九時頃外出。道に出ると同時に風が顔を包んでくる。しばらく続く。なかなか分厚く、ここちよい。いつものようにアパートの前から右に折れてすぐさま路地を抜けるとそのまま向かいに渡る。渡りながら右手、東のほうを見やれば、月がおおきく、しかしいまは薄雲にまつわられて砂をかぶせたようになり、輪郭がいくぶんほどけている。歩道のない通りの右側を西向きに歩く。渡ってきたほうには、一階にYがはいっている横長の建物があり、上階はアパートになっているようだが、その壁、卵の殻のようなつやのない白さに縦横の線が入った表面に、街灯のひかりが反映している。建物は灯りを越えて続いている。そちらのほうにもより広くつよく白いひかりが貼りついており、光源はおそらくおなじ一本だとおもう。風が顔にふれなくなったが、シャッターの閉まった布団屋のまえの旗は蛸のようにうねっている。T字を渡って右に折れ、角を曲がってH通り。公園の緑があきらかに嵩を増して空中に体積をひろくしている。ポケットに手を突っこんだり取り出したり、片手の指をもう一方の手で伸ばしたりしながら進んでいく。HA通りに至るとすこし遠回りする気分だったので、横断歩道を渡ってそのまま裏路地に入り直進した。つぎの角の建物のまえで上着はまとわぬワイシャツ姿の若そうな男がふたり、入社がどうのと立ち話をしていた。夜気は涼しい。ながれがなければ体温とほぼ齟齬がないし、風が通れば皮膚の邪魔にならないくらいのほどよい涼気が身を包む。夜歩きが魅力的な季節になった。一年のうちで二度しかない、そうながくつづかない貴重な時期だ。わすれていたが、公園のまえを通ったときには、電磁線めいてじりじりと色気のない虫の声も響いていて、セミを気早く先取ったような具合だった。路地をまっすぐ西へ進む。この裏道は思いの外に空がひろい。コバルトの青をはらんだ夜空に薄雲のすじの走っているのがしばしばよく見える。路地を最後まで歩き、T通りの交差点で、角にあるラーメン屋の脇を手短に小さく回りこんで、車道沿いの歩道に乗った。おもて道を来た方角に戻ることになる。いくらか行くと対岸にならぶビルのおのおのが、ベランダの長さや窓の並びや全体の色や高さをたがえてちぐはぐに、あるいは多彩に数棟つづいており、正面を見通した先には青い夜空がひろがったなか、筋雲がななめに下降してやや先のビルの裏に消えている。一景と映った。空があって建物があればそれでもう風景と出会えてしまうとは、とおもった。ビルのひとつ、ほかに比べて幅狭で細長く建ったものは、側面がウエハースをひたすら積み重ねたように縞状の模様となっていた。道路の果てには信号や街灯やその他の明かりが数色、潤いながら散らばっている。外がいいのはまず第一に空気のながれがあって肌が刺激を受けることだ。さらにいつでも頭上の空や最大限の前方遠くに視線を伸ばしきることができる。踏切りが来る。孤立して一台、向かいから来た車が通り抜けるとき、段差か傾斜にいくらか引っかかるようになって、路上のひかりが前後におおきく往復した。警報が鳴らないかと警戒しながら渡って進み、そのうちにHA通りに戻ってきた。右に折れる。下水のにおいが鼻に来る。この通りのこちら側の歩道を行くとき、たびたびあることだ。スーパーSのまえを過ぎて、イニシャルで書くとおなじSだが行きつけのソウルフルスーパーのほうへ。スーパーSのまえにはツツジの植込みが長くつらなっており、わずかに紫を混ぜたようなピンク色の花群れが盛りに近かった。もうすこし行くと、イチョウの街路樹のもとにもおなじツツジの植込みがある。その陰にタンポポの綿毛がひょっこり生えている。ただし植込みがあるのは二、三本のみだ。ほかは区画はつくられてあっても低い雑草が占めていたり、なんだかよくわからない草が背高く伸びて木の下のほうを侵していたりした。入店。いいあんばいのポップなソウルミュージックがかかっている。回って小松菜や納豆やレトルトカレーなどを集める。トイレットペーパーが残り一巻きしかなくなったので買いに来たのが主な目当てだった。掃除用の雑巾も買おうとおもったが見当たらず。会計。整理。そう多くない。リュックサックもビニール袋も大した重さにならない。退店。道路を渡ってそこから裏へ。東向きになったので月がつねに視界にある。ほとんど満月だが、右上がわずかに欠けている。月の暦と満ち欠けに通じていないので、これから望なのかもう過ぎたのかがわからない。雲のなかにあるけれど、行きに見たときのようにひかりをおぼろめかしておらず、かたちを明晰に保ってかすまず雲を背景となしている。時間が経った分、すこし小さくなり、締まって見えた。大きな月が絶えず見えていると何とはなしに、そこが空の中心点とは言わずとも、目の行きがちな力を持った参照点となり、周りの家屋根や木々の突端を月との間合いで、不可視の線をじぶんで引いて測り見るような具合となった。一歩ごとに角度と長さが変わっていく。アパートのある路地まで来て住みかがもうまもなくのころ、風にうごくものの音が立っておもわず左に目をやれば、向かいの一軒の玄関前で地面に近い白灯がつき、自転車を覆っている灰色のカバーが丸くふくらみながらざらざらと音を立てつづけた。カバーの動きにセンサーが応じ、明かりがついたものらしい。