2020/11/24, Tue.

 なすことなく知ろうとする試み自体が行為として機能しうるように、裁定は常に顕在的な行為であるという事実が、その認識的な窮状にさらにもう一つ解決不能な問題を付け加える。ヴィアが指摘するように、「最後の[﹅3]審判」ではいかなる裁定も生じえないため、裁判官は誰一人〈最後の審判〉を下せない。判決に至るためには、ヴィアは致命的一撃の結果だけではなく、みずからの判決の結果も見定めねばならない。裁定が行為であるのは、それが人を殺すからだけではなく、今度はそれが裁定にさらされるからである。

 「有罪と宣告した上で、刑を軽減できないでしょうか」と、航海長が尋ねた……
 「諸君、こうした状況では、それがわれらにとって明らかに合法的とはいえ、そうした寛恕の結果を考えてみたまえ。……いかなる言葉で告知されようと、乗組員たちにとっては、前檣楼員の行為は非道な反乱で犯された紛れもなき殺人、ということになるだろう。どんな罰が与えられるべきか、彼らは知っている。だが、そのような罰が与えられないなら、なぜ[﹅2]、と彼らは思いめぐらすことだろう。水兵とはどんなものかご存知だろう。彼らはノア湾での最近の暴動を振り返らないだろうか」。(Herman Melville, Billy Budd, in Billy Budd, Sailor, and Other Stories, edited by Harold Beaver (New York: Penguin Books, 1967), p. 389〔メルヴィル『ビリー・バッド』飯野友幸訳、光文社古典新訳文庫、二〇一二年、一三二―一三三頁〕.)

危険はしかし、ノア湾での反乱を繰り返すということだけではない。無垢にもかかわらず、ビリーに罪を繰り返させるという危険でもある。ビリーは上官を殴った瞬間から、政治的な告発対象となっている。彼はもはや、プロット〔陰謀〕なき存在ではないし、二度とそのようなものになれない。もし放免されても、彼自身、その理由を説明できないだろう。乗組員の質問や悪巧みの焦点として、前以上に自己弁護ができなくなり、再び殴打することは確実だろう。認識としての政治的読みは、過去を理解しようとする。一方、行為遂行としての政治的読みは、未来においてそれが再発する必要性=必然性を排除しようとする。
 このことは、すべての裁定者が、自身の裁定行為の効果を、自身の決定に関わる認識的コンテクストの内に包含しなければならない、という不可能な立場にあることを意味している。そうした効果を支配する歴史的因果性の本性に関わる問いは、決定することも、無視することもできないのだ。ヴィアは、公の立場にあるため、みずからの読みが政治的権威を有する行為とならないような読み方を選択できない。だが、メルヴィルが『ビリー・バッド』で示しているのは、そうした権威は、まさにみずからの適用効果を包含=抑制できないことにある、ということだ。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、186~187; 「6 メルヴィルの拳 『ビリー・バッド』の処刑」)



  • 久しぶりに一時まで寝過ごしてしまった。一一時頃に一度覚めたのだけれど、目をつぶって気力が寄ってくるのを待っているうちにまたまどろんで、その後も半端な状態のまま長々と起き上がれなかったのだ。前夜は三時四〇分と比較的はやく消灯できたにもかかわらずなぜこうなるのか不可解だが、仕方がない。当たり前の話だけれど目を閉じているとおのずとまた眠くなってしまうので、意識がもどったらとりあえずは何よりもまぶたをひらいたままにすることを目指そう。目が開いていればからだも自然に起きてくるだろう。
  • 上階へ。昨日までとは打って変わって、空気にまるで色味のない曇天である。居間から玄関に続く扉がぼんやり白くなっていたので、玄関の戸が開いているのがわかり、なぜ開けっ放しにしているのだろうかと訝ったのだが(母親はすでに出かけていた)、トイレに行くために扉をくぐれば、父親が腰掛けに座っていたのだった。もろもろ済ませてカレーと味噌汁で食事。新聞からはまず坂野潤治追悼の小文。半世紀前に書かれた著作もいまだ色褪せておらず、とても優秀な学者でありながら、二〇〇〇年以降は新書なども多数ものして一般にも知見をひろめたと。ほか、香港で周庭と黄之鋒と林朗彦の三人が起訴され、収監されたとの報。あとベンヤミン・ネタニヤフが秘密裏にサウジアラビアを訪れていたとか、大国を中心にコロナウイルスワクチンの奪い合いがはじまっていて、WHO主導のCOVAXという枠組みがあまり機能しそうにないとか。菅義偉についての世論調査では、彼のどこを評価するかみたいな質問で八項目のうち、「誠実さ」というのが七四パーセントくらいでもっとも高かったらしい。マジで?
  • 食後は皿を洗うともう洗濯物を入れる。淀んだような暗さがややあって寒々しい、ことによると雨すら降ってくるのではないかというほどの天気だ。それだから洗濯物もきちんと乾くはずがないが、これ以上出していても仕方がないので取りこんで室内にかけておいた。そうして風呂を洗うと茶を注いで帰室。昨日、LINEがアップデート中とかで一日の途中からずっと見られなくなっていたのだが、今日見ても緊急の用件は来ていなかったので良かった。FISHMANS『Oh! Mountain』を流してまずはここまで記述。今日で休みが終わってしまう。最悪だ。死ぬまで永遠に休日で良い。なんとか今日中に日記を現在時までつなげたいが、果たしてできるかどうか? いまは一八日の途中まで来ている。手がかかりそうなのはやはりその一八日と、「(……)」の会合があった二一日だ。それらをこなせればあとはどうにかなるのではないか。そして、明日がWoolf会なので翻訳もなるべくやっておきたい。
  • 一八日の日記に邁進。じきにからだが疲れたのでベッドに移って石井辰彦も読む。夕食にはカレーが残っていたので、白菜および大根の味噌汁と、キャベツとニンジンの生サラダをこしらえた。なぜかわからないが味噌汁がかなり美味くできていた。書見は、石井辰彦を読み終えたあと徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、一九九七年)に。迷ったが、やはりショアー方面の本をそろそろ読もうと思ったのだ。ゲットーというのは鋳造所をあらわすGettoというイタリア語が語源だという説が有力らしい。ユダヤ人の居住区画としてのゲットーは、一五一六年にヴェネツィアにつくられたのが最初で、そこはまさしくもともと鋳造所地域だった。ただヴェネツィアおよびイタリア地域は法王庁の膝元であるにもかかわらず、ユダヤ人に対する実質的な迫害はそこまで強くはなかったようで、ディアスポラの民が暮らすにはおそらく一番安全な土地だったと言う。ヴェネツィアのゲットーがはじめて集団的殺戮の対象になったのは、決して中世ではなく、二〇世紀になってからのことである。一九三〇年代末にナチス・ドイツが侵攻してきた際のことで、ムッソリーニも最初は人種差別政策を取っていなかったのだが、ヒトラーへの義理立てもあったのか、その頃にはユダヤ迫害に転じていた。つまり、ヴェネツィアのゲットーにおいて歴史記録上最初に甚大な迫害が起こったのは、ナチスファシストの連中の手によるものだったということだ。
  • 夕食後はまた日記を進めたあとに、ceroFISHMANSなどの歌を歌いながらストレッチをした。歌を歌うという行為は最高に気持ちが良い。声が伸びて肉に響く感覚が最高に気持ち良い。自由という概念の意味は、好きな歌を歌えるということにほかならない。好きな歌を歌えない国、これはおよそ国家と呼ぶに値しない。最後に小沢健二の"天気読み"で締めたのだけれど、小沢健二で一番好きなのはこの曲かもしれない。ここにあるニュアンスと色合いはすばらしい。たぶんその後の小沢健二の音楽からはほぼ完全に消え去ってしまったものなのではないか。最初のアルバムが一番成熟感を漂わせているというのも変な話かもしれないが、いまの小沢健二はともかくとしても、そのあとの諸作の小沢はこのときのような歌い方、発声はまるでしなくなり、若々しく、ハッピーで明るい歌唱およびサウンドに転換していった。二枚目の『LIFE』が顕著だが、その後においてもファーストの色合いは復帰せず、多幸的なポップさが共通要素として底流し続けていると思う。こちらとしては、いまの小沢健二に『犬は吠えるがキャラバンは進む』に回帰したような作品をひとつつくってほしいと願っているが、おなじ望みを抱いている人もけっこういるのではないか。というか九〇年代当時にも、ファーストがあれで、二枚目の『LIFE』が出たときにがっかりしたり驚いたりした人は多数いたのではないかという気がする。
  • 入浴中、梶井基次郎をまた読みたいなと思った。彼の作品のような短篇というか、掌篇もしくは小品のようなものを書きたい、とも。長篇はこちらにはまだ普通に無理そうなので、まず小さなものから書いていくのが良いだろう。そう思ったときに、「(……)」からはじまる小品のアイディアを思い出して、風呂で過ごしているあいだに頭のなかで文章や展開がちょっと浮かんできた。なんか電波系というか、やや狂った感じの語りにできそうというか、勝手にそういう話者のイメージがあらわれてきたのだが、いつ取り組みだすかは未定。
  • 感覚器を張っているような状態を常に保ちたいなと思った。張る、というよりはひらくというか。周囲に向けて放射するような感じで、それを瞑想的な状態と言っても良いのだろうけれど、こちらのイメージとしては夜道をゆっくり歩いているときのあり方である。呼吸とか姿勢とかよりも、そこが本質なのではないか。
  • Jeff Beck『Blow By Blow』を久しぶりに流したけれど普通に格好良い。Jeff Beckのデビュー以来のプレイや音楽性の変遷というのもちょっと興味はある。"Scatterbrain"を後半からきちんと聞いたが、あらためて聞くとこのリフなんやねんという感じで、よくこんな風にやろうと思ったな、と思う。ジャズでもフュージョンでもこんなシーケンスをリフとして曲の中核に据えているのは聞いたことがない気がする(むしろハードフュージョンとかプログレの方面にあるのではないか)。
  • To The Lighthouseを翻訳しようと思っていたのができず、消灯時間も退歩してしまった。一日のなかで仕事を充分に、やりたいだけやろうとするとどうしても時間が足りなくなる。日記は五時間取り組んだのでけっこうがんばったほうだが。短歌は以下の四つをつくった。最初のやつは、なぜなのかわからないがずいぶんと古典的な主題を扱ってしまった。

 今生もはかなく暮れて桜樹下に彼岸の匂いかおる風かぐ

 成年の義務を果たさずそのかわり罪も犯さず逃げきりたいが

 さよならを言ってくれない君そして終演を待つ僕のカデンツ

 耐えがたい日もあるけれどぼくだってなみだのかわく音を知ってる


・読み書き
 14:21 - 14:43 = 22分(2020/11/24, Tue.)
 14:43 - 15:57 = 1時間14分(2020/11/18, Wed.)
 16:07 - 17:09 = 1時間2分(石井: 50 - 100)
 17:47 - 18:14 = 27分(石井: 100 - 115)
 18:23 - 18:54 = 31分(徳永: 2 - 9)
 19:29 - 20:13 = 44分(2020/11/18, Wed.; 完成)
 22:43 - 23:26 = 43分(2020/11/20, Fri.; 完成)
 23:34 - 25:34 = 2時間(2020/11/21, Sat.; 完成)
 25:36 - 26:16 = 40分(徳永: 9 - 19)
 計: 7時間43分

  • 2020/11/24, Tue. / 2020/11/18, Wed.(完成) / 2020/11/20, Fri.(完成) / 2020/11/21, Sat.(完成)
  • 石井辰彦『全人類が老いた夜』(書肆山田、二〇〇四年): 50 - 115(読了)
  • 徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、一九九七年): 2 - 19

・音楽