きのうのつづき。「トンカ」の一段落目。

 とある生垣のほとり。一羽の鳥がさえずった。と思うと太陽は、もう藪かげのどこかに姿をかくしていた。鳥の歌がやんだ。夕方だ。百姓娘たちが歌をうたいながら野をこえてきた。こんな書きかたはくだくだしいか? だが、このような一部始終が、まるで服に取りつくいが [﹅2] かなんぞのように、人の心にまつわりついてはなれないとしたら、それは些細なことだろうか? それが、トンカだった。無限というものは、しばしば、ひとしずくずつ滴り落ちるものである。
 (岩波文庫、98)

 「グリージャ」の書き出しと、「トンカ」のはじまりでは、かなりちがう書き方、やりかたになっている。「グリージャ」の一段落目は二文しかなかった。鋭いのか鋭くないのかもよくわからない、意味の輪郭がやや不明瞭な、一見どうということもないようなアフォリズムを置くと、つぎの段落ではもう物語本篇の語りがはじまっていた。「トンカ」はそれと比べると、本篇の時空にはいるまでがながいし、この一段落目ももっと複雑な書き方になっている。
 書き出しから「百姓娘たちが歌をうたいながら野をこえてきた」までは、さほど奇妙なこともない。情報を詰めない、やや抽象的なつくりかたになってはいるけれど、「生垣」や「鳥」、「太陽」などのものがとりあげられているので、これはいちおう、あるひとつの場面の描写ととらえることができる。ただ、ここにはまだ物語の主軸となる人物がいない。「百姓娘たち」は場面の背景をなす風景のようなものとして書かれている。また、時間のながれかたも独特である。いちおう具体的な場面のようにみえながらも情報量がとぼしく抽象度が高いというのは、一文一文のあいだにすきまが多く、うつりかわりがはやいということだ。じっさい、「と思うと太陽は、もう(……)」という言い方はものごとの移行のはやさを直接述べた表現である。そのまえには短い文がふたつあり、そのあとにも短い文がふたつ、そっけなくつづいているので、一文一文がぱっ、ぱっ、とうつっていって、推移がはやいな、という印象を受ける。リアリズム的な小説の場面の書き方ではなく、メルヘン的な語りだしということもできるかもしれない。
 そのつぎで、「こんな書きかたはくだくだしいか?」と自問される。「くだくだしい」というのは、長ったらしいとか、くどいとか、冗長だということだ。ところがいま述べたように、ここまでの記述にはむしろ短く切られたスピード感がある。この疑問は、疑問の対象と相応していないようにみえる。また、「書きかた」といわれているのもすこしポイントではあるだろう。「語りかた」ではない。「書きかた」といわれていることで、すくなくともこの一文では、語り手と書き手ムージルが一致しているように感じられる。
 そうしてとつぜん文が長くなり、疑問がつづく。「だが、このような一部始終が、まるで服に取りつくいが [﹅2] かなんぞのように、人の心にまつわりついてはなれないとしたら、それは些細なことだろうか?」 ここを読むと、さきに「くだくだしい」といわれていたのは、どうでもいいような、ちいさくて「些細なこと」をいちいちとりあげている、というような意味だったのではないか、と判断がつく。さいしょのメルヘン風諸要素は、べつに書くほどの重要性をもったものではないんじゃないか? という疑問だった、と。そしてこの第二の疑問では、それが反語的に否定されている。一見どうでもいい、ささやかとみえることの「一部始終」が、「人の心にまつわりついてはなれない」、とすればそのことじたいは「些細なこと」ではない、と。
 「それが、トンカだった」。こまかく順を踏まずにこの一段落目をさっと読むと、ここでわりと、どういうこと? となる。前文がながいので、「それ」の内容がわかりづらいからだ。「このような [些細なことの] 一部始終が、まるで服に取りつくいが [﹅2] かなんぞのように、人の心にまつわりついてはなれない」ということ、が「トンカだった」という理解になるだろう。これもだいぶ特殊な書きぶりだとおもう。「トンカ」は固有名詞である。この時点ではそれがひとなのかなんなのかも示されてはいないけれど、「三人の女」という作品をここまで読んできた読者は、各篇のタイトルはその「女」を指していると理解しているだろうし、また小説の書き出しなので、人物名だなという判断は容易につくだろう。ただ、その「女」だとおもわれるひとつの固有名詞に、ここまでの内容がすべてそそぎこまれるような、ごく短い言い切りとなっている。「それが、トンカだった」という記述の順序もポイントだとおもう。「トンカ」が主語ではない。仮にここで、「トンカは、そのような女だった」というような書き方になっていたとすれば、これはふつうだ。「トンカ」という固有名詞の内実を、比喩をふくみはしているが一般的な情報記述で要約的に説明するだけの文になるからだ。いいかえれば、なんというか、「「トンカ」という固有名詞の内実」が先立って前提されているような書き方になる、と感じられる。「それが、トンカだった」という順序にすることで、まず指示語「それ」が前文の長い内容をそのまま直後に受け止めることができる。さらに、受け止めた情報をまたもそのまま、「トンカ」という固有名にながしこむかたちになる。情報が「トンカ」という名にいたりつき、たくされることによって、「トンカ」ははじめてここで成型される。
 そしてさいごの一文、「無限というものは、しばしば、ひとしずくずつ滴り落ちるものである」。これは、抜群に、かっこういい。ちょっと、ビビる。しかし一読しただけではこの鋭いアフォリズムの意味はさだかでないし、これがここに置かれていることの次第も判然としない。さっと読んだとき、まずもたらされるのはつよい飛躍感だ。これはその直前が、「トンカ」という固有名であること、さらに「無限」という抽象的なことばがいきなり登場することによるとおもう。さいごの文で、抽象度がぐっとあがっている。この「無限」がさしあたっては問題となる。ここまでの記述をかえりみたときに、「無限」に直接対応するようなことばが見当たらないからだ。「無限」はなんのことをいっているのか? 「トンカ」を言い換えているのか? そもそも「無限」という概念の性質上、ぴったりとした直接的対応物などありえないのか? 「ひとしずくずつ滴り落ちる」に視線をうつす。「ひとしずく」は、「些細」さ、ちいささ、ささやかさと響き交わす。段落なかほどの一文がいわんとするのは、「些細なこと」の「一部始終が(……)人の心にまつわりついてはなれないとしたら、それは些細なこと」ではない、ということだった。「些細なこと」が「ひとしずく」と、「一部始終」がいちおうは「無限」と変換されているようにおもえる。いや、たぶんそうではない。前者の対応はいいだろう。後者はすこしちがう。「無限というもの」が「ひとしずくずつ滴り落ちる」ことで「些細なこと」があつまっていき、その集積が、ものごとの「一部始終」となるだろう。その「一部始終が(……)人の心にまつわりついてはなれない」というありかた、それこそが「トンカだった」。だから「無限」はやはり、この段落内で、ほかのどの要素、どのことばよりも超越的な位置にある。「無限」は「一部始終」とも、「トンカ」ともイコールではない。といって、「トンカ」が「無限」から無関係に切り離されているわけでもない。経路はつうじている。「人の心」を場とし、ことの「一部始終」を経由点とすることで、「トンカ」から「無限」は茫洋と遠望される。