2016/7/9, Sat.

 一度目に覚めた時点で寝覚めが良く、瞼も再度閉じていこうとしない。時計を見ると八時ぴったりだった。そこで起床と相成るはずが、携帯電話を取って寝床に横になったまま九時までウェブを回ってしまった。それから洗面所に行って顔を洗い、枕の上に帰って瞑想、九時一〇分から二〇分までである。そして居間に上がっていき、食事は前夜の残り物のカレー風味の鶏肉や玉ねぎのコンソメスープである。食事を終えると皿を洗い、この時か食事の前かに多分風呂も洗って、室に下りた。一〇時前から新聞記事を写しはじめた。前々日のものから始まって、前日のものを途中までやると一〇時半、途中に母親が室に顔を見せて、送っていこうかと言う。先日買った真っ白な靴がやはり気に入らないからとリサイクルショップに出しに行くようで、車を停めているあいだに乗っておいて欲しいらしい。了承して、新聞写しを中断したあと腕立て伏せをしたり、歯を磨いたりと身支度を済ませて、家を発ったのが一一時だった。雨が軽く降っていたが、傘は面倒だと持たず、軽自動車の後部座席に乗った。道中のことは何も覚えていないしメモにもない。駅前に着くと細道に入って、リサイクルショップ前の路肩に停めた。通りの向こうを見て母親が、誰々さんだ、と言う。傘を差しているその婦人が近くなったところで母親はドアを開けて、女性が知り合いの女性と話す時特有の朗らかめいた声で話しかけた。そのままちょっと立ち話をしていたのだが、そのうちに相手の婦人が車のほうに近寄ってきたので、身体を斜めに背もたれに預け、片脚をもう片方の上に乗せた偉そうな姿勢をこちらは解いて、相手は反応しないが曖昧に会釈した。やがて話が終わると母親は店に入っていき、それから数分間、特に何もせず、フロントガラスのあちこちで、既にたくさん集った仲間たちの隙間に新たな水粒が生み落とされるのを見たり、屋根をさらさら叩く雨音を聞いたりしながら待った。それで母親が戻ってくるとじゃあ行ってくると降りて、駅に入った。ホームに出て電車に乗ると、ひとまず浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』を出しはしたのだが、ひらいたページを見てみるとベンヤミンを電車内で読むのは困難だと思われて、音楽を聞くことにした。Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』である。ディスク一の冒頭から流しはじめたところが、すぐに眠気に沈んで、一瞬で路程の半分が過ぎていた。またすぐに意識が落ちて、二瞬目でもうほとんど立川である。顔を擦ったり背を伸ばしたりしてから降りると、便所に寄ってから改札を抜け、券売機に行ってICカードに金をチャージした。それで財布を整理しながら広場の方角に踏みだしたところで、演説をやっているなと耳もとの音楽を突き抜ける大音量に気付いた。社民党の青い旗が見えたので、増山麗奈という人かと見て歩いていくと、広場奥のほうに演説者がおり、その周囲には支援者が数人立って手を掲げている。広場と駅通路の境あたりに立ち止まって、イヤフォンを取り、それでちょっと演説を聞いたのだが、マイクを通した声量が非常に大きく、耳に少し痛いようだった。言っていたことはよく覚えていないが、戦場ジャーナリストである夫を支えてきましたとアピールするとともに、自分は強い女、やり遂げることのできる女だというようなことを大声で訴えていた。そのあと、ま・す・や・ま・れな! ま・す・や・ま・れな! とコールめいて、自分の名前を一字ずつ区切ってリズムを付けながら叫び、それに合わせて片手を上から下へと、一声ごとに宙を打つようにして振り下ろしていた。こちらの周囲に何人か立ち止まっている人々のなかには、一見して若者は見受けられず、大方中年以上だったように思う。平和主義を標榜する政党のわりに、というのは関係ないのかもしれないが、随分と勇ましいものだな、随分と男勝りの女、雄々しい女を演出するものだが、政治という場はやはりそうでないといけないのだろうかと思いながらその場を離れて、横手の階段を下り、喫茶店に向かった。政治家の言葉と声というものはほとんどどれも間違いなく、紋切り型の押し付けがましいものになってしまう、生涯政治から距離を取っていたロラン・バルトはきっと政治の領域に飛び交うあのような言語使用に耐えられなかったのではないかと、そんなことを考えながら、地元よりも強い雨に打たれて服に染みを付け、建物に入った。あとからもう一人来ると店員に言って、二つテーブルが繋がった席に就いた。オレンジジュースを頼んで飲みながら、書き物を始めたのが一二時二〇分前である。Gil Evans Orchestra『Plays the Music of Jimi Hendrix』を流した。そうして前日の記事を頭から綴っていくのだが、意外と時間が掛かって、じきにこれは待ち合わせの二時までに終わらないなと悟った。BGMにGil Evans Orchestra『Blues In Orbit』を繋げて足搔きをし、四七〇〇字ほど書いたところで友人がやってきたので中断した。友人が向かいに来たのにこんにちはと挨拶すると、椅子に座りながら相手は、あとちょっと読めなかったと今回の課題書だったレヴィ=ストロース『悲しき熱帯』二冊について言った。相手はココアフロートを頼んで、そうして向かい合いながら『悲しき熱帯』について何となく話を始めたのだが、相手は構造主義というのはどういうものなのかと訊く。こちらもそのあたりまったく知らないのだが、過去に書き抜いた小林康夫大澤真幸『「知の技法」入門』の簡便な説明を参照しながら話した。構造主義の起源とか何とか、帯に書かれているのに、どのあたりが構造主義だったのかと問いが出たが、それほど本格的な構造分析のようなものはあまり見られなかったように思う、そのあたりの方法論は、『親族の基本構造』とか『野生の思考』とかでより理論的に展開されているのではないかと推測を述べた。そんなような話をしながら、二巻の終わりでルソーを絡めながら何か重要な、あるいは面白そうなことを言っていたはずなのが、書き抜きをしていないこともあって思いだせなくて、自分がいかに本を読む時にものを考えていないかということを思い知らされるのだが、そのうちに会話は例によってずれて、課題書から離れていった。なぜだかわからないが人工知能の話になって、『将棋ウォーズ』という人工知能アプリを開発したエンジニアに相手が取材しに行った時のことを聞いたり、将棋や囲碁のようなボードゲームについてあらゆる手順のパターンが解析し尽くされたら、それらのゲームの存立基盤がなくなってしまわないかとか、コンピューターは道徳を学ぶことはできるのだろうか、論理的な計算データの膨大な集積によって感情とか直感にたどり着くことは可能なのだろうか、我々が感情などと呼んでいる曖昧な領域もいずれはすべて分析され分割されてしまうのだろうか、そうなった時、一体人間とはどのような存在として定義されるのか、それとも何か神秘的な心や魂のような領域が残るのだろうか、あるいは感情的な反応や動作などを完璧に模倣できるロボットが生まれたとして、現実には感じているふりをしているだけのそれは実際に感じていることと何が違うのだろうか、さらにあるいは、人間とまったく同じように感情を理解して動くようなロボットを作れたとして、しかしその感情の要素によって判断が乱されて、そのロボットを作った目的の達成に支障が出るとすると、それは本末転倒ではないか、するとそうか、人間に感情が搭載されているというのは、諸々支障になることもあるが、それはつまり人間が機械としてあまりにも精巧過ぎるということの表れなのだな、我々はあまりにも精巧に出来上がっているために割り切れなさを抱えてしまうのだとか、そんなようなことをおそらく二時間くらい話し続けた。その後、教育の話になって、学習塾などという仕事は実にくだらない、詐欺のようなものであると熱弁し、そこから多分政治や選挙の話に行ったのだと思う。先の英国のEU離脱騒ぎでも投票率は七〇%ほどだったと言うし、今回の参院選でも、昨日か一昨日の夕刊に出ていたと思うが、投票した者には商店での買い物を割引するというサービスが設けられているらしい、わざわざそんなことをしなければ投票率も上がらない有り様だ、しかしそもそも世上は民主主義民主主義民意民意とやたらに唱えて、投票に行けとにかく行けと盛んに繰り返すが、関心も知識も知見もない人間たちが何となく乗せられて投票したところでそれは果たして民主主義と言えるのか、むしろそのような人々が投票しないでいてくれたほうがよりよい選択がなされるのかもしれない、しかしそうは言う自分にしたって、彼らと比べてそれほど高度な政治的判断ができるとは思えない、それは多分大方の市民も同じだろう、きっと世界が複雑化しすぎていてそうならざるを得ない時代なのだ、民主主義などというのは所詮は理念であって現実にあるのは常に衆愚政治、我々一般市民も政治家も、専門家でさえもきっと衆愚にならざるを得ない、一億総衆愚というわけだ、だから生まれるのはイデオロギーと党派性の押し付け合いに票取り合戦、そんな有り様だが、しかしそんななかで少しでもましな方向を目指して各々やっていくしかないと、そのような感じで愚痴り合い、七時頃になると最後にまたレヴィ=ストロースの話をちょっとして、七時半頃、本屋に行こうと退店した。建物を出る時、入り口あたりに溜まっていた中年女性集団の一人が、あたし、ゲイバー行きたいとか何とか言っていて、過ぎながらゲイバー行きたいってと隣に振ると、そういえば、と相手は、ボーイズラブ喫茶というのができたらしいとテレビか何かで見た話をした。それほど見目麗しくもない男二人がいちゃいちゃしているのは絵面として厳しいものがあった、と相手は言い、ついにBL好きの女性たちの妄想が現実化したわけか、しかしそうするとまた二次元が絶対と言う人と、三次元も許容する人とで派閥が生まれるのだろうかとかこちらは受けて、エスカレーターを上がった。広場では横粂某候補が、先の増山候補よりはよほど慎ましく、演説をしている。そこを過ぎて本屋のほうに歩いていき、モノレール駅下の薄暗い通路から西を見やると、青緑の宵空が暗んでいた。本屋に入って、ひとまず岩波文庫の棚を見て、次に海外文学のほうに移動した。何か読みたいものはないのかと訊かれるのに、トマス・ベルンハルト『消去』を示したが、改行なしで最後まで続く文字の羅列は相手には厳しい。棚を見分しながら時間が過ぎていくばかりなので、じゃあゼーバルトにするかとこちらの一存で決めた。『目眩まし』と『移民たち』の二つを示して相手に選んでもらい、『目眩まし』のほうに決まった。友人は会計に行き、戻ってきて行こうというところで、こちらは洋書の棚の前に入った。『百年の孤独』があるなと見ていると、あとから来た相手が、差し迫っているのか、トイレに行ってくると余裕のないような様子で言って去っていったので、ペーパーバックのタイトルを虱潰しに眺めながら待った。フィクションを終えてノンフィクションのほうに入り、端まで行ったところで帰ってきたので、飯を食いに行こうと退店した。空腹のために目が霞み、身体が軽くなって、空になって乾いた胃のにおいが口内に立ち昇ってきていた。建物を出て、すぐ下りたところにあるファミリーレストランに入り、テーブルに向かい合って、こちらはドリアを、あちらはカレー南蛮うどんを、分け合って食べるためにサラダを頼んだ。相手が南米に行った時の思い出を聞きながらものを食べ、二人とも平らげるとさらに、軟骨の唐揚げを注文してつまんだ。九時半かそのくらいになると相手が、最近も日記は書いているのと訊いてきたので、ずっと書いていると答えて、自分の書き物についていくらか話をした。ものを見た時にその場で頭のなかで書いているとか、書くものと書かないものは生活しているなかで自然に取捨選択しているとか、これは書こうというものは一日の流れを遡行的に思い返した時に浮かびあがってくる、今日だったら例えば増山麗奈がそれだ、とか語ったあと、過去の文章を消しているという話になった。相手も日記を書いているらしく、こちらが二〇一三年の日記記事はすべて消したし、二〇一四年のものも読み返して消そうと思っているが作業を中断していると言うと、相手は信じられないようになって、自分は残しておくと言った。自分が書いた拙い文章がこの世に残っているのが許せない、だから断片として作っていた習作めいたものもほとんど消したが、一つだけ面白いと思えるものがあったのでそれは残してあると話し、電車のなかで一人きりになった時のことを題材にして一時間くらいでさらりと書いた三〇〇〇字程度のものなのだが、あれは今読み返しても直すところがまったくないくらいよく書けている、自分が書いたのではないかのようだと自画自賛した。その後、一〇時一五分か二〇分かそのくらいになって会計を済ませて退店し、どういう箇所を書き抜くのかと話しながら駅に向かった。改札のなかでまたちょっと話して、じゃあと別れて下りたホームの電車が混み合っていたので、次の電車にしようとその向かいの番線で待った。乗ると席の端を取って、Bill Evans Trioを聞きはじめた。発車してからもしばらくは音楽に集中して、暗く閉ざされた視界の端のほうで泡が噴きだすように昇っては消えるピアノの音の動きをすべて捉えようと目を凝らしているとしかし、そのうちに眠っていた。地元に着くと乗り換えを待たずに駅を抜けた。駅正面にタクシーが何台か就いた前では、酔っ払い二人が肩を組むようにしながら覚束なく乗りこもうとしている。大通りのほうからは、居酒屋で飲んできたのか若者らしい数人の集まりがゆらゆらとやってくる。過ぎがてらコンビニを覗くと、土曜日の夜一一時のわりに賑わって、レジに向けて室内の奥から列ができていた。音楽を流したまま夜道を行って、石塀の百日紅の前にちょっと止まると、黒板の下に溜まったチョークの粉のように、紅色がもう塀の足もとに散りはじめていた。帰宅すると零時ぴったり、入浴して零時半、蕎麦茶を持って室に帰ると新聞を読む。隣室には兄が帰って来ており、明かりが灯りながらもいびきの声が聞こえた。一時を回ってからベッドに帰って、『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』を読みはじめた。いくらも読まないうちに二時前、瞑想を始めて、二種類の虫の音を聞きながら、二七分間座り、二時半に消灯である。