2022/12/23, Fri.

 お分りですか、最愛のひと、あなたへのぼくの関係が意味している幸福と不幸のこの混合は(幸福とは――あなたがぼくをまだ見捨てず、見捨てるようなことがあるとしても、一度はぼくにやさしかったから。不幸とは――ぼくは、あなたがぼくにとって意味する自分の価値へのテストに対し、ほとんど耐えられそうにないからです)、この世の一番の余計者であるかのように、ぼくをぐるぐる回りへと駆り立てています。これまで(すべての人間はしばしばテストされなければなりませんが、ぼくはわずかしかテストに及第していないし、今度ほど大きく決定的なテストはありませんでした)ぼくをなお支えていたすべての抑制は消え去るようにみえ、ぼくは無意味な絶望と憤怒のなかをぐるぐる回りますが、それはぼくの環境、ぼくの運命、ぼくらの上にあるものに対してというより、ただ専ら、そして欲情的なまでに、自分、自分ひとりに対してのことなのです。(……)
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、323; 一九一三年四月四日〔おそらく一九一三年四月四日から五日への夜〕)



  • 一年前の日記より。

(……)新聞、大阪でオミクロン株の市中感染が発覚したと。寝屋川市内の小学校教員とその妻、未就学の娘が感染。ほかにふたり子どもがいて、そちらも陽性が出ているらしいが、オミクロンかどうかはまだ不明。オミクロン株についてはきのうの新聞に、アメリカでさいきん一週間に発生した新規感染者のうち、七割いじょうがオミクロン株におきかわっているという情報があった。そのまえの一週間はまだデルタ株がたいはんで、オミクロンは一〇パーセント強だったというから爆発的な拡大ぶり。

  • いまもう二四日の午前一時直前。きょうは勤務で、三時ごろに部屋を発ち、帰宅したのは九時半まえだった。からだから食べ物も水もエネルギーも抜けて空っぽの帰路が寒くて寒くて死ぬかとおもったくらいだ。ほんとうなら寝転がって休みたいところだが、これはさすがになにかものを食ってエネルギーを補給し、身をあたためないとまずいとおもったので、帰り着いて服を替えると、とりあえずあたたかいものを腹に入れたかったので、豆腐を電子レンジであたためて食った。即席の味噌汁がちょうどなくなっていたのが誤算だ。それからキャベツに白菜を切り、そのほか冷凍の唐揚げをおかずにして米。職場を去るまえに(……)駅前のセブンイレブンで差し入れとしてひとりひとつ分の菓子を買って置いてきたので(当日ではないが、まあクリスマスということで)、そこからじぶんがもらった栗餡のどら焼きも食べた。疲労したからだは食物を摂取すると重くなり、ざらつきがからだじゅうをいっぱいに満たしてなにをすることもできない。ウェブをみて時間をつぶし、一一時をまわると布団のうえにうつって、Chromebookをおともに脚を揉みほぐす。ふくらはぎや太ももを。そうしているうちにめぐりがよくなり、肉がだんだん軽くなってきて、なんとかシャワーを浴びてそれからできたら文を書こうという気になった。それでいまこうして書いている。日中はあまりふるわず、きのう胃がまたちょっとだけひりつくような感じがあったわけだが、それがかすかにつづいているような調子で、一食目を食ったあとにはからだのなかが微振動で満たされているような感覚でおちつかなかったのだが、音読をしているあいだだったか、なぜか組んだ脚のさきを上下にうごかして足首をやわらげているとおさまった。しかし起きてからけっこうな時間が経たないと、やはりからだは安心して文を書けるくらいの状態にはならない。とりわけきょうは勤務もあった。一九日いこうのことが書けておらず、一九、二〇はそれぞれ通話あり勤務ありとほんらい書くことはおおいのだけれど、書かない勇気を持つべきだなと体調第一のおもいをあらたにした。たかだか日記を書いている程度でまいど腹のなかをひりひりさせていてははなしにならない。書くことを優先してかんがえず、身をいたわることを第一として、書こうという意気がしぜんと来たとき、違和感なくすこしの無理もなく書けるというときにだけ書けばよいと。だから一九、二〇のことも打ち捨ててしまってもよい、むしろそういう勇気をこそ持つべきだと、日中そうかんがえた。それで二食目を二時ごろに食ったあとは書きもののことはかんがえず、放置していたハンカチやシャツにアイロン掛けをしたり、机のしたに引いているコットンラグをテープでベタベタやって掃除したり、スーツに着替えてもう出るとなった段でなぜか椅子まわりをちょっと掃き掃除したりした。
  • そのまえにはまたヴァージニア・ウルフ/森山恵訳『波』(早川書房、二〇二一年)も読み、帰宅後、さきほどだが、シャワーを浴びるまえにもすこしだけ読んだ。きょうはちょうど第四章のはじめ、121から読み出して、いま143まで来ているが、もうかんぜんにすばらしいのひとこと。ほかにない。分析やら考察やらそんなことはどうでもいいなという状態になった。きのうくらいから、ただそこにある文を読めばどこを読んでいてもおもしろくすばらしいというフェイズにはいっている。さいしょは訳のリズムがとか言っていたわけだが、それが気になったのはもっぱら第一章、せいぜい第二章のとちゅうくらいまでで、そのあとは違和感も消えて、むしろすばらしいというほかない文のつらなりがとぎれずにいつまでもつづいている。きのうきょう、読んでいて感動し、ちょっとなみだをもよおした瞬間もなんどかあった。象徴体系やテーマ系列の整理や把握などどうでもよろしい。読んでいて脱帽するような、問答無用で武装解除させられるような、これはかなわないと天をあおぐこころになるような、これほどの作品を読むのはひさしぶりのことだ。いままでは『灯台へ』のほうが好きだとおもっていたが、もしかしたらそうではないかもしれない。『波』のほうがくりかえし読む作品になるかもしれない。まちがいなく、いずれ原文で読まなければならない。これはなんどでもくりかえし読みたくなる作品かもしれない。もしそうだとしたら、大傑作だということだ。傑作というのはなんどでもくりかえし読みたくなる作品のことだ。ほかにない。一般性ではなく個人的領分で意味をもつのはその一事だけだ。一般的な価値だの意義だの偉大さだのは、それを容易に説明でき共同体のことばに翻訳されうる古今の「名作」にまかせておけばよい。『灯台へ』のほうがあきらかに「名作」といわれうるもろもろの資質をそなえた種類の作品であり、じっさいにそうなっている。もちろん『灯台へ』もこちらにとっては大傑作であり、いくらでも読みたいものだ。だが、『波』を『灯台へ』とならべてもそのすごみの点でいっそうかがやかせるかもしれないのは、もっとも大枠をなす形式の単純さで、つまり各章の冒頭に風景描写があり、本篇は六人の人物がかわるがわる括弧にくくられた独白をつらねるだけで、いわゆる地の文は風景描写いがいに存在しない、というものだが、このあっけないほどの単純さをえらんだことはきわめて勇敢な、畏敬の念を抱くにあたいする選択だというべきであり、それをさいしょからさいごまで貫徹しきってこのような作品としてしあげたところに、ウルフのたぐいまれなる忍耐と、このうえない作品への献身があらわになっている。そのことに感動する。『灯台へ』もすばらしいと言うほかない作品だけれど、『波』を書いたときのウルフはおそらく、『灯台へ』よりもはるかに根拠のすくないばしょで、危険と自由とがほとんどひとつのものとしてかさなりあった立ち位置で、ひとつひとつの足場を慎重にたしかめながらみずからで生み出していく、そんなあゆみをすすめていたはずなのだ。象徴性やテーマの配置、要素や記述の反復、過去の文学作品からの援用など、内部にさまざまなしかけや企図をめぐらせたにしても、また、六人の人物とそれをとおした世界というかたちで、にんげんの心理や性格や、舞台のリアリズム的造形を活用できたにしても、根本の部分でウルフがたよりにできたのは、あのぶっきらぼうな形式的単純さだけだったろうし、ひるがえして言えば、かのじょはその単純さのなかで、その制約のなかですべてをやってみせねばならなかったのだ。鉤括弧と鉤括弧のあいだにことばをつらね、そのまとまりを無数にならべつづけることで、すべてをやってみせねばならなかったのだ。そのようなおそれいるほどの単純さゆえに、括弧のなかは自由と危険が綯い交ぜられた茫漠たる開拓領域と化したはずで、それは作家にとって困難きわまりない試練の土地だっただろう。みずからの腕ひとつしか、みずからを支えるものはなかっただろう。ひとつひとつの文との、語との、ことばとの、関係のありかたや、したしみや、つながりの深さが、これまでになくためされたことだろう。もちろんすべての作品が、すべての文章が、ほんらいそういうものとしてつくられている。それでも、『波』を書いたウルフほどに荒涼とした孤高の大地でそれを問われたものは、歴史上、ほとんどいなかっただろう。かのじょはそこを歩み抜いた。その徹底性が、『灯台へ』にはないものであり、『波』のなか、いたるところに息づいている透明で苛烈なうつくしさである。『波』を書きあげたウルフは日記のなかに、”Yet I respect myself for writing this book”と書きつけたらしいが、そこになにひとつふしぎなことはない。その敬意は、この書物を読んだ者こそがまたひとしく払うべき作家への捧げものである。


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  • 「ことば」: 40, 31, 9, 22 - 24
  • 日記読み: 2021/12/23, Thu. / 2014/4/19, Sat.


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Julian Borger in Washington, “Cuban missile crisis, 60 years on: new papers reveal how close the world came to nuclear disaster”(2022/10/27, Thu.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/27/cuban-missile-crisis-60-years-on-new-papers-reveal-how-close-the-world-came-to-nuclear-disaster(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/27/cuban-missile-crisis-60-years-on-new-papers-reveal-how-close-the-world-came-to-nuclear-disaster))

Many nuclear historians agree that 27 October 1962, known as “Black Saturday”, was the closest the world came to nuclear catastrophe, as US forces enforced a blockade of Cuba to stop deliveries of Soviet missiles. On the same day a U-2 spy plane was shot down over the island, and another went missing over Siberia when the pilot lost his way.

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In October 1962, the US sent its anti-submarine forces to hunt down Soviet submarines trying to slip through the “quarantine” imposed on Cuba. The most perilous moment came when one of those submarines, B-59, was forced to surface late at night in the Sargasso Sea to recharge its batteries and found itself surrounded by US destroyers and anti-submarine planes circling overhead.

In a newly translated account, one of the senior officers on board, Captain Second Class Vasily Arkhipov, described the scene.

“Overflights by planes just 20-30 metres above the submarine’s conning tower, use of powerful searchlights, fire from automatic cannons (over 300 shells), dropping depth charges, cutting in front of the submarine by destroyers at a dangerously [small] distance, targeting guns at the submarine,” Arkhipov, the chief of staff of the 69th submarine brigade, recalled.

In his account, first given in 1997 but published for the first time in English by the National Security Archive at George Washington University, the submarine’s commander, Valentin Savitsky, lost his nerve.

Arkhipov said one of the US planes “turned on powerful searchlights and blinded the people on the bridge so that their eyes hurt”.

“It was a shock,” he said. “The commander physically could not give any orders, could not even understand what was happening.”

The risk was, Arkhipov added: “The commander could have instinctively, without contemplation ordered an ‘emergency dive’; then after submerging, the question whether the plane was shooting at the submarine or around it would not have come up in anybody’s head. That is war.”

In his account, Arkhipov played down his role and how close the B-59 submarine commander, Savitsky, came to launching the submarine’s one nuclear-tipped torpedo. However, Svetlana Savranskaya, the director of the National Security Archive’s Russian programmes, interviewed another submarine commander from the same brigade, Ryurik Ketov, who said Savitsky was convinced they were under attack and that the war with the US had started.

The commander panicked, calling for an “urgent dive” and for the number one torpedo with the nuclear warhead to be prepared. However, because the signalling officer was in the way, Savitsky could not immediately get down the narrow stairway through the conning tower, and during those few moments of hesitation, Arkhipov realised that the US forces were signalling rather than attacking, and deliberately firing off to the side of the submarine.

“He called to Savitsky and said: ‘calm down, look they are signalling, not attacking, let’s signal back.’ Savitsky turned back, saw the situation, ordered the signalling officer to signal back,” Savranskaya said. She added that two other officers would have had to confirm any order from Savitsky before the nuclear torpedo could have been launched.

     *

The B-59 incident was just one of a cascade of crises that day. A U-2 went missing over Siberia when the pilot lost his bearings, blinded by the aurora borealis and misled by compass malfunction close to the north pole.

Some F-102 interceptor jets were scrambled to protect the U-2, but the joint chiefs of staff who gave the order for their launch were not aware they had been armed with nuclear missiles as a matter of course once the alert level was raised to Defcon 2.

Minutes later, the joint chiefs heard that another U-2 had been shot down over Cuba and assumed it was a deliberate escalation by Moscow. In fact, the order had been given independently by two Soviet generals in Cuba. The joint chiefs were also unaware that there were 80 nuclear warheads on the missiles already in Cuba when they gave their recommendation for the US to carry out airstrikes and then an invasion of Cuba.

The recommendation was overruled by president John Kennedy, as negotiations with Soviet representatives, some of them in a Washington Chinese restaurant, were making progress, leading ultimately to the withdrawal of Soviet missiles from Cuba while US missiles were pulled back from Turkey.