日曜日の昼間に出かけて実家へ。だいぶ暑かった。アパートを出て左方向に行ってすぐの公園では道に面した桜木が花をおおかた散らして白さをとぼしくし、地面からすこし斜めに生えだしたあとでまっすぐのぼる幹のとちゅうにあかるい緑の葉だけがついた付け足しのような枝もあった。遊んでいる子どものひとりが、男と女で分かれてたたかおう、と提案していた。駅方面へ。駅前にあるカフェスペースつきのパン屋でもろもろ買う。先週もそうした。片手に袋を提げて病院のほうへ。踏切りを渡り、裏を行ってまもなくの分かれ道を左折。車の来ない隙に渡る。病院敷地の東側を南下するかたちになる。前庭には植物が充実しており、あれもカナメモチなのか、さえぎられることのない太陽に直上からさらされて赤々と、ふだん垣根で見るそれよりも臙脂の渋味や暗さを排しためざましい赤さでいっそう赤々と、透けるようになっている葉の木があって、青空のもとでほとんど吸えそうなくらいにみずみずしく揺れていた。右折してすすむと道沿いに桜がならんでおり、ここも花が多く去ってしかし葉はまだまだで、粒立ちのつよい半端なすがたをさらしている。そのへんで母親の車と合流。
月曜は労働日。この日も暑かった。起きて居間で食事を取るあいだ、ベランダにつづく西窓のすりガラスのむこうで洗濯物がゆれている。じぶんはテーブルの東側についているのでほぼ正面にあたる。南窓にはレースのカーテンがかかっており、それもすきまからはいってくる微風を受けてゆるく浮かびあがったり、受けるのをやめて身じろぎ程度に落ち着いたり、反対に窓のほうにちょっと吸われたりしている。下端のほうに、あれはなんの影なのか、花や植物の柄があしらわれた布の丸い襞に合わせて波打ちながら横に走っている細帯があり、カーテンの浮かび上がりによってそれがわずかに上昇してみえるようになったり、また下端に沈んでしまったり、一部だけ突出して高くのぼったりする。戸外に満ちているひかりの白さがレースの白さのうしろにせまって貼りついている。すばらしい。すばらしくないわけがあるだろうか?
労働後は夜道をあるいて帰る。裏通りのとちゅうで、車が一台うしろから来て去っていったあと、それまで耳の行っていなかったしずけさが途端に意識されて、やっぱりあった音が消えると静寂に気づくんだなとおもった。表通りに出たあとも、まだ九時だというのにひと気はまったくなく、車の通りが一台もなくて道路のまんなかのマンホールから響く音がちょっと距離のある時点からさらさら聞こえてくるようなしずけさがあたりにひろく行き渡っている。むかしよくこれを、車の来ないあいだだけおとずれる束の間の聖なる静寂の時間、みたいな風に書いていた。ひさしぶりにそれを聞く。だんだん身内に自由と解放の感覚が生じてくる。やはり夜、帰り道、ひとり、しずけさ、ゆっくり歩くこと、風、これらがじぶんにとって最大の自由の条件なのだ。実家で家族と一つ屋根のしたにいるあいだはそういう感覚になることはないし、アパートでひとりでいるときもない。街路というだれにもひらかれた公共の空間であるにもかかわらず、いまそこにいるのがほぼじぶんひとりで、あたりがとてもしずかだ、というときに自由の肌触りがやってくる。大気とものたちが親しくなる。