2019-09-01から1ヶ月間の記事一覧
囚人にとって、およそ不幸な[﹅3]過去というものは、ありえない。すべての囚人にとって、過去は絶対に幸福でなければならない。このことは、囚人の見る夢が、例外なく過去の夢であり、例外なく幸福な夢であることからもわかる。彼らにとって幸福とはなにか。…
私は戦争が終った昭和二十年の冬から、昭和二十八年の冬まで抑留されて、その期間のほぼ半分を囚人として、シベリアの強制収容所で暮した訳ですけれども、実際に私に強制収容所体験が始まるのは帰国後のことです。と言うのは、強制収容所の凄まじい現実の中…
ただ私たちには、うしなうということは奪われることだという、被害的発想がげんとしてあります。失語というばあいでも、それはおなじです。しかし、ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばに見はなされるのです。ことばの主体がすでにむなし…
(……)強制収容所という場所は、外側からは一つの定義しかないが、内側からは無数の定義が可能であり、おそらく囚人の数だけ定義があるといっていい。私なりに定義づければ、そこは人間が永遠に欠落させられる、というよりは、人間が欠落そのものとなって存…
私は八年の抑留ののち、一切の問題を保留したまま帰国したが、これにひきつづく三年ほどの期間が、現在の私をほとんど決定したように思える。この時期の苦痛にくらべたら、強制収容所でのなまの体験は、ほとんど問題でないといえる。苛酷な現実がほとんど一…
[一九五〇年]十月のなかば、私は所内の軽作業にまわされていた他の数人とともに、ハバロフスク郊外のコルホーズの収穫にかり出された。ウクライナから強制移住させられた女と子供ばかりのコルホーズで、ドイツ軍の占領地域に残ったという理由で、男はぜんぶ…
死は、死の側からだけの一方的な死であって、私たちの側――私たちが私たちであるかぎり、私たちは常に生の側にいる――からは、なんの意味もそれにつけ加えることはできない。死はどのような意味もつけ加えられることなしに、それ自身重大であり、しかもその重…
ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死[﹅8]がないとい…
そこへゆこうとして ことばはつまずき ことばをおいこそうとして たましいはあえぎ けれどそのたましいのさきに かすかなともしびのようなものがみえる そこへゆこうとして ゆめはばくはつし ゆめをつらぬこうとして くらやみはかがやき けれどそのくらやみ…
どんなおおきなおとも しずけさをこわすことはできない どんなおおきなおとも しずけさのなかでなりひびく ことりのさえずりと ミサイルのばくはつとを しずけさはともにそのうでにだきとめる しずけさはとわにそのうでに (谷川俊太郎『夜中に台所でぼくは…
干潟はどこまでもつづいていて その先に海は見えない 二行目までは書けるのだが そのあと詩はきりのないルフランになって 言葉でほぐすことのできるような 柔いものは何もないと分ったから ぼくは木片を鋸で切り 螺子を板にねじこんで棚を吊った これは事実…
さらけ出そうとするんですが さらけ出した瞬間に別物になってしまいます 太陽にさらされた吸血鬼といったところ 魂の中の言葉は空気にふれた言葉とは 似ても似つかぬもののようです おぼえがありませんか 絶句したときの身の充実 できればのべつ絶句していた…
金は木の葉に変るといいと思うよ 全部じゃなくて半分くらい そしたら木の葉を眺めて 一日中ぼんやり座っていられる (谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』青土社、一九七五年、17; 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」; 「5」…
飲んでるんだろうね今夜もどこかで 氷がグラスにあたる音が聞える きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに それをまぎらわす方法は別々だな きみは女房をなぐるかい? (谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけ…
水準原点 みなもとにあって 水は まさにそのかたちに集約する そのかたちにあって まさに物質をただすために 水であるすべてを その位置へ集約するまぎれもない 高さで そこが あるならば みなもとはふたたび 北へ求めねばならぬ 北方水準原点 これだけでは…
ひとつの情念が、いまも私をとらえる。それは寂寥である。孤独ではない。やがては思想化されることを避けられない孤独ではなく、実は思想そのもののひとつのやすらぎであるような寂寥である。私自身の失語状態が進行の限界に達したとき、私ははじめてこの荒…
(……)「告発しない」という自分の姿勢について、石原がいちばんまとまった形で語っているのは、講演「沈黙するための言葉」のなかで、おそらくは会場からの質問に答えた部分である(司会者からの質問かもしれない)。そこで石原はこう語っている。 告発しな…
とはいえ、戦後の日本社会はたんに石原らの存在を黙殺し、忘れ去っただけではなかった。逆に「シベリア帰り」として、石原らをマークしつづけた。石原が帰国したのは、まだ「戦後革命」に向かって日本共産党が武装路線をぎりぎり堅持していた段階である。敗…
第二の層の考察の最後に、鳴海英吉『ナホトカ集結地にて』との比較について考えておきたい。というのも、内村剛介が石原論『失語と断念』のなかで、まさしく石原の「脱走」と鳴海の「列」を並べて、鳴海の作品こそは「ホント」、石原の作品は「ウソ」と裁断…
夜がやって来る 駝鳥のような足が あるいて行く夕暮れがさびしくないか のっそりとあがりこんで来る夜が いやらしくないか たしかめもせずにその時刻に なることに耐えられるか 階段のようにおりて 行くだけの夜に耐えられるか 潮にひきのこされる ようにひ…
エスペラントは、一八八七年にポーランドのユダヤ人ルドヴィコ・ラザロ・ザメンホフが発表した「人工的国際語」である。日本では一九〇六年に「日本エスペラント協会」が設立されている。元来エスペラントの運動を満たしていたものはインターナショナリズム…
この地点から振り返って見るならば、あの「葬式列車」という作品もまた不思議なアレゴリーとして立ち現われてくるのではないだろうか。屍臭たちこめる「葬式列車」に詰めこまれていた亡霊たち、それは石原の記憶であり、言葉そのものである、と言うことがで…
なぜ「姿勢」や「位置」をはじめとする言葉が石原の作品においてそのような自己主張を果たすことができたのか。それは、それらの言葉が、そしてそれらの言葉のみが、石原という詩人の体験を忠実に記憶している主体にほかならなかったからだ、と考えることが…
これもしばしば指摘されることだが、難解な石原の作品でも、個々の言葉それ自体はけっして難解ではない。作品「位置」にしてもそうである。難解なのは言葉と言葉の関係である。石原の詩においては、既知の語彙が未知の関係のなかに投げこまれる。その未知の…
本書でその生涯と表現を追いかけてゆく詩人・石原吉郎は、そのような時代に文字どおり翻弄されたひとりである。一九四一年に、ロシア語の特訓を受けた兵士として満洲に渡った石原は、日本の敗戦後、シベリアに抑留されることになる。当時、五七万人あまりの…
たとえAIを人間の心に近づけようと試みても、一体誰の心を基準にしたらよいかが分からないから、そもそも規格が定まらない。もし「朱に交われば赤くなる」のが人の心の常ならば、そんな心を実装して環境に染まってしまったAIは、メーカーが保証することがで…
宮本 それに対してオープンな、絶えず自分を新しくしていくナラティブもいろいろと考えられます。たとえば、死生学の渡辺哲夫さんのような、ナラトロジーのメソッドを用いる精神分析家に聞くと、日本の精神医療では、普通の精神分析医というのは患者さんに容…
宇野 (……)ベネディクト・アンダーソンですよね。要するに近代国家というのは何でできたかというと、ある種言語によって作られたわけです。 中島 国語ですね。 宇野 そう。決して自然なものではなく、むしろ作為的に作り出された近代語によって、その言語が…
宮本 ハーバーマスなんかにとって、民主主義というのは熟議民主主義ですよね。これはやっぱり西洋独自のものだと言う。ほかの文化とか、ほかの地域ではちょっと無理なんじゃないかとは断定しないけれど、要するに、西洋的民主主義というのは西洋だけに育まれ…
宇野 要するに、人間というのは神でもなければ動物でもない。どこが違うかというと、人間は言語を通じて自分たちの仲間と共に暮らすことだというわけです。神は自己で完結しているし、動物というのは群れを作るけれど、それは言葉を通じてではない。人間だけ…