きのうはけっこう書いてしまったので、きょう起きたときそれそうおうのからだのかんじだったが、数日ぶりに晴れていて洗濯物もそとに干せたしわるくない。いまほんのひとまわり、二〇分ほどだけれどあるいてもきた。一食目を食べてトイレの床を掃除してから音楽をききつつスワイショウをして、それで屍になって、一食目のあとはだいたい一時間かそれよりすこし経つと屍になるようにしているのだが、そのときへそのうえに手のひらを乗せるようになった。じぶんが緊張している、お腹がなんかきもちわるい、喉が詰まっている、痰があがってくる、そういうときはかならずへそがかたくなっていて、そのあたりがちょっと張り、へそをかるく押すとすこし痛い、みたいなかんじだからだ。屍のときにそこに手をあてていると、ふつうにからだの左右に手を伸ばしているよりはあきらかにリラックス度がたかいということを発見したので、いらいそうしている。そのあいだに小説のことをかんがえていて気づいたのが、ふたつめの「Black Is The Color of My True Love's Hair」は、さいごで孤独を強調するような終わりかたになるとおもっているのだけれど、そのつぎのきのう書いた逆転世界的なむずかしそうなやつは「孤独のなかの神の祝福」なわけだ。それに、いま書いている「塔のある街」は雪国が舞台で、そこらじゅうに白さの描写が出てくるから、あきらかに白の物語である。あと、相棒がいるはなしで、その相棒を、どういう意味でかはわからないがある意味でうしなうような結末になるとイメージされているから、それは孤独につうじる。「Black Is The Color of My True Love's Hair」は砂漠で、ある種雪国と対照的な世界だし、いろも白と黒で対照している。そして三つ目の「孤独のなかの神の祝福」で人種差別の要素をどうするかときのう書いたとき、白と黒ではなくて赤と青とか、とじぶんはしるしていた。それで、やべえな、これじぶんのなかで象徴的につながってるわ、象徴秩序にからめとられてるわ、とおもい、こうなるとやはり「五つの聖なる物語」をほんとうにやるべきではないのか? という気がしてきた。三つ目のむずかしいやつも、あの安直だがむずかしそうな設定のままでやっぱりやるべきなんじゃないかという気がしてきた。整理すると、1. 相棒の物語(白) 2. 愛と孤独の物語(黒) 3. 逆転と祝福の物語(赤と青)となる。こうして書いてみてもベタベタで、じぶんはもしかして物語をやりたかったのだろうか。四つめは海辺ときのう書いたが、三つ目は逆転なわけでしょう。砂漠を逆転すれば海じゃないですか。というか、このことに気づくまえに、すでに数日前の屍の時間に、そういうモチーフの場面をあたまのなかでたしょう書いていたんだよな。海辺の村のはなしは海辺というか島にして、水神のたたりで水位があがって島がしずみそうになるみたいな、それを予言するやつがいるけど信じられないみたいな、そういうやはりベタベタなストーリーにすれば地球温暖化状況とからめて寓話っぽくなるかもしれないし、このあいだ読んだデュピュイの『ありえないことが現実になるとき』みたいなテーマにもつうずる。まあそういうことをやりたいわけではなく、そういう側面、そういう要素があるとしても、それにとどまらずにそこを越えたなにかにならなければならないというのは前提だが。象徴的につながっている五部連作の物語になるとして、「五つの聖なる物語」でもべつにいいのだけれど、総タイトルを「やさしいひとはおしなべてうつむき」にしたいな、とも散歩中におもった。これはこのブログをむかしから読んでいるひとにはおなじみの岩田宏神田神保町」という詩の一節で、すでに「塔のある街」に、時空を超える目つきを捨てられない元軍人の老人を出しているのだけれど、そこのイメージはこの一節から来ているぶぶんがある。ただこれは無理にそうしようとはおもっておらず、各篇のなかになんかしぜんにそういうモチーフが出てきてそろっちゃったら、そのタイトルにしようかなと。あと、五つ目の山のはなしは、これもベタだがなんか試練のはなしにしようかなみたいなのがきょうあって、じゃあ中心人物を少年にするか、それで、むかしバルトの『遇景』をまねして高校時代の記憶をもとにうすい文体で断片的なやつをやりたいとおもっていたけど、文体はそういううすいというか、ひらがなをやたらおおくして、平易な少年のかたりにするかとかおもったり、「やさしいひとはおしなべてうつむき」と来たら、つぎの一行の、「信じるひとは魔法使のさびしい目つき」なわけだから、じゃあ山のはなしは魔法使いになるための試練にするかとか、かんがえはいろいろ先走るけれど、しかしまだひとつめを書き終えてすらいない。