2019/8/30, Fri.

 酒井 「なるべくしてなる」という目的論的な主張は、言語学に限らず進化論においても見られますが、何ら科学的な裏付けをもちません。現存種が進化の「結果」に見えようとも、それは単なる偶然の産物かもしれないのに、すべては結果に向かっているように見えてしまうのですね。そこに共通した誤りは、目的論を規範や原理・法則と混同してしまうことです。原理と法則は、「なぜそうなるか」を説明するための根拠を与えます。ところが目的論は、結果自体を目的に置き換えてしまうことで、循環論に陥って何も説明しないことになる危険性が高いのです。
 そうした誤りを正すには、教養として「科学という考え方」を学ぶことで、自然科学の原理と法則の実例を知り、それを基準として考えるしかないでしょう。考えるための基盤が軟弱ですと、目的論に抵抗するための免疫がないわけですから。
 音楽の世界でも、西洋音楽史という一面だけで見れば、ルネサンスバロック・古典派・ロマン派・近代・現代という流れが目的論に適っているように思えるかもしれません。しかし、邦楽にはそうした流れは起こりませんでしたし、音楽の発展に「なるべくしてなる」というような必然性は存在しません。西洋音楽は、ヨーロッパからロシアにまたがる民族音楽の一形態ですから、それが音楽全体を代表するものではありません。民謡やジャズ、ロック・ポップスなどはすべて等しく音楽であり、それぞれが独自の発展の様式を持っています。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』東京大学出版会、二〇一八年、32~33; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)

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 宇野 時局的なところから入れば、まさに2016年の一番の流行語は「ポスト・トゥルース」でした。米大統領選では、大統領候補自らがディベートの場で、根拠のないデマに類する発言をどんどん言って、しかしそれが後で問題にもならないという、ある意味で言った者勝ちの状況が生じました。元来、欧米の政治家にとって、公的な場での発言は極めて重い意味を持つものです。一つ発言を誤れば、それが政治的生命の喪失につながりかねない。記者会見などでも、記者やその向こうにいる国民に向かって、どれだけ心を込めて誠実にスピーチするかというのは、アメリカの大統領にとっては非常に大切なものです。就任のときのスピーチを含め、いろんな形でしゃべった内容は記録され、その後の検証に晒されるわけです。このように公的な場でスピーチをするということは、非常に重要なことなのに、トランプはこれをむしろ軽視し、代わりにツイッターなどのSNSで、どんどん言いたい放題を言うわけです。
 これは政治の在り方を大きく変化させてしまうのではないか、というのが昨今の問題意識です。ところで、日本を振り返るとちょっとまた違ってきます。象徴的なのは菅官房長官ですよね。何を聞かれても「問題ない」「それは当たらない」「仮定の問題には答えられない」、という三点セットですべて答えてしまう。安倍首相は何を言われても、「印象操作だ」で終わりです。言葉というのは、まさにお互いに言葉を尽くして表現し合い、それぞれの発言の最終的な印象を決める勝負なのに、すべてを「印象操作」としてしまうと、非常に言葉が貧困になるわけです。これはこれで、アメリカとは違うバージョンですが、政治における言葉の貧困化という意味では、通底する部分があるのかもしれません。私は政治において、非常に言葉が大切であると考えています。アーレントではないですが、政治において最も本質的なのは複数の存在者の間での言葉のやりとりであると考えています。そのような意味で言うと、言葉というものが脅かされると政治もまた怪しくなるだろうと思います。それが根本的な問題意識です。
 (45~46; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)


 六時に覚醒した。計算上は二時間半しか眠っていないことになるが、軽く、はっきりとした目覚めだったので、しばらく呻きながら布団を引き寄せてごろごろしたあとに、一念発起してもう起きてしまうことにした。ベッドから下り、コンピューターに寄ってスイッチを押して、起動させるとTwitterをひらいて眺めた。そのほかインターネット各所も訪れたのち、六時半過ぎから早速前日の日記に取り掛かった。外では雨が降り出しており、音からするに結構な勢いで落ちている。空気が薄暗いので途中で明かりを点け、一時間余りで前日の記事は書き終えて、この日の分も僅かにここまで綴って七時四五分となっている。
 その後、家を発つまでのあいだに何をしていたのか、この朝から丸二日が経った今ではもはや覚えていないのだが、Fred Hersch『Songs Without Words』を確か流して、手の爪を切ったことは確かである。それからクラッチバッグに荷物を整理し――書物や財布や携帯や、ロシア土産のクッキーとハンドクリームなど――出発した。最寄り駅までの道中のことも特段に覚えていない――と思ったが、そうではない、この朝は母親がコンビニに行く用事があるから送っていこうかと言うので、その好意に甘えたのだった。それで九時前に車に乗り込み、家を発って、市街を抜けて行って青梅駅前、コンビニ横の細道に車は停車した。なかに誰か乗っていないといけないだろうというわけで、母親が先に用事を済ませるために降りてコンビニに行き、彼女が戻ってくると、ありがとうと礼を残して降り、こちらもコンビニに入った。まずATMで金を下ろす。五万円を下ろして財布に入れたあと、レジに向かって並び、年金を支払った。店員に礼を言って退店し、駅に入ると停まっていた電車の二号車、三人掛けに入って本を読みはじめた。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。途中で、ショートパンツを履き褐色掛かった脚を外気に晒した若い女性が隣に乗ってきたが、彼女の身体からは何やら酸っぱいような匂いがした。
 拝島に着くと降りて、エスカレーターを上り、改札を抜けるとSUICAを手に持ったままちょっと移動し、西武線の改札口に入った。ホームに降りると、階上にあるケンタッキー・フライド・チキンの匂いがあたりに漂っていた。ちょうどやって来た小平行きに乗り込み、ふたたび本を読みはじめて、まもなく発車した。僅か一駅を揺られ、西武立川で降りると待ち合わせの一〇時までまだ間があったので、ホームを移動して木製の座席に就き、本を読み続けた。
 一〇時ぴったりまで読み、切りの良いところで中断して席を離れ、階上に上がった。改札を抜けて正面の窓際に立ち尽くしていると、まもなくT田がやって来た。軽く挨拶し、行こうと言って歩き出す。――何か買って行くか。――土産持ってきたよ。――俺も。――じゃあ良いんじゃない。――飲み物は。――そうか飲み物か。じゃあ俺は牛乳買うわ。というわけで、駅舎を出てすぐ脇のコンビニに入った。こじんまりとしており、横に長細いような間取りの店である。フロアの奥に入っていき、飲み物の棚を見た。ジンジャーエールを買おうかと思っていたのだが、ピーチ風味の品しかなかったので、カルピスに決めた。あとは何かチョコレート系統の菓子があった方が良いかなというわけで、トッポを棚から取ってレジに向かった。会計をし、店員に礼を言って退店すると、なかなか旺盛な雨のなか傘をひらいて歩き出した。小公園を通り過ぎて家々のあいだへ入っていく。世間というものを知らないので良くもわからないのだが、建売住宅と言うのだろうか、同じようなデザインと大きさで敷地の広さも大体同様の家々がいくつも並んでおり、通りに固有性がなくて区別を付けづらい。それで一度、Tの家から一つずれた通りに入ってしまった。通りの端まで行って折れ、一つ手前の道に反対側から入って、彼女の自宅に到着した。インターフォンを鳴らすとTが出てきたので挨拶をして、軒下で傘をばたばたやって水気を弾き飛ばし、戸口をくぐって傘は隅の傘立てに入れておき、家内に足を踏み入れた。洗面所を借りて手を洗ってから階段を上がり、上がってすぐの部屋に入る。ここに来るのはおそらく六年ぶりといったところではないか。音楽関連の作業用の防音室である。さほど広くはなく、四人入るとそれでいっぱいといった感じだ。部屋の真ん中あたりから見て右方、入口の方にはキーボードが一つ室を横切って置かれ、その向こうの壁際には本棚があるが、並んでいる本のなかには特段にこちらの興味を惹くようなものはない。左方にはアップライトピアノが鎮座しており、今はその前にはKくんが座ってアコースティック・ギターを抱えていた。さらにその脇にはボーカル録音用のマイクスタンドが立っている。室の中央から見て正面方向にはコンピューターが置かれてあった。
 皆さん、土産ですよと言ってクラッチバッグからNatura Sibericaの黒いビニール袋を取り出し、クッキーを三つ、なかから出した。加えて、Tには、ハンドクリームを差し上げる。オブレピーハとかいうシベリアの植物を原料としたクリームだと説明すると、Tは早速箱から出して少し手につけて香りを嗅ぎ、ほかの三人にも手を差し出して匂いを分けた。それから座っているとKくんがアコオギを渡して来たので、受け取って適当にブルース風のフレーズを奏でた。弾いていると、家を出る前に爪を切ったばかりだったこともあり、もう長いことギターに触れていなかったので指の先端が柔らかくなっていたこともあろう、指先からほんの僅かに血が滲んだ。ギターはもう一本、Fujigenのエレキギターがあり、こちらものちに弾かせてもらったのだが、弦が固いように感じられ、弦高や弦の太さの問題なのか、それともそれだけこちらの指がやわになったということなのか、チョーキングもまともに出来ないような有り様だった。
 しかし、Kくんと一本ずつギターを持って弾いていると、そのうちに自然発生的にセッションが始まった。Aのブルースである。ひたすらソロとバッキングを交替で回していると、そのうちにT田もキーボードで入ってきた。しかしT田はじきにコンピューターでの作業に移るために、TにAブルースの進行を教示して交替した。それでずっとセッションをしていたが、確か"C"の音源がコンピューターから流れはじめたところで終わったのではなかったか。T田はコンピューターに就いてヘッドフォンを頭に嵌め、"C"のドラムを作りはじめた。ほかの三人は、Tの主導でボーカルのハモりを考えることになった。彼女の希望に合わせて、メロディの三度上だとか三度下だとかをギターで弾いたり、コード進行との兼ね合いを考えてここはぶつかるから四度の方が良いのではないかなどと助言をしたりする。Kくんとこちらのギター、Tのキーボードで旋律三つを合わせてみて響きの具合を確認したり、Tの携帯で手軽に簡易的に録音したりもした。
 作業は午後一時過ぎくらいまで続いた。Tは昼食の冷やし中華を作るために下階に行った。待っているあいだこちらは、彼女の書棚のなかで唯一興味を惹かれた安藤忠雄の展覧会の図録を取り出して見ていた。二〇一八年だったか二〇一七年だったかに国立新美術館でやったものらしい。浅田彰が冒頭に短い批評文を寄せていた。有名なものだが、「光の教会」などの写真を目にした。印象に残っているのは司馬遼太郎記念館の写真で、吹き抜けの三層の壁際を書棚が高く聳え立ち、上下一面を本がずらりと埋め尽くしているのだった。
 そうこうしているうちにTが作った冷やし中華を持ってきてくれた。四人分の皿で小さなテーブルをいっぱいにして、卓を囲んで食事を取る。冷やし中華は麺にこしがあってなかなか美味かった。食事中や食後は、ロシアの話をいくらか披露した。主に話したのはサーカスのことだっただろうか。空中でくるくると回る演技が見られたり、大きなブランコ様の器具が二つ、舞台の左右に出てきて、揺れるその上をカンフー風の衣装を纏った男たちが宙返りしながら飛び移る演目が見られたと説明する。あとは後半に、手品のような仕掛けのわからない演目があったと紹介した。大きなイースター・エッグから男女が出てくるのだが、男性たちは大きな扇を持っていてそれで女性の姿を一時隠す。それは大して長い時間ではないのだが、次に扇をひらくと女性の衣装が変わっている、という趣向の演目があったのだ。女性の姿が見えなくなっている時間はどんどん短くなっていて、最終的には銀色に光る紙吹雪のようなものを頭の上から撒いて流し、それで女性の姿を隠すまでに至ったのだが、紙吹雪が撒かれてから地に落ちるまでの僅か一瞬で、やはり女性たちの衣装は様変わりしているのだった。あとは、やっぱり猛獣使いじゃないですか、見所は、と告げた。舞台の左右に六頭ずつ、チーターや黒豹やライオンたちが出てきて、その猛獣たちは演技をする以外の時間は左右の台に控えてじっと待機していないといけないのだが、時折り番を待てずにそろりそろりと舞台中央の方へと出てきてしまうものがある。すると猛獣使いはすかさずそちらに駆け寄って鞭を放ち、動物を台の上に戻して大人しく座らせるのだが、そのように一方では中心となる演技を進めながら、もう一方ではほかの動物たちの様子も常に窺っていないといけず、その視野の広さを保つのが大変そうだったと話した。しかも猛獣はなかなか言うことを聞かない場面もあったし、一歩間違えて襲ってきたりすればその時点でもうアウトである。そのほか、ボリショイ劇場の壮麗さについても語った。桟敷席の外側に施された金細工が凄かったと述べる。そして、プルーストっていう小説家がいて、『失われた時を求めて』というやたら長い作品を書いているんだけれど、そのなかにオペラ座とかが出てくるのね、ああ、これはあの世界だなって思った、と告げた。
 その後、またそれぞれ作業に戻ったが、Tがこちらの持ってきたクッキーを食べたがって、昼が遅くてまもなく三時に至ったので、おやつの時間にすることになった。クッキーはミルク味とチョコレート味のそれぞれが開封され、Tは一枚を取って鼻に近づけて香りを嗅ぎ、ああ、バター、と幸福そうに漏らしていた。味も好評を得られたようである。こちらもいくつか頂いたが、まあ普通に美味かった。
 そのあとはまたハモりの作成に掛かり、じきに全篇通して完成した。多分同じ頃にT田のドラム打ち込みも完成して、新しくなった"C"の音源を流して皆で聞いたのだが、スネアの音を変えたこともあってだいぶサウンドが明るくなったような印象だった。その後は、今度はT谷が録音してくれたギターを今作ったこの"C"の音源に乗せてみようということになり、そのように編集を施して、KくんとT田がギターのサウンドの加工に取り掛かった。こちらもしばらくはそれを見ていたのだが、大した耳を持っているわけでもなし、DTMの知識も持ち合わせていないので、そのうちに作業は二人に任せることにして、持ってきた栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を読みはじめた。しかしいくらも読まないうちに夕食の時間に至って、Tが作ったキーマカレーを持ってきてくれたのではなかったか。廊下に出されていた小さなテーブルを室内に運び入れるのをこちらは手伝って、その上にまずベビーリーフやトマトなどの生サラダが乗せられた。そのあとで大皿に盛られたキーマカレーを四人分乗せると、卓に空白のスペースはなくなり、ちょっと手もとの操作を誤ると皿を落としてしまいそうなくらいにいっぱいいっぱいになった。それで慎重にキーマカレーを頂くのだが、細かな野菜や肉がふんだんに入ったこれは美味いものだった。
 食後にはさらに、デザートとして西瓜も提供された。考えてみると、西瓜を食ったのは今夏初ではなかったか。三角形の赤い果肉にかぶりつき、種を吐き出しながら食べていく。この食後だったか、それともほかの時間だったか忘れたが、こちらの最近の日記について話した時間もあった。以前も知らせたことだが、noteにおいて投げ銭システムを導入したところ、金を払ってくれる人が一人現れて、いくらか売れているのだということを報告したのだ。T田もこちらの日記を独自に検索で発見して、最近時折り読んでくれているらしいのだが、彼が言うには、やっぱり俺らと遊んだ日とか、どんな風に書いてあるのかと気になって読むじゃない、それで思うのは、こいつは勝手に議事録を作ってくれているんだな、とのことである。今ここで話されていることも書くからねとこちらが言うと、そうすると日記について話したことを日記内で書くという、どんどんメタ的な感じになっていくねとKくんが言うので、その発言も記されるから、とこちらはすかさず言って、皆で笑った。金を払ってくれる人が現れたことに関しては本当にありがたい。それに関しては、まあ第一歩ですねとこちらは呟き、百年後にはちゃんとウィキペディアに俺の名前載ってるから、世界一長い日記を書いた人間って、とこのあいだも言った冗談を放ってまた皆で笑った。
 デザートとしてはほかに果肉入りのゼリーも振る舞われたのだが、皆お腹がいっぱいで食べきれないからということで、これは各自貰って持って返ることになった。あと、書き忘れていたが、T田が持ってきた山口土産である「ゆずきちタルト」という、濃い炭色の黒っぽいタルトも夕食の前だったかに出されたのだった。それで夕食後はまたしばらくT田とKくんがギターの音色を加工した。そのあいだ、こちらは何をしていたのか記憶が全然ない。Tと話していたのだろうか? 指が痛かったのでギターはもう弾いていなかったと思う。いずれにせよそのうちにギターの音色が完成した。低音部と、シャリシャリとした耳触りをもたらす高音域を一部カットして、アンプ・シミュレーターでクランチ気味に歪みを足し、ディレイとリバーブか何かを掛けて、ディレイによって複製される音を音空間の反対側に振ったと、そのような加工だったと思う。それで皆で出来上がったギターを乗せた"C"の音源を聞いた。細かな良し悪しを判断できるほどの良い耳をこちらは持っていないが、まあ概ね問題ないのではないかと思われた。ただ、スピーカーとヘッドフォンの特性がかなり違うのだろうか、スピーカーから出して聞いたサウンドと、ヘッドフォンをつけて聞いたサウンドの感触がかなり違うという声が上がった。それでこちらもヘッドフォンを借りて頭につけたのだが、スピーカーから出力された音ではギターのざくざくとした感触が結構耳についたものの、ヘッドフォンで聞いてみるとそれは気にならない音像になっていた。ただ、ヘッドフォンで聞いた場合、高音域の方がやや狭く聞こえると言うか、抜けがいまいちであるような気もした。家に帰ったあと、皆の聴取環境で聞いてみてどう感じるかも問題だなと言を合わせた。
 その時点で時刻は多分、既に九時台だったと思う。音源を聞いたあとはそれほど時間を取らずに退出したのではなかったか? この文章を綴っているのはこの日から四日が経過した九月三日のことなので、さすがに記憶が覚束ない。すぐにT家をあとにしたものとして考えよう。荷物を持ってTの音楽室を抜け、階段を下りていって玄関で靴を履いていると、居間にいたTの母君が玄関まで出てきてくれたので、お邪魔しました、ありがとうございましたと挨拶をした。Tの母君は音楽ルームにいるあいだも一度、顔を見せにやって来てくれて、その際もお邪魔していますと挨拶し、ゆっくりして行ってくださいと言われたのにも礼を返していた。それで戸口を出る時にも最後に挨拶をして、夜も更けた住宅街のなかに出た。家々の敷地に置かれている庭木から秋虫の音が漏れ出てあたりに漂っていた。暗闇の浸透具合や、虫の声の浮遊する静けさの感じは、青梅とそれほど変わらないなという印象を得た。駅まで歩いていき、駅舎に入って改札の前で一旦立ち止まり、今日はありがとうございましたとTとほか三人で挨拶を交わした。電車の時間がまもなくだったためにTが手を改札の方に差し向けて、名残惜しいけれど皆、行ってくれと言うので、ありがとうとふたたび言って改札をくぐり、手を挙げながら歩いた。歩きながらエスカレーターの方に折れてTの姿が見えなくなるまで手をまっすぐ挙げていた。ホームに下りながら、T田に、お前明日は何かあるのかと訊くと、大学に行く用事があるが、そんなに忙しくはないと言う。だから時間が合えば喫茶店で会ったりとかは出来るぞと言うのに、電車に乗って席に就いてから、いや、もし何もないんだったら今日このあとうちに来ないかと誘うつもりだったのだが、と漏らすと、おお、そうか、とT田は受けてから、じゃあそうするか、と軽く決定した。それに対してKくんが、フットワーク軽いなあと笑っていた。電車が発車すると左隣のKくんにも、まあKくんもね、いずれ我が家に遊びに来ていただければ、と言い、何もないけれどと笑うと、何もないところが良いんじゃないとの返答があったので、それは確かにそうかもしれないと同意を返した。拝島までは僅か一駅である。まもなく着いてホームに降り、エスカレーターを上って西武線の改札を抜け、青梅線の改札をくぐってホームに下りた。Kくんの乗る東京方面の電車は、既に来て停まっていたか、ちょうど来たところだったと思う。電車の入口の前で三人向かい合い、こちらはおもむろに右手を差し出すと、Kくんも手を重ねてきて、いつものように握手を交わしたが、この日はじゃあなS、じゃあなJ、というお決まりのやりとりは口にしなかった。それで電車に乗りこんだKくんと視線を合わせて頷き合い、電車が発車するまでその場で待ち、電車が滑り出していくとKくんの姿が見えなくなるまで手を挙げて見送った。
 それから反対側の番線にすぐにやって来た電車に乗り、多分扉際に就いたと思う。現代音楽の話などをした。現代音楽の話はT家にいたあいだにもちょっと交わしており、T田は今、コンテンポラリーなクラシック音楽の選集を作っているところなので、完成したら聞いてくれとのことだった。T家では例えば、お前、武満徹なんかはどうなんだという質問を投げかけたのだが、武満はやはりかなり特殊で、言ってみれば通好みというような感じであり、T田としてはなかなか聞いていられずに飽きてしまう、というような返答があった。武満徹は文章が素晴らしかったとこちらは教えた。小林康夫中島隆博の共著である『日本を解き放つ』に多数引用されていたのだが、その文章の感触がなかなか素敵なもので、原本を読んでみたいと思わされたのだ。T田は武満の音楽は「間」がどうこう、とかいうことを漏らしたのだったと思う。それに対してこちらは、日本の雅楽というのは言わばたった一音に世界全体を聞くみたいな境地だろう、武満もそういう要素を取り入れたのだろうなと、『日本を解き放つ』で聞きかじったあやふやな知識を披露した。また、彼は西洋音楽から始まって日本の音楽に回帰し、その後どちらからもずれた第三項として、インドネシアガムランにも行ったのだよなと、これも『日本を解き放つ』に書いてあったことを元に知ったかぶった。戻って帰りの電車のなかでは何について話したのだっただろうか。T.Aさん(漢字が合っているか不明)の話があったことは確かだ。Tさんというのは我々の高校の同級生でT田からすると吹奏楽部の仲間だった人であり、男性でありながらこちらは高校の頃から「Tさん」と「さん」付けで読んでいるのだが、ほかにも何人かこちらがそのように「さん」付けで呼ぶ男子はいた。それはともかくとして、Tさんは料理人としてフランスに渡っていたという情報をこちらは数年前からキャッチしており、それ以後彼の消息は更新されていなかったのだが、T田によるとその後料理人はやめて海外の大学で生物学を学び、今は日本に帰ってきているのだと言う。それでT田は彼と山口旅行の際に顔を合わせた。それで芸術の話になったのだが、Tさん曰く、フランス語では芸術というものには二つの呼び名があると言う。それは「アール」と「ボザール」という両者で、「アール」は普通の英語のartをフランス語読みしたものなのだが、後者の「ボザール」というのは、そのartの前に「美しい」という意味合いの語を足したものなのだと言う。従ってその名の通り、後者は美しさを追い求めるものなのだが、前者の方は美しさという基準には囚われず、表現方法の革新を追究するものだとして捉えられている。言語の上で既にそのようなジャンルの区分があるらしく、それに感銘を受けたとT田はTさんの話を援用しながら語ったのだった。
 青梅に着くと降りてホームを辿り、ちょうど発車前だった奥多摩行きに乗り込んだ。すぐだから座ることもあるまいと言って扉際に就き、しばらく揺られて最寄り駅に到着した。T田が我が家に来ることが決まった時点でその旨母親に知らせておいたのだが、携帯を見ると彼女からの返信がなかったので、ホームを歩きながら自宅に電話を掛けた。しばらくコールが続いたあとに母親が出たので、メール見た? と訊くと、見ていないと言う。今最寄りだけれどT田が来ているから泊めてやってくれと頼むと、ええ、と母親は言い、風呂上がりでだらしない格好だけれど、と漏らすので、そんなのは良いよと笑った。そうして通話を終えて駅舎を抜け、暗闇の浸透した坂道に入って家路を辿った。
 到着すると玄関の扉を開けてただいまと居間に向けて声を送り、T田ですと言いながらなかに上がった。両親とも居間にいた。汚い家ですが、と父親は言った。それで、どなた? と訊くので、T田だよ、前に会っただろうと答えると、ああ、ミスチルの桜井さんに似ている人だ、と父親は思い出して、確か稲城住んでいるって言っていたっけ、などと訊いていた。何も食べないで良いのかと母親が訊くのに、何も良い、まあ勝手にやるからお構いなくと答えて、階段を下り、こちらの居室に入った。扇風機とエアコンを点けた。狭い部屋で、こちらが椅子に就くとT田が座る場所はベッドくらいしかない。それでベッドに腰掛けるように勧めたが、T田はしばらく何故かベッドの脇の床に直に尻を落としていた。こちらは確か服を脱いで、上階に着替えに行ったのではなかったか。その際についでに、カボスジュースと日向夏のジュースを一本ずつ持って帰ってきて、好きな方を飲んでくれとT田に提示した。
 それから風呂に入るまでのあいだは――あるいはそのあともだったかもしれないが――こちらが本をいくつか紹介するという段になった。発端は三島由紀夫で、Tさんが三島の文章は美麗だと言っていたがそうなのかと訊かれたのだった。それで、こちらは三島など一冊しか読んだことがないし、それを読んだのももう随分と昔なのだが、手近の積み本のなかにあった講談社文芸文庫の『中世/剣』を取り、この「中世」などは確かに美麗な文だった覚えがあるなと言ってT田に手渡した。T田は冒頭を読んでから、美麗と言うよりは、思いのほかにわかりやすい、はっきりとして簡潔な文だ、というような評価を下した。こちらは、漢語がふんだんに使われているのがかっちりとした印象に繋がっているかもしれない、やはり昔の作家は漢文の素養がある、夏目漱石なんかも漢詩を書いていたし、三島も戦前から書いている作家だから、漢文の教養がまだ残っていた時代の人なのではないか、と適当な論評を言った。
 次に、プリーモ・レーヴィ『これが人間か』を、この本は素晴らしかったと言って渡した。アウシュヴィッツに入れられた人物の証言録だと紹介し、T田がいくらか読んだあと、本を受け取り、例の「オデュッセウスの歌」の章のハイライト、一四五頁の文章を大まかに引用して、その部分について少々語った。その内容は以前、日記に書いて感想の記事にまとめたような事柄なので、ここでは詳しくは繰り返さない。引用部ではレーヴィとピコロのあいだに文学を仲立ちとした深いコミュニケーションが行われている、文学が極限状況でそのように機能出来たということは感動的である、その体験はレーヴィが自己の人間としてのアイデンティティを失わず、「動物」に完全に堕ちてしまわずに、人間性を保ったまま生き延びるための一助になっただろう、というような話だ。
 その次には『失われた時を求めて』の第一巻を、ちくま文庫井上究一郎訳と、光文社古典新訳文庫高遠弘美訳の両方で紹介した。紹介したと言って、このどちらも自分はまだ読んでいないので差し出して冒頭を読ませただけなのだが、T田の感じでは井上究一郎訳は読みにくいようだった。しかしこちらは、日本で初めてこの大作を個人完訳したその偉業にやはり触れたい思いはあるので、いずれはちくま文庫全一〇巻を揃えねばなるまい。
 もしかしたら順番が前後して、こちらの方が先だったかもしれないが、T田に貸している最中の梶井基次郎が話題に上った場面もあった。まだ本の序盤、冒頭の「檸檬」を通過して「城のある町にて」の途中で止まっていると言う。「城のある町にて」のなかには、蟬の翅か何かの描写で良いのがあったなとこちらは口にして、T田から新潮文庫版の『檸檬』を借りて該当の箇所を探し当て、読み上げた。今、当該の本が手もとにないので筑摩書房の全集第一巻から記録した――従って旧字体で、T田に貸している新字体の版とは違うのだが――書抜きを引いてみると、以下のようである。

 峻は此の間、やはりこの城跡のなかにある社の櫻の木で法師蟬が鳴くのを、一尺ほどの間近で見た。華車な骨に石鹼玉のやうな薄い羽根を張つた、身體の小さい昆蟲に、よくあんな高い音が出せるものだと、驚きながら見てゐた。その高い音と關係があると云へば、ただその腹から尻尾へかけての伸縮であつた。柔毛[じうもう]の密生してゐる、節を持つた、その部分は、まるでエンヂンの或る部分のやうな正確さで動いてゐた。――その時の恰好が思ひ出せた。腹から尻尾へかけてのプリツとした膨らみ。隅々まで力ではち切つたやうな伸び縮み。――そしてふと蟬一匹の生物が無上に勿體ないものだといふ氣持に打たれた。
 (『梶井基次郎全集 第一巻』筑摩書房、一九九九年、20~21; 「城のある町にて」)

 それからさらに、エドワード・サイードの『ペンと剣』を差し出して部分的に読んでもらった。中東について全然詳しくないから、パレスチナ問題という事柄について忘れていたとT田は言う。最近はそんなに大きな争いは起きていないんだよねと訊くので、近いところでは二〇一七年の年末だかにドナルド・トランプエルサレムを一方的にイスラエルの首都認定して、それで反対運動が起きたり、和解の試みが崩れたりしたと答えた。細かな報道を追ってはいないが、現地ではおそらく抗議デモは頻繁に起こっているだろうし、死者もそれなりに出ていることだろうと思う。そこから、「パレスチナ人」と呼ばれる人々の地位であったりについて少々話した。
 その後、T田は風呂に行った。と言うかこちらも一旦ついて上階に上がって、洗面所に行き、タオルはここにあるのを適当に使ってくれとか、ドライヤーはここにあるとか、そうした教示をした。下着に関しては、シャツはないが、パンツは母親がこちらの所有のなかから、ほとんど一度くらいしか履いたことがない真っ黒のものを、嫌じゃなければ履いてそのまま持って行けばと言って用意していたので、その旨伝えて貰って行って構わんぞと言った。そうしてごゆっくり、と言いながら洗面所の扉を閉めて下階に戻り、Skype上でKさんとやりとりを交わした。T田は白いランニング・シャツ姿で戻ってきて、パンツを頂くのはやはりさすがに恐れ多いからと言って自分の下着を履いていた。こちらは風呂を終えた彼に、まあ何か本でも読んでいるか、それかインターネットを見ていても良い、あるいはもう眠たければ隣室に寝に行っても良いと言って、自分も風呂に行った。一二時間以上も外出していたわけなので、それなりに疲労感があった。それでそこそこ長く湯に浸かって肉体を癒し、出てきて自室に戻るとT田はこちらのコンピューターの前に立って何か操作していた。見れば、Winampのライブラリを見分して、どんな音源が入っているのかチェックしているのだった。
 その後、三時頃になるまでまたいくらか話をしたと思うが、何を話したのかはまったく覚えていない。三時に至るとそろそろ寝るかと切り出して、T田を隣の兄の部屋に送り、こちらはベッドに乗って、少しだけ本を読んでから眠るかというわけで栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』をひらいたが、読書の終わりが定かに記録されていないところを見ると、例によって意識を保てなかったようである。


・作文
 6:38 - 7:45 = 1時間7分

・読書
 9:10 - 10:00 = 50分
 27:04 - ? = ?
 計: 50分 + ?

・睡眠
 3:30 - 6:00 = 2時間30分

・音楽
 なし。