2016/7/15, Fri.

 目をひらくと、九時だった。前夜の瞑想中、明日は九時に起きたいと繰り返し願っておのれに言い聞かせた甲斐があったなと思ったが、しかし油断して起床へと続かず、気付くと九時半に飛んでいる。三時半から眠ったとして、ここでちょうど六時間だからと気を奮って起き、部屋を出た。トイレは母親が入っていたので、洗面所で顔だけ洗って室に戻り、瞑想を始めた。九時四一分から五四分を済ませて、上に行くと、 "Don't You Worry 'Bout A Thing" をやたらと口ずさみながら先に風呂を洗ってしまい、それから素麺の残りを鍋のつゆで煮こんだ。ピザパンがあると母親が言うのでそれも頂くことにして電子レンジに入れ、前夜のサラダの残りも取って卓に就いた。ものを食べて皿を洗い、蕎麦茶とともに室に帰ったのが、おそらく一〇時四五分かそこらではないか。前夜に流したJeff Hamilton Trio『Live At Steamer's』の続きを流しながら、まず前日の記録を付け、さらに六月一五日から七月一四日までの収支を確定させたのだが、その後インターネットに繰り出して時間を潰したはずだ。外は雨降りで気温は低め、肌着を纏ったまま茶を飲んでも背が大して濡れない日である。一一時半を過ぎてからこの日の新聞を読み、ようやく前日の新聞を写しはじめたのが、おそらく正午になったあたりではなかったか。Jeff Mills『From The 21st』を流していたが、特にぴんとこなかったので途中でデータを消し、Jesse van Ruller『Chamber Tones』に変えた。するとこれが、以前聞いた時には、ギターにベースにクラリネットとドラムレスの室内楽調の編成が退屈に感じられたものだが、今回は一聴して気に入られた。それで新聞記事を移すと歯を磨き、一二時四〇分頃からベッドに転がって、Gabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraに当たった。語彙の復習を本の冒頭まで済ませ、その後前線を少々進めて、一時二〇分かそのあたりだった。その後柔軟運動や腕立て伏せなどをして身体をちょっと動かし、さらに久しぶりに、腕振り体操を七、八分行った。前後に腕を振るだけのごく簡単なもので、パニック障害期にはこれをやると、肩から首のあたりがよくほぐれて多少不安が軽減するので、出かける前などによくやっていたものだ。そうして身体を温めてから上に行き、制汗剤ペーパーで肌を拭って、室に戻ると着替えをした。ワイシャツにスラックスを履き、ネクタイも締めた姿でふたたび枕の上に移り、瞑想を始めた。最初は散漫な物思いをしていたが、じきに耳が窓のほうに向き、さらさらと空間を埋めている雨音に貼り付きはじめた。絶え間なく続いているその音の流れが、ほんのかすかに揺らぎ、波打つように聞こえるのは、おそらく客体のほうの問題ではなく、こちらの意識が常に撓んで揺らいでいることの現れなのではないか。目をひらくと、一四分が経って二時一六分になっていた。着替えて上階に行き、ソファに座ると母親が、靴がすごく剝げているじゃないと言うので、そうなのだと応じた。両の革靴の先端部分が、買ってからまだ四か月ほどにもかかわらず薄く剝がれてしまっているのだ。どこかにぶつけたのと非難がましい口調で訊かれるのだが、そんな覚えはないし、それほど乱暴で粗雑な歩き方の癖があるとも思わない。あれで結婚式に出るのはちょっとと母親は言って、それはこちらも同感ではあるが、剝げてしまったものは仕方がない。何か塗ったりなどして修復できないのだろうかと尋ねると、今度靴屋に聞いてみるということで落ち着いた。そうして家を出た。結構な雨降りで、傘を差して道を歩いていくと、水溜まりには極小の白い水柱があちこちに立ち、それに応じて水面に泡がいくつも生まれて滑るように少し流れては、ふたたび雨粒に打たれて消滅していた。坂に入ると、斜面になったアスファルトの上を、不可視の小さな存在が無数に踊るかのように、雨粒の痕跡が、規則的とも不規則とも言えない動きで縦横無尽に走っている。樹間から川を遠目に見下ろすと、林の色は薄まっているが霧はそれほどでもなく、この日は渋い緑色の川面が、白い泡を襞の突端に湧かせながらうねっているのが見て取れた。坂を上っていき、街道に出た時点で既に、脚がじめじめと湿っており、傘の柄を持つ手には防ぎようもなく雨粒が当たる。Antonio Sanchez『Live In New York』を聞きはじめ、裏通りに入った。石塀の内の紅の百日紅も、雨に打たれて重さを増したか、塀の外側に頭を落としてだらりとうなだれていた。音楽を聞きながら歩いていき、職場に着いて奥の一席に座ると、濡れたスラックスが太腿に貼り付いて、裾を捲りたくなったが我慢した。コンピューターを用意して、三時一五分くらいから書き物を始めた。まず七月一三日の記述、文言を少々直した。さらに、出勤時に駅前で日本共産党が演説しており、チラシをもらったことを書き忘れていたのだが、面倒くさくなって書き足すのはやめにして、完成とした。政治関連のチラシをもらう際はいつも、歴史や時代の極々小さな一痕跡として、あとで日記にその内容をそのまま写しておこうと思っているのだが、いざ自室に帰って書かれてあることを読むと面倒になってしまい、実際に写したことはほとんどない。今回もそうで、都知事選において鳥越俊太郎支持を訴える共産党のチラシは既にごみ箱に放りこんでいた。それから前日の記事に取りかかった。音楽は、Jesse van Ruller『Chamber Tones』が終わると、『European Quintet』に移し、ゆっくり打鍵を進めて四時二五分に仕舞えた。時間を見てこれは書き抜きをするのは無理そうだなと思い、便所に立ってからこの日の分にも入ったが、五時前に中断して、飯を食うことにした。それで持ってきたロールパンをかじりながら、ついでに昨年の日記を読み返した。七月一二日、一三日と読んで、パンを食い終わったので、ガムを買いに外に出た。コンビニに行って、ガムのボトルを片手に戻ってきて、書き物に戻らずさらに日記の読み返しをした。一四日には、坂の途中で動機が身体に響くために立ち止まり息をついたとあって、今年ほど暑さに強くなっていないらしいことが窺える。図書館のCD棚の前でも、口腔内に立ちあがる胃の臭いに不安を覚えて、急いでその場を離れたらしい。一五日に移って下部にスクロールしていき、先に本文外を読むと、「最小限ではあるが戦略性あるいは策略性を持ったテクストであるところの「日記」に加えて、言葉の正しい意味での「日記」、公開されない、内面の省察、思考の、というよりはむしろ実存の記録としての文章をも綴っていくべきではないのか。自分を相手にして、本当に唯一自分だけ(いまの自分および未来の自分)を相手にするお喋り、自分語りのような」とある。自分の外面的な生活を朝から晩まで追って毎日書き付けているように、頭のなかの情動や思念なども毎日記録するべきではないかと考えていたのだったが、結局そのような試みは正式に行われていない。この日はまた、ウィキペディア記事によれば、安全保障関連法案が、「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」(浜田靖一委員長)において可決された日である。正午過ぎにテレビで、その様子を眺めていた――「テレビには衆院特別委員会の様子が映しだされていた。委員長の周りに野党議員が詰めかけて包囲し、席を立って議場を埋める人々は「強行採決反対」「アベ政治を許さない」「自民党感じ悪いよね」と書かれたプラカードを掲げていた。伝えられるのは映像のみで、ナレーターと解説者のやりとりがその上にかぶせられていたが、採決直前になって議場の音声が流れはじめた。委員長の目前に詰め寄った男性議員が、手を相手の口の前に持っていき、声を遮ろうとしていた。委員長の持つ紙を周りの議員たちが奪い取ろうと手を伸ばした。眉間に皺を寄せた厳しい顔や、泣きだしそうな表情が見られた。野党議員たちの抗議のざわめきで、ふくよかな身体の委員長が張りあげる声は聞こえなかったが、それに応じて席についていた議員たちは立ちあがった。それで終わりだった。委員長は荷を下ろした様子で、仲間に肩を抱かれながら退室していき、あとには声をあげつづける議員たちが残った。解説者がコメントをしたあとに、次のニュースに移った」とのことである。一五日まで読み返しを終えると五時二〇分になったので、早いが労働の準備に移った。そうして働き、九時四五分頃退勤した。雨は既に止んでいた。裏通りに入るとiPodとイヤフォンを取りだして、Thelonious Monk『Solo Monk』を流した。それで片手をポケットに入れて、片手は傘を持ちながら軽く振って、ゆったりと歩いて帰宅した。蒸し暑い居間に入ると、テーブルの上の新聞の一面に、太い黒帯に白抜きの字で「仏でテロ 77人死亡」と掲げられているのが目についた。自室に帰って服を身体から脱ぎ取ると、すぐに瞑想、一〇時一九分から三三分まで行って、部屋を出た。上階に行くとうどんの煮込みを用意して食べはじめ、じきにテレビでは七二時間密着ドキュメンタリーが始まった。先の五月下旬、米大統領訪問二日前から当日までの広島市である。ものを食いながら見ていると、深夜の繁華街をうろついている若い、化粧を濃く顔に塗った女性が、私被爆三世、おばあちゃん被爆者手帳持ってる、とあっけらかんとした調子で言う。それは、凄いな、と少し衝撃を受けたようになった。七一年前の惨禍を現実に体験した人間が、自分の家族として同じ家の内にいるというその事実、それは善い悪いの問題を越えて、それだけである一つの凄まじいことではないか、と思った。テレビを見たあと皿を洗って入浴し、出ると蕎麦茶を持って室に帰った。既に零時前である。他人のブログを回ってから、『失われた時を求めて』一巻の書き抜きを始めたのが、メモによると零時二六分だった。Jesse van Ruller『Herbs, Fruits, Balms and Spices』、続けてJesse van Ruller & Bert van den Brink『In Pursuit』を流し、途中、van den Brinkが教会の巨大なパイプオルガンでQueenの "Bohemian Rhapsody" を演奏している動画を眺めたりもしつつ、二時前まで鈴木道彦訳のプルーストの文章をひたすら写した。その後三〇分ほどインターネットを散歩し、ベッドに移ると浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』をひらいた。非常に涼しく、肌寒いくらいの夜だった。三時になると眠りに向かうために瞑想を始めたが、頭が振れてまったく形にならないのですぐに諦め、久しぶりに布団を二枚とも身体の上に掛けて意識を沈めた。



 等間隔に並んだリンゴの木が、ほかのどんな果樹とも混同されることのないその葉の、模倣不可能な装飾に囲まれて、白い繻子[サテン]の広い花弁を開き、あるいはほんのりと頬を染めた蕾のおずおずとした花束を吊していた。陽の当たる地面の上にリンゴの木の作るまるい蔭や、また沈む陽が(end260)その葉の下に斜めに織りあげた金色の絹、手でふれることのできないこの金色の絹に、私がはじめて気づいたのは、メゼグリーズの方でのことだった。父はステッキでそれを断ち切ってみるのだが、けっして絹の光の方向をそらせることはできなかった。
 (マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家の方へⅠ』集英社、一九九六年、260~261)

     *

 クレープ地の服の胸あきから、すばやく友だちにキスされたのを感じて、ヴァントゥイユ嬢は小さく叫び声をあげると逃げだした。それから二人は、どたばたと追ったり追われたりした。まるで翼のような広い袖をひらひらさせ、愛し合っている二羽の小鳥のように、くうくう、ぴいぴいと鳴き交しながら。ついでヴァントゥイユ嬢は、友だちにのしかかられて、ソファに倒れてしまった。けれどそのとき相手は、昔のピアノ教師の写真が置かれた小テーブルに、背を向ける格好になっていたのだ。ヴァントゥイユ嬢は、自分が注意を向けさせなければ相手がこの写真に目(end286)をとめないだろうと気づいて、まるでたった今その写真を見つけたように、こう言った。
 「あら! お父さんの写真があたしたちのことを見てるわ。だれがここへ置いたのかしら。ここはこの写真を置く場所じゃないって、二十ぺんも言ったのに」
 私はこの言葉が、楽譜のことについてヴァントゥイユ氏が父に言った言葉であるのを思いだした。この写真は、きっとふだんから、二人が行なう冒瀆の儀式に役立っていたのだろう。なぜなら、ヴァントゥイユ嬢の友だちはこんな言葉でそれに答えたのだが、その言葉は典礼の受け答えの一部をなしていたにちがいなかったからである。
 「ほっときなさいってば。もうあんな人いないんだから、あたしたちにつべこべ言えるわけじゃなし。それともあんた、こんなふうに窓を開けっ放しにしてるところをあいつが見たら、急にめそめそして、あんたにコートをかけるとでも思ってんの、あのくそ猿が?」
 ヴァントゥイユ嬢はやさしく非難するように、「まあ、なんてことを」と答えたが、これは彼女の善良な性格を証明していた。といっても、父親のことをこんなふうに言われたために腹立ちまぎれにこの言葉が口をついて出たのではない(もちろんこんな場面になると彼女は、そうした怒りの感情を――いかなる詭弁を弄してか?――押し黙らせてしまう癖がついていたのだ)。そうではなく、この言葉はブレーキのようなもので、彼女はエゴイストと見られないために、女友だちが自分に与えようとしている快楽にみずからこのブレーキをかけていたのである。またあの冒瀆の言葉に応ずるこのようににこやかな節度、このように偽善的でしかも愛情こまやかな非難、(end287)それはたぶん、率直で気立てのよい彼女にとって、自分が身につけようとしていた邪悪さのとりわけ破廉恥な形であり、またその甘ったるい形態であると思われたかもしれない。けれども彼女は、身を守るすべもない死者に対してこれほど苛酷に振舞う人間からやさしく扱われたときに自分の感ずる快楽、その快楽の持つ魅力に抵抗することができなかった。彼女は相手の膝にとびのると、娘がキスしてもらうときのように、清純そのものといった仕草で額をさしだし、こうして自分たち二人が、墓のなかまで追いかけていってヴァントゥイユ氏から父親の資格を剝奪し、残酷の極点にまで到達したことを感じて、恍惚としていた。相手は彼女の顔を両手にはさみ、おとなしくその額にキスをしたが、このような従順さは、ヴァントゥイユ嬢に寄せる大きな愛情と、現在ではひどく寂しいものになってしまったこの孤児[みなしご]の生活にいくぶんか気晴らしをさせたいという気持とのために、彼女には容易なものとなっていたのである。
 「分かる? このよぼよぼ爺に、あたしが何をしたいか」と、女友だちは写真をとり上げながら言った。
 そして、ヴァントゥイユ嬢の耳許に何かささやいたが、それは私に聞きとれなかった。
 「まあ! できっこないわ」
 「あたしにできないって言うの? これ[﹅2]の上に唾を吐くのが?」と、相手はわざと荒々しい声で言った。
 それ以上のことはもう聞こえなかった。ヴァントゥイユ嬢が、疲れたような、ぎこちない、せ(end288)かせかした、正直そうで悲しげな様子をして、鎧戸と窓を閉めにきたからである。だが今や私には分かったのだ、ヴァントゥイユ氏が生涯にわたって、娘のために堪え忍んだすべての苦痛の代償として、死後、娘から何を与えられたかということが。
 しかしながら、のちに私はこう考えた、仮にヴァントゥイユ氏がこの場面に立ち会うことができたとしても、おそらく彼はまだ娘の善良さを信じつづけたことだろうし、ひょっとするとこの点について彼がまったくまちがっていたわけではなかったかもしれない、と。たしかにヴァントゥイユ嬢の身につけた習慣には、一見したところ悪が全面的に支配しているように見え、サディストの女ででもなければこれほど完璧に実現された悪の姿にお目にかかることはむずかしかったろうと思われる。一人の娘が、ただ自分のためだけに生きた父親の肖像写真の上に、女友だちに唾を吐きかけさせる、といった光景は、本物の田舎の家の明りの下よりも、むしろ通俗劇のフットライトを浴びた舞台で見られることである。そして、実人生においてメロドラマの美学の基盤になるものは、ほとんどサディスム以外にありえないだろう。現実には、サディスムの場合以外でも、ヴァントゥイユ嬢のように、死んだ自分の父親の思い出とその遺志に残酷に背く娘がいるかもしれないが、しかしそれをあれほど初歩的で素朴な象徴の行為のなかに鮮やかに集約してみせることはないだろう。そういった娘の行為の犯罪性は、なかなか他人の目に見えず、そればかりか、自分にもそれが分からなくて、彼女ははっきり悪いことだと自分に言いきかせることなしに悪を犯しているのかもしれない。だが外見はともかくとして、それを超えたヴァントゥイユ嬢(end289)の内心における悪は、少なくともその当初において、混じり物がなかったわけではない。彼女のようなサディストは、悪の芸術家である。そして心の底からの悪人だったら、悪の芸術家にはなれないものなのだ。なぜならそのような人間にとって、悪は外部のものとはなりえず、ごく自然な本性のように思われて、自分自身と区別すらできなくなるだろうから。そして美徳とか、故人の追憶とか、子としての愛とかは、本人がそのようなものへの信仰を持ちあわせていなければ、それを汚したところで冒瀆の快楽を味わうこともないだろう。ところがヴァントゥイユ嬢のようなサディストは、ごく純粋な感傷家であり、ごく自然に徳を備えているために、そのような人には官能の快楽でさえなにか悪しきものであり、悪人の特権のように思われるのである。そして、自分に負けてしばし官能の快楽にふけるとき、彼らは悪人の皮をかぶり、また自分の共犯者にもそれをかぶらせようとするのであって、こうして一瞬のあいだ、きまじめでやさしい自分の魂から非人間的な悦楽の世界に逃げこんだという幻想を抱くのである。そして私は、ヴァントゥイユ嬢にとって悪人になりきることがどんなに不可能であるのかを見て、彼女がどれほど強くそれを欲していたかを理解した。たとえば彼女が自分の父親とまったく異なった人間であろうとするときにも、彼女を見ていると、年老いたピアノ教師のものの考え方、口のきき方が思い出されてくるのであった。父の写真以上に彼女が冒涜したもの、自分の快楽に用いたもの、だが結局快楽と彼女自身のあいだにとどまっていて、彼女がじかに快楽を味わうのを妨げたもの、それは父親似の顔であり、父親自身の母が持っていた青い目であり――それを父親は、家族に代々伝わる宝石(end290)のように、彼女に譲ったのである――親切心にあふれた仕草であった。その仕草が、ヴァントゥイユ嬢の悪徳と彼女自身のあいだに、大げさな文句や、悪徳にふさわしくない気持をはいりこませるのであり、そのような気持のために、彼女は悪徳を、ふだん自分が身を捧げている数々の礼節義務とかけ離れた何物かとして認識することが、どうしてもできなかったのである。悪が彼女に快楽の観念を与えたのではない。悪が快く思われたのではない。快楽が悪いものに見えたのだ。そして彼女が快楽にふけるたびに、ほかのときには彼女の有徳の魂のなかに存在していなかったあの悪しき思考が、かならずそこにつきまとうようになったので、とうとう彼女は快楽のうちになにか悪魔的なものを見出し、これを<悪>と同一視するようになってしまったのだ。たぶんヴァントゥイユ嬢も、自分の女友だちが骨の髄まで悪人ではなく、本気であの冒瀆的な言葉を吐いたのではないことを、感じていただろう。それでも彼女は少なくとも、相手の顔に浮かぶ微笑や眼差しに口づけることに快楽を覚えたのだ。それはおそらくわざと作ったものであったろうけれども、しかしその淫蕩ないやしい表情が、善意の人、苦悩の人の微笑や眼差しではなくて、残酷と快楽の人の浮かべるものにそっくりだったからである。彼女は一瞬、父の思い出に対して本当にこういう野蛮な気持を抱いた少女なら同じように極悪な共犯者とともに演じたであろう仕草を、自分がいま実際に演じているのだと想像したかもしれない。もし彼女が自分にもまたすべての人のうちにも、他人の惹き起こす苦悩に対するあの無関心があること、どんな別の名称を与えようとも、この無関心は残忍さの持つおそろしくまた恒久的な形態であることを見抜いていたならば、(end291)おそらく彼女は悪がこんなにまれで異常で見慣れない状態だとは思わなかったろうし、悪の国に移住することをこれほど心安まるもののように考えはしなかったことだろう。
 (286~292)

     *

 (……)遊歩場まで来ると、木立のあいだからサン = ティレールの鐘塔が見える。私は一日中そこに坐って、鐘の音を聞きながら本を読んでいられればと思った。それというのも、天気は素晴らしく、あたりは実に静かだったからで、そのために時を告げる鐘の音も、昼の静寂を破るというより静寂が内に潜めている厄介なものをとり去ってくれるように見えたし、また鐘塔が、いかにもほかに仕事のない人間らしくのんびりとしていてしかも注意深い正確さで――それまで暑さが、ゆっくりと自然に静寂のなかにためていた金色の雫をしぼり出し、それを滴らせようと――これぞと思う瞬間に、はち切れそうな静寂をぐっと圧搾しただけにも見えるのだった。
 (294)

     *

 私は、子供たちが小さな魚をとるためにヴィヴォンヌ川のなかに仕掛けた水差しを眺めて楽し(end296)んだ。その水差しには川の水が満ちているが、またその川のなかで水差しは、自分が水に包まれてもいるのであって、固形の水のような透き通った横腹の「容器」であると同時に、液体となって流れているもっと大きな水晶の容器に投げこまれた「中身」でもある。固さがなく手でとらえられない水と、流動性がなく口に入れて味わうこともできそうにないガラスとは、たえずぶつかりあって同音の律動を繰り返していたが、この水差しの喚起する爽やかさのイメージは、常に水とガラスのこの律動のなかに消えてしまってつかみどころがなく、それだけに食卓に出された水差しよりもいっそうおいしそうで、また見る者の心をいらだたせるのだった。私はあとで釣竿を持ってここに来ようと自分に言いきかせた。私は、お八つのパンを少しとり分けてもらい、それを小さな団子のようにいくつもまるめてヴィヴォンヌ川に投げこんだが、それだけで過飽和状態を作るのに充分だったらしい。というのは、パン屑のまわりの水がすぐさま固まって、ひょろひょろのオタマジャクシのように卵形の房になったからで、水はそれまでこの房を、目には見えないように溶かしながら、ただしすぐにも結晶する状態にしておいたのであろう。
 やがてヴィヴォンヌの流れは、水生植物でふさがれてゆく。はじめは他と離れて孤立した植物、たとえば一本の睡蓮のようなものがあり、それは実に具合の悪いことに流れを横切るような生え方をしているので、流れにゆられてほとんど休むこともできず、機械で動く渡し舟のように、一方の岸に近づいたかと思うとただちに今来た岸へ戻り、こうして永久に往ったり来たりを繰り返すのであった。岸の方へ押しやられると、その茎はのび、するすると長くなり、ぴんとのびきっ(end297)て岸に届くと、そこでまたもや流れにとらえられ、緑の綱はふたたび巻かれて、哀れなこの植物はもう一度出発点につれ戻されるのだが、そこに一秒たりともじっとしてはおらず、また同じ動作で出ていってしまうので、それだけにここはいっそう出発点と呼ばれるにふさわしかった。私は散歩のたびごとに、いつも同じ状態にあるこの睡蓮を見つけた。それは、十年一日のごとくに同じ奇妙な習慣を見せつける神経症患者を思わせるもので――祖父はレオニ叔母もそのなかに含めていたが――彼らは毎回明日にもその習慣を振り払ってしまうのだと思いながら、いつまでたってもそれを保ちつづけているのである。肉体の不快感と奇癖との作る歯車にがんじがらめになった彼らは、そこから抜け出そうと空しくもがきながら、かえってその歯車の動きを強めるばかりで、またぞろ風変りな、避けられない、不吉な食餌療法を始めてしまうのである。この睡蓮はそんなふうだった。またそれは、いつまでも永遠にくり返される奇妙な責苦でもってダンテの好奇心を刺激したあの不幸な人びとに似ていた。ダンテは、ウェルギリウスが大股に遠ざかってゆくのでやむなく大いそぎでそのあとを追ったが――私が両親のあとを追うように――もしそういうことがなかったら、彼はこの責苦の特徴やその原因を、責苦を受けている当人の口からもっとゆっくり話してもらったところだろう。
 だがさらに先に行くと流れはゆるやかになって、ある地所を横切っており、土地の所有者のはからいで、ここは一般の人にもはいれる場所になっているのだった。その所有者は、ここで水生植物の栽培を楽しみ、ヴィヴォンヌ川の作る小さないくつもの池に、文字通り目にも鮮やかな睡(end298)蓮の園を出現させていた。この辺では両岸に木々がいっぱいに茂っているので、その大きな影が水に映って、いつもは暗い緑の地を作っていたが、ときには、午後の夕立がからりと上がったあと、夕方私たちが散歩から帰ってくるころに、それが一見細かく仕切られた日本趣味の七宝模様を思わせるように、紫がかった明るくはっきりした青に染まっているのを私は目にするのであった。水面のあちこちに咲く睡蓮の花は、苺のように赤くなり、中心は真っ赤で縁のところは白くなっていた。さらに先へ行くと花の数は増して、色が薄くなり、きめは荒く、ざらざらして、襞がふえ、偶然によって実に優雅な渦巻型に並べられて、さながら雅な饗宴[うたげ]の花々が寂しくむしられ、ほどけた花環[はなわ]のモスローズが漂っているのを見るような思いであった。別のところでは、家庭で入念に洗われた食器のように、小ぎれいなヘスペリソウそっくりの白とバラ色を見せる普通種の睡蓮のために、ある一隅がとってあるかのように見え、一方さらに少し先へ行くと、まさに水に浮く花壇のようにたがいに押しあいへしあいしていて、さながらいくつかの庭園のパンジーが、その青みがかった冷たい翅を、チョウのように水の花壇の透明な斜面に休めに来たようであった。それはまた、大空の花壇の透明な斜面でもある。というのは、それが花そのものの色以上に貴重で感動的な色の土を、花に与えていたからだ。そうして、午後、この花壇が睡蓮の下で、注意深く静かに移動する幸福の万華鏡を輝かせる場合も、また夕方、どこか遠くの港のように、沈む陽のバラ色と夢とに満たされるときも、比較的固定した色調の花冠のまわりで、その時刻の最も深く、とらえどころがなく、神秘的なもの――すなわち限りないもの――と常に調和を保つ(end299)ために、ひっきりなしに変化してゆくその花壇は、まるで大空に睡蓮の花を咲かせたように見えるのであった。
 (296~300)

     *

 (……)またみなはただの一度も、私がとても行きたかった散歩の終着点まで、つまりゲルマントまで、足をのばすことができなかった。その土地には、館の主人たち、つまりゲルマント公爵夫妻が住んでいることを私は知っていた。彼らが現実の人間であり、いま現に存在している人たちであることも分かっていた。けれども彼らのことを考えるたびに、私が想像するのは、あるときは家の者の行く教会の「エステルの戴冠式」のなかのゲルマント伯爵夫人のように、タピスリーのなかに描かれた人としての彼らであり、あるときは、自分がまだこれから聖水をいただくところか、または家の者の席につくところかによって、キャベツのような浅緑から青梅の色に変わってゆくステンドグラスのジルベール・ル・モーヴェのように、色合いの変化する人物であり、あるときは幻燈が私の部屋のカーテンの上をさまよわせたり天井に上がらせたりするジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン、あのゲルマント家の祖先のイメージのように、まったく手にふれることのできない存在で――要するに、常にメロヴィング朝時代の神秘にとりまかれ、このゲルマント Guermantes の《antes》というシラブルから発するオレンジ色の光のなかに、まるで夕陽に浸されるように包まれている彼らであった。それにもかかわらず、彼らは公爵ならびに公爵夫人として、不思議な人たちでこそあれ、私にとって現実の存在であったが、そのくせ彼らの公爵という肩書の人格は途方もなくのびてゆき、非物質化し、その人間のなかに、彼らを公爵および公爵夫人たらしめているあのゲルマントを、陽に照らされたあの「ゲルマントの方」のすべてを、ヴ(end302)ィヴォンヌの流れを、その睡蓮を、その高い木々を、そして数々のよく晴れた午後を、含むようにもなるのであった。しかも私は、彼らがただ単にゲルマント公爵ならびに公爵夫人という肩書を持っているだけではなくて、十四世紀以来、コンブレーの領主たちを武力でうち破ることができなかったので、婚姻で結ばれてコンブレー伯爵となり、つまりはコンブレーの第一等の市民で、かつここに住んでいない唯一の市民になったことを、知っていたのである。コンブレー伯爵、その名前と人格のうちにコンブレーを所有しており、おそらくはまたコンブレー特有の風変りで敬虔な寂しさを自分のうちに実際に秘めている人物。彼らは町の所有者だが、自分の家は持たず、きっとおもての道の上に、天と地のあいだに住んでいるのだ――あたかも私がカミュの店に塩を買いにゆくときに顔を上げると、サン = ティレールの後陣のステンドグラスに、その黒い漆の裏側だけを見せているあのジルベール・ド・ゲルマントの姿のように。
 (302~303)