2019/8/2, Fri.

 清水 モデルニテとニーチェというのは、つまりこういうことだと思う。近代性[モデルニテ]というものの問題性、袋小路性、苦しみ、複雑さというもののどうにもならなさは、われわれが近代性のなかに生きているという事実と切りはなせない。近代性というものがなぜゴルギアスの結び目であるかといえば、なかにいる限り絶対解けないものが近代性だからなんですね。宮川淳がよく使ったことばを借りれば、われわれはあるひとつの文脈のなかに生きている以上、その文脈自体を問題にできないということで、近代性ぐらいそれをはっきり表わしているものはないと思う。ニーチェがいまなぜ現代フランスにとって、あるいはわれわれにとって問題であるかを改めて考える場合、いちばんはじめにぼくが触れたバタイユニーチェ観に戻るべきなんだな。ニーチェというものはニーチェのなかにいかなければニーチェニーチェであるゆえんがわからないものであると。しかしニーチェのなかにはいってニーチェを考えるということは、近代性とまったく違うパラダイムを考えさせられるということですよ。さっき豊崎君が、寡黙な豊崎君らしく非常に要約して言っちゃったけど、クロソフスキーが「永劫回帰」という命題を考えていって突きぬけたところですね。始原とか最初というものは絶対ない、したがって最後もない、オリジナルはない、あらゆるものはすべてコピーである、あらゆるものは全部マスクである、素顔はどこにもない、固有の意味はどこにもない。要するに、同一性原理なるものが完全に解体してしまうのが「永劫回帰」の思想だというふうにクロソフスキーが言うでしょう。そういう思考を考え抜くことによってしか、近代性から抜けられないんじゃないかと現代フランスの思想家は考えてる。これまでの歴史性から抜け出して、さてその次になにが来るかは絶対わからない。わからないけれども、新しい神話、新しい科学が、もしかしたらこの次にあるかもしれないということを、最もよくわからせてくれるのがニーチェだということでしょう。
 豊崎 別の言い方で言うと、「無知」ということなんですね。ニーチェは無知になることを要求するんですよ。残るものは「永遠回帰」か「力への意志」、この二つは非常に関係してるんだけど、それしかなくて、これはもうぜんぜん「知」じゃないわけね。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、112~114; 渡辺守章清水徹豊崎光一「ニーチェ・哲学・系譜学」)

     *

――(……)フロイト精神分析は、カトリック教会による告解の義務づけという、十三世紀以来のヨーロッパの伝統を無視しては理解できない。わたしの関心を惹いているのもそこなのです。自分の性について、細大洩らさず語る、そこにこそ自分自身についての真実が隠されているからだという義務感につき動かされて執拗に語るのだし、語らせるのですね。
 それに一般的に言って、〈告解=告白〉の伝統は、現在のヨーロッパでも極めて根強いのです。たとえば全然別の例ですが、同性愛者の権利主張をする団体がある。ところが、そういう団体に加入を認められるには必須の条件が一つあって、それは、自分の同性愛の遍歴を細大洩らさず告白する、ということです。
――公にですか?
――そうです。
――一種の秘密結社への入社秘儀[イニシエーション]……?
――全くそうです。しかし重要なのは、ここでも〈告白〉というものが、性についての真実を言説化することが、その人の主体の真実の保証であり、かつ、それを相手に引き渡すことによって一つの力関係に組み込まれる、という点です。同性愛者としての主体[シュジェ]の成立は、そのような隷属化[アシュジェチスマン]によってしか可能ではないという話になる。わたしとしては、こういう要請は法外なもので、とても認めることはできない!
 (128~129; 「幕間狂言 脱構築風狂問答 三日月を戴くヘルマプロディートス」)


 一〇時覚醒。夏日。暑気。汗。扇風機を点けてしばらくベッドにごろごろとしたあと、起き上がって、コンピューターを点けた。Twitterやnoteを確認してから部屋を抜けて上階へ。母親は仕事に出ている。弁当を作っておいたと書き置きがあった。便所に行って大便を腸から放出したのち、冷蔵庫から弁当を出して食卓に就き、新聞をめくりながらものを食った。『妻のトリセツ』という著作が人気らしく、四〇万部を超えているとの広告が頁下部に付されていた。この著者はいつだったか『世界一受けたい授業』に出演していて、いかにもステレオタイプ的な、根拠薄弱と思える男女の観念をあたかももっともらしいもののようにして撒き散らして憚りなかった人なので、そのような著作が人気を得ているという世の風潮には苦々しい思いを禁じ得ない。このような本を読むより、『灯台へ』を読むのだ! 食事を終えると使ったプラスチックの容器と箸を洗った。台所のカウンターの上には塩キャラメルが置いてあった。小さな箱から一つを取って口に入れ、そのまま風呂場に行って、キャラメルを舐め、噛み、口のなかで溶かしながら浴槽を擦り洗った。それだけで汗が湧く陽気だった。戻ってくると抗鬱剤を服用し、もう一つキャラメルを食いながら下階に下りていって、コンピューターの前に立つとSkypeにログインした。「きみがさみしくないように」のグループにK.Mさんが加わっていた。それに対してYさんが注目を促してきたので、答えていると、やりとりが続いて、日記を書きはじめてからもしばらくメッセージを交換し続けた。部屋には最初のうち、エアコンを入れていたが、裸になった上半身から汗が引いてくると停めて、扇風機の風だけで我慢することにした。日記は一一時から書きはじめて、前日の記事を仕上げてさらにここまで綴ると、既に正午を越えている。音楽はFISHMANS『Oh! Mountain』を流した。
 前日の記事を投稿してからMさんのブログを読みはじめるまで、三〇分ほどのひらきがあるのだが、このあいだに何をしていたのかは不明である。一二時四〇分からMさんのブログを二日分読み、続いてSさんのブログも一週間分読んだ。その時点で時刻は一時二〇分、洗濯物を取り込むために部屋を出て上階へ行った。ベランダに裸足で出ると、熱線を浴びた砂浜のような熱さが足裏を責めた。洗濯物を室内に取り込み、タオル類を畳んで洗面所に運んでから戻ってくると、今度は星浩「破壊者か救世主か?小泉首相劇場政治が開幕 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(12)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019031400001.html)を読みだした。Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)を背景に、手帳にメモを取りながら記事を読み進めて、二時を過ぎたところで読み終わった。その頃には父親が、何故こんなに早いのか知らないが、帰宅した気配と足音が上階から伝わっていた。上がって行くと白いランニングシャツ姿になった父親は冷蔵庫を覗いて食事を用意していた。飯はと訊くのでまだだと答え、こちらは冷蔵庫からサラダとミルクプリンを取り出し、椀に白米をよそって鮭の振り掛けで食べることにした。カップ蕎麦を食べることにしたらしい父親と向かい合って食事を取り、食器を洗うと下階に戻って、エアコンの掛かったなか、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』からのメモを手帳に取りはじめた。背景音楽はWynton Marsalis Septet『Selections From The Village Vanguard Box (1990-94)』。ウィキペディアでナチ政権高官の記事をいくつか見ながらメモを取って、三時二〇分に達した。歯を磨いたあと、ふたたび上階に行って薄青いワイシャツを手に取り、纏いながら戻ってスラックスも履いた。それからほんの少しのあいだ、須山静夫訳『フォークナー全集 9 八月の光』を読み、三時四〇分になったところで切りとしてクラッチバッグを持って部屋を出た。上階に行くと便所に入ってこの日二度目だが糞を垂れ、それから出発した。端的な酷暑だった。道を西に歩いて市営住宅の敷地前まで来ると、前方の路肩に真っ青な車が停まっており、どうも父親のものらしいなと判別された。見ていると父親が姿を現し、車に乗り込んだその横を、手を上げて通りかかると、送ろうかと言ってきたが、いや、いいと払って別れ、坂道に入った。蟬時雨の激しく降り注ぐなか、路上に映った木洩れ陽を踏みながら上っていくと、暑気のためにほとんど息苦しいほどだった。出口に掛かって日向に出ると、途端に熱線が重く伸し掛かり、まるで細胞の隙間まで染み込んで、身体の動きを粘っこく阻害するかのようだった。横断歩道を渡って階段通路を行き、ホームに入ると、女児が一人座っているベンチには陽が掛かっていたのでこちらは腰を下ろさず、その後ろの薄い日蔭のなかに立った。汗は全身から噴出し、汗疹に冒された肘の裏が痒く、汗の玉が背に転がるのに身体がぞくぞくとした。手帳を取り出し眺めながら、ハンカチも取り出して首の周囲や腕を拭いているとアナウンスが入ったので、ハンカチを仕舞い、手帳を持ったままホームの先に歩き出した。スラックスの裏の腿や膝や脛までもに湿った感覚が滲んでいた。乗車すると冷たい空気のなか扉際に立ち、引き続き手帳を眺めて、青梅に着くと降車して階段通路に入り、改札を抜けた。駅舎を出たところで立っていた一人の男性からお使いくださいと言って何かを差し出された。有難うございますと言いながら受け取ってみると、ウェット・ティッシュだった。それを左のポケットに収めて職場に向かった。
 今日は室長も(……)さんも不在の日だった。こちらの勤務は三コマ。一コマ目の相手は(……)さん(小四・算数)に(……)さん(小五・社会)。(……)さんははっきりとした顔立ちで円な瞳をしており非常に愛らしい子だが、地頭はあまり良くないようで、勉学の指導の方はなかなか骨が折れる相手だ。今日扱ったのは二つの三角定規を合わせて出来る角の角度を足したり引いたりして求めるという問題だったのだが、まずもって三角定規の角度が一方は九〇度・六〇度・三〇度ということ、もう一方は九〇度・四五度・四五度ということも、何となくしか理解していないようだった。ここは何度、と訊いてもまったく見当違いの答えを返してくるのだ。それなので、円の角度が三六〇度で半円はその半分の一八〇度であるということを理解させるのにも苦戦したと言うか、ノートに書いてもらったけれどおそらくきちんと腑に落ちてはいないのではないか。まあ地道にやっていくほかはない。彼女の母親は、この日も迎えに来ていたのだが、日本語の発音や語調から察するに、おそらく日本人ではない。外見から判断するに、何となくフィリピンの人ではないかという気がする。その母君と授業時間の変更について少々やりとりをしたのだが、丁寧な態度の結構愛想の良い人である。(……)さんの方は特段の問題はない。
 二コマ目は(……)くん(中一・英語)、(……)さん(高一・英語)、(……)くん(中三・国語)。三人ともわりあいに真面目な方の生徒なので、特段の問題はない。(……)くんが宿題をやって来なかったことだけ少々気になるが。彼は今日、This is / That is構文の疑問・否定形を扱ったのだが、一番難しい問題の頁も大方出来ていて、ミスは単語のスペルがわからなかったことによるそれのみだったので、三つの単語を練習してもらい、ノートにメモしてもらった。
 三コマ目は(……)さん(中二・英語)、(……)さん(中三・国語)、(……)くん(高二・英語)。(……)くんの教科書をたくさんコピーしなければならなかったり、(……)先生が担当していた(……)さんが来なくて電話を掛けたりで結構忙しかった。気になるのは(……)さんで、スペルミスがかなり多い。しかもそれに自分で気づいているのか気づいていないのか、答え合わせの際には見逃して丸にしてしまうので、こちらが改めて隅までチェックをしなければならないのだ。和訳させてみるとわりあいに出来るので、文法的な知識はそこまで貧困ではないようだが、如何せん細かなところのミスが多い。(……)さんはいつも通り、問題なく進められた。(……)くんも教科書の和訳を進行。彼はまずは基本的な語彙を身につけなければいけないだろう。
 それで終了。終業時には(……)先生も既におらず、こちら、(……)先生、(……)先生、(……)先生の四人が残っていた。それで今日は鍵閉めは誰が、と訊くと、(……)先生がやってくれると言う。有難うございますと礼を言うと、(……)先生がそれに追随して、朝から晩までなのにすみません、と言うので(……)先生最初から最後までだったの、と驚き、神がもう一人いた、と言って笑った。その後、翌日の予定も訊くと、やはり朝の一番最初から最後のコマまでだと言う――この日は青梅の花火大会のため、終わりの時刻は普段よりも二コマ分早くはあるのだが。それで、死なないようにねと忠告しておき、片付けを済ませて退勤した。
 暑気のなか、駅へ。ホームに上がり、奥多摩行きに乗り込み座席に就くと、手帳を取り出して眺めた。そうして発車、しばらく経つと最寄り駅に到着したので降りる。階段通路の途中では、蟬が一匹暴れ回り、宙を縦横無尽に飛び走って蛍光灯に自殺的な体当たりを繰り返して音を立てていた。それにぶつかられないように警戒しながら階段を下りていき、横断歩道を渡って木々に囲まれた坂道に入った。下っていって坦々とした道に出て歩いていき、自宅の近くまで来ると、林の奥からここでも蟬の、ギッ、ギギッ、という少々耳障りでもあるような声がたびたび立って聞こえた。
 帰り着くと両親は居間にいた。父親は酒を飲んだようで見るからに酔っている。例によってテレビに向かって何やらぶつぶつと呟いていたと思う。ワイシャツを脱いで洗面所に入れておき、下階に下って着替えると、インターネットをちょっと見てから上のフロアに戻った。そうして食事。鶏肉のソテーに自家製のシーチキン巻き、その他サラダなど。卓に就いて食べはじめるとちょうど一〇時を迎えて、何やらテレビドラマが始まった。出演している主役の女性は、多部未華子という人だったと思う。以前と比べて随分綺麗になったような気がした。ぼんやり見ていると、『これは経費で落ちません!』というドラマタイトルが表示された。その後もぼんやりと見つつものを食べ、冷たい水で薬を服用して食器を洗ったあと、風呂は母親が入っていたので自室に下りた。そうして一〇時半前から日記を書き出し、一一時まで三〇分ほどこの日の記事を書き足したところで入浴に行った。浴槽の縁に頭を預けて身体を水平に近く寝かせながら長く浸かって休み、出てくるとパンツ一丁で髪を乾かし、居間に抜けるとハーフ・パンツと肌着のシャツを着た。そうして下階に戻り、Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』をヘッドフォンで聞きながらヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』から三箇所を書き抜きし、日付替わりと同時にベッドに移って須山静夫訳『フォークナー全集 9 八月の光』を読みはじめたのだが、ほとんどいくらも読まないうちに眠気に刺されて殺されたようだった。息を吹き返すと既に三時台後半か四時台に入っていたはずである。そのまま明かりを落として就床した。


・作文
 11:02 - 12:05 = 1時間3分
 22:26 - 22:59 = 33分
 計: 1時間36分

・読書
 12:40 - 13:21 = 41分
 13:35 - 14:09 = 34分
 14:33 - 15:18 = 45分
 23:39 - 23:55 = 16分
 24:00 - ? = ?
 計: 2時間16分

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-07-23「水切りをする罪のないものだけが投げることの許された石で」; 2019-07-24「手首から走る傷跡手のひらにおよんで伸ばせ生命線を」
  • 「at-oyr」: 2019-06-14「酔客」; 2019-06-15「無駄足」; 2019-06-16「悲しき渋谷」; 2019-06-17「泡沫」; 2019-06-18「姿勢」; 2019-06-19「シュウマイ弁当」; 2019-06-20「若い女」; 2019-06-21「負ける」
  • 星浩「破壊者か救世主か?小泉首相劇場政治が開幕 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(12)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019031400001.html
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』、メモ
  • ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』岩波書店、二〇一七年、書抜き
  • 須山静夫訳『フォークナー全集 9 八月の光』: 14 - 20

・睡眠
 4:10 - 10:00 = 5時間50分

・音楽