2014/3/14, Fri.

 部屋にはティッシュがなかった。ポケットティッシュはあるけれど、箱はなかった。机の端のあいたスペースを見るたびに持ってこなきゃと思いだして、部屋を出るたびに忘れた。ハムエッグを焼いて食べた。味噌汁のネギが甘かった。
 Jimi Hendrix『Blue Wild Angel: Live at the Isle of Wight』を流した。二時ちょうどに音楽が終わって、ほとんど同時に柴崎友香『ビリジアン』を読み終わった。九日の夜寝る前に「黄色の日」だけ読んだときにはぴんとこなかった。何をやっているのか、何をやろうとしているのかがわからなかった。物語もない、細部もない、取り立てた出来事もない。それから読みすすめるにつれてだんだんわかってきて、どんどんおもしろくなった。何かをやることで世界をつくるというよりは、何かをやらないことで世界をつくっている小説だと思った。淡々としているというのはきっと誰もが抱く感想だろう。一文の息が短いこと、(通常なら「~だろう」と書くところでさえ)「~だった」「~した」という過去の断定をくり返すこと、詳しい感情や思考を書いたり内面を掘り下げたりしないこと、色は散りばめられているがそのどれもが無造作に色の名前を示すだけで「~のような赤」などとは書かないこと、などの特徴を認めた。切り詰められているというのも無駄がないというのもちがう、自分がそういう形容で語る小説はどれも文章が密だが、この小説の文章には隙間があってゆるい連関でつながっていた。疎の文章だった。情報は最小限で、ほとんどすかすかみたいなもので、そうやって書かれる世界は淡い感触になる。いい意味で薄い、希薄な小説で、「わたし」の重さが全然なかった。特に「十二月」という篇がよくて、ここではほとんど何もやっていないのではないかと思った。こういう書き方ができるのだ、とうらやましくなった。これに比べると自分の文章は重すぎると感じた。書くことを通して何もやらない小説、そういうものは可能なのだろうかと疑問に思った。
 T-Bone Walker『T-Bone Blues』を流して十二日の日記を書いた。それからギターを弄んだ。最初は真っ当にGブルースを弾いていたはずが、だんだん指がうずいてコースを外れはじめ、最終的にメロディもリズムもコード進行もない滅茶苦茶な演奏になった。適当にコードを鳴らすだけで楽しかった。弦があって、指があって、触れて、音が出て、それだけでよかった。音楽の根源的な歓びがここにあると感じた。
 アイロンをかけていると、いま帰ってきたら駅でTさんに線香あげにいってもいいかって聞かれて、医者にいかなきゃいけないから、五時までだからって断ったんだけど、そしたらまたそこでTさんにも会っていまからいってもいいかっていうからまだ仕事しなきゃいけないのよって言って、多分来ないと思うんだけど、と母が嘆いた。人が来るので頭がおかしくなりそうだよ。
 部屋に戻ってふたたびギターを手にとった。ブルースがやりたくて、ペンタトニックをひたすら行ったり来たりした。十一日に科学博物館のレストランで音楽の話になって、いまはブルースがやりたいですね、と言ったらMさんはなぜだか嬉しそうにいいじゃん、と目を輝かせて、John Lee Hookerとか、と言った。John Lee Hookerは聞いたことがなかった。Stevie Ray Vaughanみたいなやつがやりたかった。
 出かけて帰ってきた母が部屋に来て、Tさんが来たの気づかなかった、ぼんたんが置かれてたんだけど、とこちらをやや責めるような口調で言った。気づくわけがなかった。風呂に入る前に玄関脇に置かれたその箱をなかに運び入れた。ついでにストーブの石油も補充した。雨はやんで暮れた空には雲が広がっていて、その陰影が見分けられるほどの明るさがまだ残っていた。一面薄墨色に塗られたなかにまだらに白みがかっているところがあって、どうやらあの裏に月があるらしいと見えた。
 夕食はうどんと冷凍のハンバーグで、うどんは煮こむのがめんどうだったからずりだしで食べた。Vladimir Ashkenazy『Bartok: Piano Concertos』を流しながら『族長の秋』を暗唱した。ベッドの上で枕に尻をのせてあぐらを組み、なかば瞑想めいたかたちでぶつぶつとやっていたら、時折りある周囲の世界が遠く近くなるような感覚と同時に、顔の側面や肩などがぴりぴりとしびれるような感触を得た。それから岩田宏詩集をひらいて、「神田神保町」を一回音読した。「やさしい人はおしなべてうつむき/信じる人は魔法使のさびしい目つき/おれはこの街をこわしたいと思い/こわれたのはあのひとの心だった/あのひとのからだを抱きしめて/この街を抱きしめたつもりだった」。この一節をはじめて目にしたのはMさんのブログだったけれど、そのときからこの詩集がずっとほしかった。街の猥雑さと歌謡曲というか歌らしい調子とを含むなかの終盤、このほのかでしかし絶妙な感傷と叙情。Tさんが高橋源一郎がどこかで言っていたけれど、と断りを入れながら、小説を書く人は現代詩を読むべきだとくり返し主張していたが、最近はますますそれに同意したくなってきている。読み終わって本を置くと、裏表紙に小さくのっている岩田宏の写真が誰かに似ている気がして、すぐに思いあたった。オードリーの春日だった。似ているといえば十日の新宿のびっくりドンキーで、H兄弟を前にしたときに、やっぱり似てますねと言ったら全然同意されなくて驚いた。たしかに双子だと知らなければ絶対に兄弟だとは思わないのだけれど、その知識を備えたあとでいざ二人並べて目にしてみると、その類似点ばかりが浮かびあがってきて、腕組みしながら少し頭を傾けた姿勢とか、頬から顎にかけてのラインとか、口元とかやはり兄弟だなと思った。柴崎友香『ビリジアン』を書きぬいて、まだ十時だけれどはやめに日記を書いたのは明日の朝がはやいからだった。