2022/12/20, Tue.

 (……)もしぼくが、最愛のひと、明日からあなたに日記のような報告を送るとすれば、それを喜劇と思わないでください。そのなかには、たとえあなたが優しく静かに居合わせたにしても、ぼくがただ自分にしか言えないようなこともあるでしょう。あなたにあてて書く場合、もちろんあなたを忘れることはできません、それでなくてもあなたのことは忘れられないのだから。しかしぼくは、そのなかでだけ書くことのできるいわば陶酔から、あなたの名を呼ぶことで目覚まされたくありません。(……)
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、317; 一九一三年三月二八日)



  • 午前の寝床では一年前の一九日、二〇日の日記を読んだ。したは二〇日のほうにあった居間からのながめ。「散った火花をひとつずつつかまえて整然とそろえて固定したよう」! すばらしい。

(……)ジャージにきがえながら窓のそとをながめると、快晴の陽に瓦屋根がひかって、おうとつにあわせてひかりの小塊群がたまってならんでいるのが、散った火花をひとつずつつかまえて整然とそろえて固定したように見える。屋根の天頂の横線や、その端からななめにくだって面をくぎる仕切り線のうえにも突出にあわせて等間隔で白さが点じ、ライトが設置されているかのよう。

  • いま午後六時半だがきょうはここまでこもりきり。天気がよかったけれど洗濯もしていない。このあと八時から(……)の三者と通話することになっている。近間のストアに買い物に行きたい気もしていたが(洗濯洗剤がもうなくなっている)、めんどうくさいきもちもある。起床は一一時前だったか。からだの感じはわるくなく、だんだんいぜんのような安定性にもどってきている感がある。瞑想もひさしぶりに三〇分いじょう座った。覚醒後に深呼吸をきっちり習慣的にやるのと、手を適宜さすったりして冷えないようにするのが肝心そう。手が冷えているとなんとなく体調もふるわない印象がある。食事は、一食目はキャベツに白菜・豆腐を切ってドレッシングをかけるだけのサラダと、即席の味噌汁。まずしい昼餐だ。野菜の量じたいはけっこうおおいが。大皿に山盛りになっているので。音読をしたあとはやる気が出たので、またもろもろ切って汁物をしこんでおいた。シャワーを浴びたあとだったかな。のちほど豆腐やうどんも入れて、麺つゆをベースにしつつ最終的に味噌を溶かしたが、味噌の量がすくなかったようで、中途半端な、ぱっとしない味になってしまった。シャワーのまえには音楽も聞いた。なぜか典型的なバップが聞きたいというきもちが起こっていて、キャベツを切っているあいだに”Confirmation”のメロディなんかおもいだしていたくらいだが、それがArt Blakey Quintetの『A Night at Birdland』の想起へと結実し、”Split Kick”なんかもながれたのでひさびさに聞くことに。ヘッドフォンをつけて椅子にすわり、瞑想とおなじかっこうでじっと聞く。聞くというかながれてくるのを浴び、それにさらされる。Pee Wee Marqutteの呼びこみがいぜんよりほんのすこしだけ聞き取れるようになっている気がした。そうしてはじまる”Split Kick”なんかあらためてきいてみるとテーマ裏のリズムの強調が弾力的で、からだがちょっとうごいてしまい、ソロがはじまってからも、スウィングじゃなくてもこれで踊れるわという感じ。このアルバムは過去けっこうながしていて、実家の部屋ではスピーカーからながれるのに合わせてタングトリルで各ソロをうたったりもしていたものだから、いまもたぶんだいたいメロディをうたえるとおもわれ、そうしたくなるけれどアパートなので自粛する。ドラムソロの終盤からテーマへの復帰にかけてBlakeyがシンバルを、祭りやってんのか? という具合でいかにもガシャガシャたたくけれど、その音だけでひとつの快があり、打楽器ってのもたいした楽器だ。ピアノもずるいが。ひるがえってギターは、ギターのこの音だけでもう、というのはなかなかむずかしいタイプかもしれない。そんなこともないかもしれないが。”Once In a While”はClifford Brownのためのmusical vehicleだとBlakeyがいうとおりペットを主演としたバラードで、叙情的なのだけれど、トランペットの流麗なソロを聞いていても、そのメロディをメロディとして聞いているというよりは、うごきを聞いているもしくは見ている、目のまえで展開されている現象を見ているような感じがあって、まえから音楽を聞くときに聞いているというよりは瞑目の視界内にあるものをみているような感じはたびたびおぼえていたが、さいきんはそれがよりつよいかもしれない。だからこの曲のソロでも迫ってくるのは叙情性よりも、とちゅうで短時加速して音をかるく詰めこんだときの、その風のようなうごきと質感だったりして、メロディというのはまさしく音の高低の推移、うごきそのものなわけだから言っていることがあまり意味をなしていないが、それが旋律というよりもなにかもののうごきのように感得される。三曲目の”Quicksilver”はよくできたテーマの曲だなあとおもった。これこそまさにバップという感じの譜割りできっちりはまっており、管ふたつのテーマメロディだけでなくピアノのつけもそうだ。ただこれはやはりバップといってもハードバップのテーマだとおもわれ、これよりすこしだけまえ、行くところまで行ったようなビバップの苛烈さとはちがい、音取りがいくぶんキャッチーなのだ。ハードバップに移行する直前の、行き着いて行き詰まっちゃったビバップのなかにもやばいのがけっこうありそうな気がしているのだが。あとこの曲のLou Donaldsonのソロはよい。まあどの曲もよいのだけれど、音のつらなりがするすると、引き出される紐のようにしてつぎからつぎへと湧いてくるあの感じがあって、Clifford Brownにもあるけれど、アルトの音色が余計にそういう感をつよめるような気もする。”A Night in Tunisia”まで聞いた。
  • 湯を浴びたり汁物をしこんだりしたあとはたたみあげておいた布団をおろして寝床にころがり、ヴァージニア・ウルフ/森山恵訳『波』(早川書房、二〇二一年)を読んだ。読みたい本、読まねばという本はいくらでもあって死ぬまで尽きないわけで、どんどん読んでいきたいから分析めいたことなどよいだろうとおもってさきをすすもうとしたのだけれど、しかし読んでいるとなぜかテーマ系列などがどうしても気になってしまい、これとおなじような記述まえにもあったなとさかのぼって確認したりもしてしまい、そのうちに目を引いた部分のページ・行だけやっぱり手帳にメモっておくかという気になって、二章(?)のはじめからあらためて大雑把に読みかえし、したがって前線をあまりすすめられず。「波」とか「揺動」的な意味の語句が出てくると、おおくのばあいそのそばに「固い」とか、「石」とか、そういった種の語句も出現しているのではないかということに気づいた。まあ後者のほうは、「骨」とか「鉄」とか「鏡」とかしか見いだせない箇所もあって微妙だが。ただ、揺れるものと固いものの対比のうち、後者をもしかしたら「砕け(う)るもの」というテーマとして一括することが可能なのかもしれず、だとすると、その「砕け(う)る」という性質が、この二項間のどちらにも共有されるものとしてしこまれているのかもしれず(波もまた「砕け(う)る」ものだからだし、この作品のさいごの一文は波が岸だか岩にあたって砕けるというものだったはず)、そのへんもしかしたら「揺動」系列と「固定」系列がしだいに境をうしなって融合していくような象徴的筋立てになっているのかもしれず、それが人物にもたくされているのかもしれない。だからなんやねんというか、そういうテーマ論的な読みをがんばったところで蓮實重彦レベルでなければたいしておもしろいものにはならないわけだし、そんな小賢しいことはなげうっておいてどんどん読め、というおもいもあるのだが。ただ、揺動系の表現とか「砕ける」とか、頻繁に出てきて目につくなという語句はけっこうあるし、ほぼおなじようなフレーズが距離をはさんで反復されることもままあって、表層的対応が意外とわかりやすく、きっちりしこまれているような印象ではあって、だからついつい探査にさそわれてしまうテクストになっている。だからといって整理しきれるようになっているともおもわないが。意味論的構造を完結的につくって提示しようという作品ではないとおもう。それじゃ不定形の「波」にならんでしょ、ともおもうし。ある種の文学作品を整理しきれてしまうというのは、まあその作品がたいしたものではないというばあいもあるだろうけれど、しかしいっぽうでむしろ読むがわのおごりであり、あさはかさであり、恥なのだとおもう。蓮實重彦が、『夏目漱石論』のたしか序盤で、文学を読めてしまえるというのは(書けてしまえるというのに劣らず、とあったっけ?)恥なのだ、と書いていたのだけれど、その言の意味がわかってきたような気がする。れいによって典拠をきっちり付け足しておくと、講談社文芸文庫版で22ページに、「だから、意味であれ思想であれ、それが読めてしまうということは、「文学」にあっては書けてしまうことにおとらず恥しい体験なのだ」という文言があるようだ。
  • とはいえ、小説(この作品を小説と言ってよいのかどうかはよくわからんし、ウルフじしんは「劇=詩 [プレイポエム] 」と言っていたらしいのだが)読むのってやっぱりおもしろいなあという感覚をひさしぶりに得た時間ではあった。べつにうえのような構造的探索がことさらおもしろいというのではなく、もうたんじゅんに、そこに書かれてあることを一文一文、一語一語じっくり追って、リズムとともにその意味やイメージをあたまのなかに取りこんでいくという、そのプロセスじたいがおもしろくひとつの快であるということ。心身がある程度いじょうちゃんとしていないとそういう快は意外ともてない。


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  • 通話のことは割愛。書いておきたいようなことはそこそこあるけれど、心身がそれについていかない。いずれどこかでおもいだしたら記せばよい。


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  • 「ことば」: 40, 31, 9, 24, 11 - 15
  • 日記読み: 2021/12/19, Sun. / 2021/12/20, Mon.