きのう、Tがあげていた音源にTAがコメントするとともにさいきんの状況をちょっと知らせていたので、コメントしておいた。LINE。それとともに、「塔のある街」をこの音楽方面の友人らにも読んでもらうかとおもって、というか実家にいるあいだにそうおもっていたので、五人のグループに投稿して、短篇小説をひとつ書いたのでよかったら気の向いたときに読んでくださいと言っておいた。TA、Kくん、T、TO。
 ほかにPDFファイルをおくったのはMさんとAくんで、Aくんはこのあいだ読み終えて具体的なところについていろいろ伝えたいというわけで、先週の木曜だから三月七日に通話した。全体的な印象としてはカフカの『城』みたいだったということで、塔の真実にたどりつけないというのが連想させたのだろうが、Aくんはそういう謎めいたかんじはけっこう好みだという。きのうちょっとかんがえたのだけれど、カフカの『城』は、城にいたれない小説というよりは、抜け出せない、逃げられない小説なんじゃないかという気がする。出口を城だとすればおなじことなのかもしれないが。なにから抜け出せないのかはよくわからない。作品からなのかもしれないし、城のある村からなのかもしれないし、城の圏域からなのかもしれない。おぼろげな記憶による記述の感触からすると、ことばの運動としては、極と極のあいだにはさみこまれて二極を行ったり来たりしながらとらわれて、そのうちまえに書いたことの理屈を強引にねじあけるようにしてちょっと歪曲していちおうの抜け道を見出すのだけれどけっきょくそれもあんまり機能せず、解決したのかしていないのかよくわからないままこの二極の場じたいを放棄してひとまずつぎに行くけどそこでまたおなじようなとらわれが発生する、みたいな感じだったイメージ。そもそもカフカはあの小説で城にいたろうとはしていなかった気がする。あれが城にいたれない小説というふうにいわれるのは、さいしょのほうでいちどだけ、Kが村の道をたどって城に行こうとするけれど、いつまであるいてもちかくならないみたいな場面があるからだとおもう。そこではたしかに城は遠景ながらオブジェとして書かれていたはず。城が『城』のなかで具体的なものとして記述されるのはその一箇所だけだったような気がする。あとはぜんぶ城から来ている役人とか、城をめぐる住人たちの立場とか伝聞・言説のたぐいが跳梁跋扈する村をめぐるはなしだった印象で、さいごのほうとかもはや城が関係あるのかないのかもよくわからなくなっていたんじゃないか。だから、カフカもさいしょは城に行くとか行かないとかを発想してはいたのかもしれないけれど、書いているうちにだんだんそこからむしろ遠のいていって、具体的なオブジェとか実際的な組織機構とかではなく抽象的で内容空疎な参照点としての城というものだけはのこしつつも、その参照点がとおくにあることでひたすら増殖しつづけていくことばの魔境にカフカじしんもとらわれて、整理できなくなり、出口をみつけられず必然的に未完に終わらざるを得なかったと、そんなイメージ。
 木曜日の通話のさいに、Aくんに二人目の顧客になってくれるようにたのんだ。オンラインで文学作品なんかを読んだりして金をもらおうというやつのことで、いまKさんとやっており、きょうもこのあとあるのだけれど、そちらではウルフの『灯台へ』をすごいちまちましたペースで精読するようなことをやっている。Aくんにもまえにいちどそういうことをやっているというのははなしたことがあって、それを再度持ち出すとともに顧客になってくれないかとお願いした。Aくんは歴史小説を書いていて、このあいだ過去作をなおしたやつをAmazonで電子出版もした。大学の同級生であり、あいてが一年さきに卒業してこちらが(パニック障害で一年休学したので)大学四年だったときだから二〇一二年かな? そのときから中断はありつつもずーっと読書会をつづけてきたひとで、その間こちらは、ウルフってのがいて『灯台へ』ってのを書いてますよとか、レーモン・ルーセルっていうアホがいてへんてこなことをやってるんですよ、とか、こういうのありますよ旦那、へっへっへ、みたいな感じでいろいろ紹介してきて、いわば洗脳してきた。他人にかれのことをはなすときも、ぼくがだんだん洗脳してったんですよ、とにへにへ笑いながらなかば冗談に言っていたが、この日顧客になってくれるよう頼んだところ、いやぼくマジでFくんに出会ってなかったら小説書いてなかったから、いつもはなし聞くといろいろ勉強になるし、むしろいままでこっちが受け取ってばかりで、対価をなにも返せてなかったのが申し訳ない、というこたえがあって、マジで洗脳成功していたらしい。じぶんもいっぱしにひとの人生狂わせてますよ。Fくんのこと師匠だとおもってるから、とまでいわれたので、師匠はまずい、師匠はよくないので、先輩くらいにしといてくださいと言っておいた。それで、とりあえずお試しということで、四月初旬からバルトの『表徴の帝国』をいっしょに読んでいくことになった。これはむかし、石川美子が訳した『記号の国』というタイトルのほうで読んでいる。バルト著作集みたいなやつの七巻目だったかにはいっているやつだ。ちくま学芸文庫の訳のほうは、訳がよくないという評判を聞いている。どこで聞いたかというと、二〇〇三年くらいに『ユリイカ』がいちどバルト特集をやっているのだけれど、そのなかに松浦寿輝へのインタビューがはいっていて、ちなみに冒頭には蓮實重彦へのインタビューもあってバルトみたいに書けたら死んでもいいと本気でおもってますとか偏愛ぶりを語っていたのだけれど、たしかそこで松浦寿輝が『表徴の帝国』について、あんな訳がいちばん入手しやすいものとして流通しているのは、ほんとうは嘆かわしい状況だ、みたいなことを言っていた記憶がある。が、ともかくそれを読んでいく。