三月三一日日曜日の午後三時半ごろ、ひさしぶりに川にでも行こうかなという気になって家を出た。さいしょはジャケットを着ていこうとおもったのだけれど、陽射しもすこし出ていて暑そうだったし、シャツとズボンだけ。家を出ると右に折れて、すぐにまた右にくだる坂があるのでそこを下りていく。近所の家の子どもの声がうっすら響いている。坂の下端にたどりつかないうちに左にはいれる口があるのでそちらへ。そこにある家はNさんといって、保育園から小中までの同級生であるI.Kの祖父母の家で、子どものころはよく遊びに行き、行くたびに缶のサイダーなんかをごちそうになった。じいさんのほうはリウマチを患って死にかけながら一時復活し、数年前にのろのろと散歩しているところを家の前で会ったおぼえがあるが、去年だか二年前だか三年前だか、とおくない過去に死んだ。九〇代だったはず。おばあさんのほうはまだ生きているはずだが、このとき家の前を通りながら目を向けても、いるのかいないのか気配がない。ただ居間の窓のそとにある物干しスペースみたいなところになにかかかっていたようだったので、住んではいるのだとおもう。そこを右に折れて細道にはいる。折れてはじめの右側は空き地で、液体的な、葉の一枚一枚に注ぎこまれているようなあかるい緑の雑草が土の上をひろく埋めている。太陽がやっぱりけっこう暑いなとおもいながらすすんでいくと、そのうち前方に白い花の木が見えて、木についているものも多くはもうはしばし焦げているし、道にもおなじように端から炙られた様相のものがたくさん散らかっている。なんだっけとなまえが出てくるまで数瞬あってから、ハクモクレンだとおもいだした。足もとに散っているのに目を向けると、花びらの浅いふくらみを上に向けているやつなど、細めの二枚貝の殻のかたわれにみえる。すでに川は左手にみえている。まもなく今度は、ちいさな緑の葉っぱがハクモクレンよりもたくさんに、道のまんなかを埋め尽くすようにして散らばっている。丸いともいえず細長いともいえず、強いていうならば下端がすぼまって先端に一点つくった細めの盾型というようなかたちの、なまえのわからない、そのへんにいくらでもありそうな葉で、木自体は左のガードレールの向こう、川の岸のいちばんこちらがわから伸び上がっている岩鼻みたいな場所のうえに立っていて、そこまでは数歩、たぶん五、六メートルくらいの距離があるけれど、頭上の枝ぶりがその距離を差し伸びてきて路上に葉っぱが落ちている。その葉はなぜかほとんどのものが裏向きで転がっており、それはたぶんやはり浅い丸みが上になるとそれでバランスが取れるということなのかもしれないが、裏地は木についている葉のおもての緑と比べるとけっこう薄味な色だ。越えると川の入り口が近い。右手からくだってくる道との合流点を折れ返すように曲がって、湿った石や岩板や草を踏んでくだっていく。右折すると川岸。一見して以前よりもススキのたぐいの勢力がはるかに増しており、岸のほとんどがそれで埋まっているといっていい。ススキなのか荻なのかそれ以外の植物なのかわからないのだけれど、茎の先に花穂をもった、いまはおおかた薄白いように老い侘びているやつだ。その群れにはさまれながら、とりあえず入り口からまっすぐ川水のきわまで行って止まる。立ち尽くす。ながれの半分くらいから向こうは右から左へ、つまり西から東へながれがゆったり推移しつづけており、水はその上の梢を映しこんだという以上に水のなかへ溶かし入れたような濃い緑色、どう考えても濃くしすぎた抹茶みたいな色を沈めている。向かいは岸といっても立てる場所もないような、そのまま岩と林がそびえ立っている野生の岸で、その間近に水中の岩がひとつあり、ながれのなかでその前あたりはひかりの加減で、あるいはさざなみの加減で、ほんの少しだけ色味のちがう、数ミリだけ削り取られてへこんだみたいなおおまかに丸い影のいくつかが揺らぎながらくりかえし生まれて、ながれとともに移動しているようにも見えるのだけれどじっさいにはその場所から一向に消えない。太陽は右斜めうしろを振り仰げばある。上流方向に目を向けてすこしだけ先の対岸付近はその陽をあからさまに受け取って白波の色が無数に騒ぎ立っている。そこから手前に目を引けば、かがやきの薄くなって無方向にうごめく地帯を経て、足もとから川のこちらがわ半分までは、小石の汚く透けてみえる浅瀬がこまかい波をさわさわ手前に寄せつづけている。境のあたりに視線を置きながら焦点をゆるめて集中させないようにすると、奥にある横のうごきと手前にある引き波の匍匐が同時に目をなぞり、右手のうごめきやかがやきもわずかに視野にはいってきてすごいのだが、あんまりそうしていると動きがおおすぎて吐き気がしてくるんじゃないかと少しこわくなったので、ほどほどにした。それから移動することに。むかし、当時書いた記述の記憶の感触からすると二〇一六年ごろだったんじゃないかとおもうが、あるいはそれ以降、二〇一九年とかにもいちど来たかもしれないが、そのときはススキがこんなに旺盛に繁殖しておらず、岸はひろくひらけていたし、犬の散歩をするひとなんかもいた。この日はこちら以外だれもあらわれなかったが、こちらが移動しているあいだにあらわれていたとしても、ススキに遮られて見えないのでわからない。以前来たときには西方面へ岸を行けるところまで歩いていって、端の岩場にちょっと登ってしばらくたそがれたり、そのへんの汀に座ってながれのなかに無数の山脈を見たりした。今回もいちおうそっちのほうに行ってみることに。ススキの群れのなかにかろうじて歩けるすきまがあるのはやはりなんだかんだ通るひとがいるということなのか。花穂はいま硬い粒の集合みたいになっていて、使い古しまくった小ぼうきの毛の様相で、ぜんぜん鮮やかではないがいちおう茶色の色をもっており、西陽をあおぐ方向に群れをみれば茎のあたりも、琥珀色や鼈甲色まではとても届かないがそちらに向かってわずかにすすんだ色を帯びはして、透きとおる感じもほんの少し出て、鄙の風情を醸さないでもない。不揃いな石の上をごつごつ歩いているあいだにもう一種よくあったのは、遠くからみるとナッツをこまかく砕いてまぶした棒を揚げた細長い菓子みたいにみえるのをいくつももっている低い植物で、覇気のない茎や葉はいちおう緑色、ナッツ部分は近くでみると米粒よりは太いかなという丸さの、紙みたいに薄っぺらい一片がたくさん集まっており、ミツバチが花粉を集積しすぎたそのかたまりみたいな感じでもあり、色はだからそういう茶色っぽい黄色っぽい色なのだけれど、あれが花なのか花の残骸なのかそれ以外のなにかなのか、植物の生態は謎すぎてわからない。なまえもわからない。あまり似てはいないけれど、望むならユキヤナギの野蛮な親戚ということにしてやってもまあいい。そいつらとかススキのたぐいに阻まれながらも進んでいき、このへんだなというところで汀のほうにかたむいていくと、前来たときはこのへんの小さな斜面はもっと砂っぽいこまかい石の地帯だった覚えがあるのだが、それも変わったのかしっかりした石が集まっている。水の直前に立つと、このあたりはちょうど流れの曲がり目付近で、先ほどの場所より水もはやく、寄せてくる波に迫る感じがよりあって、もう一歩だけ足を前に出せば靴がまともに濡れてしまうだろう岸の端に、しかし水が乗り上げてこずにぎりぎりで守られているのがなんとなく不思議だ。目前は岩である。でかい。といっても四メートルくらいか? わからないが、水遊びをするやんちゃな子どもらのいい飛び込み場所になりそうな具合だ。しかし飛び込んだとて、からだを受け入れてくれるほどの深さがそこにあるのか、濃緑の濁りに水が包まれていてわからない。先の場所よりは速度もあるし、岸のそばも緑色が濃くてすぐ深くなっているようではある。その水の上には絶え間なく、油でできてんのか? というほどに粘っこい動きで等高線めいた襞がいくらも生まれてながれていき、左手をみれば右斜めうしろから注ぐひかりが襞の上を白く染めて、金属の質としかいいようがない研磨感を乗せながら、そのままで水はひたすらうねっていく。ながれの途中にはすこしへこんだ、水中におおきな石だか段差だかあるらしい箇所があって、一方向にひた走る線群を放射しながらごぽりごぽりと時折り盛り上がりを見せていて、その下に永遠にとらわれておなじ一所を泳ぎつづけることを定められた大魚が隠れているような調子だ。金属的なうねりをあまり正視しすぎるとやはり気持ち悪くなるんじゃないかと恐れたので、視線をあまり集中させず、目をかたく凝らさないようにして、からだのちからも抜いて両手をだらんと垂らしたまま立っていたのだが、じきに太陽が雲にかかった。川水から白さが薄れていったのとあたりの空気の変移でとうぜんわかるわけだ。見上げれば太陽をひっかけたのとは別だけれど、思いの外に巨大な大陸じみた白雲が川の両側をつないで幅広く、上流方向に広がっていて、その雲もけっこうはやく、川水とおなじ方向にうごいている。そのうちに今度はまた左のうねりのあたりが微光してきた、と思いきや色は白さを越えてさらに彩ってうねりのそこここが発酵して濁ったような薄オレンジ色をかぶせられて、目前の深緑もその色に中和されて中身を抜かれたように薄くなった。時ならぬその移行はちょっと感動的だった。