2021/9/11, Sat.

いっさいの〈もの〉の発見は、それが、存在することの時間という、この光――あるいは、この響き――のうちに挿入されることに依存している。〈もの〉はその質において発見されるが、その質は、時間的である体験のうちで発見されるのである。存在が示されること―…

2021/9/10, Fri.

1 いっさいの存在者は、それが存在者であるかぎりでは、〈なにものか〉としての同一性 [﹅3] をそなえたものとしてあらわれる。そのときどきの射映が揺らぎ、対象のアスペクトが変位し、イマージュが移ろったとしても、そのおなじ [﹅3] 〈あるもの〉は変容…

2021/9/9, Thu.

現にある [﹅4] 〈もの〉は、やがて過ぎ去って [﹅5] ゆく。建物はほどなく朽ち果て、樹々は倒れ、石すらも風化する。いっさいは消滅する。時々刻々と同一性を喪失してゆく。すべての〈もの〉がやがてそこへと消滅してゆく次元を(『全体性と無限』のレヴィ…

2021/9/8, Wed.

真理とは「存在の露呈」である(前出)。いいかえれば、「真理」とは「存在がみずからに曝されていること」である(100/122)。これは考えてみれば奇妙なことがらではないだろうか。存在することはなぜ真理であることでもなければならないのか。つまり、存在…

2021/9/7, Tue.

1 一九五一年に発表された小論でレヴィナスは、他者との「共同相互存在」、すなわち「他者と共に存在すること」(l'être-avec-autrui)をも存在論的に了解しようとするハイデガーを批判して、存在論の優位に異をとなえている。さしあたり、この小文の論点の…

2021/9/6, Mon.

この世界のいっさいが、一瞬一瞬、創造と破壊を、生誕と死滅とを反復している。「諸瞬間はたがいに差異なくむすびあっているのではない」(前項の引用 [E. Lévinas, Totalité et Infini, p. 316. (邦訳、四三七頁以下)] )。この [﹅2] いまと他の [﹅2] …

2021/9/5, Sun.

時間は過ぎ去る。忍耐 [﹅2] として生起するこの総合が――それは、深遠にも受動的と呼ばれるのであるが――、老いることである。その総合は、年月の重みのもとで炸裂し、現在から、すなわち再 - 現前化から不可逆的に引き剝がされる。自己意識のうちにあるもの…

2021/9/4, Sat.

2 前項の末尾にひいた引用 [『時間と他者』] にもどる。――レヴィナスは、まず「時間」は「孤立し単独な主体にかかわることがら」ではない、とかたりだしていた。時間がとりあえずはむしろ内面的で主観 [﹅] 的な現象としてとりだされることを前提とするかぎ…

2021/9/3, Fri.

ことこまかに確認するまでもなく、問題はフッサールにあってすでに顕在化していた。現象学的還元によって獲得された超越論的自我は、世界の客観性という問題のまえで、他 [﹅] の我 [﹅] 、つまりおなじく超越論的な、ひとしく・ともに世界の意味を構成する…

2021/9/2, Thu.

「共時性」への執着が「戦争」を生む。他者の共時化への欲望は「闘争」への欲望である。「平和」にあっては、それがたんに「交換と交易」へとかたちを変えるにすぎない(15/20)。――そのように説く文脈で、レヴィナスはつぎのように書いている。とりあえず論…

2021/9/1, Wed.

見てきたように、「原 - 歴史」をめぐるメルロ=ポンティの思考が、つまり「ただひとつの世界に共現前する肉体的諸存在者」(一・2・1末尾に既引)という発想が斥けられるのは、他者と私とはけっして共現前 [﹅3] するものではなく、他者にたいする不可避の…

2021/8/31, Tue.

メルロ=ポンティの《根源的歴史性》は――そこでは、主体とその世界が一箇の世界のうちで集約されるのだが――〈語られたこと〉のうちを動いている。〔これにたいして〕心性あるいは生気をふきこまれることとは、一者と他者のあいだの差異が――しかしそれはまた…

2021/8/30, Mon.

第二の主著『存在するとはべつのしかたで』にあってレヴィナスは、老いてゆく身体の時間性を見つめている。「〈自己に反して [﹅6] 〉(malgré soi)ということが、生きることそのものにおける生をしるしづけている。生とは生に反する生である。生の忍耐によ…

2021/8/29, Sun.

いまや、主体の主体性そのものが、明示的にも一種の〈女性性〉としてとらえかえされることになる。ただし、その〈性的〉な規定を拭いさったかたちでの女性性としてである。そうした女性性をレヴィナスは(それ自体むろん問題なしとしないところではあるが)…

2021/8/28, Sat.

『全体性と無限』にあってもレヴィナスは、「〈私〉の唯一性」についてかたり、そのありかをむしろ、〈他者〉との関係のなかで私が逃れようもなく〈私〉であること、そのゆえに私が無限の〈責め〉を負わされていることのうちに見さだめていた(四・2)。第二…

2021/8/27, Fri.

いわゆる「〈エロス〉の現象学」は、「愛は〈他者〉をめざし、その弱さをめざす」という一文で開始されていた。その現象学が「〈愛される者〉とは〈愛される女〉である」という立場から出発する以上、レヴィナスそのひとの記述は中立的(中性的)なものであ…

2021/8/26, Thu.

〈無限〉である他者と私がなしうることとのあいだ、他者の〈顔〉と私の権能とのあいだには、したがって、ある「障害」があるはずである。とはいえ、現に殺人が日常の一齣でもあるという事実が「障害がほとんどなきにひとしいこと」をもさししめしている。だ…

2021/8/25, Wed.

「自由にとっての最高の試練は、死ではなく苦しみである。憎悪がこのことをよく知っている」(266/369)。そう説いたあとにレヴィナスは、つづけてつぎのように書いている。(end114) 憎悪は、把持不能なものを把持しようとする。そこで他者が純粋な受動性…

2021/8/24, Tue.

〈ふたり〉であって〈ひとつ〉ではありえないことこそが〈渇望〉をうみ、エロス的な関係に養分を提供しつづける。とすれば、性愛は所有を挫折させるだけでなく、殺人をもむしろ禁じている。他者としての「異邦人の顔の裸形は、寒さにふるえ、裸形を恥じる身…

2021/8/23, Mon.

エロス的なものが「把持すること」「所有すること」を、あるいは「認識すること」を意味するならば、さきの設問にたいする答えは「しかり」である [註88] 。愛撫はつまり、必然的に挫折する。〈手〉がどれほどせわしなく、もどかしげに動きまわろうと、手は…

2021/8/22, Sun.

ひとは他者の身体を愛撫するとき、身体の「なめらかさやぬくもり [註85] 」そのものをもとめているのだろうか。一見そのとおりであるようにみえる。ひとはたしかに、じぶんのものではない肌に宿った体温をもとめているのだ。とはいえ、他者の〈肌〉はときに…

2021/8/21, Sat.

レヴィナスは、「愛」に「〈他者〉がその他性を保持しながら、欲求の対象としてあらわれる可能性」を、さらにはまた「〈他者〉を享受する可能性」をみとめている(285/392)。性愛はたしかに、身体の〈贈与〉をふくんでいるようにおもわれる。愛が「享受」で…

2021/8/20, Fri.

嫉妬の結果がかくも均衡を欠くことになりがちなのは、しかし、嫉妬が(第三に)そもそも不可能な情熱に裏うちされ、あらかじめ挫折がさだめられている欲望に発するものであるからではないだろうか。つまり、ある特異な志向的構造をともない、〈ひとしさ〉の…

2021/8/19, Thu.

嫉妬にはさらに、〈正〉しさにかんする特徴的なあらわれがみとめられるようにおもわ(end98)れる。たんにねたむ [﹅3] ものは、ある場合には、じぶんよりすぐれたものがじぶんより多くを所有することを妬み [﹅2] 、あるいはまた、じぶんとひとしいものがよ…

2021/8/18, Wed.

それでは、他者の〈顔〉は私にどのように呼びかけるのであろうか。〈ことば〉は普遍的なものであり、ことばによって世界をものがたるとは「贈与によって、共有と普遍性とを創設すること」(74/104)であった(三・5・B)。他者のことばは、だから、世界を占…

2021/8/17, Tue.

これにたいして、顔はその裸形にあって、たしかになにかをかたっている。しかも、つねに [﹅3] かたっている。指さきそのものには指示する意味が宿ることはないが、「まなざしの身ぶり [﹅8] 」(ビューラー [註76] )は、他者の注視している対象がなんであ…

2021/8/16, Mon.

「意味とは他者の顔のことである」(227/313)と、レヴィナスはいう。ことばとはまず〈顔〉なのである。あるいは、「ことば(parole)は、見つめている私を見つめる顔のうちですでに萌している」(100/142)。「顔はかたる。顔の〈あらわれ〉はすでに言説で…

2021/8/15, Sun.

素朴に考えて、会話するふたりの人間は、こもごも話し手となり聞き手となることができる。この原初的な対称性がなりたっていることで、ことばを発することがさらに、他者にたいして、あるいは懇願 [﹅2] し要請 [﹅2] し、あるいは命令 [﹅2] する行為となる…

2021/8/14, Sat.

他者との関係がそもそものはじまり [﹅4] から非対称的で不均等なものであるならば、他者との〈正〉しい関係、つまり「正義」とは「普遍性という均衡状態」ではない。他者との関係が私のかぎりない〈責め〉でおわる [﹅3] かぎり、そもそも〈配分的な正義〉…

2021/8/13, Fri.

他者との関係じたいが、あるいは私という「〈同〉のエゴイスティックな自発性」を問いただす「〈他者〉の現前」(la présence d'Autrui)そのものが「倫理」と呼ばれる。すな(end79)わち「私の思考と私の所有にたいする〈他者〉の異邦性、つまり〈他者〉を…