働いてきた。エイプリルフールなるものがこの世に存在していることを、塾で生徒に会うまでわすれていた。
 労働後に電車に乗り、T駅から三〇分かそこら歩いてきたので、けっこう疲労はある。とくに目が。じぶんの疲労やストレスによる負荷はやはり目に出る。ひるがえって、目をつかうとそれがからだに対する負担にもなり、とくに胃腸に響く。飯を食ってすぐだとそれがよくわかる。なのでものを食ってからすくなくとも一時間は文を書けないし、読めない。そもそもさいきんは本をほんとうにぜんぜん読んでいない。Kさんと通話するときに『灯台へ』をすこし読むだけ。
 ただ、疲労がありつつも、こうして労働後に、どうでもいいようなことであっても書く気になり、じっさい書けているというのは回復の証だろう。きょうは衣服などのはいったリュックサックに加えて、ロラン・バルト関連の本数冊とレベッカ・ソルニットの『迷うことについて』を横浜元町霧笛楼の紙袋に入れて持ってきてしまったので、駅から歩いているあいだに両肩もけっこうこごってきていた。これはいぜんもあったことだ。労働後の帰路は疲労でリュックサックをかけている両肩がちょっとピキピキ来て、帰り着いてたとえばジャケットを脱ぐときとか、それをハンガーにかけて壁の出っ張りに引っ掛けておくときとか、カーテンレールにかかっていたバスタオルなんかを取るときとかに、肩もしくは肩甲骨のあたりが一瞬ピキリと痛むことがよくあった。きょうもそういう感じはすこしだけあったけれど、イス軸法をやり、一〇時から三〇分ほど横になって休んだ結果、わりあいほぐれて、遅い時間で健康にわるいがたまにはカップ麺でも食うかとだいぶまえに一個だけ買っておいたどん兵衛の鴨出汁蕎麦や出来合いのごぼうサラダで食を取り、入浴してのいまもう一時直前だ。実家にいるあいだに体重をはかったら49.85キロで、50キロ以上になって以来、そこを下回ったのはさすがに人生ではじめてのことだ。炭水化物を食わないとやばいが、食欲もまえよりは出てきているので、このまま順調に回復していけば、じきにおのずと食の量も目方も増えてくるだろう。からだの貧弱さ脆弱さには絶対の自信をもっているこちらでも、とうぜんのことだが、いまが生涯でもっともひょろい。きのう風呂にはいるまえに実家の洗面所の鏡でおのれの裸体を見たのだけれど、じぶんの裸体なんてまああんまり見たくもないもので、髪も来週切る予定でだいぶ伸びているし、鏡を見たときは髭もまだ剃っていなかったので、贅肉のまるでないゆえにほとんどあるなどといえない腹の筋肉のかたちがよくみえるという、腰のたいそう細いそのすがたが、あれ、苦行中のイエス・キリストではないですよね? 柱頭行者のひとではないですよね? みたいな印象だった。
 土曜の寝るまえに一回、きのうの夜に二回つづけてギターを弾き、録ったのがまえの記事の三つ。いいかげん、エレキなのに生音だと音量も小さくて聞きづらいし、兄の部屋に追いやっていた、というかもともと兄のものだったのだが、ローランドのジャズコのちいさいやつを持ってきて、ようやくアンプに通した次第。それがきのうの二つ。ちいさいといっても部屋で弾くには出力過剰で、ボリュームノブを少し回しただけでかなり出る。フルテンになんてとてもできない。
 きのうはまた昼間に『なりゆき街道旅』という番組をみて小説のことをちょっとかんがえたのと、三時半くらいに川に行ってすばらしかったのと、夜には『ポツンと一軒家』をみてそこそこ面白かったことくらいを明日以降に書けたら書きたい。きょうの帰路も自由の感覚がおとずれて良かったので、それも書けたら書きたい。川はマジですごかった。吐き気がしてくるんじゃないかとちょっとおそれるくらいにすばらしかった。
 ちなみにいま書いている「三人の子ども」は、タイトルからしてムージルをおもわせるものになってしまったが、山の上が舞台で牛が出てきているのは「グリージャ」を意識したわけではなく、何週間か前の『ポツンと一軒家』に、たしか高知県の山の上で山地 [やまち] 酪農をやっているひとが出ていて、へー、おもしれえとおもい、それを発想源にしてもともと「夜のひとみは千のかがやき」をかんがえていたのだ。かんがえていたといっても、山の上で酪農をやっている一家のはなしということと、兄と弟がいて、弟があたまのなかに声が聞こえると言い出して脱走し、追いかけていった兄が弟をみつけたところで季節外れの、そんなところにあるはずがないホタルの群落に遭遇するという、このふたつしかかんがえていなかった。それがなぜか少しまえに奇形化しつつにわかに固まりだして、いまああいうことになっている。語りは「トンカ」の影響が大きい。冒頭を分析したからだ。「トンカ」を再読してはいないのだけれど、冒頭をみるついでにぱらぱらめくって最初のほうをちょっとだけ覗いていたら、あれ、こんなに変な語りだったの? というのにあらためてびっくりして、その印象がたぶん影響してああなっているのだろう。いまの段階ではまだそんなに影響が大きいようには見えないかもしれないが、そのうちそれっぽくなってくるかもしれない。というか、影響されたとしても、だからといって「トンカ」みたいな語りそのままになるわけがないので、あ、なんかこんな変な語りできるんだ、というおどろきを消化したかたちでじぶんなりの変な語りをやることになる、というのが正確なところか。ただし、「トンカ」の一文をあからさまにパクった一文をいれる予定ではある。
 こんかいの「三人の子ども」は「塔のある街」と比べるとだいぶゆっくり書いていて、これくらいでちまちまゆっくり書いていったほうがやっぱりいい。「塔のある街」はさーっと書きすぎた。あれはあれで、そういうものでいいのだけれど。
 「塔のある街」は変なものを書いたとはおもっていなくて、来たものを素直にそのままさらさら書いた感がつよい。「三人の子ども」はそれよりはゆっくりと時間をかけて、多少かんがえたりこだわったりしながら書いているので、素直度は低い。読み返してこまかい手直しもちょいちょいやっている。さいきんじぶんでじぶんのことを、素直なひねくれもの、もしくは素直な天邪鬼として規定する向きがあって、要はひねくれものが一周まわって、もしくはもういちどひねくれた結果として素直になりつつある気がするのだけれど、そういうじぶんが素直に書いたものは、少なくともMさんからはずいぶん変な小説だといわれた。「三人の子ども」はそれよりはきちんと変なものになるとおもっている。ということはもしかしたら、むしろわかりやすいものになるのかもしれない。ただ、「塔のある街」も、文学なんぞを読みつけない友人にも読んでもらったのだけれど、結果、面白かったということばが返ってきたわけだ。だからあれはあれでわかりやすい、よりどころをみつけられる一篇だったのだ。つまり、最初から最後までただひたすら意味深なだけ、という。そういう意味深で不思議な街がただ書いてあるだけ、というかたちで受容できる。文学的な深読みとかを考えない、ぜんぜん知らないひとのほうがむしろそういう風に楽しめるのかもしれない。Kくんが例のピンク色のふにゃふにゃした四角形がなにを意味しているのか、なにかの象徴なのかとか、壁になんかあったんだろうかとか、要は(こちらに言わせれば)そこに書かれていないことをいろいろ考えてしまった、と言っていたのに対して、Tは、そういう象徴的な読み方というものがあるということ自体をちっとも知らなかったから、まったく考えなかった、と言っていた。ピンク色のあれなんかはあの小説のなかでいちばん意味深な要素だとおもうが、たぶんあれは象徴的に解釈しようのないものになっているとおもう。あそこは、ジャジャーがさいごに説明のつかない行動をする、その前段として、まずいちど説明のつかない行動をさせておきたかった、つまりさいごにいきなり奇妙な行動をするとあれだから、二段構えにしたかったというだけのことで、ピンク色のあれはだからピンク色のあれである必然性はない。ただあれがおもいついたからそう書いた。そこにKくんが引っかかっていろいろかんがえてしまったというのは、ピンク色のやつも含めてあの小説の、あるいはあの小説に限らず意味深さというのはときに読者を引っかける罠、おとり、デコイみたいなものとしてあって、「塔のある街」にかんしては、それをひたすらばらまくことでほんとうの謎をそのなかに隠した、という感じが漠然となくはない。書き終えたあと、ある意味で「グリージャ」の逆をやっちゃったんじゃないか、とちょっとおもったのだ。つまり、こちらの受ける感触だと、「グリージャ」というのは、謎があるはずなのにそれがないように見えるのが謎、という小説だった。「塔のある街」は、謎がありすぎてほんとうの謎がなんなのかわからない、というものなのかもしれないと。とはいえじっさいには「ほんとうの謎」というのは明白で、それはもちろんジャジャーの行動で、あれが「塔のある街」のなかでかろうじて唯一の物語的な枠組みというか線になっているのだけれど、ただ、あれをやっぱり「ほんとうの謎」としてうまく構築できなかったんだろうなというのがいまのじぶんの見通しである。きちんと読んでみないとわからないけれど。「ほんとうの謎」としてうまく構築できなかったというのは、あの小説がもつ固有の論理みたいなものをそこに注ぎこめなかった、展開できなかった、形作れなかったということで、「三人の子ども」はうまく行けばもしかしたら、そういう独自の論理みたいなものをつくれるかもしれないという漠とした予感があるにはある。が、その「独自の論理」は、じつはぜんぜん謎めいたものではなくて、わかりやすく読めるものになってしまうのかもしれない、というのは上に触れた通りだ。