2022/12/21, Wed.

 ぼくの今日の眠り全体には、今日はお手紙が来ないという考えが、実にさまざまな関連をもちながら、一杯に滲透していました。事実お手紙は来ないで、ぼくは女中の言葉を理解する前に、それを喉元に感じていました。あなたを手紙を書くことから解放してあげるべきでしょうか? 最愛のひと、それならなんでもないことでしょう。しかしぼくからあなたを解放すること、それは良い成果といえましょう。しかしぼくは手紙さえ諦めることができないのです。ぼくはあなたからの便りへの欲求に取りつかれています。どんなに些細な生存のしるしを生む力も、ぼくはお手紙を通じて得ているにすぎません。小指一本ちゃんと動かすためにも、ぼくはあなたの手紙が必要です。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、318; 一九一三年三月三〇日)



  • 一年前の日記より。

(……)時刻は三時なので陽射しがまだ道のうえにたくさんそそいでまばゆさで視界をつぶしてくる。坂に折れてのぼっていくとこもれびもまだ色がうすくさらさらとした感触で、みぎての土壁におおきくかかったり、ひだりての木立ちのなかを浮遊して緑葉をはなやがせたり、ガードレールの影を路上に几帳面に引き出したりしている。空はまったき水色、トナカイや鹿の角をおもわせる枝分かれをした裸木がこずえをそのさわやかな水のなかへつきあげ浮かべて、枝の側面に白さを受けて塗っていた。最寄り駅にはハイキングすがたの高年がいくらか。ホームにわたってすすんでいくと、ホーム上に日陰はおりおりの柱が生み出すそれのみで、かすかに青さをはらんだようなその影はホームのうえのみならずそのしたの線路にもかかり、さらに越えておのおの側道にまでおよんでおり、ななめにはしりながらところどころで交差して帯模様をつくりだしている。

  • きょうも起きたあと寝床で深呼吸したり、ふくらはぎをほぐしたりしながらだらだらとどまって過去日記やGuardianなどを読んだ。それで起床はれいによって一一時に。しばらく手を振ったり首を左右にやってやわらげたりしたあと、瞑想へ。二〇分ほど。からだの安定感や肌の感じなどが、いぜんのものにだんだんちかづいてきている印象。ああ、こんな感じだったな、と。とはいえ左半身のいろいろな場所に違和感やノイズはまだまだのこっており、首から腕をとおって手先にかけて、あきらかにひだりのほうがながれがとどこおっていると感じられる。手を振っていても、右はひっかかりがないのに、左腕のほうは振動の伝達にたいする抵抗が諸所にみられる。あときょうは瞑想をはじめた序盤で、鼻も左のほうが呼吸しづらい、空気がとおりづらいということに気がついた。瞑想しているうちにたしょうほぐれてくるのだが。オスグッドによる膝の突出もふくめて、やはり左半身ぜんたいにゆがみがあらわれているのだろうという感覚が明確になってきており、おおかたなんともない右とのあいだに断絶やずれがはさまってうまくぴったり合わさっていないような感じを受ける。その非対称性をなおしてきれいなバランスにつくりかえていくのが肝心なのだろう。根本的にはやはり背骨のゆがみとか側弯とかなのかもしれないが、ここが根本だというのはわからないし、核としてのそういう一点があるとかんがえるよりは、からだの左側を全体的にいたわってながれをよくしていくうちになんかだんだんととのってこないかなという希望的観測をもっている。そのためには全身的な、広範囲にきくアプローチが重要で、となるとやっぱり深呼吸とか、瞑想とか、ふくらはぎを揉むのとかが有力になってきそうだ。ただいっぽうできょうはここがあきらかにクリティカルだなというポイントもひとつみつけた。それは左腕の肘のすぐそばで、手のひらをうえにむけたかたちで左腕をまっすぐ伸ばしたとき、肘関節はとうぜん左右にすこし出っ張りを生むが、その右側、すなわち内側にあたるほうの出っ張りからわずかに肩のほうに行った付近をさすると、もうピリピリとしびれがくるくらいおおきな反応があって、そのしびれの感覚が小指のほうにも波及している。もともと手を振っているときに、ながれがとどこおっているといってまあおおかた結節点、つまり手首・肘・肩の関節付近が詰まっているというかどうかなってんだろうとみこんでいたが、やはりそうで、この肘のそばがなにかしらへんなことになっていたようだ。それなので食後の音読のあいだとかはそのへんをよくさすっておいた。肘よりうえの上腕というのは意識しないと意外とふれないところだから凝りが溜まっているようで、肘の付近でなくてもけっこう反応はあるし、右腕のほうもおなじだ。腕を全体的にさすったりあたためたりして血や酸素のながれをよくするのが、首や肩や背のほうにもきいてくるのだとおもう。脚を全体的にもんでやわらげれば楽になるのとおなじことだろう。
  • 起きたときには天気は曇りで、ときおり薄雲のながれるあいまに青さが見えつつもすぐに塞がれてしまい、寒々しい白さの午前だったが、正午を越えて皿洗いをしているころにはレースのカーテンが薄陽をはらみ、いくらかほがらかめいた雰囲気もただよっていた。しかしそこから洗濯をするほどの陽気ではない。いま天気予報をしらべてみるとあしたは雨のち晴れとなっており、午前は降りしきるようだが一二時いこうがいちおう一〇パーとなっている。しかし正午でそんなにきっかりやむかどうか。最高気温は一六度と謎に高い。
  • Woolfの英文ほかを読むと二時半かそこらから寝床にうつって書見した。『波』である。きょうはそんなにメモする箇所もみあたらず、じわじわとながら前線をすすめられた。おもしろい。さいしょのうちは訳が独白にしてはいまいちながれなくてちょっとなあ、とおもっていたのだけれど、二章(?)のとちゅうくらいからそれも気にならなくなってきて、いま三章(?)にはいってちょっと行ったところだが、ウルフの文章というのはなんかもうほんとうに、分析とかテーマ系列とかをかんがえてもけっきょくどうでもよろしいというか、一文一文を読んでいるだけでこころが満たされるというすばらしさがある。つらなりのなかにふくまれている情報の種類が豊富だったり、その転換がおもしろかったり、これこそまさにウルフの文章だというなんらかの組成やてざわりがあり、ああいま小説を読んでいるなあという充実感をもたらしてくれる。『ダロウェイ夫人』、『灯台へ』、『波』、すくなくともこの三作はぜんぶそう。たいしてなにもかんがえずに一文一文、一語一語をただ読んでいるだけでおもしろくて精神的に栄養を摂取した感じになる。すばらしい。それはもちろん物語としてのおもしろさではない。ウルフというひとはへんなはなし、物語はできないタイプの作家だったのだとおもう。できないなんて言っちゃうとあれだけれど(やろうとおもえばできたのだろうし、『ダロウェイ夫人』いぜんにはもうすこし物語的な小説をやっているのかもしれないが。しかしそのへんのものは読んだことがない。『オーランドー』とかはけっこうそっちに寄ったものなのかもしれない)、時間のながれやできごとの推移をてぎわよく要約する語りによって牽引力をもった小説をやろうというにんげんではもちろんなく(というかそもそもいわゆる「意識のながれ」と呼びならわされているウルフの小説の文章形式や主題じたいが、そういうかのじょいぜんの、伝統的なかたちをもった一九世紀ヴィクトリア朝の小説(たしかウォルター・スコットとか――とおもっていまWikipediaを見たところ、スコットは一八三二年に死んでいるので厳密にはヴィクトリア朝ではないが――というか意外とはやい時期のひとだったんだな、とおもう。フローベールなんかよりもはやいんだなと)にたいする反発から、一種のアンチテーゼのようにして編み出され選び取られた表現だったはずだ)、かのじょが書くのはつねにひとつの場面だったり、ひとつの瞬間だったり、ひとつの時空だったりしていて、その相対的にはみじかい範囲の(作品によってはあからさまに断片的な)時空がいくつもつみかさなって、芳醇きわまりないひとつのゆたかさをつくりあげるというのが、ヴァージニア・ウルフの作品にたいするこちらの理解。読んだのがめちゃくちゃむかしなのでよくおぼえていないが、『歳月』なんかはたしか一年ごとにひとつの場面がえらばれて記述されるような感じの構成ではなかったっけ。たしかさいごの作品だったはずの『幕間』がどういうものなのかはいまだになにも知らず、新訳(初訳?)も数年前に片山亜紀が出してくれたのでそれもはやく読みたい。
  • 四時くらいまで読んで寝床を立ち、日記を書こうとしたのだが、そのまえに音楽聞いて英気をやしなうかとすぐにひるがえり、きのうのつづきで『A Night at Birdland, Vol. 2』をまた一曲目から三曲聞いた。しかしなんだかねむたくて、そんなに意識にはいってこず。しかしじっとしていればからだはやわらぐのでよい。そのあとあたまの淀みをはらうために手を振ったり深呼吸したりしてからきょうのことを書き出して、ここまでで五時半。さくばんにつづき今夜も通話することになっていたのだけれど、なんかきょうは書きものにたくさん取り組めそうな気がしたので、欠席のうかがいをLINEに投げて了承をえた。じっさいたくさん書けるかわからんが。ともかくもう腹が空っぽなので、ひとまず飯だ。


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  • いま午後九時。一七日の記事を投稿し、一八日分にも外出路のことだけ足して投稿した。一九日の月曜日ときのうはまた書くことが増える。が、てきとうに気楽にやる。食事は煮込みうどんのさいごののこりにキャベツと豆腐の手抜きサラダ、そしてこのあいだ実家から鹿肉の燻製をもらってきたことをおもいだしたので、それをスライスして白米とともに食った。味がだいぶしょっぱいので、よい米のおかずになる。まだはんぶんくらいのこっているのでもう一食つかえる。ヤクは飲んでいるからその効果もあろうけれど、食後もからだのなかがうごめいて響くような感じはちいさくなり、全般的な体調は順当に向上している。あと胃液感もなくなったが、これは毎朝深呼吸をするようにしたから、横隔膜がよくはたらくようになったり、噴門を締める括約筋が機能するようになったのではないか。逆流性食道炎にたいする改善法としても、腹式呼吸を習慣にしてそういう筋肉がただしく活動するようにする、というのがあるらしいので、まさにその効果が出たのではないか。それで食後に苦しい感じとか胃液感とかがなければ、比較的まもないうちからからだをうごかすことができる。きょうはなぜかネバネバ歩き、つまり爪先はつけて踵だけあげるかたちのその場歩きをやりたくなったので、メモってあるGuardianなどの英文記事をいくつか読みながら、たびたび席を立ってちょっとそれをやっていた。かなりだらーっとした感じのペースでやっているのだが、ちからが抜けて、足首や脚、背や胸までよくうごいてほぐれるのでなかなかきもちがよい。血もめぐる。そして血がめぐればやる気が出るという寸法である。これからまた汁物をつくっておこうかなとおもっている。今夜中にもう一食食うかわからないが。しかしなんとなく腹が減りそうな気はしないでもない。英文記事で読んだのはどれもすこしまえのはなしだが、Yeの件とか、Adidasの創業者兄弟はナチ党員だったとか(Adolf (Adi) Dasslerという弟のなまえから取ってAdidasらしい。Wikipediaによれば、「1930年代にアドルフ・ヒトラーが台頭すると、ダスラー兄弟は揃ってナチ党に入ったが、アドルフより兄ルドルフの方がより熱心な国家社会主義者であったとされる」)、スペインでフランコ政権期に南米にのがれたひとびとの子孫に市民権をあたえる法律ができたとか。スペインにはさいきんでもアルゼンチンからけっこうな数のひとびとが、同国の政治社会をいやがって(見切りをつけて?)はいってきているらしい。とはいえスペインだって、若者の失業率がやばいとかいうことを数年前からずっと聞いているような気がするが。そうだよな、アルゼンチンもスペイン語なのだよなといまさらのことをおもった。つまりこちらが認識していたよりもずっと、その二国のつながりや交渉は密接なのだろうと。しかしアルゼンチンの作家なんてボルヘスしか知らんが。ボラーニョはチリだったか? パンパを舞台にした小説書いていたおぼえがあるけれど。『鼻持ちならないガウチョ』だっけ。それでいまアルゼンチン文学のWikipediaも見てみたところ、「19世紀末にニカラグアのルベン・ダリオがモデルニスモ文学を主導すると、ダリオが1893年から1895年までブエノスアイレスに滞在したこともあり、アルゼンチンはモデルニスモの一つの中心となった」とあって、ルベン・ダリオってそうだったのか! とおもった。モダニズムのくくりにはいるにんげんだったのかと。ダリオといえばガルシア=マルケスが『族長の秋』のなかになまえを出している詩人で(たしか大統領府につれていかれた盲目の物乞いがルベン・ダリーオの詩を披露して五センターボもらってきた(という噂がまことしやかにつたえられている)、みたいなことじゃなかったっけ? ほかのばしょにもなまえは出ていたとおもうが)、二、三年前にルベン・ダリオ物語集みたいな本も一冊出ており、地元の図書館の新着でみかけてちょっと気になっていた。ほか、アルゼンチンの作家でこちらが知っているなまえとしては、コルタサル、ビオイ=カサーレスマヌエル・プイグがそうらしい。エルネスト・サバトというのもどっかで聞いたようなおぼえがある。しかしだれもまったく読んだことがない。ボルヘスですら二〇一四年くらいに『不死の人』一冊を読んだきり。まあボルヘスというのは要は構造的にしかけをはらんだ奇妙な説話的短編をつくるのに特化したにんげんというようなことだとおもわれ、その点(……)さんもブログで(すくなくともムージルカフカとくらべれば)たいした作家ではないと言っていたし、蓮實重彦柄谷行人との対談のどこかで、じぶんは他人の文章を真似するのが得意で、たとえばボルヘス程度のものだったら一晩でささっとかんたんにいくつもつくれちゃうんですよ、とか特有のいやらしさで豪語していたおぼえがあるが、まあそういうことなんだろう。検索すると典拠部分を載せているブログがみつかったので、当該発言を置いておく。ちょっとちがっていた。一晩で書けるのはボルヘスではなくて吉本隆明の詩のほうだった。

蓮實重彦)僕は非常に影響を受けやすい人間だと思う。というより、どちらかというと物真似がうまくて、いわゆるバスティッシュは他人にひけをとらないつもりです。たとえば、バルトの模倣で一冊の本は書けるだろうし、ヤコブソンの模倣で言語学の論文を一つ書きあげる自身があるのです。吉本隆明の詩も一晩で二、三篇は書けますね。事実、一度やってみて自分でこわくなって捨てちゃったけど、絵の方でいう贋作の才能があるんです。いわゆるアカデミックな学術論文だって、アカデミズムの連中よりずっとうまく書けるという自信がある。僕はボルヘスをつまらないと思うのは、ボルヘスよりうまくボルヘス的な短篇が書けちゃうからなんです。だから、モデルということになると、僕には無限にある。文体を模倣するんじゃあなく、言葉の生き方においてそっくりになっちゃうということです。だから逆に、影響ってことに関しては非常に厳しいし、また意識的だといえる。たとえば、デリダは絶対に真似もしないし、影響も受けていない。先ほどいったフーコー的な不快さという点からすると、デリダの文章は不快なんです。(柄谷行人との対談集『闘争のエチカ』PP.200-201)


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  • 水切りケースのなかをかたづけ、鍋に水をそそいでコンロへ。シイタケから切り出して、その他の野菜ももろもろ切って投入し、きょうは味噌ではなくて麺つゆだけでいいかとおもってきのうより多めにそそいだ。あとで味の素も入れたい。また、ショウガを買ってあったのをわすれていてずっとつかっていなかったので、のちほどこれでもかというほどにすりおろして混ぜたい。鍋はほぼ縁まで埋まるようなぐあいとなった。火を最弱にして煮込みフェイズにうつると、ちょっとごろごろするかと寝床にうつり、(……)さんのブログを読んだ。一七日分までだったか? わすれた。ついさきほどなのに。ゼロコロナ政策が転換されてからの(……)さんの周辺のようすが記されているのがやはり興味深い。歴史の記録も日記という文書の役割かつ魅力のひとつだ。

 (……)の中へ。入り口に守衛はいない。QRコードの立て看板もない。自由に出入りできる。マジか。いちおう中に入った先でパイプ椅子に腰かけている守衛がひとりいるにはいるのだが、あれはたぶんマスクをしていない客に注意する係だろう。実際、マスクの自動販売機だけは以前と変わらず入り口に設置されたままだった。しかしこの変わりようはすさまじい。本当にお上のひと声でなにからなにまで様変わりするのだ。あまりの変化にちょっと笑ってしまう。ラテンアメリカ文学の独裁者小説が滑稽だという意味での滑稽さを、この地ではいたるところに見出すことができる。もちろん、それは恐怖を裏地とする滑稽さなのだが。(……)くんに教えてやりたい、族長の秋じゃない、国家主席の冬、総書記の冬をおれは生きているぞ、と。

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 步步高へ向かう。まずは三階で歯ブラシを検分。フロアはガラガラ。店員のおばちゃんらが三人か四人、集まって立ち話をしているが、商品をひとつずつ手にとり選ぶこちらのそばには全然寄ってこない。通常であればわれさきにやってきて、しつこく営業トークをするというのに。感染をおそれているのだろう。以前は見つけることのできなかったフロスもあったのでこれも購入することに。そのまま二階に移動。红枣のヨーグルトと冷食の餃子をゲット。袋麺も買うつもりだったのだが、なぜか売り場から姿を消している。代わりにスープも火薬もついていない乾麺だけが大量に並んでいたのだが、これってもしかして正月が近いからなのか? いや、春節ならばともかく、別に正月だからといって特別なものを食べるという習慣はないのではなかったか——と書いたところでふと思い出したのだが、(……)から以前、長寿を祈って麺を食べる習慣があるという話を聞いた、あれは誕生日のことだったろうか? 正月のことだったろうか? 春節のことだったろうか? まあなんでもええわ。
 セルフレジで精算する。店の出入り口を引き返す。マスクの着用率は100%。以前は入り口にいる守衛の前でだけマスクを装着し、中に入ったとたんにそのマスクを取り外すという客が半数ほどいたと思うのだが(そして守衛もそのことを注意しない)、やっぱり完全に空気が変わったなという感じ。N95をつけている姿もけっこうある。顔のサイズに全然合っていないガバガバのウレタンマスクをつけているのはじぶんくらいだ。

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 その流れでメシを食いながら少々やりとり。「学校の疫病が深刻だそうです。」というので、「そうなの?(……)学院でもとうとう感染者が出たの?」とたずねると、「そうです。」「私は他の学院の先輩から聞いた。」とのこと。は? マジで? 単なる噂じゃなくて、マジのマジなんだろうか? もしそうだとすれば、(……)からなんらかの通知があってもいいと思うのだが。しかしいまキャンパス内に感染者がいるのだとすれば、こりゃもうどうしようもないな、学生らはほぼ全員第四食堂でメシを食うなり持ち帰るなりしているわけだし、あそこがハブとなってガンガン拡大するんではないか? だったら避けるか? 予定よりはやめに自炊をはじめるか? となるわけだが、いや、どのみち時間の問題でしかないか。実家にいたころは両親もいたし感染しないようとにかく気をつけていたわけだが、いまはひとりであるし、デルタではないオミクロンであるし、それになにより春節&返校で今後感染するのはほぼ間違いないわけだから、過敏になっても仕方ないというのは正直ある。どのみち食堂の営業もあと一週間ほどであるわけだし、自炊はやっぱりそれ以降でいいか。「私の友人の一人が兵学校にいて、感染もしていました。」と(……)さんは続けた。ついに「知り合いの知り合いが感染」というところまでせまってきたわけだ。先に書いてしまうが、のちほどモーメンツをのぞいたところ、(……)さんが彼氏が(羊の絵文字)になって三日目と投稿していた。阳性の阳と羊はどちらもyang2と発音するので、中国では陽性のことを羊の絵文字であらわすことが多いのだが、それはとにかく、ここでもやっぱり「知り合いの知り合いが感染」というわけで、これ、思っていたよりもずっとはやいぞ。田舎であるし春節までは余裕だろうと構えていたわけだが、全然そんなことないかもしれない。来週病院で受けることになっている健康診断とか普通にちょっとリスクあるんじゃないか? まいったな、ほんとに。

  • そういえば『波』なのだけれど、三章(?)のはじめの風景描写のなかに、「黒猫が茂みでがさっと身動きしたり、コックが燃え殻を灰だまりに投げたりすると、驚いた小鳥たちは、孤を描いていっせいに飛び立つ」(82)という一節があって、あれ、このパートでにんげん出すんだ? と意外におもった。過去に読んだときの印象からしても、各章(?)のはじめに置かれていて漸進的な時間の推移をしめすこの海岸地の描写は、具体的なにんげんのすがたとは独立した、風景としてのみ完結したものとして提示されて、その点で本篇と分離したり(ある点ではつながってもいるのだろうが)対比的になったりしているとおもっていたので。いちおう一章(?)のまえに置かれたさいしょの記述のときから、「光は庭の木々にまで届き」とか、「陽の光は建物の壁をきわやかにし、そしてブラインドのうえに扇の先のように止まると、ベッドルームの窓辺の葉陰に、影の青い指紋を作った」(6)と書かれてはいて、だからひとの住んでいる(かどうかはここの記述からは厳密にはわからないのだが)家がそこにあるということはしめされており、この庭や家は二章冒頭三章冒頭でももちろん出てくるのだけれど、「コック」という一語が出現するまで、にんげんの存在はそこに直接的にえがかれていない。しかもこの「コック」は「燃え殻を灰だまりに投げたり」しているから(なんの燃え殻なのかわからないが。燃やしたゴミということか?)、つまり具体的な行為をしており、しかもその行為が習慣的な生活のいとなみをうかがわせるものでもあるので、にんげんの存在感がここであからさまににおいたってくる。ついでに言えば、この家は「コック」をやとえるくらいの階級や経済性をそなえた暮らしをしているということもみえてくる(みえてこざるを得ない)。そういうわけで、人間不在の独立景観、象徴的な意味合いも多分にはらんでいるであろうある種の別位相としてかんじられていた風景描写が、ここで人間の(あえて言えば)なまぐささのようなものに侵入されているわけで、あ、そういう感じでいいんだ? とおもったのだった。ところでこの三章冒頭の記述のなかには、「迷える魚群が横切ったのだろうか、碧の虚 [うろ] が深まりかぎろう」(81)なんていう一文もあり、この「かぎろう」という語のつかいかたなど勉強になる。
  • ここまで記していま一一時二三分。一九日の日記にかかるべきなのだが、通話もあり勤務もありと書くことが多いことがわかっているので、そうなるとやはりめんどうくせえなあという気持ちが立つ。ゆびはかるいのだが。ともかくいくらかはやるか。ところで、鍋を煮ているとシイタケがなぜかいつの間にかもっとも外側に浮かび上がっていて水面からもちょっと出て、鍋の内壁に貼りついて気づかぬうちにかわいている、という現象にだれかなまえをつけてくれないか? それが起こっているとお玉でけずり落とすようにしていちいち湯のなかにもどしてやらないといけないのだが。


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  • 「ことば」: 40, 31, 9, 24, 16 - 20
  • 日記読み: 2021/12/21, Tue.


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Stephen Burgen in Barcelona, “Spain’s new citizenship law for Franco exiles offers hope in Latin America”(2022/10/27, Thu.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/27/spains-new-citizenship-law-for-franco-exiles-offers-hope-in-latin-america(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/27/spains-new-citizenship-law-for-franco-exiles-offers-hope-in-latin-america))

Between the end of the civil war in 1939 and the approval of the democratic constitution in 1978, an estimated 2 million Spaniards fled the regime.

The exodus began when nearly 500,000 people escaped across the border to France in the dying days of the civil war. A column hundreds of miles long of terrified civilians, mainly women, children and older people, walked across the Pyrenees in freezing weather and under constant bombardment, abandoning their few possessions en route.

Once in France they faced a hostile reception and thousands were sent to concentration camps, where many died.

Between 1939 and 1942 an estimated 25,000 Spaniards, among them many artists and intellectuals, fled to Mexico, where they were welcomed.

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Spain has previously tried to make peace with its past, in 2015 offering citizenship to the descendants of Sephardic Jews expelled under the edict of 1492. However, although the 2015 law did not require applicants to be practising Jews or to live in Spain, meeting its requirements was long, complicated and expensive, requiring the applicant to visit Spain, take tests in Spanish language and culture, and prove their Sephardic heritage. They also had to establish or prove a special connection with Spain, and pay a designated notary to certify their documents.

When the offer closed in 2019, it is estimated about 36,000 applications had been accepted of a total 150,000.


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Josh Marcus, “Kanye West antisemitism: Was Adidas really founded by a Nazi?”(2022/10/27, Thu.)(https://www.independent.co.uk/news/world/americas/kanye-west-antisemitism-adidas-nazi-b2211571.html(https://www.independent.co.uk/news/world/americas/kanye-west-antisemitism-adidas-nazi-b2211571.html))

The founders of the company that eventually became Adidas were in fact members of the Nazi party, the Jewish Telegraphic Agency reports.

In 1924, brothers Adolf (“Adi”) and Rudolf Dassler founded Gebrüder Dassler Schuhfabrik (Dassler Brothers Shoe Factory), in the Bavarian town of Herzogenaurach.

A decade later, as the company continued to grow and Hitler rose to power, both brothers joined the Nazi party, according to journalist Barbara Smit’s book about Adidas, Sneaker Wars.

During this period, both men signed their letters “Heil Hitler,” and German athletes wore the brothers’ shoes during the infamous 1936 “Nazi Olympics” in Berlin.

The company has subsequently emphasised how Adi Dassler also provided sneakers during the 1936 games to Jesse Owens, the groundbreaking African-American track star who dazzled the American and German public alike.

Adidas told Insider that seeing athletes "perform at their best was more important to Adi Dassler than politics," and that the company is "proud that Adi Dassler showed moral courage ... in this darkest phase of German history."

During WWII itself, the company’s shoe factories were converted into munitions factories for the Germans. After the war, both brothers were scrutinised for their Nazi ties.


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Angela Giuffrida in Rome, “Italian neofascists display banner celebrating Mussolini’s march on Rome”(2022/10/27, Thu.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/27/italian-neofascists-display-banner-celebrating-mussolinis-march-on-rome(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/27/italian-neofascists-display-banner-celebrating-mussolinis-march-on-rome))

On 28 October 1922, Mussolini and his armed fascist troops marched from Milan to Rome “to take by the throat our miserable ruling class”. Two days later, King Vittorio Emanuele III handed him power. Mussolini ruled Italy for 21 years, passing anti-Jewish racial laws in 1938 and sending thousands of Italian Jews to death camps. His fascist regime fell in 1943.

In April 1945, Mussolini and his mistress, Clara Petacci, were shot dead by partisans in the final days of the second world war before their bodies were strung up at a filling station in a Milan square. His remains were brought to his birth town of Predappio, in the Emilia Romagna region, in 1957.