2019-10-01から1ヶ月間の記事一覧
(……)私は他人の代わりに生きているのかもしれない、他人を犠牲にして。私は他人の地位を奪ったのかもしれない、つまり実際には殺したのかもしれない。ラーゲルの「救われたものたち」は、最良のものでも、善に運命づけられたものでも、メッセージの運搬人…
おまえはだれか別の者に取って代わって生きているという恥辱感を持っていないだろうか。特にもっと寛大で、感受性が強く、より賢明で、より有用で、おまえよりももっと生きるに値するものに取って代わっていないか。おまえはそれを否認できないだろう。おま…
(……)あなたはなぜそれをしたのか? あなたは犯罪を犯していたことを知っていたのか? この二つの質問への答え、あるいは同様の質問への答えは、非常によく似ている。それは尋問される個々の人物には関係がない。たとえそれがシュペーアのように、野心的で…
ナチの抹殺収容所に関する初めての情報が広まりだしたのは、要の年となった一九四二年のことだった。それは漠とした情報だったが、中身は一致していた。それは非常に大規模で、恐ろしいほどに残虐で、複雑な動機が絡み合った大虐殺を大まかに描き出していた…
ここまでくれば、民主主義とポピュリズムの主要な差異が明らかになっただろう。民主主義は、マジョリティが代表に権限を与えることを可能にする。その際、代表の行動は、市民のマジョリティが望んでいたものと一致したり、一致しなかったりする。他方でポピ…
端的に言えば、ポピュリズムは民主主義的なプロセスを捻じ曲げるのである。そして、もし政権与党が十分なマジョリティを手にすれば、新しい憲法を成立させることができる。その憲法は、人民の手から国家を奪ったとされるポスト共産主義エリートやリベラルな…
さて、「非リベラルな民主主義」とは、必ずしも矛盾した言葉ではない。一九~二〇世紀を通じて、ヨーロッパのキリスト教民主主義者の多くは、「非リベラル」を自称していた。実際、もし彼らの頑強な反リベラリズムに異論を唱える者がいたとしたら、彼らは気…
繰り返しになるが、国家の植民地化、大衆恩顧主義、差別的法治主義は、歴史上の多くの場面で見られる現象である。しかし、ポピュリスト体制のもとでは、それらは公然と、また怪しいところだが、汚れのない道徳的な良心に支えられて、実践される。それゆえま…
非ポピュリスト的な政治家は、選挙演説の際に、単に一派閥のために語ろうとはしない(とはいえ、語る者たちもいる。少なくともヨーロッパでは、しばしば党名が、小自作農やクリスチャンのような、ある特定のクライアントを実際に代表するつもりであることを…
(……)それにしても、もし彼らが人民の唯一の正統な代表だとすれば、どうしてポピュリストがまだ政権についていないということがありえるのだろうか。そして、彼らが権力を獲得したら、誰が彼らに反対することなどできるのだろうか。この点は、ポピュリスト…
一九六〇年代末に遡ると、「ポピュリズム」という言葉は、脱植民地化をめぐる論議、「小農主義(peasantism)」の将来に関する推測、そして、おそらく二一世紀初頭のわれわれの視点からは最も驚くべきことだが、共産主義全般、とりわけ毛沢東主義の起源と発…
(……)わたしは、ポピュリストとしてカウントするためには、エリート批判[﹅6]は、必要条件ではあるが十分条件ではないと論じる。さもなくば、たとえばイタリアやギリシャやアメリカ合衆国の現状を批判する者は誰でも、定義上ポピュリストとなるだろう。そし…
(……)[ナイジェル・]ファラージ[イギリス独立党の党首]は自分の力でブレグジット(Brexit)を成し遂げたわけではない。「離脱」を現実のものにするには、ボリス・ジョンソンやマイケル・ゴーヴのような保守党の協力者が必要だった――そして、おそらく後者…
トランプがしたように、あらゆるポピュリストは、「人民(the people)」と、利己的で腐敗したエリートとを対置する。しかし、権力者を批判する者が、みなポピュリストというわけではない。真にポピュリストを特徴づけるのは――これが本書の主たる論点だが――…
先端的なテクノロジーの変遷はあったにせよ、人文学は「全体性」について思考をめぐらせてきました。あるいは、「不在」なり「欠如」なりを考えてきた。そこにこそ存在意義もあった。にもかかわらず、人文学系の研究者たち自身がその思考をみすみす手放そう…
小説の風景描写や対物描写がまどろっこしくて邪魔だと考える読者はいまでは少なくありません。それどころか、小説家自身が描写を回避したり、そもそも描写ができなかったりするケースも増えています。地の文は斜め読み程度、会話部分だけを拾って読む読者ま…
大澤 研究者だけではなく、社会人にも必要な能力ですよね。資料を読み込んで、穴を発見し、代案を提出する。あらゆる現場で要求されます。かりにそれを文系的な教養といってみてもいい。もちろん、理系は理系で、仮説を立てて、実験によってそれを検証してい…
吉見 大学は国民国家よりも出版よりも古い歴史をもっています。けれど、じつは国民国家の成立期に、大学は出版ほど重要な役割を果たしませんでした。むしろ、死んでいた。国民国家が確立してから、それに支えられて復活した。ですから、大学はもう一度、死ぬ…
大澤 六〇年代の学生運動といっても、六〇年安保闘争と六〇年代後半の全共闘運動では教養をとりまく状況はずいぶんちがう。 竹内 それこそ六〇年安保世代は政治的な教養主義が台頭した時期で、実際に理論闘争をしなくてはならなかったから、学生たちは本をよ…
竹内 大正末年の旧制高校教授の六割もが帝大文科出身者となりました。哲学専攻の者が引く手あまたになり、「哲学景気」ともいわれた。大澤さんの「元手なしの野心」説につなげていえば、教養景気というか、教養がメジャーになったことも大きかったと思います…
大澤 限定的な階層だけが身につけられた江戸期の教養と異なって、明治期以降は、出自を問わず教養をインストールすることが原理的には可能だった。そこが新しい教養主義の最大の特徴です。さらに、それをフックに社会的な地位の上昇が可能になる。 竹内 その…
鷲田 介護でも保育でも、原発でも難民でも差別でも、われわれが直面している問題の大半は答えが出ません。少なくとも一義的なソリューションはありえない。そこで、「問題」と「課題」をわけて考える必要があるんじゃないでしょうか。ここでいう問題は解決さ…
さらに詩「花であること」の初出が一九六五年五月であることを考えると、石原がライナー・マリア・リルケの詩「薔薇の内部」の原文あるいは翻訳に触れていた可能性もある。一九六〇年代は日本でもリルケがよく読まれていた時代であったが、それ以上に花の内…
悪意 異教徒の祈りから 主よ あなたは悪意を お持ちです そして 主よ私も 悪意をもっております 人間であることが そのままに私の悪意です 神であることが ついにあなたの悪意で あるように あなたと私の悪意のほかに もう信ずるものがなくなった この秩序の…
真夜中、だれかがたしかに起きてる 失いつづける波打ち際で、両手をひたし ほとんどみつからない やさしい言葉を掘りだそうとして でも満ち引きは わずかにきっとベッドのなか 首筋に鼻をこすりつけ さんざん爪でさわりあった、すべての二人の やわらかな悲…
ここにあるものと、ありえたもの、その 揺らぎに身体ごと奪われる だれかがいつか忘れていった声に ふるえる瞬間がある 蛍光色でさけぶ 汚れたアルファベット 下が透けて見えるわけじゃない、ただ なんども消すことで、たしかに、ほんの少し 分厚くなった (…
ちがう ぼくが言う くだけちったガラス あらゆるものが萎れるんだ ほんとうに宇宙は なにもない 一人の女から産まれて ここにいる それじたいが 暴動だ (岡本啓『グラフィティ』思潮社、二〇一四年、7; 「コンフュージョン・イズ・ネクスト」) * 地上の紫…
私は『邂逅』を、かならずしも「文学的に」読んだわけではない。シベリヤから帰って三年目の私は、およそ文学的にものを読める状態ではなかった。私にとって、自由と混乱とは完全に同義であり、混乱を混乱のままでささえる思想をさがし求めていた。たぶんそ…
詩は不用意に始まる。ある種の失敗のように。詩を書くいとなみへ不可避的につきまとうある種の後悔のようなものは、いわばこの不用意さに関係しているのかもしれない。 私たちはことばについて、おそらくたくさんの後悔をもっていると思う。私たちが詩を書く…
私にとって最も重大な感覚は疲労である。疲労においてこそ、私は明晰であることができた。「労働とはつねに肉体労働だ。精神労働というものはない」という一友人の言葉は、今なお私には有効である。私は疲れつつあった。疲れることにおいて、かろうじて安堵…