2014/3/9, Sun.

 どうしてこうも起きられないのかといえば夜更かしをしているからに決まっていた。正午を過ぎて階段を昇ると、まったくまだ起きないよ、という母の声が聞こえたので、すいません、とつぶやきながらリビングに出るとYさんが笑みを見せた。父は自治会の会合で出かけており、三人で混ぜご飯と、Yさんが買ってきてくれた揚げ物類をいただいた。食後、中沢新一國分功一郎『哲学の自然』を読んだ。対談なのでもちろん読みやすさはありながらも話していることは薄くなく、特に興味を持つのは哲学の世界認識のしかた、とりわけプラトン以前のイオニア自然哲学の自然観で、このあたりのこともいずれは勉強しなければならないとの思いを得た。あと、中沢新一について何ひとつ知らなかったけれどどうもおもしろそうな人間で、著作を読んでみたいと思われた。部屋に戻ってギターを手にとり、フリージャズみたいにといえば聞こえはいいけれど実際はそんな大層なものではなくて指のおもむくまま滅茶苦茶に弾き殴ってから、Richie Kotzen『Bi-Polar Blues』を流して読書をつづけた。
 明るい日でもないのに妙に外出したい気分になって立川に行くことにした。薄曇りで陽射しという陽射しもなく、西空には茫漠とした灰青色の雲が広がり、ふちだけ明るく白みを帯びていた。電車のなかは老後生活を持て余した山帰りの人間でいっぱいで、香水と加齢のにおいが混ざった複雑怪奇な臭気で満たされていた。高年の人が多いなか、アラブ系かあるいはインド人のような面構えのカップルがいて、男性の精悍な表情はかたく、鋭いといってもいいまでに凛々しい目をまわりに向けていた。乗り換えて先頭車両に移動すれば誰もついてこず、車両にただひとりというしばしの自由を得た。公共の場所で自分ひとりになったときの開放感というものは格別である。
 Led Zeppelin『The Song Remains The Same』を聞くたびにこのようなバンドが存在したことがほとんど奇跡のようなものだとの思いを新たにする。聞きながら例によって左側にもたれて目を閉じた。夜更かしをした次の日特有のどれだけ寝てもとれない頭のかすみがあり、息苦しさはのどの奥にわだかまって、ともすれば発作時特有の世界と体の位相がずれたような感覚に陥りそうだったけれど、実際にはそこでとどまってもうそれから先にいくことはないと知っていた。指先が震えた。立川に近づくにつれて幼い子どもを連れた親の姿が目立ち、あるものは我が子をベビーカーにのせ、あるものは首から下げた紐で胸に抱いていた。正面の座席には管楽器らしきケースを背負った妙齢の女性が座り、青いスマートフォンを握りしめたまま呆けたように頭上のテレビモニターを見つめていた。
 例えば新宿なんかのほうがはるかに人口は多いはずだけれど、立川駅の改札を出たときにこちらのほうが人の多い印象を受けるのはここまでではなかったときを知っているからだろうか。それともそれは記憶の捏造で、昔からこうだったのだろうか? 高校時代のあるときから急激に人通りが増えた、そのことをある日明確に認識したことを覚えているが、錯覚だったのだろうか。群衆のなかに手を引かれた幼女がいたが、膝立ちでまさに引きずられているような格好にもかかわらずそれになんの苦痛も感じていないようだった。北口を出た左手で介護犬育成募金という旗が立っていて、女性二人に連れられたラブラドールレトリバーが尻尾をふっていた。花粉のせいなのか、息を吸うたびに、鼻の右奥が誤って水を吸ったあとのように刺激された。
 図書館ではBrad Mehldau Trio『Progression: The Art of the Trio, Vol.5』と橋爪亮督グループ『As We Breathe』を早々に手にしたあとはワールドミュージックの棚にもよさそうなものがあって迷いもしたけれど、結局はJimi Hendrix『Blue Wild Angel: Live at the Isle of Wight』にした。それから哲学の棚を見にいって、閉館間際まで気になる本をチェックし、N・グッドマン『世界制作の方法』、F・ペレス『存在への問い』、R・G・コリングウッド『自然の観念』、エドワード・ハッセイ『プレソクラティクス』、クセノポン『ソクラテス言行録1』、S・K・ランガー『シンボルの哲学』、ハンス・ブルーメンベルク『世界の読解可能性』、アドルノ『ミニマ・モラリア』、ジル・ドゥルーズ・クレール・パルネ『対話』(これはあとで本屋に行ったときに、『ディアローグ』の題で河出文庫に入っているのを見つけた)、蓮實重彦『表象の奈落』、ジャック・ランシーエル『感性的なもののパルタージュ』などの名前がノートには並んだ。
 もともと暗く青みがかったビルのガラスに暮れた空が映りこむのにくわえて雲から薄青い影が洩れだして空気中にひそんでいるかのようで、午後五時の立川はことのほか青の印象が強かった。沈んでいく太陽はその青に隠されて、映画館の前を右に折れると、はるか彼方、雲の途切れた先の空が白くぼやけているのみだった。何を買おうと思ったわけでもなかったが本屋に寄って、一時間半ばかりかけて文庫、文芸、美術、哲学、音楽など店内を見てまわった。その結果メモノートには梅澤亜由美『私小説の技法』、岡真理『アラブ、祈りとしての文学』、阿部公彦『文学を〈凝視する〉』、熊谷直男『芸術美の哲学』、『ハンス・ヨナス「回想記」』などの名前が記されたけれど、途中から面倒になっていちいち書かなくなった。哲学の棚では読むべき筆頭となるのはやはりバルトだろうし、サルトルも個人的に気になる存在ではある。音楽ではDerek Baileyの本二冊と、Miles、Evans、Coltraneまわりの書籍、あとはScott LaFaroの伝記は読みたい。柄谷行人はたくさんあるのに蓮實重彦の著作は見かけないと思って検索したら在庫はあまりないし、あってもそのほとんどが映画関連の本のようだった。店を出るころには空腹からくるものか腹痛があり、水が足りないためかいくらかの頭痛もあってややふらふらしていた。
 高架歩廊から見上げた夜空はどこまでも均質な黒を広げていて、闇と人工的な光の対照で輪郭が明瞭に区切られた駅周辺のビル群は昼間よりも大きさを増したようで、そのためにわずかな非現実感をともなって模型めいて見えた。電車の席に座ると疲労を感じた。思えば図書館からこちらずっと気が張っていたようで、張りつめていたわけではないものの熱がこもっていたような気がした。久々にKeith Jarrettでも聞くかと『Tribute』を流して寝た。地元は星も見えない暗夜かと思いきや林のなかに入ってからよく見えることに気づいた。
 帰宅して昼間と変わり映えしない夕食をとって風呂に入り、Pat Metheny Unity Group『Kin』を聞きながら『哲学の自然』を読了し、Derrick Hodge『Live Today』を流して書きぬきをしていると十一時になって目が疲れてきたので寝ることにした。歯を磨きながら柴崎友香『ビリジアン』を最初の「黄色の日』という篇だけ読んだ。