2020/11/23, Mon.

 先に述べたように、多くの批評家によれば、ヴィア艦長の機能は物語の「単純化しすぎた」アレゴリー的対立の中に「曖昧性」を挿入することにある。だが、ヴィア艦長は同時に、最も激烈な批評的かつ危機的な対立を引き起こしている。換言するなら、彼は相反すると思われる曖昧性と二極性の力を同時に結集しているように見えるのだ。
 バッド/クラガート、受納/皮肉という対立の中間に位置するヴィア艦長は、二極性と曖昧性が相互に転換するための焦点として機能している。興味深いことに、彼はプロットの進行においてもまったく同じ役割を演じている。ヴィアは、クラガートの告発の正当性を調べるため、「無垢な」ビリーと「罪ある」クラガートを引き合わせるが、この行いは事の解明ではなく、罪と無垢の逆転をもたらすことになる。ビリーに対するヴィアの父親のような言葉が曖昧な行為を惹起し、ヴィアはそれに「有罪または[﹅3]無罪放免」の裁定を下さなければならないのだ。メルヴィルの読者たちは、ヴィアが提供していると考えられる曖昧性に直面し、艦長は不道徳または[﹅3]高潔である、邪悪または[﹅3]公正である、とすかさず主張するのだが、ヴィアもまた、直面している「倫理的ジレンマ」の「謎」を明確に知覚しながら、そうした状況を二項対立に還元しなければならない。
 すると、裁定の機能は曖昧な状況を決定可能なものに転換することに思われるだろう。しかし、それは内部の[﹅3]差異(意識的な服従と無意識的な敵意に引き裂かれた者としてのビリー、思いやりのある父親と軍隊の権威に引き裂かれた者としてのヴィア)を、あいだの[﹅4]差異(クラガートとビリー、〈自然〉と〈国王〉、権威と有罪のあいだの〔差異〕)に転換することでなされるのだ。対立する力のあいだの[﹅4]差異は、衝突しているもの〔entities〕が認識可能なことを前提としている。問題になっているものの一方の内なる[﹅3]差異は、まさにまず、一つのものという観念[﹅2]そのものを不確かにし、「法的な視点」を適用不可能にしてしまう。曖昧性と二項性双方の戯れを検討するメルヴィルの物語は、その[﹅2]批評的差異を内にもあいだにも設定せず、二つのあいだの関係[﹅9]の中に、あらゆる人間政治学の根本的な問題として位置づける。『ビリー・バッド』における政治的なコンテクストでは、すべてのレヴェルで、内部の[﹅3]差異(戦艦上の反乱、「永続的制度」に対する脅威としてのフランス革命、ビリーの無意識的な敵意)があいだの[﹅4]差異(ベリポテント号対アテー号、イギリス対フランス、殺人者対犠牲者)の下位に設定されている。メルヴィルの選んだ歴史的背景がきわめて意義深いのはそのためである。フランス革命時におけるフランスとイギリスの戦争は、ともに内的分裂を抱えるビリーとクラガートの対決と同じく、内なる差異とあいだの差異が同時に機能する顕著な実例である。戦争とはまさに、あらゆる差異を二項的な差異に徹底的に変換することなのだ。
 したがって、政治的権威を維持するには、法が規則的、予測可能な形で、「内部の差異」を「あいだの差異」と誤読させる一連の規則として機能する必要があると思われるだろう。しかし、プラトンからのエピグラフが示唆するように、法が曖昧性の抑圧という表現で定義されるなら、法自体が「内部の差異」に基づくものの圧倒的な実例ということになる。ビリー同様、法は法自体の「致死的空間」を排除しようとして、結局はみずからを致死の空間に刻みつけることしかできないのだ。
 このように、差異の暴力的効果を規制する政治的な認識作用は、排除されなければならないものを位置づけようとする試みである。だが、暴力の場や起源を知る可能性がないため、認識自体が暴力行為となる。純粋な理解という見方からすれば、対立するもののあいだに線を引くことは、還元不可能な曖昧性――それは、一つの「もの」の境界を決定する可能性そのものを転覆する――にまさに暴力を振るうことである。

 虹の中のどこでスミレ色が終わり、どこでオレンジ色が始まるか、線を引いて示せる者がいるだろうか。色の違いははっきり見えるが、スミレ色はいったいどこから正確にオレンジ色に溶け込むのか。正気と狂気も同じことだ。顕著な症例なら問題はない。だが、狂気と仮定されるだけで、症状があやふやでさまざまな程度を示すとなれば、正確な線を引こうとする者は少ないだろう。もっとも、報酬が十分なら、引き受ける専門医もいるかもしれない。口に出せることではないが、金銭のためならやろうとする連中はいるものだ。(Herman Melville, Billy Budd, in Billy Budd, Sailor, and Other Stories, edited by Harold Beaver (New York: Penguin Books, 1967), p. 379〔メルヴィル『ビリー・バッド』飯野友幸訳、光文社古典新訳文庫、二〇一二年、一一五頁〕.)

線を引くことは、行為として、不正確であり暴力的である。それはまた、裁定する者と裁定される者の「あいだの差異」、「専門家」の利益および関心と専門的な意見にそなわる真実の違いを見定める可能性自体を疑わしいものにする。あらゆる裁定行為が明示するのは対象の価値ではなく、やり取りの構造内における裁定者の位置である。別の言い方をするなら、裁定対象に関わる力線の外にあるような、裁定〔者〕の立場など存在しないのだ。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、182~184; 「6 メルヴィルの拳 『ビリー・バッド』の処刑」)



  • なぜかわからないが、一〇時台に覚めて意識をとどめることができた。しかしすぐには起き上がらず、太陽の照射を顔に浴びつつ手指や手首をしばらく揉みほぐしてから離床。ちょうど一一時頃だった。上階に行くとうどんを茹でると母親が言うので、顔を洗ったり髪を梳かしたり、うがいをしたり用を足したり風呂を洗ったりもろもろ済ませてから台所に立った。「かんざし」という品名の稲庭うどんである。横着してやや底の深いフライパンで茹でることになったのだが、それだとすべて入りきらないし、麺もあまり踊らないのできちんと大きな鍋を用意してやったほうが良かったのだろう。それでも茹で上がったものを食ってみれば美味かった。そのほか母親がヤーコンや春菊をまた天麩羅にしたのでそれもいただく。新聞には先崎なんとかいう日本近代思想史の人と與那覇潤が三島由紀夫について話した対談が載っていた。三島が死んで五〇年ということで最近は紙上に彼の話題が多く見られる。ちなみにクソどうでも良いが、三島由紀夫とこちらの誕生日はおなじ一月一四日である。重要な人物なのだとは思うが、こちらのなかで読書の優先順位としてはそれほど高くはない。熊野純彦が数か月前に出した小さめの評伝はちょっと気になってはいる。三島でいままで読んだのは講談社文芸文庫の『中世・剣』と、新潮だかどこだか忘れたが『岬にての物語』みたいな総題の短篇集(これは(……)くんらとの読書会で読んだ)のみだと思う。後者の表題作は文章もしっかりしていて二〇歳で書いたとは思えず、名高いだけはある、さすがだなと思ったのだが、本の冒頭に収録されていた一六歳くらいの作は観念とイメージが先走ってなんの具体性も付与されないままそれが戯れ浮遊しているだけのクソみたいな篇だと思った記憶がある。しかしそれから四年であの堅実さ、安定感、堂々と地に足ついた歩みぶりになっていると考えると、やはりさすがだなという気はする。
  • うどんがすくなくなってしまったので、両親のために三分の一ほど残してあった麺をふたたび茹でた。流水で洗って提供してから茶を用意して下階へ。一服しつつEvernoteを準備したりLINEを覗いたり。(……)FISHMANS『Oh! Mountain』を流してまずここまで記述。時刻はまだ一時である。ともかくもなるべくはやく日記を現在時まで片づけたい。最近は天気が良いので散歩をしたい気持ちも高まるのだが、それは日記に切りをつけられてからだ。あとは明後日のWoolf会のためにTo The Lighthouseも翻訳しておかなければならない。幸い明日も休日なのでわりと余裕はある。死ぬまで永遠に休日で良い。はやく世界連邦をつくって普遍的ベーシック・インカムをこの世に導入してくれ。
  • この日はあと、日記をがんばったことと書見もけっこうしたことくらいしか覚えていない。プラトン/久保勉訳『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫、一九二七年初版/一九六四年・二〇〇七年改版)は読了した。気になったことや考えたことは色々あるが、こまかく書いている余裕はない。気になった箇所のメモはノートに取っておいたので、それをもとに余裕のある日に書くことができれば。と言って特に大した知見はないが、ただやはり、引っかかった部分を日記に写しておくくらいはしても良いのではないかという気はする。本を読みものを学ぶにあたっての一番の基本は言葉を写すことだと思う。だから書抜きとはべつに、もっと小規模で、ささやかに気になったような部分もとりあえず写しておくだけはしたほうが良いのではないか。加えて気が向いたり生まれるものがあったりすれば思念を書きつけておけば良い。
  • プラトンのあとは短歌を読もうというわけで石井辰彦『全人類が老いた夜』(書肆山田、二〇〇四年)を読みはじめた。この人は、なんとかいう批評本シリーズの八巻目(蓮實重彦とか松浦寿輝とか高橋康也とか保坂和志とかが書いていたような気がする)を読んだときに知ったもので、文中に自作を引いているのを見てずいぶん前衛的な短歌をやるんだな、こういうのもあるんだなと興味を持ったのだ。ただ、今日とこの翌日に読んだ感じでは意外とそこまでピンとこなかった。表記の作法はたしかに珍しく、前衛的と言って良いのだろうけれど(それにしたっていまとなってはそこまですごいとは思わないが)、そのわりに言っていることはけっこう紋切型が多い印象を受けたのだ。古典的な主題を色々扱ってもいるけれど、そのテーマ面のレベルの話ではなく、一首一首のまとめ方とか、一語と一語の組み合わせ方にそんなに鋭さがないような気がした。とはいえこの人はいつも連作として作品を提示しているようなので、一首を磨き抜いて凝縮させず、何首にもまたがって言いたいことを言えば良いという考え方なのかもしれない。あとはまた、真情をストレートに叫び、歌い、発露するという感じの作が多かったように思う。しかもそこで表記法がその感情性を囲いこんで複雑に整えるという方向に働くのではなく、むしろ感情表現を大仰に強めるような働きをしていると感じられたから、この人の立場としては、自分の真情をより良く表現するためにこそ凝った表記技術が要請されたということなのかもしれない。つまり、言語の新たな結合構築を探究するというよりは、先に言いたいことがあって(生まれて)、それをよりうまく言いたい、という感じなのかなと思った。そもそも短歌という表現法は伝統的にやはりそういうものなのかな、という気もする。歌いあげることを旨とするジャンルなのではないか、と。
  • こちら自身がこの日つくった短歌は以下の三つ。

年若い象の死肉を喰えばほら白日夢さえ恐るるに足らず

星影を身に巻きつけて踊るひと悼まれなかったたましい宿し

古代からずっと生きてる紙に問うお前をかいた者たちの顔

  • To The Lighthouseの翻訳もすこしだけ取り組んだのだが、全然進まなかった。担当箇所は以下の段落。

They had ceased to talk; that was the explanation. Falling in one second from the tension which had gripped her to the other extreme which, as if to recoup her for her unnecessary expense of emotion, was cool, amused, and even faintly malicious, she concluded that poor Charles Tansley had been shed. That was of little account to her. If her husband required sacrifices (and indeed he did) she cheerfully offered up to him Charles Tansley, who had snubbed her little boy.

  • 「男たちは会話をやめていた。そのせいで波の音が恐ろしく迫ってきたのだった。一瞬だけ彼女を掌握していた緊張感から解放されると、夫人はまったく反対の状態に急降下し、不必要に」までしかつくれず。recoup her for her unnecessary expense of emotionをどう訳すか、良い案が浮かばなかったのだ。直訳すると無用な感情的浪費を埋め合わせようとして、という感じになり、expenseの持つ消費とか浪費とか支出とか、費やすというニュアンスをなんとか盛りこみたかったのだけれど、それは難しそうである。現時点(一一月二五日)では、「不必要に感情を高ぶらせてしまったのでその埋め合わせをしようとでもいうかのように」くらいに収めておくのが良いかなと思っている。


・読み書き
 12:44 - 13:08 = 24分(2020/11/23, Mon.)
 13:10 - 14:06 = 56分(2020/11/15, Sun.)
 14:06 - 16:34 = 2時間28分(プラトン: 78 - 102, 114 - 135)
 16:46 - 17:17 = 31分(石井: 1 - 29)
 18:55 - 20:59 = 2時間4分(2020/11/15, Sun.; 完成)
 22:28 - 22:47 = 19分(2020/11/17, Tue.; 完成)
 25:25 - 26:13 = 48分(2020/11/18, Wed.)
 26:15 - 26:21 = 6分(2020/11/18, Wed.)
 26:28 - 27:09 = 41分(Woolf)
 27:12 - 27:40 = 28分(石井: 29 - 50)
 計: 8時間45分

  • 2020/11/23, Mon. / 2020/11/15, Sun.(完成) / 2020/11/17, Tue.(完成) / 2020/11/18, Wed.
  • プラトン/久保勉訳『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫、一九二七年初版/一九六四年・二〇〇七年改版): 78 - 102, 114 - 135(読了)
  • 石井辰彦『全人類が老いた夜』(書肆山田、二〇〇四年): 1 - 50
  • Virginia Woolf, To The Lighthouse(Wordsworth Editions Limited, 1994): 12

・音楽