2016/7/12, Tue.

 最初に覚めたのが、まだ六時台の頃だった。混濁のない寝覚めだったが、四時間で起きてはさすがに厳しいだろうとまた寝付いて、次が八時台、そろそろ起きてもいいなと思いながらも動けず、まどろみながら時計の針が道行くのを追った。そのうちに、前夜に起床を願った九時を回って、ここを逃してはいけないと発起して布団から抜け出し、洗面所に行った。顔を洗って用を足してからベッドに戻ってくると、薄青いシーツの上に白い平行四辺形がぽっかりと口をひらいていた。瞑想をするために枕に座ると、そのなかに左脚の膝頭が入る。九時二〇分から三一分まで座って、上階に行った。母親は仕事で既に出掛けており、休みの父親がレトルトのカレーで飯を食っていた。先に浴室に入って浴槽を擦ってから、こちらもカレーを米の上に掛け、電子レンジで温めて食べはじめた。父親は、クリーニング屋に行くと言って出掛けていった。一人になった居間で新聞を読み、一〇時半頃自室に帰還した。蕎麦茶を飲んで背中をべたつかせながら、まずは新聞記事の写し、続いてレヴィ=ストロース/川田順造訳『悲しき熱帯Ⅱ』の書き抜きである。音楽は前夜のErykah Baduの続きから始めて、Esbjorn Svensson Trio、Evan ParkerEverything But The Girlと流したが、あとの三つは繰り返し聞きたいという欲望が湧かなかったのでデータをコンピューターから削除した。それでしばらくイヤフォン無しで打鍵して、一時前くらいに便所に行くついでに階を上がった。父親はクリーニング屋から帰ったあと、階段下の室でコンピューターで作業をしていたらしかったが、玄関の小窓を除くと車がないので、またどこかに出掛けたらしい。そろそろ洗濯物を入れなくてはと思いながら一旦室に帰り、Fabian Almazan『Personalities』を流した。この音源は貰い物だが、それを差し引いてもさすがに消す気にはならない。切りの良いところまで書き抜きすると、コンピューター前を離れてベッドに身を投げだした。長時間モニターを見つめて打鍵を続けた影響で、身体の隅々まで痺れるような感じがした。浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』をほんの少し読みながらごろごろとして、そののちに腕立て伏せと腹筋運動を済ませると、部屋を出た。一時半過ぎだったはずだ。まずベランダに出て洗濯物を取りこみ、タオル類を畳んで洗面所まで運んだ。それからアイロンを用意してシャツ三枚の皺を伸ばしたあと、何か食べるものがあるかと冷蔵庫を探ると、前夜のうどんの残りが発見された。さらに冷凍食品のたこ焼きに、豆腐とゆで卵を食べることにして、それぞれ用意し、卓に就いた。気温計の針は三〇度を悠々と超え、外では蟬の、電磁の網を敷くような声が、まだまだ旺盛ではないが絶え間なく続いている。格好は午前中からずっと上半身裸である。ものを食ったのち、二時半前になると皿を洗い、そろそろ書き物をしに職場に行かねばならないが、その前に夕食用に味噌汁を作っておくことにした。具材を探すと小さな玉ねぎが辛うじて一つあったので、それを洗った。外縁が腐りはじめていたのを取り除いて細く切り、沸騰した湯のなかに放りこんで、さらに細葱も何本かまとめて切り、加えた。僅かな灰汁を取ってから火を止めて適当に味噌を溶かし、完成として器具を洗っていると、父親がなかに入ってきた。腹が減ったと言って戸棚にカップラーメンを探っているのに、夕食用だが味噌汁を作ったと告げてから、洗面所でタオルを濡らして肌を拭き、部屋に戻って着替え、荷物をまとめて上がった。ぬるくなったであろう味噌汁を冷蔵庫に入れておき、ラーメンの容器を洗っている父親に行ってくると言って、玄関を出た。母親にメールを送ってから歩きだし、坂に入ると結構空気に動きがあって涼しく、額の熱も散る。空も雲が混ざって、寝床のシーツと同じような滑らかな薄青さまで和らいでいるが、坂を抜けるとしかし、雲は力不足のようで路上には暖色が敷かれており、顔に温もりが戻ってきて貼り付いた。街道に出て対岸に渡ったところで、イヤフォンを付けだすのだが、渡ってきたほうの奥には民家のあいだに新しい道路が開通中で、入口に設けられたテントの下に、毎日同じ、遠目から見てもヘルメットの下の顔が色濃い褐色に染まって皺の深そうな、初老くらいの警備員がいる。あちらも多分、毎度この時間にこの位置でイヤフォンを手に取るこちらの姿を認めているのだろうなと思って過ぎた。Antonio Sanchez『Live In New York』を聞きながら、暑さに晒されつつ裏通りを行き、職場に着いたのが三時半過ぎである。奥の一席に座り、汗が乾くのも待たずに書き物を始めた。前日の分を終えたのが四時一七分だった。この分なら書き抜きの時間が残るなと見てこの日の分に入り、音楽はFabian Almazanを『Rhizome』に移行させたのち、五時ちょうどに切りを付けた。それからまた『悲しき熱帯』の書き抜きをして、五時三五分になると中断し、働きはじめた。やはり九時半を過ぎて退勤である。炭酸飲料を買って帰りたくなる、暑く、身体に水気が薄い夜だった。音楽を聞かず、黙々と夜道を、固い靴音を響かせながら行く。月が雲に前を遮られて朧に、橙めいた色を空に溶けださせていた。帰宅すると室に帰って少々、『ベンヤミン・コレクション1』を読みながら休むのだが、歩いてきた身体の熱がほどけておらず、ベッドに寝転がって肌をシーツに触れさせているとそれがわだかまって眠気が湧き、危うく眠りそうになった。身体を起こして瞑想を始めたが、ぐらぐらと前後左右に頭と身体が揺れてやっていられないので、五分で終わりにした。一〇時四五分である。上に行って飯を用意、麻婆風味のジャガイモや自身が作った味噌汁などを卓に並べ、食べた。この日のテレビには特に興味を抱かなかったので、父親が何を見ていたかも覚えていない。一一時一五分頃になると皿を洗って風呂に入り、出てくると蕎麦茶を持って室に帰った。記事を投稿したりしたのち、零時二〇分くらいから書き抜きの続きを始めたと思う。音楽はStevie Wonder『Innervisions』を流した。それで『悲しき熱帯』全篇の結びの六ページほどを写し終えてこの本は終了、続いて『失われた時を求めて』一巻のほうにも入ろうと思って、淡水色のハードカバーを机上に置いたところが、先に "Don't You Worry 'Bout A Thing" の音源を検索し、youtubeの動画を見ているうちに、関連動画漁りの旅に出てしまった。Jeff Beckは『Blow By Blow』と『Wired』を結構聞いたとはいえ、その程度で、そんなに熱狂した経験はないのだが、改めて彼のギターの操作を見てみると、やはり非常に素晴らしい。諸々閲覧しているうちに一時半を過ぎ、その後さらにインターネットをうろついて、二時二〇分頃にベッドに帰った。『ベンヤミン・コレクション1』を読み、三時前に瞑想して就寝である。



 (……)もし、われわれのものと比較できる目的を取り上げ、社会集団がそれを達成する度合いでわれわれが判断を下すとすれば、時にはわれわれが彼らの優越の前に膝を屈しなければならないだろう。だが同時に、われわれはそれらを評価し、従って、われわれが承認するものと一致しない他のすべての目的を貶める権利を得ることになる。われわれは暗黙のうちに、われわれの社会と、その習俗と、その規範とに特別の位置を認めている。というのも、他の社会集団に属する観察者は、同一の例に対して異なった判断をするであろうから。こんな有様で、われわれの研究は、どうして科学の名に値すると自負できようか? 客観性という立場を再び見出すために、われわれはこの種の一切の判断を自分に禁じなければならない。人間社会に開かれた可能性の全域の中で、各々の社会が或る選択を行ない、それは相互に比較できないということを認めなければならないだろう。それらはみな等価なのだ。だがそうなると、また別の問題が出て(end372)来る。なぜなら、先の場合には、われわれのものでなければ頭から受け付けないという独善主義に脅かされているとすれば、今度は、どれか一つの文化について、その何物を拒むこともわれわれに禁じられているという、一種の折衷主義に譲歩する危険を冒しているからだ――たとえ、それが残忍さや不正や悲惨であり、時には、その被害を蒙っている社会自体がそれに反抗していたとしても。しかも、こうした弊害はわれわれのあいだにも存在するのであるから、他の社会ではそれらが生じてもわれわれは黙って従うだけなのに、自分のところでは戦うというのは、如何なる権利においてなのだろうか?
 自分のところでは批判者であり、外では適合主義者であるという民族学者の二つの態度のあいだの対立は、それゆえ、もう一つの、脱け出すのがさらにむずかしい対立を覆い隠しているのである。もしも民族学者が彼の属する社会の体制の改良に貢献しようとするならば、彼が闘っているのと同様の状態が存在するところではどこでも、彼はそれを弾劾すべきだが、そうすれば彼はその客観性と公平さを失うことになる。その代り、道徳上の逡巡と学問上の厳密さが彼に強いる超越は、彼自身の社会に対する批判も留保させることになる――彼はすべての社会を知るために、そのどれについても判断しようと欲しないのだから。自分のところで行動すれば他のものを理解することは断念せざるをえず、すべてを理解しようとすれば如何なる変革も諦めなければならない。(end373)
 もしこの矛盾が乗り超えられないものであるなら、民族学者は、彼が迫られている二者択一のどちらを取るかについて迷うべきではないだろう。彼は民族学者であり、そうでありたいと願ったのである。彼の職分に手を加えて変形することを受け容れればいいのだ。彼は他者を選んだのだから、この選択がもたらす結果を甘受しなければならない。彼の役割は、これらの他者を理解することだけにあるだろうが、その名においては、彼は行動することができない。なぜなら、彼らが他者であるという他ならぬその事実が、彼らの立場で民族学者が考えたり望んだりすること――それは彼らに同化するということに帰着する――を妨げるからだ。それだけでなく、民族学者は自分の社会でも行動を放棄するだろうが、それは、異なる社会にも見出されるかもしれない諸々の価値について判断する、従って、彼の思考のうちに偏見を導き入れることを怖れるからである。結局、初めの選択だけが残ることになるだろうが、それについては彼は一切の正当化を拒むべきだ――動機のない純粋な行為として。またもし、各自の性格や閲歴のうちに求められる外因を考慮することによって、その動機が跡づけられるにしても。
 幸い、われわれはそこまでは行っていない。われわれが掠めた深淵を熟視した後では、そこからの出口を探すことが許されてよいだろう。出口は恐らく、或る種の条件で得られよう――判断を緩めること、および困難を二つの段階に分けること。
 どんな社会も完全ではない。あらゆる社会は、その社会が宣揚する規範とは両立しない不純さ(end374)を元来含んでおり、そうした不純さは、様々な割合で配合された不正、無感覚、残忍となって具体的に表われている。この配合をどう評価すべきであろうか? 民族誌的な探索は、そこに至る道を開いてくれる。なぜなら、少数の社会を比較する時、それらが互いに著しく異なったものに見えることは確かだとしても、考察の範囲が拡がれば、そうした差異は縮小するからである。そのとき人は、どんな社会も真底[しんそこ]から善くはないが、だからといって、どんな社会も絶対的に悪くはないということを発見する。あらゆる社会はその成員に或る種の利点を提供するが、一方、不正の澱はなくなるわけではなく、その分量はほぼ一定のように思われ、それはまた、社会生活の面では、組織の努力に対立する、その社会固有の惰性に相当しているのである。
 このように論を進めることは、あれこれの部族の「野蛮な」仕来りへの想いを搔き立てられて陶然となる旅行譚愛好者を戸惑わせるだろう。だが、こうした浅薄な反応は、事実を正当に評価し、それを拡大された視野の中に位置づけ直す作業には抗すべくもない。あらゆる野蛮な習俗のうちでも、恐らくわれわれに最も恐怖と嫌悪を感じさせる食人を例にとってみよう。まずそこから、純粋に食物摂取としての形態、つまり人肉を食うという欲求がポリネシアの或る島々におけるように、他の動物性食料の欠乏によって説明される場合を除外すべきであろう。この種の渇望に対しては、どんな社会も道義的に保証されてはいない。飢餓は、人間に何でも構わず食べることを余儀なくさせる。最近の皆殺し収容所の例が、それを証拠立てている。(end375)
 そこで残るのは、「積極的」と形容することのできる神秘的、呪術的あるいは宗教的な理由に基づく食人の諸形態である。例えば、死者の徳を身に着け、またさらには死者の力を無力にするための、親や祖先の体の一部や敵の死体の一片の嚥下。このような儀式は、大抵は有機物の微量を粉にしたり、他の食物に混ぜたりすることから成る極めて慎ましい遣り方でなされるが、そうではなく、食人がもっと露骨な形を取る場合でさえ、食人に対する非難が含んでいるのは、物としての死体の毀損によって危うくされる肉体の甦りへの信仰か、あるいは、霊魂と肉体の結び付きの肯定とそれに対応する二元論である。つまり、非難が立脚しているこれらの信念は、儀礼的な食人を行なう名目となる信念と同じ性質のものなのであるから、われわれが食人よりもこちらを選ぶ理由はないということを人は認めるであろう。われわれが食人の習俗に非を唱える根拠ともなりうる、死者を思い出のうちに刻むことにかけての無頓着さは、死体解剖の階段教室でわれわれが容認しているそれより、確かに大きくはないどころか、その逆であるだけになお、そのことは言えるのである。
 だが、とりわけわれわれが銘記しなければならないのは、われわれに固有に幾つかの習俗が、異なる一社会から来た観察者の目から見れば、文明の観念にとって異質であるとわれわれが思う、この食人の習俗と同じように映るであろう、ということである。私は、われわれの司法や懲役の慣わしのことを考えているのである。それらを外側から研究したとすれば、二つの型の社会を対(end376)立させてみたくなるかもしれない。アントロポファジー〔人間を食うこと〕の慣行をもつ社会、すなわち脅威となる力をもつ個人を食ってしまうことがその力を無力にし、さらに活用しさえするための唯一の方法であると看做している社会と、われわれの社会のようにアントロペミー〔人間を吐くこと〕(ギリシア語の「エメイン」(吐く)に基づく)と呼び得るかもしれないものを採用している社会とである。同一の問題を前にして、後者は逆の解決、つまり脅威となる存在を、人間と接触しないよう、この用途に当てられた施設の中に一時的または恒久的に隔離して、社会体の外に追い出すことから成る解決を選んだ訳である。われわれが未開と呼ぶ大部分の社会では、この習俗は深い恐怖を与えることだろう。それは、われわれが、これと対称をなす彼らの習俗のゆえに彼らに帰そうとしがちなのと同じ野蛮さをもつものとして、われわれを彼らの目に映じさせるに違いない。
 (クロード・レヴィ=ストロース川田順造訳『悲しき熱帯Ⅱ』中央公論新社(中公クラシックスW5)、二〇〇一年、372~377; 「38 一杯のラム」)

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 誠実に系統立てて行なわれたこのような分析は、二つの結果に帰着する。これらの分析は、わ(end378)れわれのものから最も隔たった生活様式や慣行の評価に、尺度となる一要素と善き意志の一片とをもたらすが、だからと言って、どんな社会ももっていない絶対的な徳を、それらの生活様式や慣行に付与する訳ではない。これらの分析はまた、われわれのものではない習俗については全く無知であるか、あるいは部分的もしくは片寄った知識しかもっていない場合に容易く作られる、或ることを当然とする思い込みから、われわれの習俗を解き放ってくれる。それゆえ、民族学的な分析が、異なる社会を高く再評価し観察者の社会を低く再評価する、というのは確かなことだ。この意味では、民族学的分析は矛盾したものである。だが、もし生起していることについてじっくり考えてみれば、この矛盾は実のものであるよりは見掛けのものである、ということが分かるだろう。
 西洋社会は民族学者を生み出した唯一の社会である、と時に言われて来た。そしてまた、そこにこそ西洋社会の偉大さがあり、他の点で民族学者が西洋社会に優越性を認めないとしても、これは彼らをその前に余儀なく跪かせる唯一の優越性である、なぜなら、それなしには民族学者は存在しなかったろうから、とも言われて来た。逆のこともまた十分主張し得るかもしれない。つまり、西洋世界が民族学者を生み出したにせよ、それは一つの大層強い悔恨が西洋世界を苦しめたからに相違なく、西洋世界は已むを得ず、彼の姿を他の社会の姿に向かい合わせて、他の社会も同じ瑕瑾[きず]を映し出すのではないか、どのようにしてその瑕瑾が西洋世界に育まれてひどくな(end379)ったかを説明するのに、他の社会は西洋世界を助けてくれるのではないかという望みを抱いている、と。だがわれわれの社会を、現存の、あるいは消滅したあらゆる他の社会と比較すれば、われわれの社会の基盤の崩壊を惹き起こすことが事実であるにせよ、他の社会もまた同じ運命を蒙るだろう。私が先に述べた一般的平均は、何匹かの鬼の姿を浮び上がらせる――われわれもその数に入っているようだ。それは少しも偶然ではない、というのは、われわれがその中に入っていなかったとしたならば、あるいは、あの悲しむべき競争で一位にならなかったとしたならば、民族学はわれわれのあいだに姿を現わしていなかったろうから。われわれは、その必要を感じ取らなかったろうから。民族学者は、彼の存在自体が罪の贖いの試みとしてでなければ理解し難いものであるだけになお、彼自身の文明に無関心ではいられず、文明の犯した過ちについての連帯に無自覚ではあり得なくなる。彼は贖罪の象徴である。しかし、他の幾つかの社会も同じ原罪に加担したのである。そうした社会の数は恐らく多くはないであろうし、われわれが進歩の梯子段を降るに従ってますます数少なくなる。ここでは、アメリカの文化の脇腹に口を開けた傷であるアステカ族の例を引けば足りよう。彼らは、血と責め嘖[さいな]みへの偏執(事実それは普遍的なものだが、彼らにあっては、比較がそう規定することを可能にする、あの度の過ぎた形[﹅6]を公然と取っていた)――死に対する宥和の必要ということから容易く説明がつくにせよ――によって、われわれの側に位置しているが、彼らだけが邪悪だったからそうなのでは少しもなく、われわれの遣(end380)り方で、つまり度を外れた[﹅5]遣り方で邪悪であったために、そうなのである。
 しかしながら、このように自らの手でわれわれ自身を弾劾するからといって、そのことは、時間と空間の或る特定の点に位置している現在あるいは過去の、どこそこの社会にわれわれが優等賞を与える、ということを意味しない。そこにこそ、本当に不正がある。なぜなら、そうすることによって、われわれがもしその成員であれば、その社会は、われわれにとって許容できないものとして映るだろうということに、目を瞑ることになるだろうから。われわれはその社会を、われわれの属している社会と同じ名目で非難するに違いない。それならわれわれは、結局、何であれ一切の社会状態を裁き、社会秩序はそこに腐敗をもたらしたに過ぎない自然状態を賛美することに行き着くのであろうか? 「秩序をもたらす者に気を許すな」とディドロは言っているが、これは彼の立場だったのである。彼にとって、人類の「歴史要説」は次のように要約される。「自然人というものがいた。この人の中に人工的な空間が持ち込まれた。そして、洞窟の中には戦いが始まり、一生続くことになった。」 この考えは馬鹿げている。人間があれば言葉があり、言葉があれば社会がある。ブーガンヴィル(彼の航海記への補遺において、ディドロはこの理論を提出している)のポリネシア人たちは、社会を作って生きていたことにおいて、われわれ以下ではなかった。そうではないと主張することは、民族学的な分析がわれわれに探求を促している方向にではなく、逆の方向に進むことになろう。(end381)
 これらの問題を検討しながら、私は、ルソーがそれらに与えたもの以外には答えがあり得ないのではないか、と思わざるをえない。(……)(end382)(……)
 ルソーは、自然人を理想化するというディドロの過ちを、決して冒しはしなかった。彼は、自然状態と社会状態を混同するようなことはしていない。彼は、後者は人間固有のものであるが悪を伴う、ということを見抜いていた。残された問題は、これらの悪が、それら自体、社会状態に固有のものかどうかを知ることにある。それゆえ、悪弊や犯罪の背後に、人間社会の確乎たる基礎を探るべきなのである。
 この探求に、民族学的な比較は二つの遣り方で貢献する。この比較は、人間社会の確乎たる基礎は、われわれの文明の中には見出され得ないだろうということを示している。観察されたすべての社会のうちで、われわれの文明は恐らく、この基礎から最も隔たった社会であろう。他方、この比較は、人間社会の大部分に共通した性格を取り出すことによって、どんな社会も忠実に再現してはいないが、研究が進むべき方向を明示するような一類型を作り上げる助けをしてくれる。ルソーは、われわれが今日新石器的と呼んでいるような生活様式が、それに最も近い実験像を提供すると考えていた。彼に賛成する人も反対する人もいるだろう。私は、彼が正しかったと信じる方にかなり傾いている。新石器時代には、人間はその安全を確保するのに不可欠な発明の大部分をすでに達成していた。なぜ文字をそこから除外してよいかについては、すでに見た通りである。文字は諸刃の剣だということは、未開主義の標榜にはならない。現代のサイバネティクスの(end383)専門家は、この真実を再発見している。新石器文化と共に、人間は寒さと飢えからわが身を守るようになった。人間は、考えるための余暇を贏[か]ち得た。病気に対しては、人間はあまりよく闘ったとは言えないかもしれない。だが、衛生上の進歩が、大飢饉や皆殺し戦争のような他の仕掛けに、人口上の或る限度を保つ役目――それに対して疫病が貢献した遣り方は、他のものほど怖ろしいとは言えない――を押し付ける以上のことをなし得たのかどうかは確かではない。
 (中略し、385ページから)
 これらの野蛮人の研究は、ユートピア的性格をもった状態の啓示や、森林の直中での完全な社会の発見とは異なるものをもたらす。それは、われわれが人間社会についての一つの理論的モデルを構築する助けをしてくれる。そのモデルは、観察し得る如何なる現実にも対応しないが、その助けを借りてわれわれは、「人間が現にもっている自然のうちに、本来のものと人工的なもの」を判別し、「もはや存在せず、恐らく決して存在しなかったし、これからも多分永久に存在しないであろうが、それについての正確な観念をもつことは、われわれの現在の状態をよく判断するために必要であるような一つの状態をよく知る」ことが出来るようになるだろう。この考え方を、私はすでに、ナンビクワラ族のところでの私の調査の意味を明らかにするために引用した(end385)。なぜなら、常に彼の時代に先行していたルソーの思想は、理論社会学を研究室での、あるいは実地での探索――その必要を彼は理解していた――から引き離しはしない。自然人は社会に先行してもいなかったし、社会の外に存在するのでもない。人間としての条件がそこを離れては考えられない社会状態〔「自然状態」に対比されるものとしての「社会状態」〕に内在している、自然人の形態を再発見すること、従って、「自然人を知り得るために必要であるはずの」実験の目論見を描き、「社会の直中でこれらの実験を行なう方法」を定めることは、われわれの役目である。
 しかしながら、このモデル――それはルソーの解決である――は、時代を超越した、普遍的なものである。他の社会はおそらく、われわれの社会より良くはないであろう。よしんばわれわれがそう思い込みがちだとしても、われわれにはそれを立証するどんな手立てもない。とはいえ、他の社会をよりよく知ることによって、われわれは、われわれの社会から自分を切り離すという方法を獲得する。それはわれわれの社会が絶対に、あるいは唯一の悪いものだからではなく、それが、そこからわれわれが自由になるべき唯一の社会だからである。われわれがそうであるのは、他の社会との関わりにおいてである。このようにしてわれわれは、第二の段階に進むことが可能になる。第二段階は、どんな社会からも何物も特別に留めて置くことなしに、すべての社会を用いて、異なる社会のではなく、われわれ自身の仕来りの変革に適用できると思われる社会生活の諸原理を取り出すことから成っている。前述のものとは逆の特権のために、われわれが破壊する(end386)虞[おそれ]なしに変形できるのは、われわれの属している社会だけである。なぜなら、われわれがそこにもたらす変化もまた、われわれの社会に由来しているからである。
 考えの手掛りを与えてくれるモデルを時間と空間の外に置くことによって、われわれは確かに一つの危険――進歩の事実を過小評価するという危険――も冒している。われわれの立場は、結局、人間はいつも到る所で同じ対象に向かって働きかけては同じことを企て、そして人間の生成の過程で手段だけが異なっていたということに帰着する。正直に言って、このような見方は私を不安にしない。それは、歴史学民族学がわれわれに示しているような事実に、最もよく適合する見方である。そして、とりわけそれは、より稔り豊かな見方であるように、私には思われる。進歩の熱狂的な信奉者たちは、彼らがそこから目を逸らすまいとしている狭い畝を外れたそちこちに人類が蓄積して来た厖大な富を、彼らが進歩について作り上げる僅かの事例を盾に無視するという破目に陥る。過去になされた努力の重要さを低く評価する結果、達成すべく残されている努力の一切を貶めるのである。生きられる社会を作るという一つの仕事にしか人間の努力が向けられていなかったとすれば、遠い祖先を動かした力は、われわれのうちにも相変わらず存在している。何も手は打たれていず、われわれには、すべてをまた始めることが可能だ。かつて為されたがうまく行かなかったものは遣り直すことができる。「或る盲目的な迷信が、われわれの後(あるいは前)に位置づけた黄金時代はわれわれのうち[﹅7]にある。」 最も惨めな部族のうちに、まぎ(end387)れもなく認められるわれわれ自身の姿と、これほど多くの他の教訓と共にその教訓を我がものとすることができる経験とを、それをわれわれ自身に向かって明らかにすることによって、人類の友愛は一つの具体的な意味を獲得する。こうした教訓に、われわれは古代の新鮮さを再発見しさえする。なぜなら、何千年来人間が成功したのは自分自身を繰り返すことでしかなかったと知れば、原初の名状し難い偉大さを、陳腐な繰り言の数々を超えて考察の出発点とするという考えのあの高貴さに、われわれは到達するであろうから。人間であることは、われわれの一人一人にとって、一つの階級、一つの社会、一つの国、一つの大陸、一つの文明に属することを意味するのだから、そして、われわれヨーロッパ人であり旧世界人である者にとっては、新世界の直中での冒険は、まず、新世界がわれわれの世界ではなく、われわれはそれを破壊したという罪を負っていることを意味するのだから、そしてもう他に、掛け替えとなるべき新世界は存在しないのだから――このように新世界と対峙することによって自分自身に立ち帰らされたわれわれは、少なくとも、原初の言葉を用いてこの対峙を表現する術を知ろうではないか。一つの場所において、そしてわれわれの世界が使命の選択を委ねられた機会を逸してしまった、一つの時代を参照しながら。
 (378~388; 「38 一杯のラム」)

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 美学的次元では、イスラムの謹厳主義は、官能の喜びを禁じることを諦め、官能の享楽をささやかな形に限ることで満足してしまった。すなわち、香、レース、刺繍、庭園である。道徳的次元でも同じように、強制的性格の明らかな改宗熱にもかかわらず、寛容が標榜されているという二面性にぶつかる。実際、イスラム教徒でない人間との接触は、彼らを悩ます。彼らの田舎風の生活様式は、彼らのものよりもっと自由で柔軟性に富んだ、接するだけで彼らのものを変質させる虞[おそれ]のある、他の生活様式の脅威に曝されながら生き延びているのである。
 この寛容は、寛容として語られるよりはむしろ、イスラム教徒にとって、彼らが寛容であり得るということ自体が、尽きることのない克己の証になるのだと言うべきなのかも知れない。予言者マホメットは、寛容を勧めながら、イスラム教徒たちを、啓示の普遍妥当性と複数の宗教的信念の容認とのあいだの矛盾から生じる永続的な危機の状況の中に位置づけた。そこにはパヴロフ(end403)的な意味における「背反的」状況〔互いに背反する二つの条件刺戟によって葛藤が惹き起こされた状態〕があり、それが一方では不安を生み、他方では自己満足――なぜなら、イスラムの恩恵によって、信徒はこのような葛藤を超克する力を自分がもっていると思うから――の源となっている。だが、それも見せ掛けにすぎない。というのは、インド人の哲学者が私を前にして或る日言ったように、イスラム教徒たちは、彼らが、自由、平等、寛容といった大原理の普遍的価値を説くことから虚栄を引き出しているからだ。しかも同時に、彼らだけがこれらの大原理を実行できるのだと断定することによって、彼らがもちたいと熱望している信用を台無しにしているのである。
 或る日カラチで、私は、大学人や宗教家であるイスラム「賢者」たちと同席していた。彼らが自分たちの体制の優越を自慢するのを聴きながら、私は、彼らが何という執拗さで唯ひとつの論点――彼らの体制の簡単さ[﹅3]――に立ち戻るかを知ってびっくりした。相続に関するイスラムの法制はヒンドゥーのそれより優れている、なぜなら、イスラムのものはより簡単だから。利息付き貸借の伝統的な禁止を免れようと思えば、金銭の受託者と貸し手のあいだで組合営業の契約を結びさえすればよい。そうすれば利息は、後者の事業への前者の加入料となって消滅してしまう。農地改革について言えば、耕作可能な土地が十分に分割されるまで、その相続にイスラム法を適用することになる。次いで、――その法は教義の条項を成してはいないというので――過度の細分化を避けるために、その適用を中止してしまう。「幾らでも道や手だてはある」のだ。(end404)
 実際、イスラムのすべては、信徒の精神のうちに乗り超えられない葛藤を募らせ、そうしておく一方で、信徒に大層おおらかな(というよりおおらか過ぎる)簡単さを与えて、彼らを救済する方法であるように思われる。一方の手で彼らを追い立てておき、もう一つの手では深淵の縁で引き留めるのだ。あなたが戦場にいるあいだ、あなたの妻や娘の貞操が気がかりではないか? 彼女らに面被[ヴェール]を掛け、閉じ込めておくがいい――これ以上簡単な方法があろうか。このようにして、整形外科の器具に似た現代式のブルカにまで到ったのである。これは込み入った裁断によるもので、外が見えるように飾り紐の付いた覗き穴があり、スナップと打ち紐が付いていて、重い布地で、人体の輪郭にぴったり合うように、それでいて可能な限り完全に人体を包み隠すように作られている。しかしこのことによって、気遣いの枠はただ場所を移されたに過ぎない。なぜなら、今や、あなたの名誉を汚すにはあなたの妻に触れるだけで十分であり、そのことによって、あなたは前にも増して煩悶するだろうから。若いイスラム教徒と腹蔵なく話し合ってみると、二つのことを教えられる。まず、彼らが結婚前の純潔と結婚後の貞操の問題に取り憑かれているということであり、次に、「パルダ」つまり女性の隔離は、或る意味で愛の密通に対する障碍にはなるが、他の面では、女性だけが内情を知っている彼女らだけの世界を女性に当てがうことによって、密通を容易にするということである。若い時はハレムへの侵入者であるイスラム教徒の男は、ひとたび結婚すれば、至極当然のこととして自分をハレムの番人に仕立てるのだ。
 (403~405; 「39 タクシーラ」)

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 一つの啓示の証よりは、外界とのあいだに絆を結ぶことの無力さの上に築かれている大宗教。仏教の万物に対する慈しみやキリスト教の対話の欲求を前にして、イスラムの不寛容は、不寛容ゆえに自らを罪ある者とする彼らの中で、無意識な或る形を取っている。なぜなら、彼らが、常に粗暴な遣り方で、他者に彼らの真実を頒[わか]ち持たせようと求めないにせよ、彼らはそれでもなお(そしてこの方がさらに重大だ)、他者としての他者が実存することに耐えられないのである。彼らにとって、疑いや屈辱から自らを庇護する唯一の手段は、他の信仰と他の生き方の証人としての他者の「空無化」のうちに存している。イスラムの兄弟愛は、非信徒に対する排除の換位命題である。この排除は自らを露わにすることができない。なぜなら、そのようなものとして自らを認めれば、それはイスラム教徒自身が、非信徒を実存するものとして再認識するのに等しいことになるだろうから。
 (408; 「39 タクシーラ」)

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 まだわれわれへの従属下に置かれている民族や文化に対する関係では、われわれも、イスラムが、その被保護者およびそれ以外の世界を前にして苦しんでいるのと同じ矛盾に捉えられている。われわれ自身の開花を保証するには豊かなものだった諸原理が、他の人々にとっては、彼らなりにそれらの原理を用いることを断念したくなるほど、尊敬に値しないとは、われわれは思わないのである。それらの原理を最初に思い付いたということで、彼らのわれわれに対する感謝の念は大きいのが当然だと、驚くべきことだが、われわれは思っているのだから。同様にして近東における寛容の考案者であったイスラムは、非イスラム教徒が、イスラムの信仰を採るべく彼らの信(end410)仰をきっぱり捨ててしまわないことを赦し難いのである。なぜなら、イスラムの信仰は、他のあらゆる信仰を尊重するという圧倒的な優越を、他の信仰に対してもっているからである。(……)
 (410~411; 「40 チャウンを訪ねて」)

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 もし仏教が、イスラムのように、諸々の原始信仰の逸脱を支配しようと努めるとしても、それは、母胎への回帰の約束が逸脱に対してもたらす合一的鎮静作用によってである。この方策によって、仏教は、エロティスムを狂乱と懊悩から解放した後に再び包容したのである。反対にイスラムは、男性志向にそって発展した。女性を閉じ込めることによって、母胎への入口に錠を下ろしてしまった。女性の世界を、男性は一つの閉ざされた世界に仕立てたのである。この方法によって、恐らくイスラムもまた平穏を得られると思ったのであろう。イスラムはしかし、幾つかの排除を質[かた]にそれを手に入れた。社会生活からの女性の排除や精神的な共同体からの非信徒の排除である。ところが仏教は、この平穏を融合――女性との、人類との融合――として、あるいはまた神格の無性的な表象のうちに捉える。
 聖賢と予言者以上に著しい対照は想像できないだろう。いずれも神ではない――そこに両者の唯一の共通点がある。それ以外のあらゆる点で彼らは対立している。一方は純潔であり、他方は四人の妻をもって力に充ちている。一方は両性具有者であり、他方は髭をたくわえている。一方は平和的で他方は好戦的である。一方は模範者であり他方は救世主である。しかし(end414)また、千二百年が両者を隔てている。そして、もしもっと遅く生まれていたら両者の綜合を図ることができたかもしれないキリスト教が、「署名以前に」〔版画で、彫り上がった絵に作者が署名する前の状態を指す〕――あまりに早く――、二つの極限の結果から出発しての融和としてでなく、一方から他方への移行過程として、内在する論理と地理と歴史によって、爾後イスラムの方向へ発展すべく定められたひと連なりのものの中間項として出現したことは、西洋の意識の不幸であった。なぜなら、イスラムは――この点ではイスラム教徒は勝ち誇っている――、宗教思想の最も進化した、だからと言って最良とは限らない形態を示しているからである。むしろこの理由によって、三者のうち最も不安に充ちたものとさえ、言ってよいかもしれない。
 死者に嘖[さいな]まれること、あの世での邪悪な処遇、そして呪術の責め苦――それらのものから解放されようとして、人間は三つの大きな宗教的試みをした。およそ五百年の間隔で隔てられて、人間は仏教、キリスト教、それからイスラムを次々に考案した。そして、各々の段階が、前者との関係での進歩を記すどころか、むしろ後退を示しているのは驚くべきことだ。仏教には来世はない。そこでは、すべては一つの根源的な批判に還元される。人間は、その批判の力が自分に具わっていると主張することがもう永久にできないものとされているので、批判の果てに、聖賢が事物と人間の意味の拒否へと道を拓いてくれる。それは宇宙を無と観じ、自らをもまた宗教として否定する一つの修練である。再び恐怖に屈したキリスト教は、来世を、その希望、脅威、最後の審(end415)判を作り直した。イスラムには、現世を来世に繋ぎ合わせる道しか残されなかった。現世と精神界とは、ひと纏めにされることになった。社会秩序は超自然の秩序の威光で身を飾り、政治は神学になった。結局のところ人は、迷信も生命を与えることができなかった精霊や幽霊を、すでに現実的すぎるほど現実的な師たちで置き換えたのである。その上、この師たちに人は来世の専売権を認め、その結果、すでに圧倒的なこの世の重みに、さらに来世の重みを付け加えたのである。
 この例は、根源に遡ることを常とする民族学者の野望を正当化する。人間は、初めにしか本当に偉大なものは創造しなかった。それがどんな領域であれ、最初の遣り方だけが全き意味において有効なのだ。それに続く遣り方は、躊躇い、悔やみながら、先取りされている領土を、一区画ずつ奪回することに専念する。ニューヨークの後で私が訪れたフィレンツェは、のっけから私を驚かしはしなかった。その建築と造形美術の中に、私は十五世紀のウォール街を見る思いがした。ルネッサンス前派の画家をルネッサンスの巨匠に、シエナの画家をフィレンツェの画家に対比してみて、私は或る堕落の印象を受けた。まさに、すべきでなかったあらゆること以外に、あとの者たちは、一体何をしたというのだろうか? だが、それにもかかわらず、彼らはやはり称賛に価する。創始期に結び付いている偉大さは極めて確かなので、過ちですら、それが新しければ、依然われわれをその美しさで圧倒するのである。
 (414~416; 「40 チャウンを訪ねて」)

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 一九五〇年九月、私はチッタゴン地方のモク族のと或る村に居た。何日も前から、私は毎朝、女たちが寺へ僧侶の食物を運んで行くのを眺めていた。昼寝の時間には、私は、勤行に合わせて打つ鐘の音や、ビルマ語のアルファベットを節を付けた小声で唱える子供の声を聴いた。そのチャウンは、村はずれの、チベットの画家が好んで遠景に配するような、木に覆われた小山の上に位置していた。その麓には、ゼーディつまりパゴダ〔仏塔〕があった。仏塔と言っても、それは、この見窄らしい村で、竹格子の四角い囲いの中に段の形に同心円を七層に重ね上げた、円形の平面をもつ土の建造物に過ぎなかった。私たちは靴を脱いで小山を登ったが、その水に濡れた、肌理細かな粘度は、裸足の足に快かった。急な上り坂のあちこちに、村人が、彼らの司祭たちが勝(end419)手に果物を栽培しているのに仰天して、前の日に引き抜いたパイナップルの苗が見えた。というのも、俗人の住民が司祭たちの必要を賄っていたからである。頂きは、三方を藁葺きの差掛けで囲んだ狭い桟敷のようになっていて、差掛けの下には、行列を飾るのに使う、大きな、極彩色の紙を凧のように竹に張ったものが仕舞ってあった。もう一つの側に寺院が立っていた。村の小屋と同じように杭の上に立っていて、ただ、より大きいということや、藁葺きの四角な建物が母屋を支配しているという他は、ほとんど民家と変りなかった。泥の中を攀じ登ったあとでは、定式化されている洗浄は、宗教的な意味を離れた、まったく自然なものに感じられた。私たちは入った。明りといっては、布切れや筵[むしろ]の旗が垂れ下がっている祭壇の真上に、中央の籠で出来た灯籠の高みから落ちて来るものと、藁の壁越しに洩れて来るものだけだった。脇に鐘の下がっている祭壇には、真鍮の鋳物の小像が五十ばかり犇[ひし]めいている。壁面には、色刷りの宗教石版画何点かと、一頭の牡鹿の頭蓋骨付きの角とが見えた。太い竹を薄く割いて編んだ床は、裸足が軽く擦れるために艶があり、私たちの足の下で絨毯よりも撓[しな]やかだった。穀物を獲り入れてある納屋のような穏やかな空気があたりを包み、空気は干し草の匂いがした。中を空にした干し草の堆積のように見えるこの簡素でゆったりした広間、寝台枠の上に置かれている藁布団の脇に立つ二人の僧の鄭重さ、集会の場や祭祀の飾りを作る時に漲るあの感動的な勤勉さ、そうしたすべてが、私が聖所というものについて自分で思い浮かべることのできた観念に、かつてなかったほど私を近(end420)づけてくれた。「あなたは私のようになさる必要はありません」――私の同伴者は祭壇の前に四度平伏しながら私に言い、私はこの意見を尊重した。しかし、それは自尊心からというよりも、慎みからであった。私が彼と信仰を共にしていないことを彼は知っていたし、私は、それらを形だけの仕来りと私が見ていると彼に思わせることで、儀礼的な仕草を濫用する結果になるのを怖れたからである。一度なら、私はそれらを行なうことに、何の抵抗も感じないかも知れなかったから。この祭祀と私とのあいだに、どんな誤解も入り込みはしなかった。この場合、偶像の前で頭を下げるとか、いわゆる超自然の秩序を崇敬するということが問題なのではなかった。ただ、一人の思想家あるいはその伝説を生んだ社会が、二十五世紀前に熱心に求めた、そして私の文明は、それを確認することによってしか貢献できない、決定的な思想に敬意を捧げることだけが問題だったのだ。
 (419~421; 「40 チャウンを訪ねて」)

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 だが、不正、惨めさ、苦悩は存在する。それらは、この選択に一つの仲介項を提供する。われわれは独りではない。そして、人間に対して耳や目を塞いだままでいるか、さもなければ自分た(end422)ちの中にしか人間性はないと明言するかは、われわれ次第ではないのである。仏教は外からの呼び掛けに答えることを引き受けながらも、その一貫性を保つことができる。恐らく、世界の広大な地域で、仏教は鎖の欠けた環を見つけさえしたのであろう。なぜなら、もしこの悟りに導く弁証法の最後の契機が正当だとすると、それに先行するすべての契機、および、それに類似したすべてもまた正当なものだからである。意味の絶対的な拒絶は、一連の段階――その各々が、より小さい意味から、より大きい意味へと導いて行く――の終点を成している。最後の一歩は、成就されるのに他の歩みを必要とするが、見返りとしてそれらすべてに価値を与える。それぞれの遣り方と、それぞれの平面において、一つ一つの歩みが一つの真実に対応している。人間をその第一次的な鎖から解き放そうとするマルクス主義の批判――人間の条件の表面に現われた意味は、人間が、彼の考察する対象を拡大するのに同意すれば、消滅することを人間に教える――と、解放を完成させる仏教の批判とのあいだには対立も矛盾もない。各々は、もう一方と同じことを異なる水準で行なっているのである。二つの極を結ぶ通路は東洋[オリエント]から西洋[オクシデント]へ行き、一方から他方へと――恐らく、ただその起源を確認するだけのために――移動する、解き難く結ばれた思想の流れが二千年紀のあいだの拡がりの中で完成することを人類に許した、認識のすべての進歩によって保証されている。信仰と迷信とが、人間のあいだの現実的な諸関係を問題にするとき溶け合ってしまうように、道徳は歴史に譲歩し、流動する形は構造と、創造は無と入れ替わる。初め(end423)の遣り方の対称性を発見するには、それを自身の上に折り畳むだけで十分だ。その諸部分は重ね合わせられるのである。超克された諸段階は、それらを準備した諸段階の価値を無[な]みすることなく、価値を立証する。
 人間はその枠の中で位置を変えながら、彼がすでに占めたことのあるすべての位置と、彼が占めるであろうすべての位置を、自分と共に持ち運ぶ。人間は同時に至る所にある。人間は諸段階の全体を、絶えず要約して繰り返しながら一列になって進む群れである。なぜなら、われわれは様々な世界に生きており、その各々が、その包含しているものより、より真実であり、それ自身は、それを包んでいるものに照らしてみるならば偽りである。その或るものは行動によって認知され、他のものはそれらを考えることによって体験されるが、それらが共存していることに由来する表面的な矛盾は、最も近いものに意味を与え、最も遠いものに意味を拒むという、われわれが受けている束縛のうちに解消してしまう。その一方で、真実は意味の漸進的な拡大のうちに存しているが、しかし逆にされた順序においてであり、その拡大は爆発にまで押し進められる。
 民族学者として、そのとき私は、人類全体の矛盾であり、自らのうちにその理法をもっている一つの矛盾に、私独りで苦しまずに済むことになる。矛盾は、私が両極端を切り離す時にだけ存続する。行動を導く思考が意味の不在の発見に導いて行くのだとしたら、行動することは何の役に立つか? しかし、この発見には直ちに到達できない。私がそれを思考することが必要であり、(end424)だが、私はそれを一挙には思考できないのである。菩提達磨の教えのように段階が十二あろうと、その数がより多いにせよ少ないにせよ、それらは皆一緒に存在しており、終点に行き着くために、私は幾つかの状況を生きるように絶えず求められ、その状況の一つ一つが私から何物かを要求する――私が知識に尽くす義務があるように、私は人々に尽くさなければならない。歴史、政治、経済的・社会的世界、物理的世界、そして天空さえもが同心円で私を取り囲み、それらの各々に私の人格の一部分を譲り渡すことなしには、それから私が思考によって逃れることはできないのである。小石が波を打ち、横切りながらその表面に輪を作るように、底に達するためには、私は先ず水に身を投じる必要があるのである。
 世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。制度、風俗、慣習など、それらの目録を作り、それらを理解すべく私が自分の人生を過ごして来たものは、一つの創造の束の間の開花であり、それらのものは、この創造との関係において人類がそこで自分の役割を演じることを可能にするという意味を除いては、恐らく何の意味ももってはいない。この役割が人類に独立した一つの位置を示し、あるいは人間の努力――たとえ呪われたものであれ――が普遍的な下降に虚しく逆らうことからはほど遠く、人間は、それ自体が一つの機械、恐らく他のものよりはより完成された機械として立ち現われ、原初の秩序の風解を促し、強力に組織されている物質を、絶えず増大していつかは決定的なものとなるであろう無活力へと、追い遣っているのである。人間(end425)は、呼吸し、食物を獲得するようになってから、火の発見を経て原子力や熱核反応機関を発明するまで、人間を再生産する場合を除いて、喜々として無数の構造を分解し、もはや統合の可能性の失せた状態にまで還元してしまう以外、何もしなかった。なるほど人間は都市を築き、畑を耕したかも知れない。だが考えてみれば、これらのもの自体、或るリズムで、そしてそれらのものが巻き込む組織の量を無限に上回る割合で、無活力を作り出すべく定められた機械なのである。人間の精神が創り出したものについて言えば、それらの意味は、人間精神との関わりにおいてしか存在せず、従って人間の精神が姿を消すと同時に無秩序のうちに溶け込んでしまうであろう。それゆえ、全体として捉えられた文明は、もしその機能が物理学者の言うエントロピー、つまり無活力を製造することになかったとしたら、驚異的に複雑な仕掛けとして描かれ得たであろうし、われわれは、そこにわれわれの宇宙が生き残れる機会を見出したい誘惑に駆られたかも知れない。交わされる言葉の一つ一つが、印刷される一行一行が、二人の対話者のあいだに伝達を成り立たせ、かっては情報の隔たりによって、それゆえ、より顕[あらわ]な構築によって特徴づけられていたものを、一つの、平らで滑らかなものにしてしまう。文明の、この分解の過程の最高度の表現を研究することに捧げられた学問の名は、人類学[アントロポロジー]よりもむしろ「エントロポロジーエントロピーの学〕」と書かれるべきかもしれない。
 ともあれ、私は存在する。確かに、少しも個人としてではなく。なぜなら、こうした観点から(end426)するならば、私は、頭蓋骨という蟻塚の中に納められた無数の神経細胞から成る一つの別社会と、そのロボットの役をする私の肉体との闘いによって、絶えず諍[いさか]いの種にされている賭け金でなくて何であろうか? 心理学も、形而上学も、芸術も、私の隠れ処にはなり得ない。それらは神話――或る日誕生するはずの、そして旧い社会学ほどそれらに対して好意的ではないであろう新しい種類の社会学〔著者は、大脳生理学に基づく社会学を想定している〕の検閲を、爾後、内部からも適用されるべき神話――なのだから。私とは単に憎むべきものであるというだけではない。それはわれわれ[﹅4]と無[﹅]とのあいだに場所をもたない。そして、もし私が結局選ぶのが、このわれわれ――一つの見掛けに還元されるとはいえ――であっても、私を滅ぼすという、選択の条件すら消去してしまうはずの行為に出るのでない限り、それは、私が、この見掛けと無とのあいだに一つの選択の可能性しかもたないということなのである。ところで、他ならぬこの選択によって、私が留保なしに私の人間の条件を充たすとすれば、私には選ぶことだけで十分なのだ。それによって一つの知的倨傲――その虚しさを、私はその対象の虚しさによって測る――から私を解き放ち、私は、その主張を多数者の解放という客観的な要求に従わせることを承諾するが、当の多数者には、このような選択を行なう手立ては常に拒絶されているのである。
 個人が集団の中で独りではなく、各々の社会が他の社会の中で独りではないのと同様に、人類は宇宙の中で独りではない。人類諸文化の虹が、われわれの熱狂によって穿たれた空白の中にす(end427)っかり呑み込まれてしまう時、われわれがこの世にいる限り、そして世界が存在する限り、われわれを接近不可能なものへと結び合わせているこのか細い掛け橋は、われわれの奴隷化へ向かうのとは逆の道を示しながら、われわれの傍らに留まり続けるであろう。その道を、踏破できなくとも熟視することによって、人間は、人間にふさわしいことを彼が知っている唯一の恩恵を受けることができる。歩みを止めること。そして人間を駆り立てているあの衝動、必要という壁の上に口を開けている亀裂を一つ一つ人間に塞がせ、自らの手で牢獄を閉ざすことによって人間の事業を成就させようとしている、あの衝動を抑えること。信条、政治体制、文明の水準の如何を問わず全社会が渇望しているこの恩寵。そこに社会は、その閑暇、その悦楽、その憩い、その自由を位置づける。生にとって掛け替えのない解脱[﹅2]の機会、それは――さらば野蛮人よ! さらば旅よ!――、われわれの種がその蜜蜂の勤労を中断することに耐える僅かの間隙に、われわれの種がかつてあり、引き続きあるものの本質を思考の此岸、社会の彼岸に捉えることに存している。われわれの作り出したあらゆるものよりも美しい一片の鉱物に見入りながら。百合の花の奥に匂う、われわれの書物よりもさらに学殖豊かな香りのうちに。あるいはまた、ふと心が通い合って、折々一匹の猫とのあいだにも交わすことがある、忍耐と、静穏と、互いの赦しの重い瞬きのうちに。
 (422~428; 「40 チャウンを訪ねて」; 結び)