2016/7/11, Mon.

 九時頃には目がひらいたはずだ。もう少し強固な意思があれば、身体を起こすことができたはずだが、気怠さに負けてまどろみ続け、窓から入る陽射しを腕に受けた。暑い朝だった。一〇時にはほぼ完全な覚醒を迎えていたが、やはり起きあがれずにごろごろとして、一〇時半も近くなってからようやく床を抜けた。洗面所で顔を洗ってきてから、枕に戻って瞑想をした。すると、窓外の遠くに、ミンミンゼミの声が聞こえる。今夏初めてである。ついに夏がそこまで到ったかと思いながら一一分間座り、それから上階に行った。茶色に炒められた豚肉、細切りキャベツなどの生野菜、即席の味噌汁に米という食事を取りながら、新聞で参院選の結果を確認した。食器と風呂を洗ってから室に帰り、インターネットを回ってから、新聞記事の写しを始めた。それが一二時半である。Brad Mehldau Trio『Progression: The Art of the Trio Vol.5』を聞きながら前日の新聞から写し、さらにこの日の新聞の国際記事も読むと、そこからも写してしまった。というのは、この日は労働が一時限だけなので比較的余裕があったからだ。それで一時過ぎ、それからEvernoteに保存してある過去のニュースを探っていると、去年のものだが、毎日新聞が伝えた井上達夫のインタビュー記事を見つけて、読んだ。それからインターネットでも井上達夫について検索していると、二時も回る。歯磨きをするとベッドに転がって、浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』をほんの僅かに読むのだが、暑気のなかで眠気が湧く。ちょっと目を閉じてから身体を起こして、睡眠の代替として瞑想をしたのが、二時四三分から五二分までである。そろそろ出ようと上に行き、洗面所でタオルを濡らして肌を拭き、戻るとワイシャツを着た。クールビズで良いと言われているのに律儀にネクタイも締めて、薬を一粒飲み、居間に上がるとおにぎりを一つ作った。それをパックに収めてリュックサックに入れて、玄関を出ると、母親は隣の敷地との境あたりの草を取っている。あっちに捨ててきてと言うので、塵取りを持って道路を渡り、堆肥を作るためらしく囲いができているそのなかに撒いた。それで出発したが、室内よりも外のほうがよほど涼しい。と言って坂を抜けるとやはり暑気が粘るのだが、その頃には空も曇っていて太陽は小さく収束していたので、まだしのぎやすかった。近くの木で鶯が、吸いこむような声を伸ばしたかと思うと、弓を打つように解き放つ。街道に近づくと、線路の向こうの林から単調で直線的な蟬の音が響くが、ミンミンゼミの声はなかった。Antonio Sanchez『Live In New York』を聞きはじめて道を行き、裏通りに入っててくてくと歩きながら、たまに陽射しが復活しても意外と過ごしやすくて、汗がそこまでだらだらと出るわけでもない。音楽に耳を寄せながら駅前まで行って、職場に入った。奥の席に就いて書き物を始めたのが、三時五〇分頃である。音楽はBrad Mehldau Trioの続きを流し、その後『Elis Regina In London』Elizabeth Shepherd『Rewind』と繋げた。五時をかすかに過ぎたあたりで前日の記事が終了、頭から書いて四〇〇〇字である。この日の分に入る前に先に飯を食おうというわけで、おにぎりをもぐもぐやりながら、一年前の記事を読み返した。前年の七月一一日は土曜日である。蟬らしき声は聞いていて、またこの前日に鶯の音も聞いて、こんなに長く鳴くのかと意外に思ったと言う。正午を過ぎた昼食後、母親と話している最中に怒りを覚えている。高校時代はアルバイトをしていたかと訊かれたのに、チェーンの庶民的寿司屋の名を挙げると、母親はけらけら笑って、じゃあ塾と寿司屋と両方やれば、と言った。まずこの時点で、自分の生活中にそのような時間はないということを相手が理解していないのに苛立ったと思うが、次に、そうすれば充実するんじゃない、とさらに続いたこの言葉が、おそらく当時の自分の怒りの核心である。現在の生活、毎日の読み書きこそが自分のやりたいことでありやるべきことであるということを母親がまったく理解しておらず、あたかも自分が「充実していない」、空虚な日々を送っているかのような物言いをされたことに、許しがたさを覚えたに違いなく、「締めつけられるような不快を感じた」とある。しかも相手は、悪気がまったくない。無自覚に自分の生活を否定されたことに、最も身近にいる人間が自分のことを何一つ理解していないという事実は既に慣れたものだが、いざそれが露わになる時には常に気が滅入ると嘆いているが、いまは似たようなことがあっても、おそらくここまで平静を乱されることはないだろう。当時に比べると色々と諦めも付いているし、おのれの身の程も多少は知っている。この日はまた、兄嫁が初めて家に来た日でもあった。午後三時過ぎに兄が連れてきて、母親とこちらを交えて四人で居間のテーブルを囲んで話し、夕方から立川の居酒屋に繰りだして父親も合流、こちらは途中で気分が悪くなって、「頭のどこかに小さな塊が埋めこまれているような感覚と同時に、両足の先に痺れめいたものを感じはじめ」、薬を追加したあとは室の隅で壁にもたれて黙っていた。その後、酔った母親の希望でカラオケに行ったのだが、酔っ払い共のから騒ぎに虚しさを感じ、オペラ歌手だった兄嫁を見世物のように扱っているのではないかと嫌気が差し、彼女は不快を感じていないだろうかと慮っている。帰りの電車内では、支那人を六人殺せば六〇〇円、イスラームなら一〇〇〇円、日本共産党員も殺さなきゃならないなどと、にやにや笑いながらつぶやく老人を見かけた。隣の女性も一緒になって笑っているものだから、得体の知れないものを見たようなひどい気味の悪さを感じたものだ。そうして読み返しを終えると、ふたたび書き物に戻り、この日の分を進めた。途中、仕切りの向こう、隣の列に同僚の頭の先が見えて、ここの列も授業で使いやしないだろうなと見に行くと、それは大丈夫だったが、勤怠チェックをするかと言われた。元々するつもりで印鑑を持ってきていたので、紙を受け取って席に戻った。コンピューターが起動しているので、勤務記録が確認しやすくて都合が良い。さっと確認し、印鑑も押すと返しに行き、戻ってくると授業が始まるなか書き物を続け、まもなく現在時に追いつかせた。六時一〇分頃だった。あとはこちらの労働時間まで、レヴィ=ストロース/川田順造訳『悲しき熱帯Ⅱ』の書き抜きである。音楽はErnestin Andersonのベスト盤、それにErroll Garner『Concert By The Sea』などというまさしく古き良き時代の香りがするかのようなモダンジャズを久しぶりに掛けて、打鍵を続け、七時二〇分を迎えて何とか切りの良いところまで到り、コンピューターをしまって働きはじめた。退勤はまたもや九時半を過ぎた。半月に近づいた月が低いところで、赤みの強い色で濃く光っていた。音楽を聞かずに歩いているうちに、何かのきっかけで先般米国で起きた警察官による黒人殺害事件が思いだされた。二人の警官が黒人を地面に押さえこんで銃を突き付けている、ニュースで見た映像が想起されて、恐怖と怒りを覚えながら夜道を行った。表通りに出て腕を振りながらずんずん歩いていると、白い車が少し先に停まった。横に行って覗いてみると父親で、後部座席のほうを指してみせるので、家までもうそれほどないし、歩く方が好きなのだが乗せてもらった。一言くらい交わしたのみで特段の会話もなくラジオが響くなか、両側の窓を全開にして風を吸いこむ車は滑るように進んで、まもなく家の前に着いたので礼を言って降りた。なかに入って手を洗ってから室に帰り、下着一枚になると寝転んで『ベンヤミン・コレクション1』を読んだ。しばらくして一〇時二一分から三〇分まで瞑想をして、そして上に行った。洗面所のほうを覗いても電灯が点いていないので、父親はまた外で蛍でも見ているのかと思いきや、食事の支度をしている途中に風呂場から水音が聞こえて、なぜか明かりを灯さずに入浴しているらしいのにびっくりした。まあそういう気分の時もあろうと何も訊かずに放っておき、冷蔵庫から素麺を取って、茄子と肉の炒め物などもよそって、卓に就いた。そのうちに父親も出て炬燵テーブルの方に料理を並べ、食べはじめながらテレビを点けてNHKを映した。各方面のプロフェッショナルに取材する番組で、今回の主役はデジタルアートクリエイターというような肩書の人だった。初めは夕刊をひらいていたのだが、そのうちにテレビの方に目が行った。床や壁に極彩色の見目鮮やかなCGを投影して、仮想的な森と動物の生態系を表現し、プログラミングによってその生態系の生成変化、動物たちの増減を調整するというような試みをやっていたのだが、この世にはまったく色々なことをやっている人がいるものだとわりと面白くて、番組の最後まで眺めた。すると一一時一五分くらいである。皿を洗って風呂に入り、出てくると下着一枚のほとんど裸の状態で体重計に乗った。五三. 三キロが表示されて、我ながらちょっと軽すぎやしないだろうかと思った。それから蕎麦茶を用意してねぐらに帰り、記事をインターネットに放流したり各種記録を付けたりしたあと、レヴィ=ストロース川田順造訳『悲しき熱帯Ⅱ』の書き抜きを始めた。Erykah Baduをイヤフォンで聞きながら進めたのだが、途中、調べ物をしてしまったので、大した字数を加えられたわけではない。一時過ぎまで行うと歯を磨き、聖域たる寝床に帰って『ベンヤミン・コレクション1』を読みはじめた。「ゲーテの『親和力』」という論考、何を言っているのかほとんどまったく理解できないのだが、文字を追うだけは追って、二時を過ぎると就寝の準備である。用を足し、水を飲んできてから、瞑想に入った。二時一四分から、例のぜんまい仕掛けのおもちゃじみた虫の音が、窓外の近くで断続的に立つなかでじっと座り、明日は遅くとも九時には起きたいと願った。目を開けると二七分、時間をメモして、ペットボトルから水を飲んで床に就いた。



 これ以上冒険を長引かせるのは賢明ではない、と思われた。私は首長に向かって、直ぐ交換を始めようと主張した。その時異常な事が起こったのだが、まず少し時間を遡って説明する必要がある。ナンビクワラ族が文字を知らないということは推測も付こうが、それだけでなく、彼らは絵を描くこともしないのだ。せいぜい、彼らの瓢簞の上に付けられている幾らかの点や、ジグザグ形くらいのものだ。けれども私は、カデュヴェオ族のところでもしたように、紙と鉛筆を配った。彼らは初め何もしなかった。ところが或る日、私は、彼らが皆、紙の上に横に波形の線を描くことに熱中しているのを見た。一体何をしようとしているのだろう? 私は目の前で起こっていることに従うほかはなかった。彼らは書いていたのであり、あるいは、より正確に言えば、自分たちの鉛筆を私と同じ用途に使おうとしていたのである。その用途というのは、そのとき彼らが考え付くことのできる唯一のものだった。というのは、私はまだ、私の絵で彼らの気晴しをしようと試みてはいなかったのだから。大部分の人の努力はそこまでだった。しかし、群れの首長はそれ以上のことを考えていた。恐らく彼だけは、文字というものの機能を理解していたのに違いない。そこで彼は私にメモ用紙を一冊要求し、彼と私は、一緒に仕事をするのに同じ道具を(end197)手にしていることになった。私が訊ねたことに口頭で答える代りに、私が彼の答えを読み取るべきだとでもいうように、彼は紙の上に曲がりくねった線を描いて見せた。彼自身、自分の作り出したこの喜劇に半ば塡[は]まっているという形だった。首長は、自分の手が一本の線を描き終わる度に、意味がそこから湧き出てくるはずだとでもいうように、不安そうに線を検分する。そして、いつも同じ失望が彼の表情に現われる。だが、彼にはそれが気に喰わないのだ。そこで私たち二人のあいだには、暗黙のうちに、彼の不思議な文字が或る意味をもっていて、それを私が解読する振りをする、という了解が成り立った。言葉による解説が直ぐ後から続くので、私は説明を要求する手間をかけずに済んだ。
 ところで、その勢力下の全員を集め終わると直ぐ、彼は背負い籠の一つから、曲がりくねった線が一面に描いてある紙を一枚取り出してそれを読む振りをし、わざとらしく躊躇いながら、彼らからの贈り物への返礼に私が与えることになっている品物の目録をそこに探した。誰それには、弓矢と引換えに山刀! 他の誰それには、綺麗な飾り玉! その代り首飾りを出すこと……。この喜劇は二時間も続いた。彼は何をしようとしていたのだろう? 彼自身をはぐらかそうとしていたのかもしれない。いやむしろ、彼の仲間を驚かせ、品物は彼の仲介で取引されること、彼は白人とうまく組みになったこと、彼は白人の秘密にも与[あずか]っていることを仲間に見せ付けようとしたのであろう。(……)(end198)
 (中略し、200頁から)
 (……)つまり、文字は、ナンビクワラ族のあいだに出現したわけなのだ。ただ、人が想像し得たかもしれないように苦労して習った挙句に、ではなかった。文字というものの実体は不明なままに、その象徴性が借用されたのだ。しかもそれは、知的な目的のためというより、社(end200)会学的な目的のためにであった。知ることや記録することや理解することが問題だったのではなく、或る個人――というより、或る役割――のもつ特権や権威を、他の者の犠牲において増大させることが求められていたのだ。まだ石器時代にある一人のインディオが、理解のためのこの偉大な手段は、それを理解していなくても他の目的に少なくとも役には立て得るということを感じ取ったのである。結局のところ、数千年のあいだ、そして今日でさえ世界のかなりの部分では、文字というものは社会における制度として、その社会の圧倒的多数の成員がその取り扱いを知らない制度として存在して来ている。東パキスタンチッタゴンの丘の私が滞在した村々には、読み書きのできない人が幾らもいたが、そういう人たちもめいめい「書記」をもっていた。「書記」は個人や村落に対して、それなりの役割を果たしているのである。すべての人は文字というものがあることを知っており、必要に応じてそれを使っている。しかし自分たちの外にあるものとして、異質な媒介物として使っているのであり、その媒介物とは口頭で通達をしているのである。ところで、この書記が官吏であるとか、或る集団の雇い人であることは滅多にない。彼の知識は力を伴っている。その度合いが甚だしいことは、書記と高利貸の役割が、しばしば同一人のうちに結合されていることからもわかる。それは単に、高利貸がその仕事をしてゆくのに読み書きの必要があるから、というだけではない。そうではなくて、高利貸というものがすでにこのような者として、いわば二重の資格で他の人々の急所を抑えた[﹅6]として、存在しているからなのである。(end201)
 文字というのは奇妙なものだ。文字の出現は、人類の生存のあり方に深い変化を刻み付けずにおかなかったように思われるであろう。そしてこの変形は、とりわけ知的な性質のものであったはずだと思われるかもしれない。文字をもったことは、人間の知識を保存する能力を目覚しく増大させた。それは人工的な記憶ということもできるだろうし、その発達は、過去をより明確に意識することを可能にし、従って現在と未来を組織する、より大きな可能性をもたらすはずである。文明から野蛮を区別するために提出されたあらゆる規準を消し去った後でも、少なくともこの規準だけはとっておきたいと、人は思うかもしれない。文字をもつ人々ともたない人々。前者は、先人が獲得したものを累積してゆくことができ、自分に割り当てた目標に向かって次第に速さを増しながら進歩することができるのに対し、後者は、個々の記憶に留め得る範囲を超えては過去を保存することができず、起源と、未来を構想する持続的な意識とを常に欠いた、波動する歴史の虜であることから逃れられない。
 しかしながら、文字と、進化の中で文字の果たした役割とについてわれわれが知っていることは、こうした見方を少しも正当化しないのである。人類の歴史の最も創造的な時期の一つは、農耕、動物の家畜化、その他の技術を生んだ新石器時代の到来期のうちに位置づけられる。そこに到達するためには、数千年のあいだ、人間の小さな集まりが、観察し、実験し、彼らの考察の結果を伝達することが必要だったのだ。この壮大な企ては、それが成功したことから明らかなよう(end202)に、的確に、中断されることなく進められたが、この頃には文字というものは、まだ知られていなかったのである。文字が紀元前四千年紀と三千年紀のあいだに出現したにせよ、そこには、新石器革命の遥かな(そして恐らく間接の)結実を見るべきで、文字が新石器革命の条件だったのではない。文字というものは、どのような大改新と結び合わされているのであろうか。技術の面で考えれば、辛うじて建築を挙げることができるかもしれない。しかし、エジプト人やシュメル人の建築は、発見された当時に文字を知らなかったアメリカ先住民の一部が完成していた建築より、優れていた訳ではなかった。反対に、文字の発明から近代科学の誕生まで、西洋世界はかれこれ五千年も生きて来たのだが、そのあいだ、西洋世界の知識は、増大したというよりむしろ波動していたのである。ギリシアやローマの市民の生活様式と、十八世紀ヨーロッパの有産階級の生活様式とのあいだには大した違いがないというのは、よく指摘されて来たことである。新石器時代には、人類は文字の助けなしに巨歩を進めたのである。文字をもちながら、西洋の歴史時代の諸文明は長いあいだ停滞して来た。確かに、十九世紀と二十世紀の開花は文字なしには理解しにくいであろう。しかしそれは必要条件ではあっても、この科学の開花を説明するのには決して十分ではないのである。
 もし、文字の出現を文明を特徴づける何かの徴[しるし]と結び合わせようとするなら、別の方面を探らなければならない。文字の出現に忠実に付随していると思われる唯一の現象は、都市と帝国の形(end203)成、つまり相当数の個人の一つの政治組織への統合と、それら個人のカーストや階級への位付けである。エジプトから中国まで、文字が登場した時代に見られた典型的な進化は、少なくともそのようなものであった。文字は、人間に光明をもたらす前に、人間の搾取に便宜を与えたように見える。幾千という労働者を過酷な作業に従わせるべく召集することもできたこの搾取は、先に問題にした建造物と文字を直接関係づける遣り方よりも、よりよく建造物の誕生を説明する。もし私の仮説が当たっているとすれば、書かれた通達の初次的な機能は人間の隷従を容易にすることにある、と言える。知的および美的満足を引き出すための、利害を超越した目的での文字の使用は、二次的な一つの結果であって、それが初次的な機能を強めたり、正当化したり、偽装したりする手段に還元されない場合が多いにせよ、そのことに変りはない。
 しかしながら、この規定にも例外は存在する。ヨーロッパ人以前のアフリカは、数十万人を支配下に収めた帝国をもっていた。コロンブス以前のアメリカでも、インカ帝国は数百万人を統合していた。しかしこれら二つの大陸では、こうした企てはいずれも長続きしなかった。周知の通り、インカ帝国は十二世紀頃に形成された。ピサロの兵士たちも、この帝国形成の三世紀後の、崩壊のさなかに行き合わせたのでなかったら、たやすく勝利を得ることはできなかったろう。アフリカの古代史はわれわれにはよく知られていないが、似たような状況を類推できる。大規模な政治的統合は、数十年の間隔で生まれ、そして消えたのである。そ(end204)れゆえこれらの事例は、先の仮説に背反するどころか、それを裏付けるとも言えるのである。文字というものは、知識を強固にするには十分でなかったにせよ、支配を確立するためには不可欠だったのであろう。もっと身近なところを見てみよう。ヨーロッパ諸国における義務教育普及の組織的な活動は十九世紀に展開されたが、これは兵役の拡張やプロレタリアの形成と対になって進行した。かくて、識字率を高める運動は権力による市民の統制の強化と融合する。なぜなら、権力が「何人[なんぴと]も法を知らないとは看做されない」と言い得るためには、すべての者が読むことを知っていなければならないのだから。
 この企ては、一国内から国際的な場へ移って来ているが、それは、一、二世紀前にはわれわれの問題であった問題に直面している若い国家と、持てる者の国際結社とのあいだの結託のお蔭なのである。書かれた言葉を通じて、意図的に変え得る形式で思考したり、善導を容易にしたりすることに十分馴らされていない諸民族の反動が、この国際結社の安定に対してもたらす脅威に、持てる者の国際結社は不安を感じているのである。これらの民族は、図書館に詰め込まれた知識に接することによって、印刷された文書がより一層大規模にばら撒いている嘘に染まるようになる。もはや骰子[さい]は投げられたのであろう。しかしナンビクワラ族の私の村では、頑迷な連中はとどのつまり最も賢明な連中であった。首長が文明の札[カード]を使ってみようとしてからというもの、首長から離れて行った人たち(私がやって来た結果、首長は大部分の部下に見棄てられてしまっ(end205)た)は、朧げながら、文字と虚偽とが共謀して彼らのところに入り込んで来たことを理解したのだ。一層奥深い原野に引き籠もって、彼らはどうやら一息ついたのであろう。とはいえ、自分の権力に文字がもたらしてくれる助力を一目で見て取り、このようにして文字体制の根底に到達したこの首長の才能は讃嘆に値した。同時に、この出来事は、ナンビクワラ族の生活の新しい一面に私の注意を向けさせた。つまり、個人と集団とのあいだの政治的関係である。(……)
 (クロード・レヴィ=ストロース川田順造訳『悲しき熱帯Ⅱ』中央公論新社(中公クラシックスW5)、二〇〇一年、197~206; 「28 文字の教訓」)

     *

 それでは、どのような根拠で人々は群れに分かれるのであろうか。経済という見地からすると、天然資源の乏しいこと、そして遊動の期間には一人の人間を養うのに広い面積が必要であることが、少人数の集団に分散することをほぼ絶対的に必要としている。従って問題は、なぜではなく、どのようにして、この分散が行なわれるのかを知ることにある。初め集団には、首長として認められている男何人かがいる。群れが形作られる中核を成しているのは、彼らなのである。群れが勢力のあるものになるかどうか、また或る期間、群れがどの程度の持続性を示すかは、こうした首長一人一人が、自己の位を保ち、立場を強化して行く手腕に懸かっている。首長の政治力は、共同体の必要から生まれたものではないように思われる。むしろ集団の方が、集団に先立って存(end218)在している首長になるかもしれない男から、集団の形や大きさや、さらには形成の過程など、一定の正確を授けられるのである。
 (218~219; 「29 男、女、首長」)

     *

 ナンビクワラ族においては、政治権力は世襲ではない。首長が年老いたり病気になったりして、もうこれ以上自分の重い任務を負担することができないと自覚した時には、彼は自らその後継者を選ぶ。「この男が首長になるのだ……」と言って。しかしこの専制政治は、実質的なものであるより、むしろ見掛けのものである。後で見るように、首長の権威は非常に弱いものであるが、この場合も他のすべての場合と同様に、最終決定は公衆の意見を前もって探った上でなされるようだ。指名される首長の後継者は、大多数の人々によってもまた、最も好ましいとされた者である。しかし新しい首長の選定は集団の願望や排除だけに基づいてなされるのではない。選定は同時に、指名される者の意図にも合致することが必要である。権力を握ることを勧めても、それが(end221)激しい拒絶に会うことは稀ではない――「私は首長になりたくはない」。そのような場合には、選定はやり直しになる。事実、権力は、熱烈な競争の対象にはなっていないようであり、私の知っている首長たちは、それを自慢の種にするよりはむしろ、自分たちの重い任務と数々の責務を嘆いていた。それでは一体、首長の特権とは何であり、義務とは何なのであろうか。
 一五六〇年頃、モンテーニュルーアン〔フランスのノルマンディー地方の都市〕の町で、或る航海者が連れ帰った三人のブラジルのインディオに出逢った時、モンテーニュインディオの一人に、お前の国では首長(モンテーニュは王と言った)の特権は何なのか、と尋ねている。それに対して、彼自身首長だったこの先住民は、それは戦いのとき先頭に立って進むことだ、と答えた。モンテーニュはこの話を、『エセー』の中の有名な一章〔第一巻第三十一章「食人種について」〕で物語り、この誇りに満ちた定義に驚きの目を瞠っている。しかし私にとっては、四世紀後に、全く同じ答えを聞いたということの方がさらに大きな驚きであった。文明化された国は、その政治哲学において、これほどの持続を示しはしない! この考え方は驚くべきものではあるが、ナンビクワラ語で首長を指すのに用いられている言葉は、さらに意味深長である。「ウリカンデ」は、「統一するもの」または「一緒に繋ぎ合わせるもの」を意味するように思われる。このような語源は、先に私が強調した現象、つまり、首長は集団が集団として成り立ちたいという欲求の原因として現われて来るものであって、すでに形成された集団が抱く集権的な権威の必要の結果、生まれるのではないというこの現象を、先(end222)住民の精神が意識していることを暗示している。
 個人的威信と人に信頼を抱かせる資質とは、ナンビクワラ社会における権力の基盤である。この二つは、あの冒険に満ちた生活である乾季の遊動生活の先導者になる者には、ともに欠くことができない。六、七ヵ月のあいだ、首長は、彼の群れの指導の全責任を負うことになる。流浪生活へと旅立つべく、編成を整え、道筋を選び、宿営地とそこでの滞在期間を決めるのは、彼なのである。彼は狩りや漁や採集のための遠出を決定し、近隣の集団とのあいだに政治的な取り決めを結ぶ。群れの首長が同時に村の首長でもある場合には(村という言葉に、雨季のための半恒久的な居住地という限られた意味を与えたとして)、彼の義務はさらに拡大される。定住生活を始める時期と場所を決めるのは、彼である。彼は耕作を指図し、作物を選ぶ。それだけでなく、様々な必要と季節の変動に応じて、彼はあらゆる仕事を指揮するのである。
 ここで直ちに注意しなければならないのは、首長はこうした多様な職務を遂行するに当たって、何らかの明確に定められた権限も、公けに認められた権威も、支えとしてもっていないということである。同意が権力の根源であり、彼が首長の地位にあることの正当さを保持しているのも、この同意なのである。一人か二人の不満分子の非難すべき(先住民から見てであるが)振舞いや悪意の表明も、首長の計画や彼の率いる小さな共同体の幸福を脅かすことになりかねない。しかし、このような不測の事態においてさえ、首長は何の強制力ももっていない。好ましくないこ(end223)とから解放されたいと思っても、他のすべての人々の賛成を得られる範囲でしか可能ではない。それゆえ、彼が示さなければならないのは、全権を掌握した君主としての力量ではなく、むしろ、不確定な多数の同意を維持しようと努める政治家の手腕なのである。首長は、その集団の結合を保つだけでは十分ではない。遊動生活のあいだ、集団は実質的には孤立して生活しているが、しかし、近隣の集団の存在を忘れているわけではない。首長は、ただうまくやるだけでなく、他の集団よりもうまくやるように――そのことを集団は首長に期待しているのだが――、努力しなければならないのである。
 (221~224; 「29 男、女、首長」)

     *

 (……)私たちは、漕ぎ手がそのときどきに応じたリズムを順繰りに展開してゆくのに委せた。まず一続きの小さな櫂の音――プルフ、プルフ、プルフ……それから、いよいよ本式に漕ぎ出すという時、櫂が水を打つ音のあいだに舟縁[ふなべり]での二つの乾いた音が挟まる――トラ・プルフ、トラ。トラ・プルフ、トラ……最後に、漕行を続ける時のリズムで、この時は、櫂は二回に一回しか水の中に入らず、次の回のために水面を軽く撫でる(end252)だけに止められるのだが、それでも常に打つ音は伴っており、ただ、次の動作からはもう一つの打つ音で隔てられている――トラ・プルフ、トラ、シュ、トラ。トラ・プルフ、トラ、シュ、トラ……こうして櫂は、その水搔きの青い面と橙色の面を代る代る見せる。流れを横切って飛ぶアララ鸚鵡の大群が身を翻すたび、みな一斉に金色の腹と紺青の背とを燦めかせる、その反映さながら、櫂の水搔きの色は水の上に軽やかで、反映そのものになってしまったかとさえ思われた。空気は乾季の透明さを失っていた。明け方、河から緩やかに立ち昇る朝靄の薔薇色の泡の中に、すべては溶け合っている。すでに暑さは感じられるものの、徐々に、この模糊とした暑さがはっきりとしてくる。散漫な温もりに過ぎなかったものが、顔や手のそちこちへの太陽の照射になる。なぜ汗をかくのか、解るようになる。薔薇色は色合いの微妙さを増す。幾つもの青い小島が現われる。もう消えるばかりになった時、霧はさらに彩りを豊かにするように見える。
 (252~253; 「30 カヌーで」)

     *

 外から見ると、アマゾンの森は、凝固した泡の堆積、緑の浮腫[むくみ]の垂直方向への積み重なりであるように見える。何かの病理上の障害が、流動性の景観を一様に傷つけてしまったかのようだ。しかし表皮を破って中に入ると、すべては一変する。内から見ると、この混沌とした塊りは記念建造物のような世界になる。森は地上の秩序の乱れであることを止める。それは、われわれの世界と同じくらい豊かで、われわれの世界に取って代わったかのような、一つの新しい惑星の世界であるとさえ思われる。
 これらの、遠近を狭められた景観を認知することに目が慣れ、圧倒されるような第一印象を精神が乗り越えることができるや否や、入り組んだ一つの体系が姿を現わす。階になって重なり合った層が識別されるが、それは、水平方向の線の断絶や、ところどころに現われている混交にもかかわらず、同一の構築を繰り返しているのである。まず、人間の高さで止まっている植物や草の頂きがある。その上に、木の蒼ざめた幹や蔓草が、あらゆる植生から解き放たれた空間を僅かのあいだ享受している。もう少し上では、これらの幹は、灌木の葉の茂みや、野生のバナナ、パコヴァの深紅の花に隠されて見えなくなる。幹は、一瞬この泡から迸り出るが、再び椰子の葉叢の中に姿を消してしまう。さらに高い所で、幹はそこから出て水平方向への初めての枝を伸ばす。枝には葉は付いていないが、ラン科やパイナップル科の着生植物が、船が索具を付け過ぎたよう(end281)に過剰に纏わり付いている。そしてこの世界は、ほとんど視力の届かなくなる高みで、広大な円天井によって閉じられる。円天井の或るものは緑で、或るものは葉は付いていないが、白、黄、橙、緋、薄紫の花で覆われている。ヨーロッパ人なら、そこに彼らの春のみずみずしさを見出して讃嘆するであろう。ただ、その規模の桁外れなことは、一面荘厳に燃えたつ秋の炎だけが、比較の手掛りを与え得るほどだ。
 こうした空中の階層に、ほかならぬ旅人の歩みの下にある、別の階層が呼応している。地面の上を歩いていると思い込むのは幻想に過ぎないだろうからだ。地面は、根や蘖[ひこばえ]や草叢や苔の不安定な錯綜の下に埋れている。足がしっかりした地点を踏み損なえば、時には安定を失うほどの深みに落ち込むおそれがある。(……)
 (281~282; 「32 森で」)