実家の梅の木はすこしまえに父親が切った。日曜日の昼間にじぶんの部屋からだったかそれとも居間からだったか、その木をちょっとながめてみると、家の南側の斜面から、こんなにななめに生えだしていたのかというほどかたむいて、というか斜面にねざしたかたちでむしろ愚直にまっすぐ生えているのかあれは、そういうふうに幹を宙に差し出して、まもなくわずかにのこされた左右二股の枝ぶりに分かれるその両枝が、いま盛りの豊満といかずとも七割くらいかとみえる泡の白さにおおわれており、うえがないから首を切られた鳥の翼だけをおおきくひらいた図にみえて、これはこれでなかなかいいなとおもった。
翌月曜日の一〇時頃、食事を終えて歯を磨きながらベランダに出て、ひととき大気と陽を浴びた。夜から雨という予報だったがいまはまだ晴れており、あけはなされた晴天でなく薄雲の白さがほうぼう乗ってはいたものの、太陽は視界の上部をまぶしく濡らしてあたたかく、手すりに寄ってしたをみおろせば草ぐさを背景にした大気もぬくみをこめられつやを出している。畑の左側を縁取る小木立めいたならび、Tさんの宅とのさかいになっているその濃緑が、ところどころにというよりは数多く、宝を埋めこんだたぐいの微小なきらめきをやどらせていて、夜空にみる星と同様にちらちらふるえてまもなく消えてしまうかというような揺動のさまだが、明滅はしないしいつまで経っても消えもしない。梅の木はななめにあたるこの角度からみると、前日には七割方かとおもったけれどもう風に白片をほろほろ吐き出しはじめているので、すきまの多いあれで盛りだったのかもしれない。風は鼻もとに来るたびに、なんのにおいなのかわからない、それこそ梅の香りなのか、化粧につかう粉をおもわせるにおいやかさを置いていく。眼下ではながれに感応して花びらが一気に湧き出す数秒もあり、ひとつずつはなれていく間も落ちない間もあり、どれも地に着くまでのふるえと揺らぎが羽虫めき、同時にはなれた二枚が低い宙で合流し、連れ立ってあの世へ向かう比翼連理にうつるのもあった。その木のまわりを、何色ともいいがたい、強いていえば土の色という地味な蝶がしばらく回って飛ぶ。手すりにもたせかけた左腕はあたためられており、そのぬくもりが太陽光から直接来たのか、手すりからのぼってきているのかがわからない。いまこの時間、たしかに不安や緊張はないな、自足のつかのまにあるなとおもった。
おとといアパートに帰ってきたわけだが、T駅南の交差点あたりまで来たところで母親が、たまにはちがう道で帰りたいけど、なんとなく不安で、と言った。なるほど、これはじぶんだなとおもった。たまにはちがう道で帰りたいけど、なんとなく不安で。これほどじぶんの性質をぴったり要約したことばもすくない。そのあたりの自己分析もそのうち書くつもりではいるが、いまはフィクションのほうにあたまが向いている。
小説を書きはじめてしまったのだ。中断期間をのぞけばおおよそ一〇年、読み書きをつづけてきてようやく。苦節一〇年、ながかった、というようなかんじはとくにないが。そもそもこんなにはやく作品を書き出すとはおもっていなかった。「塔のある街」のことだけれど、これがじぶんがはじめてちゃんと書き、つくる短篇小説、ということになるとおもう。じぶんのなかで、あれは小説作品として認識されている。先週の一四日にまた文を書きはじめて以来、フィクショナルな断片をいくつか書いてはいて、これができるようになったのは「日記」という枠組みから解放されたということ、それはつまりじぶんじしんへの執着がすこしは弱くなったということで、いいことなのだけれど、当面はひょっとおもいついたものをこうして気楽に書いていければいいや、カフカが夜ごとやってたみたいに、おちがなくてもいいしとちゅうで終わってもいい、そういうものをやってればいいや、日記的な自分語りを二記事、それにフィクションを一記事できるくらいのバランスがいいかな、とかおもっていたのだけれど、「塔のある街」はもうタイトルまでつけてしまったので、じぶんの認識上であきらかにそれらとは一線を画している。この小説は、じぶんなりにムージルをやってみようというこころみですわ、こりゃ。ただ、「グリージャ」ではなく、どちらかというと「トンカ」ですわ。つまり深層がなんかあるっぽいみたいな書き方になるとおもう。もうだいたいの場面とか要素と、終わりもおもいついている。それにしてもじぶんがムージルをやるとはかんがえていなかった。マルケスやヴァルザーや、バルトやウルフをやるということはかんがえたことがあった。ウルフはほぼかんがえていないけど。また、マルケスやヴァルザーはいまもやりたいとおもっている、いちおうめざしているのだが。ただ、ムージルをじぶんでやるというのは発想の埒外だった。ところがなんかそういうながれになってしまっている。これが、予想のつかないことがこちらの意識の網をすり抜けて到来する、人生のおもいがけなさ、はかりしれなさというものだ。そういう到来を呼び起こし、受け止めることができる心身になったということだろう。ただどうかんがえてもあたまをつかいすぎてはいるので、気をつけて、ゆっくり書かないと。休んでいるときとかもずっと思念が回っているし。というか、ここ数日書いたフィクショナルなものは、ぜんぶ休んでいるときにあたまのなかにやってきたものだし、その他の文もそうといえばそうだから、これからだはいいとして、あたまのほうはぜんぜん休めてねえだろ、とじぶんでおもっている。ただ、屍になれば、リラックスしないということはないし、あたまが回っているにしても休んだほうがいいのはまちがいない。行き過ぎだけ気をつけて、急がず、ゆっくりやりたい。きのうの夜も「塔のある街」をあそこまで書いたあと、この記事のうえの実家の梅の木のことを書き出したのだけれど、作文中からちょっと気持ち悪かったし、あたまのうしろが熱くなっていて、これはきょうはもうやめたほうがいいわとおもったので中断した。そういうかたちでからだに、そろそろやばいぞ、これいじょうつづけるとやばいぞというのがあらわれるので、それにしたがっていればなんとかなりそうな気はする。その後スチームケースで白菜と溶き卵と豆腐をあたためただけのかんたんな飯を食い、食後は椅子で休んだり、翌木曜日が燃えるゴミの日だったのでそれを出したりした。ゴミ出しができてよかった、とほっとしたものだ。きのうはほんとうに、飯を食うこと、湯を浴びること、書くこと、休むこと、スワイショウしかしていなかったので。書くこといがいの活動がひとつでもできてよかったとおもった。一一時ごろにそとに出たのだけれど、道に出た瞬間から頭上のずいぶんあかるい夜で、雨の日だったので空は煤色に閉ざされきっているのだけれどその煤色がずいぶんあかるく、月のおおきな時期らしく、路地の向こうをみとおせば、濡れてはいるがもやってはいない空気の奥で、街路灯やマンションの灯がそれもはっきりところを得ていた。
「塔のある街」のつぎに書こうという短篇のアイディアももうおもいついてしまっていて、やはりタイトルすら決まっている。「Black Is The Color of My True Love's Hair」というのがそれで、これはNina Simoneが五九年だか六一年だかわすれたが、Town Hallでのライブ盤の一曲目にやっている曲。さいしょ聞いたときは、タイトルからしてとうぜん黒人についての歌だと、つまり、ポピュラーミュージックはようやくここで、黒人女性が一般的な男性としてではなく、黒人の男性である恋人を愛しているとうたえるようになったんだとおもっていたのだけれど、そうではなくて、これはなんかアパラチア山脈あたりの民謡らしい。Wikipediaをまえにちらっとのぞいたときにそんなようなことが書かれてあった。凛として厳粛めいたいい歌唱なので、聞いてみてほしい。そのつぎの"Exactly Like You"も、せつなげなほがらかさというかんじでいい。泣いちゃうよ。
Nina Simoneはおいて、「Black Is The Color of My True Love's Hair」ももうだいたいおもいついているのだけれど、これはムージルにはならない。正確にはさいごでムージル的な啓示を活用するつもりだけれど、ただ深層があかされないわけではなく、深層が解明されるおちになる。やりだすまえからネタばらしをするのもどうかとおもうのだけれど、参照イメージのもうひとつは、バタイユが「森の王」という伝説みたいなものを論じているらしくて、西谷修の『不死のワンダーランド』を読んだときにバタイユのその論が説明されていて、伝説のもとの典拠は『金枝篇』のフレイザーらしいのだけれど、こまかいことはもうわすれたがなんか森の王としてえらばれて生きるさだめのやつがおり、べつの森の王がえらばれると前代の森の王はあたらしい王に殺されなければならない、そのように森の王が弑逆の連鎖によって更新されていくことで共同体の宗教的秩序がたもたれるみたいな、そんなはなしだった記憶で、これを読んだとき、へー、おもしろいな、いつかこういうモチーフの短篇書いてみたいなとおもっていたのだ。まあはなしの構造としては古典的というか、王を殺して王になりかわるというのは『マクベス』もそうだろうけど。で、その「森の王」を「砂漠の王」に書き換えてやろうかなと。そして愛の物語、しかもうえのようなモチーフ上、愛の反復の物語になる、つもりではあるいちおう……。「愛の完成」ではなく、(終わりなき)「愛の反復」をやることになるのだじぶんはやはり。性分が、精神の性質が透けてみえてしまう。