きのうは書くいがいにも買い物に行ったり、床や洗濯機の土台のすきまの掃除をしたり、洗濯もできたし、なかなかいい日だった。「塔のある街」もすこしすすんだし。きょうは九時をまわったくらいに起きて、一食目のまえはすこしお腹がきもちわるいようなかんじだったので、きのう書きすぎたかなとおもったが、いまはたいしたあれでもない。むしろ元気なかんじがする。ただわからない、きょうやりすぎたかどうかというのは、その日というよりも、つぎの日のコンディションに出る。さくばんはねむりもあまりよくなかったようだし。きょうも覚めてからなんとなくすっきりしないかんじがあった。
 それはそれとして、飯を食い、音楽をききながら左右のスワイショウをやり、しばらく屍になったあと、一二時半くらいにきょうもスーパーに出て、これくらいはやくそとに出られるようになったのだから回復は順調だ。まあ、そういう日には一食目でもうロラゼパムを二錠飲んでしまい、いちにち三錠にするのだけれど。やはりいちにちにいっかいはそとに出たほうがいい。そのために買い出しの品をいっぺんに買わず、小分けにして外出する口実をつくるというのもいい。きょうはまだ雨が弱く降っている昼間で、しかし大気はあかるく、きのうも見たけれどH通りの小公民館みたいな建物に接した小公園では梅が盛りで、桜のそれと似ているけれども雨に濡れているためもあろうか白さのなかに混ざったうすべにの、淡いままだが白みをこえて赤みを全面にかもした和菓子的甘さの数本もあり、もっとつよい端的なピンクの数本もあり。HI通りに出て左折し、スーパーのほうにすすんでも、雨のわりにはっきりした宙だなという印象で、空も白いがよどんでおらず、また道路の左右にならぶイチョウの木がすべて、カニのながほそい脚をてんでにぶっ刺しまくったような枝ぶりのはだかをさらしているからそうなのだろう。その足もとではなんか妙にぐねぐねした、それこそ海の軟体の魔物をおもわせないでもない薄赤土の茎植物が無惨だったり、たぶんおなじ種のそれにきたない葉がのこっていたり、なにもなかったりする。横断歩道にたどりつくまえにもう青になっているのだけれど走るのがいやだから歩調を変えずにいると、渡り場に来たところでちょうど赤になってしまい、すぐにボタンを押すが停まっていた車が去ればつづくものもないので、赤のうちにもうわたってしまうというのがまったくきのうとおなじだ。
 スーパーのかえりはまえほどではないが自由と解放の空気をかんじた。さいきんの自己分析で、けっきょくじぶんの恐怖の対象のおおきなひとつは他人だろう、他者というまでもない、たんじゅんにほかのにんげん、ということが明瞭になって、二〇一八年のときにもその結論にはいたっていたとおもうのだが、そのへんについてもそのうち書きたい。この帰路におもったのは、じぶんの住み家のそと、街路というのはとうぜん公的領域で、つまり私的空間ではない、他人の行き交う領分なので、そとに出るだけでもじぶんはたしょうの恐怖をかんじているはずで、それが緊張としてからだや思考に出る、まあみんな程度はちがえどそうで、要は外ゆきのモードになるようなものだけれど、スーパーに行ったその帰り道でかならず解放感をおぼえるというのは、まえから言っていたけれど、ひとびとのなかで買い物という目的を果たして緊張がほぐれたことによるのだろう。ただ帰り道もまだ公的領域ではあるので、緊張がつづいてもいいはずなのだが、これはたんじゅんにひとどおりのすくなさとかしずけさとかが起因しているはずで、だからじぶんは夜の、じぶんひとりしかほぼおらず、ゆっくりあるいて風しかないような道が好きだったのだ。これは要するに、公的領域と私的領域のあいまのような状態になっているからだとこのときおもったのだ。公共の場なのだけれどほかにひとがおらず、じぶんひとり、という状態。ほんらいこわいはずの公共地帯にいながら、それをひとりで占有しているというある種の権力欲的優越感(?)みたいなものも関連しているのかもしれない。こういうことをおもっていたときに、そういえばむかしヴァルザーをパクって書いたみじかい散文に、まさにそういうこと書いてたわとおもいだして、じぶんの精神はほんとうに一貫しているとおもった。

 乗客がすべて降りて、電車のなかにひとりきりになった――その瞬間の解放感! 君は知っているか? そのとき一瞬にして、夜はすばらしいものへと変わる。公共の場所で自分以外の人間がいないということは、なんと自由なことか! この夜が、窓の外にきらめく夜が、ぼくのもの、ぼくだけのものなのだ。車内の薄明るい、無機質な、冷酷といってもいい明かりや、鳥か小動物の鳴きかわしのような列車のきしみ音、それがぼくのものになったのだ。踊り出したい気分ではないか、そしてお望みならば、そうすることだってできるのだ! ぼくが踊ったところで、くるくる回ったところで、誰も邪魔する者はいない。お望みならば服を脱いで全裸になることだってできる。もちろんぼくはしない、ぼくは公序良俗を乱すようなことはしない、だがもしお望みならば、それができるのだ。君だって、この幸福な時間に立ち会うことができれば、そのとき君はおそらくこの夜で一番幸福な人間にちがいないのだが、もしそうした幸運に恵まれて、なおかつ君がそれを望めば、できないわけではない、むしろ十分に可能だ、なぜって君はそのとき電車のなかにひとりなのだから! もしお望みならば、座席に寝そべることだってできる、座席でなくたっていい、床に寝そべることだってできる、大の字になってもいられる、いつもは無数の足が、堅苦しい足やだらしない足や、毛の生えた男の足や余分な脂肪のついた女の足が並んでいるこの床にだ。そのくらいのことはしてもいいのではないか? さらにお望みならば、その床を例えばなめまわすことだってできる、もちろんぼくはやらない、床はやはりガムなどがこびりついているから汚いわけだし、ぼくはやらないが、しかし君が望めばそれは決してできないことではない、もし君がお望みならばそれができるということ、そうした可能性が確保されている、床をなめまわすことさえできる、確かなものとして自由が目の前にあるということは、実際に行動を起こすことよりも幸せなことではないか? 君がもしそれを決してやらないとしてもだ、お望みならばいつだってできるということ、それを幸福というわけだ。そうだろう、そうだろう! そうに違いない! そんな幸福が実現される瞬間がはたしてどれだけあるのか、もしかしたらこのとき以外にはないのかもしれない。つまり、電車のなかでひとりになるそのとき以外には。ぼくは本を読んでいた。座席に座って静かに文字を追っていたのだが、自分以外の乗客がいなくなったことに気づいたときの胸のときめき――ぼくは思わず立ちあがったのだ、そして窓の向こうに目をやった。外では町の明かりが、儚い赤や透きとおった黄色の明かりが流れていく、その美しい夜がぼくだけのものになったのだ。窓には室内の様子が鏡写しになっていた、当然ぼくの姿も映っていた、髪はぼさぼさでひげもそっていないし、着ている服だって色がくすんだようなものだが、しかしだからどうだというのだ? そんなことはどうということでもない、重要なのは、その窓に映った情けない像でさえ、いまはぼくだけのものだということなのだ。なんてすばらしい夜なのか! ぼくは走り出したくなった、車両の端から端まで駆けたくなった、そしてお望みならば、いつでもそれができたのだ。ぼくはやらなかったが、やろうがやるまいがぼくの高揚に変わりはなかった、君にこのときの気持ちがわかるだろうか? 夜はすばらしい、もしこれが朝だったとしてもそれはもちろんすばらしいだろう、そのときには射しこむ陽の光や、午前中のまぶしさや、まだねむたげな町のささやきや、清涼な、夜のそれとはまたちがった清涼さの空気がぼくのものになったのだ、それはそれで魅力的にはちがいない。しかしやはり夜がすばらしいのだ、暗闇のなかに包まれた箱のなかにひとりでいる、その静けさはあたかも世界中がぼくひとりだけになったようだ。ぼくは明かりが消えてくれないだろうかと思った。夜の電車のなかでひとりになり、さらになおかつ明かりが消える、それはこれ以上ない幸福にちがいない、明かりが消えれば町の輝きがよりはっきりと見えるし、また月の光が射しこむのではないか? 緑色の水槽のなかに幕がはられるように、かすかな光が、仄白さが射しこむ、ぼくはそれを想像しただけでうっとりとしてしまった。しかし光は消えないのだ。困ったことだ! ぼくはこれほど、このときほど車両の明かりが乗客の手によって制御できればいいと思ったことはない。明かりを消すには、やはり運転室までいかなくてはならないのだろうか? 運転手あるいは車掌に頼むしかないのだろう、この善良な、職務熱心な、この夜更けにも勤勉に働いているこの連中がぼくの幸福をいわば保証しているのだ。なぜって、彼らがこの長い箱を動かしているあいだは誰も乗ってくることができないのだから――ぼくは感謝する。そしてできればいつまでも次の駅につかないように願うのだが、この電車も世界の物理法則に従う以上、やはりそうはいかないのだ。ぼくにとって重要なのは、次の駅について扉がひらく瞬間だ、そのときこの幸福な密室は破られてしまう。はたして誰かが乗ってくるのか? だとしたらそれまでに、やりたいことはやっておかなければならない、やりたいことはできるときにやっておかないといけない、それは正しい、一般的な人生訓としても正しいし、いまこの状況においても正しいが、しかしやらなくたっていいのだ、結局ぼくが自由であることに変わりはないのだから。ところがこの自由は危ういものでもある、なぜって次の駅で誰かが乗ってきただけでそれは泡がはじけるように散ってしまうのだ。どうしたものか? なんとか妨害できないだろうか? 扉が開かないでいてくれればいいのだが。車掌に頼みこみにいこうか? あるいは、駅で待っている乗客に頼みこむこともできるかもしれない、どうか乗らないでほしいといって彼らを説得できないだろうか、そのくらいの意志の強さと力はあるのではないか、なにしろいまぼくは自由なのだから。なんでもできる状態にあるのだ、お望みならば、そういうこともできるかもしれない、その可能性は決して低くない、むしろ高いといっていいだろう。しかし困ったことだが、電車の乗り口はひとつだけではないのだ。ひとつの入口で乗客を説得できても、そのあいだにほかの入口から乗りこまれてしまうかもしれない、そうしたら終わりだ、ぼくも乗りこまれてしまったものを押しかえすほどの勢力はない、そもそも誰かが乗ってきたその時点で、いまのこの自由は終わってしまうのだ。どうしたものか? ――こうした悩みを抱えながらも、ぼくは自由を満喫していた。この話を聞いてくれたひとたちには、ぼくがそのときどれほど自由だったのかがよくわかってもらえることと思う、もっともそれはやはり、この世において稀有以上に稀有である純粋無垢な自由そのものだったのだ。そうした薄氷にも似た美しいものはそうそうあらわれるはずもないし、一度あらわれたとしてもそう長く続くはずがない。しかしそれだけにぼくはそのことをよく覚えている。まったく、なんと美しい夜だったことか! もしお望みならば、もう一度最初から語ってもいいくらいだ。
 (2015/1/26, Mon. 2:21)

 これですね。これの冒頭に、きょうかんがえた精神傾向がはっきりとあらわれていておそろしい。
 かえってきてからはきょうも「塔のある街」をすすめてしまって、けっこうすすんだ。いま七五〇〇字くらいだったか? たぶんこれではんぶんくらいなのかな、わからないけど。でもこれべつにムージルじゃないかも、という気もしてきた。まあそれはどっちでもいいですけどね。じぶんにも小説が書けているというそのことだけでいい。この短篇にかんしては、もう材料はそろっているとおもうので、あとは一歩一歩、終わりまでいそがず踏んでいくだけだろう。「Black Is The Color of My True Love's Fair」もだいたいそろったとおもうが、やっているうちに用意するものももちろんあるはず。それできょうまたひとつアイディアをおもいついて、これはまだぜんぜん具体化されてはいないのだけれど、タイトルは「孤独のなかの神の祝福」でいいやとおもっていて、これはフランツ・リストの難しいピアノ曲らしい。といっても聞いたことはなく、子どものころに読んだ『スパイラル』というガンガンの推理物の漫画でこのタイトルを知ってそれいらいフレーズだけおぼえている。で、ミュージシャンものをやってみたいなという欲望はまえからすこしあった。むかし、たしかジェフ・ダイヤー『バット・ビューティフル』という、村上春樹が訳した小説を地元の図書館で借りて読んだことがあって、これは往年のジャズのひとを七人だったかとりあげてそれぞれ短篇小説化したもので、レスター・ヤングがいたのはおぼえているのだが、ほかにだれが題材になっていたかはわすれてしまった。ビリー・ホリデイもいた気はするのだが。これを読んだときにけっこうかっこういいなとおもって、いま読んだらむしろくさくかんじるかもしれないが、いずれにしてもジャズミュージシャンの物語みたいなのを書いてみたいなという発想はあった。もちろんフィクションでいいのだけれど。それこそイメージするのはやはりBillie Holidayなんかで、女性の歌い手の視点でウルフの語りでできないだろうかとか、あと重要な脇役としてThelonious Monkをモデルとしたやつはやはり出したい、とかきょう屍になっているあいだに思念がめぐり、でも女性の語りがじぶんにうまくできるかなあとか、やっちゃってもいいのかなあとかもあるわけだ。それでつぎにおもいついたのが、いわゆる逆転世界みたいな、女性と男性の地位やたちばが逆転した設定でこの物語をやるのは? というアイディアで、つまり男性はほぼボーカルしかつとめられず、バックの楽器はみんな女性がになっていて、観客も女性たち、男が低い声でうたうのがショーとして受けるみたいなことで、これはかなり安直な発想だ。ただ、発想は安直でも、緻密に書ければこれでもそこそこいいものはできるかもしれない。ポリティカル・コレクトネスをかんがえても、要は男たちが女性にたいしてやってきたのはこういうことだぞというのを立場逆転のかたちでしめすことができる、要は啓蒙になるかもしれないというわけだ。ただやはり安直だし、物語での啓蒙も大事だとはおもうのだけれど、じぶんはそれをとりたててやりたいわけではないし、啓蒙としてもこれだと弱いんじゃないか、一定のところまでしか行かないんじゃないかともおもった。それでつぎにおもいついたのが、男らしさと女らしさも逆転しちゃったらどうかということで、つまり、たとえば中心視点を男性の歌い手にするとしたら、かれは生物学的には男性で男性器もついているのだけれど、われわれが生きている現実の世界では「女らしい」といわれるような口調でしゃべったり、そういうふるまいを取ったりする、しかしそれがこの物語のなかでは「男らしい」とされている。女らしさについても同様で、楽器をになう女性たちは生物学的には女性のからだをしているけれど、雄々しいことばづかいをしたりして、それが「女らしい」と認知されている。これは安直にもうひとつ安直をかさねた太い安直というか、複雑な安直というかよくわからないが、これこそしかし、クィア方面、LGBTQ+方面とのかねあいでかんがえて、ポリティカル・コレクトネス的にはどうなんだ、どういう評価になるんだ? というのがわからない。まああんまりポリティカル・コレクトネスにとらわれてもあれだというか、それを破ったとしてもなんらかの説得力をもってこその小説だろうというきもちもあるのだけれど、しかし配慮のこともやはりかんがえてはしまう。ただ、この安直のかけ合わせは、なんというかじぶんのなかで根拠がない。こういう設定で短篇をやるということがどういうことなのかわからないし、なにもみえないので、それをかんがえるとむしろやるべきなんだろうとはおもう。しかし設定をそうしたとして、どういう物語にするのかというのはまだまったくおもいついていないし、むずかしい題材なのでいまのじぶんのちからにはあまるかな。くわえて、ジャズ界隈、アメリカをもとにかんがえるのだったら、人種差別、肌の色という要素をどうすんの? という考慮もある。それもちょっとそこをうまくリアルにやれる自信はないので、入れるとしたらひとみの色とかに変換するべきかなとおもった。それも白と黒ではなくて、赤と青とかにして、まあそれにおのおのの民族の神話的起源とむすびついた象徴的意味合いをあたえて、とかすれば、ややファンタジックないろあいも出てくるはず。じぶんがもしやれるとしたら、たぶんそのくらいのところかなあとおもった。逆転を二重のかけ合わせにして性だけでなくひとみの色による差別もとりいれ、くわえてこの安直さがおあそびではないよ、じぶんなりに真剣にやっているよということをしめすために文体はわりとガチにし、緻密なリアリズム的書き込みを確保する。そのうえで「孤独のなかの神の祝福」みたいな、ちょっと聖性じみたモチーフがあらわれる物語にすると。で、これがもしできるとしたら、「塔のある街」と「Black Is The Color of My True Love's Hair」とあわせて、舞台はちがうけれどおなじ大陸というかおなじ世界のべつのばしょでそれぞれなされる物語であるという、三部作的な短編本のおもむきを出せるかも、と。さらにいえば、もうふたつがんばって、「五つの聖なる物語」とかいうタイトルでまとめることもできるかもしれない。ただのこりふたつはぜんぜんおもいついていない。舞台からかんがえると、ひとつはなんか海辺の村とかで、水神のほこらがどうこうみたいなやつとかで、のこるのはやっぱり山かな。チベット的な……。それらがもしぜんぶそろえば、雪国、砂漠、大都市、海辺、山、という地理的バリエーションが豊富な短篇群となり、こうしてみるとじぶんの想像力はかなりベタベタだとおもう。