一四日の木曜日のつづきで「塔のある街」の精読をすすめようとおもうが、そのまえにことのついでに、ムージルの「グリージャ」「トンカ」の冒頭について。まず前者の一段落目。

 人生には、奇妙に歩調をゆるめて、前進をためらっているのではないか、それとも方向を転じようとしているのではないか、と思われるような一時期がある。このような時期にひとは不幸におちいりがちなものらしい。(岩波文庫、7)

 一文目では「人生」の途中でありうる一時期の様相が、擬人法をもちいた歩みの比喩で語られている。この一文じたいはとくになんということもない。「人生には(……)一時期がある」という断言調で述べられているので、読んだひとは、とりあえずそれをそのまま受けとめるしかない。あ、そうなのね、とか、そういう時期もたしかにあるかもしれない、という感じだ。ひとつだけポイントかもしれないのは、「奇妙に」という一語である。これがなければ、一文目の内容はなんの引っ掛かりもない、まあたしかに、というくらいの納得におさまる。この一語がくわえられていることで、人生が「奇妙に歩調をゆるめ」るというときの「奇妙」さとは、どういった感じだろう、どんな時期だろう、という疑問が生まれて、意味の輪郭がちょっとだけぼんやりとし、あいまいなひろがりがひらかれる。
 そして二文目、「このような時期にひとは不幸におちいりがちなものらしい」。これもなぜそう言えるのか、論理のつながりは明確でない。一文目とちがって推測調の結びになっているけれど、根拠が不明なので、読んだひとはこれもそのままのみこんでおくしかなく、実質的には断言として機能しているともみえる。この文の中核となっているのは「不幸」の一語だ。この「不幸」が、一文目におけるわずかな余剰だった「奇妙」と微妙に響き交わすように感じられる。「奇妙」さと「不幸」とはなにか関係があるんじゃないか、というわけだ。そうしてつぎの段落からは、「ホモには病気の小さな息子があった」と物語本篇が語られはじめる。
 順当にかんがえれば、「グリージャ」の物語は、この、人生が「奇妙に歩調をゆるめ」た一時期に、主人公ホモが「不幸におちい」ったできごとを語るものとして予期されるし、そのようなものとして読まれるはずだが、ただ「グリージャ」の内容を漠然とおもいだしてみたときに、冒頭の記述ときっちり対応している要素があったかどうか、いまいちピンとこない。ホモは「地質学者」(9)である。「自分の書物や計画」(7)をもっている。そういう生業、メインのしごとをもっているホモが、「数年前旅行中に知りあって、ほんの二、三日友誼を結ぶことになった」あいてからの誘いを受けて、「フェルゼナの谷の古い金鉱を再開掘しよう」(8)という事業に参加することになる。その動機は明確ではない。こうしたことのいきさつをみれば、たしかに谷間の村への滞在は、ホモの人生が「奇妙に歩調をゆるめ」た一時期と言えるかもしれない。しかしそれがほんとうに「奇妙」なのかどうか、よくわからない。「グリージャ」のなかで「奇妙」ということばはあと何回か出てくる。おそらくこの小説では、その「奇妙」さの質が明確にされていない。定義されていないといってもいい。あるいは、問題にされていない。「奇妙」とか、それに類する表現をつかい、ことがらにさしむけつつも、それをほかの概念に翻訳・要約することなく、具体的な描写や記述やエピソードをもっぱら展開する。「奇妙」ととりあえず言いはするけれど、じゃあ具体的な記述のなかのどこが「奇妙」なのかは、はっきりとわかりきらない。「奇妙」という要約語と、物語の内容やほかの意味づけのことばが、あからさまに結びつくことが回避されているんじゃないか。だから、「奇妙」といわれればたしかに奇妙にはおもえる、でももし「奇妙」という語がこの小説のなかに書かれていなかったら、そうはおもえないかもしれない、というあいまいな状態に読者はおとしいれられるんじゃないか。それが、こちらがいぜん「グリージャ」について記した、謎がないようにみえるのが謎、という印象のよってきたるところではないか。
 「不幸」についてもかんがえてみる。物語中でホモにおとずれる「不幸」として念頭にあがるのは、ラストの場面だろう。グリージャと不倫していたホモは、彼女の夫によって山の廃坑のなかに閉じこめられて、最終的にはどうも死んでしまったようにも読める(53: しかしこの時、生に復帰するには彼は衰えすぎていたのだろう。復帰を望まなかったのかもしれないし、それとも、もう意識を失っていたのかもしれなかった」)。これはたしかに、ホモにとって「不幸」なできごとといってさしつかえない。ただ、このさいごの場面で、うえに引いた二文にたどりつくまでの記述に、「不幸」のいろあいは希薄なのだ。それに類することばや、それを象徴するような要素が、たぶんまったくつかわれていないんじゃないか。冒頭では「不幸」ということばがつかわれていた、ホモのさいごは作品外の一般的な観念に照らせばたしかに「不幸」である、けれど、作品を記述することばたちはそれを「不幸」として演出していない、意味づけていない、えがいていない、こういう関係になっているんじゃないだろうか。「グリージャ」という小説では、「奇妙」や「不幸」という概念の内実が、骨抜きにされているとまではいわない、ほどかれ、やや流動化され、あいまいに撹乱されているんじゃないか。