端的に晴れ渡っており、公営住宅の敷地に下りていく階段通路の手すりが、銀色のなかに空の青を映し取って青銅色になっていたくらいだ。小橋のところで沢のほうや宙空をうかがってみたが、羽虫はほとんどいなかった。陽射しはそれなりに温かくとも、空気は冷たく締まっているので、これでは虫たちも発生して遊泳する余地がないようだ。
  • 坂を上っていくとここでも風が道脇の木々を鳴らしており、左方にひらいた斜面の向こうでも、竹の、冬でもあかるい若緑が葉擦れを撒きながら左右にゆらゆら緩慢にかしいでおり、なにかパーティーで音楽に合わせて歌い踊りながらからだを揺らすひとびとの賑やかなさんざめきを思わせる。幹をはさんで風を受けている側の葉房だけが、つらなりをひるがえして葉裏の白っぽさを覗かせていた。そのままいつもどおり裏通りを西へと進む。ここは道がまっすぐ西方に向けて続いているので、歩いているあいだはずっと光を正面からまともに浴びる位置関係になって、その熱によってかなり気持ちよく快楽的な心地が起こる。先日も見留めた道脇の草場の脇、道からは一段下がったところに木造りの古い家が一軒あることに気づいたが、ひとが住んでいるのかどうかはわからない。道がゆるやかに曲がるその角にツバキだかサンザシ [註: サンザシではなくてサザンカのまちがい] だかの低い植木が一本あって紅色をつけているのだが、その濃緑の葉っぱがどこもかしこも白光を溜めて、なおかついまは空気の流れがないからそのまま揺らがずしずかに停まっている姿がすごかった。葉っぱのことごとくが宝玉と化したようとか、光を吸って凍りついたようとか、わかりやすい比喩をいくら使っても良いのだが、本当に白いかがやきがおのおのの葉にいっぱいに膨らんでおり、光に占領されたような具合で、緑色よりもその白さのほうが葉であるかのような様子だった。その先で駐車場代わりに空いた土地の表面も、石やら砂利やらよくわからないゴミみたいな草やら薄赤色やら何やらごちゃごちゃと入り混じって、大層複雑でありながらも乱脈で散文的な様相をひろげているが、陽光がその上を走りつつんでいると、それだけでテクスチャー全体が見えない根底部分で縫い合わされたかのように整い、精妙な質感を放ってくるから参る。
  • 街道を渡って北側の上り小道へ。坂から南方の木々や家並みや山の景色を見ながら思ったのだが、どうも最近、自分がいままで生まれ育ってきた空間の見慣れているはずの風景が、見慣れないもの、自分が住んだことのないべつの土地のもののように見えることが多くて、そんなに物たちの具体性特殊性を感知し感銘を受けてばかりいて大丈夫かな、また頭がおかしくなりはじめないかなとちょっと気になる。まあ人間、基本的に目の前にあるものを見てなどいないし、きちんと見ていても時空が変われば見え方も変わるし、見慣れるなどということは本当は嘘だとも思うが。寺の裏の斜面に設けられた墓地の墓石には、空の青さや、寺の屋根のやや褪せた朱色が映りこみ、また太陽を隠す木立が風に触れられて開閉弁の役割を果たすらしく、小さなあかるみが間をみじかく時々訪れては去っていた。
  • 保育園のフェンス内、つまり園舎のそばの狭い範囲に、先日までは恐竜を模したような、あれは滑り台だったのかなんなのか忘れたが、上ったりして遊べる遊具が設置されていたのだけれど、この日通るとそれがなくなっていた。なぜなくなったのかわからない。それから今度は東向きにだいたいまっすぐ、家々のあいだの裏道を進んでいく。ここもここで背後から陽射しがよく通って、背や首のあたりが気持ち良い。空が明晰なので、それに接している丘の姿もずいぶんと整って見える。もう緑色というほどの色味はなく、まだ春まで距離もあるので、なんとも言えない、緑の残骸みたいに沈んで地味な色や裸木の枝がくゆらせる煙色などを無造作につなぎ合わせた様子なのだが、それがどうも整然としたたたずまいで悪くない。そちらに目を向けながら通りがかった一軒の家先で、高年の男性が大きな音を立ててやたら痰を吐いていた。
  • このあともいつもどおり街道を東へ進み、交差部で裏にもどって川を望める下り坂の帰路を行ったのだが、とりたてて回帰してくる印象がないので省略する。帰宅後は日記。一七日を仕上げ、この日はのちの時間も合わせて一八日も仕上げた。あとこの日のことでおぼえていることもさほど多くはないと思う。飯の支度はしたはずだが書くほどの印象は残っていないし、夜半もけっこう怠けてしまった。夕刊では「日本史アップデート」で蝦夷に対する評価の変化について読んだ。従来思われていたほど「野蛮」な生活形態を取っていたわけでなく、農耕もしていたし、朝廷側の住人と生活様式にさほどの差はなく、交易もしていたと。平定されたあと蝦夷のひとびとは各地に分散移配されたらしいのだが、そこでも問題が起こったら国司、朝廷、ととりあえずはきちんと上訴していき、反乱を起こすのは最後の手段だったと。参考文献として挙げられているのは、工藤雅樹『古代蝦夷』(吉川弘文館)、鈴木拓也編『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(吉川弘文館)、熊谷公男編『アテルイと東北古代史』(高志書院)、『蝦夷 ―古代エミシと律令国家―』(東北歴史博物館)。
  • あとはこの翌日がWoolf会だったので、担当箇所を訳したくらい。原文と私訳を以下に掲げる。

 'It suddenly gets cold. The sun seems to give less heat,' she said, looking about her, for it was bright enough, the grass still a soft deep green, the house starred in its greenery with purple passion flowers, and rooks dropping cool cries from the high blue. But something moved, flashed, turned a silver wing in the air. It was September after all, the middle of September, and past six in the evening. So off they strolled down the garden in the usual direction, past the tennis lawn, past the pampas grass, to that break in the thick hedge, guarded by red-hot pokers like braziers of clear burning coal, between which the blue waters of the bay looked bluer than ever.


 「なんだか急に寒くなってきましたね。太陽がもう、あんまり暖かくないみたい」 あたりを見回しながら彼女はそう言った。たしかに大気は明るさを十分に残し、芝生もいまだやわらかな深緑色を地に広げ、家屋はその緑のなかでトケイソウの紫を散りばめられて、青空の高みからはミヤマガラスが物静かな声を落としてくる。だが、空中では何かが活動し、きらめき、銀色の翼をひるがえしていた。やはりもう九月、しかもそのなかばだったし、夕方の六時を回ってもいたのだ。そうして二人はその場を離れ、いつもの方角に向けて庭をぶらぶら歩きはじめた。テニスコートを通り過ぎ、パンパスグラスの茂みも過ぎて、厚く生い茂った垣根が途切れたところに向かっていく。そこは鮮やかに燃え立つ炭の火鉢を並べたごとく、真っ赤なトリトマの群れに守られており、それを通して望む湾の青い水は、より一層青さを湛えて映るのだった。

  • 内容としても文のかたちや表現としても難解な箇所ではないと思うのだけれど、一時間半かかった。ごく普通の文でも、訳すとなると音調とかもろもろ感じ分けてよりよい手触りを探らないといけないから、うまい言葉を招き寄せるのに時間がかかる。"The sun seems to give less heat"なんていう言い方も、日本語にうつすとなると意外と困るものだ。「芝生もいまだやわらかな深緑色を地に広げ」の「地に広げ」はちょっとした意訳。ここは"the grass still a soft deep green"で、前にwasが一度出てきているのでそのくりかえしを省略しているわけで、動詞としてはbe動詞であり、だから「芝生もまだやわらかで深い緑色だった」がもっとも直訳調なのだが、そのあとで家がその緑色のなかにあると言われているので、まあなんか芝生もしくは下草みたいなものが九月の夕刻ではあるもののまだ陽光を受けてはっきりとした色味を湛えながら地面を覆いあたりにひろがっていて、そういう視像のなかに家屋があるわけなのだろうとイメージし、「深緑色を地に広げ」という訳にした。その次の、"But something moved, flashed, turned a silver wing in the air."は、突然やや詩的というか、曖昧で、物理的事実とは思えない描写になっているのだけれど、前から逆接でつながれていることを考えるに、まだ陽射しが残っていて空気はあかるいけれど、それでもやはり日が暮れていってだんだんと暗くなり冷えていくような、大気のなかにはそういう変容の気配や雰囲気が感じられるということを比喩的に言ったものだと思う。岩波文庫もそのように取っている。ただそちらでは、「何かが動いたような、何かがきらめき、銀色の翼を空中でひるがえしたような気配があった」と、「気配」を明言して比喩のニュアンスを強めているが、こちらは一応、動詞が尋常の過去形で並べられていることを尊重するかと思って、「だが、空中では何かが活動し、きらめき、銀色の翼をひるがえしていた」という断定の言い方にした。あとそこそこ頑張ったというか、多少工夫をはさんだところとしては、最後のトリトマの描写くらい。「そこは鮮やかに燃え立つ炭の火鉢を並べたごとく、真っ赤なトリトマの群れに守られており」の部分。原文は"guarded by red-hot pokers like braziers of clear burning coal"なので、そのまま行くなら、あかるくはっきりと燃える炭を収めた火鉢のようなトリトマに守られて、という感じなのだけれど、ここもこの言葉から想像される風景をイメージし、なんか垣根の切れ目の付近を赤くて太いトリトマ(画像検索すると、巨大に成長しすぎたケイトウみたいな花が出てくる)が何本も立って埋めているのだろうと思い、とすると火鉢をいくつも並べたみたいな光景だろうというわけで、じゃあ並べておくか、と上記の言い方にした。あとはなんとなく「群れ」も足して、多数の感じを強めておいた。ところでトリトマの原語にあたるred-hot pokerというのは真っ赤に燃え上がった火掻き棒という意味にもなるわけで、炭と類語である。もしかしたらそれで火鉢の比喩が出てきたのかもしれない。また、この語は同時に、卑語では「ビンビンに勃起したペニス」を言うらしい。

2021/1/18, Mon.

 (……)朝の一〇時頃、空襲警報[フリーゲルアラルム]のサイレンが突然鳴り響いた。それはもはや目新しいことではなかったが、警報が響くたびに、私や残りの全員は、骨の髄まで恐怖に打ちのめされる気分になるのだった。それは、この地上の、たとえば工場のサイレンのような音ではなかった。耳を聾さんばかりの大音響が、全地域で同時に、律動的に、けいれん性の金属音にまで高まり、雷のつぶやきのように低まるのだった。それは偶然の発明ではないに違いなかった。ドイツでは何ごとも偶然ではありえないし、背景にも、目的にも、あまりにも適合していたからだ。ある悪意に満ちた音楽家が、その中に怒りと嘆きを、台風の風の音と狼の月への遠吠えを閉じこめて作ったのではないか、と私はしばしば考えた。騎士アストルフォの角笛はこう響いたのではないかと思えた。それは恐慌状態を引き起こした。爆撃を知らせているだけでなく、その音が本来持つ恐怖感のためだった。まるで地平線全体を埋め尽くす巨大な獣が、傷ついた時の嘆きの声のようだった。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、222; 「11 セリウム」)



  • あとは国際面からイスラエルコロナウイルス対策について。軍の情報機関が政策に大いに寄与しているらしい。「新型コロナウイルス国家情報・知識センター」みたいな部門が保健省管轄下につくられたというが、それを主導しているのが「N大佐」と呼ばれる四二歳の軍部のひとで、昨年の二月に部下からの報告を受けた際、コロナウイルスの危険性と世界および自国にあたえるだろう影響の大きさとを鋭敏に察知し、単身保健省に乗りこんで協力を申し出たという。それでセンターがつくられ、そこで収集されている世界の感染状況をもとに政策が決定され、イスラエルは、WHOがパンデミックを宣言した二〇二〇年三月一一日より二週間ほどはやく、外国人の入国禁止措置を取った。ロックダウンもいままでに二度おこなわれているが、その都度動きがはやいと評価されているらしい。ただ、ロックダウンの解除後にまた感染が拡大してしまうという、やはり難儀な状況にあるようだが。それでも一方でまたワクチン開発競争を分析してその確保にもはやばやとこぎ着け、一二月末からすでに接種がはじまっており、三月には一六歳以上の国民全員が二回の接種を終える予定だという。
  • 今日の天気は晴れとも曇りともあまりはっきりしないような感じで、空には薄青さが見えながらも淡い雲もかかっているが、このときには居間の南側や西側には陽のあかるさが射しこんでいて、南窓から斜めに流れこんで床の上に浮かんでいる日だまりのなかに、窓外で鳥が翼をひるがえして飛び上がっていく影が一瞬ひらめいた。椅子から立ち上がって背伸びをしながら窓を見通すと、梅の木の細枝がもう蕾をたくさん、ぽつぽつつけながら、微風にわずか、左右にやさしく揺らいでいる。
  • 風呂を洗って帰室。Notionを準備。すると一時前。今日は昨日などと比べればいくらか空気が冷たいように感じられ、脚もやや冷えていたので、先に書見をするかという心になった。それでベッド縁でゴルフボールを踏みながらハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)を読む。547ページからなので、もう終盤である。いよいよそろそろ白鯨と邂逅して闘いがはじまりそうというところだが、不穏な雰囲気が満ちてきていてなかなか面白いし、記述も締まっているように感じられる。書見の際に重要なのはやはりからだをなるべく動かさないことだという基礎に立ち返った。つまり瞑想をしているときとおなじような感じで読むのが良い。書見に限らず、何かに集中したければなんでもそうであるわけだが。その後、寝転んで脹脛マッサージなどもしつつ、二時直前まで一時間読んだ。それから今日のことをここまで書き足して二時半。明日が休みなので、昨日の記述はまあそんなに急がないでも良いかな、というゆるい気分になっている。
  • (……)と(……)さんへのメールは昨日書いたので、あとは兄のメールに返信しなければならない。
  • 今日のことを上まで綴ったあとは、洗濯物のタオルを入れてきてから(天気があまり良くないので乾ききっていなかった)調身した。一時間。「橋のポーズ」というやつ、要するにブリッジの類だが、あれを久しぶりにやった。これは腰回りをほぐせるかなと思ってやってみたのだが、これが難しい。全然さまにならない。本当は背のほうまで持ち上げられると綺麗なのだと思うのだけれど、腰の付近をちょっと上げるだけで精一杯である。それで、腰回りがほぐれるかどうかもよくわからないのだが、停まっていれば力が入って温まることは確かだし、余裕があったらやるようにしようと思った。下半身の伸ばし方温め方はだいたいもう確立してきたので、次は腰や背面だろう。
  • 三時四〇分に至ったので、小さなカップヌードルを持ってきてエネルギーを補給しながら(……)さんのブログを読んだ。一月四日分。國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』を読んでのまとめや敷衍が以下で、わかりやすく、また面白い。「出来事を出来事として、特異的なものを特異的なものとしてそのまままとめあげることができず(物語化できず)、たえず責め苛まれるようにして生きているのはむしろASDであり、これは自閉症的主体の特徴といったほうが適切であることが当事者研究によって明らかになりつつある(この点については松本卓也も『症例でわかる精神病理学』で、ドゥルーズのいう分裂病者はむしろ自閉症者に近いというかたちで指摘していた)」という点ははじめて知って、そうだったのかと思った。あとは、「予測(カントのいう想像力)。それがまず人間のベースにある(これは時間がまず存在するというのとほとんど同義かもしれない)」というのがこちらにとっては重要そう。

まずスピノザ由来の概念であるところのコナトゥスというものがある。これを熊谷晋一郎は「恒常性の維持」とパラフレーズする。主体は基本的に「恒常性の維持」を目指している。これは精神分析の用語でいえば、快感原則ということになるだろう。緊張(刺激)をなるべく避けるという傾向。

主体は常に予測している。予測したものと到来したものとの差を予測誤差という。予測誤差は緊張をもたらす。それはコナトゥス(恒常性の維持)をおびやかすものであり、一種の傷である。到来したものが予測したものと大きく違った場合、それはおそらく精神分析的な意味での外傷となる。しかるがゆえに主体は予測したものと到来したものとの誤差を常に調整し続けることになる。調整することで予測誤差を最小にしようとする。傷を避けるようになる。

現実の出来事はそのひとつひとつが特異的であり、〈これ性〉を帯びているものであるが、定型発達者はそれらを容易にパターン化(カテゴライズ)して処理する。特異的なものを一般化し、出来事を物語化し、現実的なものを象徴的なものとして、いわば低い解像度で処理する。つまり、到来したものと予測したものの誤差を、その解像度の低さでうやむやにし、「同じ」もしくは「近似」として処理する。その処理のシステムを仮に学習とした場合、学習をもっともブーストさせるのはやはり言語ということになるだろう。言語の習得(象徴界への参入)とは、既成の共有可能なカテゴリー(伝統的な知)のインストールと同義である。この場合の定型発達者とは、精神分析でいうところの神経症的主体にひとしい。

この文脈で去勢をどのように考えるかという問題がある。妥当なものとしては、伝統的な知と引き換えに、高い解像度を失い、出来事のひとつひとつを特異的に体験することができなくなることという理解がある。くりかえしになるが、これは分裂症的主体に対する神経症的主体の特徴とほぼ同じである。しかし、出来事を出来事として、特異的なものを特異的なものとしてそのまままとめあげることができず(物語化できず)、たえず責め苛まれるようにして生きているのはむしろASDであり、これは自閉症的主体の特徴といったほうが適切であることが当事者研究によって明らかになりつつある(この点については松本卓也も『症例でわかる精神病理学』で、ドゥルーズのいう分裂病者はむしろ自閉症者に近いというかたちで指摘していた)。

分裂病的主体を去勢の適切になされていない主体であるとする前期から中期にかけてのラカンの理解にしたがってみるとき、去勢の理解とはすなわち、自閉症的主体という四つ目の主体があらわになったいま(そしてその主体が従来分裂症的主体として理解されていたものにきわめて近いことがあきらかになったいま)、分裂症的主体をどう理解するかという問題になる。図式的になってしまうことをおそれず仮説をたててみるなら、自閉症的主体と神経症的主体を両極端とするその中央に分裂症的主体を位置づけることができるだろう。解像度が高すぎるがゆえに出来事を物語化しそこねる自閉症的主体と、解像度が低すぎる(出来合いの知に全面的に依拠している)ゆえに過度に物語化してしまう神経症的主体のあいだで、刃の雨のように降りそそぐ出来事の特異性によって傷つけられることもなければ、全体主義的に容易に短絡する物語のなまぬるい一般性によって「規格化」(これは自由の対義語である)されることもなく、独自の知の履歴(真理=症状)を蓄積しつづける主体。中途半端であること。そしてみずからの症状=真理とうまくやっていくこと。出来事の特異性を生きるのでもなければ、物語の一般性を生きるのでもなく、特異的な物語(主体の真理=症状としての物語)を生きるということ。

去勢の問題のほかに享楽の問題も残っている。ひとはコナトゥスにしたがって(恒常性の維持を目的として)生きる。そしてそのために常に予測誤差を修正し、外傷を呼び込まないように学習を重ねていく。ただ、そのようなコナトゥスを裏切るものとして死の欲動があると考えることもできる。死の欲動とは主体の死にむかう傾向である。学習の集積、予測誤差の履歴こそが主体であると考えた場合、主体がみずからの死をもとめるとはつまり、それらの集積と履歴をリセットをもとめることであるといえる。神経症的主体にとってそれは伝統的な知を排除(アンイストール)するということであり、自閉症的主体のほうに向かうことを意味する。調整を重ねてきた予測/カテゴリー/パターンを大きく逸脱したもの(現実的なものとしての享楽)に触れることで、コナトゥスをおびやかしみずからに外傷を与えること。それは別の言い方をすれば、奪われた特異性=出来事を取り戻そうとする動きである。

予測(カントのいう想像力)。それがまず人間のベースにある(これは時間がまず存在するというのとほとんど同義かもしれない)。外部から到来する出来事をひとつひとつ外傷として傷だらけになりながら受け止めつつも、パターンとカテゴリーを特異的に学習していく特異的な主体が、言語を習得し、他者の世界(象徴界)に参入し、去勢される(特異的なその予測誤差の履歴——個性的な傷跡?——を失う)代わりに、すでに大枠のできあがったパターンとカテゴリーを一挙に得る(個性的な傷跡を、一様の傷跡で上書きする?)。主体はしかし同時に、コナトゥス(快感原則/生の欲動)にあらがうように、失われた特異性を求めようともする(死の欲動)。

  • 四時で切って、口をゆすいできてから音読。「英語」。一五分しかできなかったが、一五分程度であってももちろんやらないよりはやったほうが良い。そうして仕事着に着替えて、出発。父親は炬燵テーブルの天板の上に胡座で乗って本を読んでいた。たぶん藤沢周平だと思う。
  • 空気は冷たかった。もうだいぶ伸びた前髪による防護の隙間をかいくぐってくる風が、額を明確に冷やす。近所のどこかで犬が何度もくりかえし鳴いていたのだが、一応わぅーん、という感じに聞こえるその声が、細くながく甲高く、嘆きの調子そのものといった声色で、歌舞伎役者の演技のときの声をちょっと思わせた。なぜあんなにも、悲しげ、と人間だったら感じるほかはない声でくりかえし鳴いていたのか。
  • 坂道に入ると、今日は無音ではなく、鳥の声がいくつもまだ散っている。四時半である。普段はこれよりいくらか遅くて五時一〇分頃にここを通る。四時半だとまだ空にあかるさが結構残っているから、鳥たちも活動を続けているのだろうが、ここから三〇分ほどのあいだにたぶんもう塒に帰って大人しく休み、鳴くのをやめるのだろう。林の枝と梢の葉っぱが織りなす網目によってモザイク状のこまかなかけらとなった空には、西陽の赤味がまだ浮かんでいるところがあって、葉の緑と陽の朱色とがつぶつぶと接し合ってちらついている。
  • 最寄り駅に着くとちょうど電車が入線してきたところで、まだ二分ほどあったから大丈夫だとは思っていたが、それでも一応急ぐ心になり、階段通路をややせわしなく登り降りして電車に乗った。マスクをつけて着席。しかし、するといましがたちょっと急いで動いたばかりだから、息がけっこう苦しくて呼吸がおのずと大きくなる。そうしているうちに思ったのだけれど、呼吸に使う筋肉をストレッチしたり鍛えたりしたことはないなと気づいた。というか昔、つまりパニック障害に苛まれた時期には、呼吸をゆっくり深くすると自律神経が調うとかいうよく聞かれる話にもとづいて、呼吸法の類を色々調べ、なかには吐ききった状態あるいは吸いきった状態で数秒止まるのが良いとか主張しているものもあったから、とりわけ吐いたところで止まるという方式はけっこうやっていた時期もあったのだが(ヨガはたしか基本的には吐いたところで二、三秒止めるやり方を取ると聞いたような記憶がある)、いつからかそういったことはまったく気にしなくなり、瞑想をするにしてもとにかく力を入れず意思的なコントロールを働かせず能動性を殺すということだけが旨となった。しかし、筋肉を温めてやわらげるという観点から行くと、吐くにせよ吸うにせよその極の状態で静止するというのは、いまこちらがやっているストレッチで筋を伸ばした状態で停まって肉が柔らかくなるのを待つというのとだいたいおなじことであるわけで、そういう訓練もまたちょっとやってみても良いかもしれないと思った。ただ、呼吸をあまりいじりすぎると結構心身への影響が大きいというのは体感的経験的に理解しているから、そんなに熱心にやらないほうがたぶん良い。
  • (……)駅に着いて降り、ホームを行く。線路をはさんで向かいの小学校の校庭で、地から水の、白く太い帯状の流れが斜めに放射されていた。スプリンクラーというか、自動水撒き装置みたいなやつだろう。その校庭の、駅から見て正面にあたる、つまりこちらからすると一番近い辺となる横に長くひろい端のあたり(そのすぐ手前には高いフェンスもしくはネットがある)には、色々と木が立っているのだが、そのなかの一本が紅梅のようで、すでに枝に強いピンクの色をいくらか塗っていた。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)くんが、すくなくとも中学校を卒業するまで、ことによると高校を卒業するまでは、いまの職場を辞められないな、彼の道行きに付き合っていかないといけないなという心になった。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 先日、結局のところ生徒と仲良くなってなついてもらうのが顧客を存続させるための最たる手段であり、一応経営方面に微量ながら貢献するための可能な方策であるというごくごく当たり前の結論に至ったわけだが、そのためには普通に考えて、生徒とより話すようにすれば良いわけである。話題は何でも良いと思う。あまりにも常軌を逸したものだったり、相手を不快にしたりしなければ、勉強のことだろうがその他のことだろうが何でも良くて、ただ言葉と表情と声と身振りと意味を交わす時間を取れば、多少なりとも人間の関係というものは結ばれる。そのようにしてできた基盤が敷かれていれば、授業もよりやりやすくなる。そういうわけで、もう帰るのを急がずに、授業後の時間は基本的に生徒をきちんと見送ったり、いくらか話したりするのに使おうかなと思った。やはり信頼が肝要だ。経営への貢献などということは、むろん大方こちらにとってはどうでも良いことだ。それよりも、生徒からの信頼をいくらかなりとも獲得し、なんらかの学びを彼らにあたえることができたなら、そちらのほうがよほどすばらしいことではないか。べつにそれを殊更頑張って目指さなくとも良いが、そうできるかできないかだったら、できたほうがどちらかと言えば良い。世間的に見てあまり立派とは言えないかもしれないが、一応それなりにものを考えながら生きている年上の人間として彼らに対し立ちあらわれたいという気持ちはある。一〇代の若人にとって、ともかくも周囲の人間にきちんと受け止めてもらい、対峙してもらったという経験は、それがあるとないとではたぶん結構変わってくると思う。つまり端的に言って、生徒たちにとってクソみたいな主体として現前したくない。
  • 一〇時過ぎで退勤。急いで駅に入って乗車。最寄り駅で降りて帰路。木の間の下り坂を行っている途中で、思考もしくは勤務時の記憶に没入していることに気づき、気づくとともに今現在の目の前の空間に意識が行って、木々や暗闇が視覚にはっきりあらわれてきて、覚めたという感じがあったのだが、しかし瞬間同時に、覚めたとは言ってもだからと言ってこの現実もしくは現在があまり現在らしくもないというか、たしかに現実であり現在であるには違いないが、あまり現在という感じもしないなあみたいな感覚もあって、それはべつにいわゆる離人感とか非現実感とかではないのだけれど、これが実在かというとそうでもないだろうみたいなところがあり、荘子じみた話になるけれど夢や記憶や思考から覚めたその先がまたべつの夢や記憶や思考であるということもありうるだろうというありがちなことや、今現在を離れた記憶や思考のほうが実在的に、リアリティを帯びて感じられることだってあるだろうというようなことを考えた。そういうことを思っただけで、それ以上だからなんだということは何もない。
  • それで夜道をゆっくりしずかに行くと、歩を進める拍子に揺れるからだの動きや、まばたきの都度に、正面奥に灯っているいくつかの電灯が、真っ白でやわらかく伸び縮みする光の針を、顔や瞳に向けて慕うように放ってきてはまた離れていく。周囲は無音である。ただ、響きはある。左方は林だが、身に触れるものは何もないのにそのなかではもしくはその上の梢あたりでは微風が流れているらしく、しずかに籠った、音ではなくて響きが確かに伝わってくるし、右方の家並みをずっと越えて下っていった先には川があるので、その水の響きも午後一〇時のクリアな暗闇のなかを渡ってくるようだ。家のそばまで来て林のほうを見上げれば、木々のならびは大方黒い壁となっているが、その前、林縁付近に立っている裸木の二つ三つは黒影を背後にその枝ぶりを幻影じみて浮かび上がらせており、そこに街灯の光が、距離をはさんでいるから減退して薄く延べられつつも、やはりフィルターをかけるようにして夜の事物を煙らせ、またこもらせている。
  • 帰宅して自室でメルヴィルを読む。昨晩眠る前、そしてこの日の昼間にもボールを踏んだので、脚の感じやからだの感覚に余裕があり、二〇分ほど読んだだけで、一一時で食事に行くことができた。食事中にかんして特に印象は残っていない。そのまま入浴すると、まずい茶がなくなったので隣の(……)さんにもらったという「(……)」の「(……)」という品を新たにあけて茶壺に入れた。用意して自室に帰ると、その後は日記を書いたりだらだらしたりメルヴィルを読んだり。そのほかにそういえば、久しぶりに詩に取り組んだ。なぜだかわからないが書きたくなったので。詩というか、行替えをはさみながら言葉とイメージをつなげるだけのことなのだが、「(……)」からはじまるやつの序盤を改稿した。一応、仮に1番としておく。前のかたちは消してしまい、その当時の日記を探らなければ提示できないが、改稿後はとりあえず以下のところまで。三七分だけ取り組んだ。

 (……)

  • それでメルヴィルを読み進めたあと、三時四五分に消灯。また遅くなってきている。

2021/1/17, Sun.

 (……)あの時、私はかなりの勇気をふるい起こして、死を待ちながら、ありとあらゆること、人間が経験しうるすべての体験をしたいという刺すような希望を抱いていた。そして自分の前半生を呪っていた。わずかのものを、不十分にしか利用できなかったと思えたからだった。時が指の間からすり抜け、もう止められない出血のように、体から刻一刻と逃げ出しているように感じられた。(……)
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、212; 「10 金」)



  • 久しぶりに正午を越える時刻まで寝坊してしまった。よろしくないことだ。夢をいくつか見たのだが、最後に見ておぼえていたのは、「(……)」の人々と通話をしているかあるいは実際に会っている場にいながら、話をまったく聞かずにひたすらギターを弾いているというもの。夢のなかでギターを弾きながら、指の動きに正しく応じたメロディが現実と同様に聞こえたというのはどういうことなんだろうなと思ったが、その場で頭のなかでやってみたところ、すくなくともペンタトニックを基調とした範囲だったら、仮想的な指板上のポジションに応じて頭のなかでメロディを流すことが普通にできたので、何も不思議なことはなかった。
  • 上がっていき、焼きそばと汁物で食事。どこかに行っていた父親が帰ってきてトイレに行ったあと、台所で母親と行き会うと母親のほうが、手洗ったのとかなんとか言って、それに洗ったと父親が応じながらも母親はさらにたたみかけるようにして、つまり彼女はたぶんコロナウイルスに気をつけて洗面所で石鹸を使ってしっかり洗ったほうが良いと言いたかったのだと思うのだけれど、それで父親が苛立って、あんたはトイレ行ったら手洗わないの? とかなんとか声を荒げる場面があった。父親が大きな声を出したり、怒りの情をあらわにしたりすると、こちらは正直ビビるところがある。父親に限らず怒りの情が発露される場面に立ち会うとたぶんいつでもそうではないかと思うし、昔は実際そうだったという記憶もあるのだが、とりわけ父親が母親に対して怒りを表出する時空を共有するとビビる。ビビるというのは、緊張するとか、不安を感じるとか、胸か腹の奥になにかしらうごめくような収縮するような異物感とストレスを明確におぼえるということだ。つまり端的に言って、恐怖の感情、怖いという心的作用である。三十路も越えていながら情けない、嫌な話なのだが、こちらの心にはたしかにそういうところはある。最近、他人の怒りや高圧性を目撃するのはもっぱら父親にかんしてのみなので、ほかのひとのそういう振舞いに接したときにどう感じるかわからないが、やはり父親の言動に対したときがそういうビビリをおぼえる度合いが一番強いのではないかという気がする。こちらが父親のそういう振舞いに強くおぼえる不快さと嫌悪感と軽蔑というのは、直接的にはたぶんそういう恐怖の埋め合わせというか、その反動ではないかと推測するのだが、ここにはやはり、オイディプス・コンプレックスとやらがマジでかかわっているのかなあと思うところだ。実際、ここ一年か二年くらいのあいだに勃発しているこちらと父親のあいだの悶着というのは、父親が母親を抑圧するのに接して不快感をおさえきれなくなったこちらが物を申すというかたちで生じているわけで、非常にひらたく換言すれば、母をいじめる父に対して子が母をいじめるなと勇気を奮い起こして立ち向かうというかたちになっているわけで、それにもうすこし解釈をほどこせば、母を独占的に所有して思うがままに権威と力を振るう父から母を奪い取って自分のものにしようとする欲望のあらわれということになるはずであり、これはすさまじいほどにオイディプス・コンプレックス理論の典型構図だろう。なぜ自分がフロイト理論の有力性を実証するような立場を演じてやらなければならないのか、マジで嫌なのだけれど、あとは生育環境として、母親やほかの人間からはともかく、父親からは叱られたことがあまりなく、叱られたときはいつもそれが激しいような度合いの出来事だったということが影響しているのではないか。こちらが子どもの頃、父親はいつも遅くまで勤務していたので、そんなに密に時空を共有するということがあまりなかったのだ。だからもっぱらその権威性のみがこちらのうちに刷りこみされているということもあるかもしれない。で、父親自身もそういうことは過去に漏らしており、つまりこちらの祖父にあたる(……)じいちゃんは、というか、おそらく自分が子どもの頃は父親というものは一般的に、怖いような存在で、卓を囲んで飯を食っていても話しかけるなどできなかった、ということを以前語っていたことがある。だから父親自身もその父親の権威によって抑圧されて育ってきた。そして自分の連れ合いである女性を多少なりとも抑圧し、息子であるこちらがそれに対して反抗を見せると怒り、抑圧する。そういう反復だろう。また、恐怖の情の来たるゆえんについてもうひとつ言えば、いまだに生計を実家の基盤に全面的に頼っている身だから、そこから来る負い目の情みたいなものもたぶんあるだろう。労働主体もしくは社会的主体としての経済的自立性の欠如が、いくらかは精神的自立性(自律性)のほうにも影響しているのではないか。
  • 新聞からは書評面を読んだ。苅部直が先日、二〇二〇年の一番の収穫として挙げていた松沢弘陽『福沢諭吉の思想的格闘 生と死を超えて』を紹介していた。岩波書店の本で、九五〇〇円もする。この松沢という人は一九三〇年生まれとあったからもう九〇歳で、丸山真男に師事していたらしい。その上には、正確な情報を忘れたけれど、原理主義的なモルモン教徒の家庭に生まれて父親や兄から暴力を受けてきた女性が、大学に行って教育を受けものを学ぶことで、彼らの心理的・実態的影響から解放されたという内容だという自伝の紹介。苅部直の欄の下の記事も読んだと思うのだが、なんだったか忘れてしまった。
  • 風呂を洗って帰室し、コンピューターを用意すると一時二〇分から昨日のことを記述。しかしたぶん本当は、椅子に就いて文章を書くより前に、ボールでも踏んで脚の血流を促進したほうが良いんだろうなと思う。とにかくからだと肉を調えることを最優先にしたほうが。日記をまず書くというのは、飯を食ったばかりで柔軟がしにくいから、腹がこなれるまでのあいだ待っているという面もあるのだが、その時間もなんらかの調身に費やし、からだをなめらかに調えてから活動に入ったほうが良いんだろうなとは思う。しかしともかくこのときは一時間ほどで一六日の文章を仕上げてしまい、投稿した。gmailを見ると(……)さんから返信が入っていて、誕生日などクソどうでも良いと言ったのだが、すでに何か「ええもん」を注文してくれたという。ありがたい。去年もらったジョルジュ・ディディ=ユベルマンの『イメージ、それでもなお』も読みたい。
  • そうして調身へ。なぜかわからないがThe Beatlesの"I Saw Her Standing There"と"Misery"が頭のなかに流れていたので、『Please Please Me』を流した。むろん曲にもよるのだけれどPaul McCartneyのベースってかなりよく動くし、動き方としてはゴリゴリしているようなときもわりとあり、音色としては軽快で、やや腰が軽いと言ってしまいたいような気もして、あまり重くしていないと思うのだけれど、これでトーンを変えてもっとハードにしたら、John EntwitsleかChris Squireあたりにかなり近くなるのでは? と思うことがある。ロックバンドのエレキベースとして、けっこう特異なほうのプレイヤーなのではという気がする。たぶんこの時点だと後年のこちらが前提するようなロックミュージックのベースの雛型がまだできていなくて、Paul McCartneyもR&Bとかソウル系とか、そういう方面から学んだのではないかと推測するのだけれど、それでそういう風に感じるのかもしれない。#5 "Boys"でエイトビートをブ、ブ、ブ、ブと連打しているときとか、ずいぶん一音一音が際立ってはっきり輪郭を持っているなと思った。あとRingo Starrのドラムもあらためて聞いてみると、"Please Please Me"の演奏など普通に格好良いし、サビの反復的な推移のなかに差しこむスネアのちょっとした連打など綺麗でなめらかである。たしか彼本人は、"Rain"の演奏が一番気に入っていると言っていたとかいう情報をどこかで見かけたような記憶がないでもない。
  • The Beatlesというグループは、こちらが一〇代だった二〇〇〇年代のはじめのうちくらいまでは、たぶんまだその名を知らない人間は世界にほぼいないし、名前を知らなくともその音楽を耳にしたことがない人間はまず存在しない、というような、英国発の普遍的・伝説的なバンドというイメージや雰囲気をかろうじて保っていたような気がする。こちらがThe Beatlesをはじめて意識的に聞いたのは、中学の一年か二年のとき、同級生の(……)という、聖教新聞売店の息子だった男子から真っ赤なジャケットのベスト盤CDを借りたのがきっかけで、お返しに当時聞きはじめていたVan Halenの黒いジャケットのベスト盤の四曲目に収録されていた"Dance The Night Away"を、たぶんこちらの自室でだったと思うが聞かせたら、「声がゴツい」と言われて残念ながら気に入られなかったという話は以前も書いた。ほかにも、中学校の英語の教師だった(……)先生という女性が、たしか授業内でThe Beatlesを聞かせて英語の表現を勉強するという時間をちょっと取っていたようなおぼえがある。彼女はまた、当時たしか月曜九時のドラマ『プライド』が流行っていて、その主題歌にQueenの"I Was Born To Love You"が使われて人口に膾炙していたからだと思うが、あの曲、すごい歌詞だよねえ、あなたを愛するために生まれてきたっていうんだからねえ、と笑いながら授業中に漏らしていた記憶がある。余談になるが、中学三年生のときの担任だった(……)という、当時おそらくまだ三〇前後だったのではないかと思われる鳥取出身の若い男性教師(国語担当)はハードロックの類が好きで、こちらもたまにそのへんの話をしていたし、特にLed Zeppelinの"All My Love"(だったと思うのだが)の歌詞が一番好きだという話をいつかのホームルームで表明したことがあったはずだ。こちらが何かのときに、昼休みか放課後に、なぜか教室にあったクラシックギターを爪弾いて、俺はギターが弾けるんだぜという優越感を無言のうちに周囲に対してアピールしていたところ、そのとき弾いていたOzzy Osbourneの(というかRandy Rhoadsの)"Dee"について、手のひらきがきついけれどやはり小指で下のG音をしっかり押さえてアルペジオしなければ、みたいなアドバイスをくれたというエピソードも以前に記した。で、さらに、音楽の教師は(……)という、眼鏡をかけて灰色がかった髪をちょっとうねらせたような、いまから思えばたしかにクラシックの音楽家っぽいような髪型の先生だったのだが、このひとが音楽の授業中にKeith Jarrettの『The Koln Concert』を流したことがあったという話もやはり以前書いた。こちらがKeith Jarrettの演奏を耳にしたのは、まちがいなくこのときが生まれてはじめてである。そのとき流れたのが『The Koln Concert』だったというのがなぜわかるのか、なぜその固有名詞を同定できるのか? と考えるとちょっと自信がなくなるのだが、Keith Jarrettだったことはまちがいないし、ソロピアノであったこともまちがいないし、Keith Jarrettの独演で一番著名なものといえばやはり『The Koln Concert』だし、おそらく確かだろう。たぶんそれ以降、高校や大学の時期にジャズを聞くようになって『The Koln Concert』を知ったときに、これ中学のときに流してたやつやんと気づき、記憶が固まったのだと思う。(……)教師にかんしてはもうひとつ、廊下で一学年下の男子と話しているところに通りがかり、The Rolling Stonesがどうとか交わしているのを一瞬だけ聞いたという記憶が残っている。もちろんそのときこちらは、The Rolling Stonesならこちらも知っているから話に加わりたいという承認欲求をおぼえつつも、素通りした。知っていると言ったところで、(……)が持っていたライブ盤を一枚、やつの家でちょっと耳にしたことがあった程度で、"Jumpin' Jack Flash"と"(I Can't Get No) Satisfaction"をかろうじて同定できるくらいだったと思うが(そしていまもそこからさほど変わっていない)。こうして記憶を思い返してみると、意外と中学校でかかわりを持った大人たちは音楽にかんしてはおのおの悪くない知識や出来事をこちらにあたえてくれたな、と思う。とりわけ(……)氏がたまに授業中に音楽を流してじっくり聞くという時間を取ったのは価値あることだったと思う。もちろんせいぜい流行のJ-POPか童謡くらいしかそれまで耳にしたことがなかったそのへんの中坊にKeith Jarrettだのクラシックだのを聞かせたところでわかりはしないし、真剣に聞いているやつなどさほどいなかったはずだが、それでもそのときともかくもなんらかの反応はおのおののうちに発生したはずだし、現にこちらはこのようにしてそういう時間があったということ自体は記憶しているわけである。彼は、自分の音楽の授業は、ともかくも君たちが将来、そんなにうまくはなくとも、人前で一曲歌を歌えるくらいの度胸を身につけさせるのが目的だ、と言っていたが。Keith Jarrett以外には、スメタナの"モルダウ”とラヴェルの"ボレロ"も流したときがあったはずだ。
  • 余談に逸れたが、こちらが子どもの頃はまだしも生き残っていたように推測されるThe Beatlesの普遍性と伝説性が、たぶんいまはもう完全になくなっているのだろうなと思った、というだけの話だ。端的に言って、いま職場の中学生たちにThe Beatlesという名前を出しても、おそらく知らない生徒が多いのではないかと思う。そういうことを考えつつ『Please Please Me』の流れるなかで柔軟をしていたのだが、アルバムが終わってそのまま『Revolver』に入り、冒頭の"Taxman"を聞いたところ、これが格好良かった。ベースもずいぶんすばやいし、ちょっと電子風味が入ってぐしゃっと潰れたようなギターの音色も良いし、それらの楽器に比して歌が、音域にしても歌い方にしてもあまりハードさや熱を持たずに気だるいような雰囲気を帯びているのも良い。
  • 一時間弱柔軟した。昨日だか一昨日だかに書いた通り、左右に上体をひねる運動をくわえた。これもやはりやったほうが良い。そこからふたたびデスクに就いて今日のことを書き記し、現在時まで追いつかなかったが、五時を回ったところで切って上階に行った。台所に入って手を洗い、大根の葉を炒めるというので、焼豚とカニカマをこまかく切り、胡麻油でもってソテーした。油というものが調理などに使えるぞということを最初に発見した人間はすごい。なんでもそうだが。とりわけ、胡麻だとかなんだとかから油というものが取れるぞということに、どうしたら気づくのかわからない。というか、そもそも胡麻ってなんやねん。なぜ胡麻などというものに着目して食用にしたり油を取ったりしようと思ったのか。
  • そのほかスンドゥブをつくるのをちょっと手伝い、洗い物をして、茹でてあったほうれん草を絞って切ると、まだ六時前で米も炊けていなかったし、いったん下階に帰った。今日は八時から通話。したがってその時間にいたると音読はもうできなくなるので、それまでにいくらかなりとも声を出しておきたかったが、今日の日記も記してしまいたかった。記述はThe Beatlesの普遍性から逸れた余談の途中まで来ており、あともう書くことはそんなにないだろうということで、書き物を先にやることに。それで五時四五分から三〇分でここまで記して、現在、六時一六分に至っている。ともすれば、というか、普通に書いているとやはり忘れてしまうというか、指の動きがはやくなったり、心身が性急になったりする。打鍵と書記においてしずけさとつつましさとひろい視野を保ちたい。
  • それから「英語」を音読した。三五分間。のち、食事。食事中のことは特におぼえていない。ニュースで阪神淡路大震災から二六年という話題が流れたことだけ思い出した。コロナウイルス騒動下でもこれだけはやらなければならないということで、式典の類が多少おこなわれたようだ。炬燵テーブルに入った母親は、ニュースに合わせてひどかったねえと漏らし(おそらく道路が崩壊した様子など思い起こしていたのではないか)、映像内で黙祷がなされるのに合わせて自分も顔の前で手を合わせ、目を伏せて拝むようにしていた。その後、なんとかいう、大震災を伝えるための歌というか、震災で生徒を失った小学校(だったと思うのだが)の教師が失意のなかで、しかしおそらく希望をこめて作曲した合唱曲について報道された。たぶん普通にかなり有名なもので、父親など合わせてメロディを歌えるくらいだったのだが、こちらは全然知らなかった。この作曲者の教師はこの春で定年をむかえると言う。
  • 自室にもどると七時半頃。八時から通話なのでもうさほど猶予はない。(……)へのメールを作成した。時間が来る前に、なんとか以下のように完成。

(……)

  • 携帯のほうに来たメールには、何かホワイトボードアニメだというURLが付されていて、もはや旧時代の遺物となりつつあるガラケーではそれをひらけないので、わざわざパソコンでURLをカチカチ打ちこんでみたところ、「(……)」のサイトにあるものだった。(……)としてはたぶん、できればこちらを入信させるか、そこまで行かなくとも聖書の教えをひろめたいという頭があるのだろうが、こちらはいまのところ、新興宗教であれ伝統的な普遍宗教であれ、なんらかの既成の信仰に帰依するつもりはない。だからと言って、(……)と話したり交流を持ったりするのを嫌がったり拒否したりするほどの不都合はいまのところ特にない。
  • そうして八時過ぎから隣室で通話。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)通話は零時頃終了した。それから入浴。出てからいくらかだらだらして、二時から(……)さんへの返信を綴った。兄からも誕生日祝いのメールが来ているのだが、そちらに返事を書くのはそこそこかかりそうなので、まず短く来ていた(……)さんのほうに返しておくことにしたのだ。二〇分で以下のように仕上げる。

(……)