2016/7/14, Thu.

 この朝も窓は白い。一一時台になってようやく意識が晴れはじめ、定かに気付いたのが一一時半である。起きあがって洗面所に行き、用を済ませてから瞑想に戻った。陽がないわりに、生温い空気が身体を包みこんだ。一一時三七分から四六分までの静坐を済ませると、居間に上がっていった。先に風呂を洗ってしまい、出ると母親が餃子を焼いていたのでソファに就いて少々待ち、焼けるとワカメの味噌汁や鶏五目ご飯とともに卓に並べた。それで食事を取っているあいだ、向かいの母親が、仕事の募集に応募してみようと思ってと言う。どこで見つけたのか知らないが、近場の、座って電気部品か何かを組み立てるものらしい。何だかこのまま家にずっといて、畑やったり洗濯やったりして、それで一生終わるのかと思うと、虚しくて、と話し、週三日くらいなんだけど、どう思う、と訊いてきたのに、さしたる興味はないので、何でもやってみればいいのではないかと返した。一二時半を越えて皿を洗うと、シャツやエプロンのアイロン掛けを済ませてから自室に帰り、一時過ぎである。蕎麦茶を飲んで汗をかきながら、風邪の引きかけなのか、鼻水がやたらに出る。それでも暑いので、上半身裸を崩さずにこの日の新聞を読んだのだが、一時四〇分頃、突然雷の音が遠くで轟いた。その直後、停滞していた室内の空気がちょっと動いて、湿った涼気が入ってきた。さらに少し経って、川の流れが急に速まったかのような、さらさらとした音が鳴りはじめたので、雨が来たのかと思いきや、そうではなく、まだ先触れの風が草木を揺らしているのみらしい。いつ来るかと気にしながら、Faith Pillow『Live 1981』を前夜の続きから流し、前日の新聞記事を写すべく打鍵した。Faith Pillowが終わると、Fenn O'Berg『Live In Japan Parts One & Two』を掛けた。このような無機質な電子質のサウンドは、パニック障害のピークを逃れてまだそれほど経っていなかった頃は、どういう作用なのか耳にすると不安が湧きあがってきて、発作を誘発するかのようだったので、当然聞くことができなかった。これは中古CD屋で買った音源であり、当然その頃はもうそういうこともなくなっていたはずだが、それでも聞いてみて感銘を受けることもなかったところが、今回耳にしてみると、わりと面白く感じられたので、そろそろ電子音楽にも手を出すための素地が整ったのかもしれない。二時半頃新聞の写しは終えて、歯を磨いたあと、Stevie Wonder『Innervisions』をスピーカーから細く出させて、ベッドに移った。ちょうどその頃、雨が始まった。Gabriel Garcia Marquz, Love in the Time of Choleraを、復習だけに三〇分強使って語彙を確認し、そうして出かけることにした。身体を拭いてきてから服を纏い、Stevie Wonder "Sir Duke" を二回流してから荷物をまとめて上がると、電車にちょうど良い時間だった。傘を持って出発して最寄り駅に向かったが、雨粒が散っているわりに空気はひどく粘ついていた。駅に着くとホームの先に出て、服にいびつな水玉模様を付けながら電車を待ち、乗るとAntonio Sanchez『Live In New York』を聞きはじめた。乗り換えて扉際でしばらく音楽を聞き、降りると図書館である。歩廊を渡って入館し、CD棚の前をじりじり動いて、ジャズに到るのだが、もう借りたい気持ちになるようなものがほとんどない。せいぜい鈴木勲やら山本剛やらの、Three Blind Miceの再発盤くらいである。ロック/ポップスのもちょっと眺めてから階を上がり、窓際の席を取った。便所に行ってきてからコンピューターを立ちあげ、何か更新をしているらしくなかなか画面が変わらないのを待って、書き物に掛かったのが四時四〇分頃だった。BGMは、先のようには書いたものの、やはりFenn O'Bergを外で聞くのは過去の経験から気後れしたので、The Five Corners Quintet『Hot Corner』にした。それで前日の記事を頭から打鍵して一時間、まだ終わらず、ふと右に顔を向けると、窓外の様子が凄いことになっていた。豪風豪雨である。濃緑の街路樹は枝葉を振り乱し、眼下の道路から飛沫が飛び立っていくのが、まるでアスファルトに湯気が立っているようである。空中にも激しい飛沫が、間断なく横に繰り返し走って空間の表面に皺を付けるのが、学校の校庭に起こる砂嵐のようでもあり、あるいは宙空が突如として水面と化して漣しているかのようでもあった。視線を手前に引き取ると、蛙の卵のように丸みを持った水滴がガラスの上を無数に流れ落ちていくのが目に映るのだが、煙る空の白を背景にするとそのゆっくりとした動きが、雨粒というよりは雪のようであり、以前にも同じ光景に同じ印象を抱いて記したことがあるのを思いだした。果てでは水平線まで空が、高みから一繋がりに降りて、建物は影へと霞んでまさしく雪模様の背景、駅舎や歩廊の上を一面に少しくすんだ鉛白色が染めているのは、あたかも季節が一挙に冬へと飛んだかのような様子だった。五時四二分だった。見たものを少しメモしておいてから書き物に帰り、六時二二分に前日の分は終えた。一時間四〇分ほど掛けて、三七〇〇字である。その頃にはJeff Beck『Performing This Week... Live at Ronnie Scott's』が流れており、その後『Blow By Blow』も聞きながらこの日の分を打鍵して、七時一五分である。その頃には雨風は過ぎ去って、例のドームのなかにいるような暗青色で空は満たされていたようだ。残り時間も少ないので、すぐさま『失われた時を求めて』一巻の書き抜きに取りかかった。『Blow By Blow』の次は『Wired』も流して打鍵、七時五〇分頃になると終いとしてコンピューターを片付けた。便所に行って放尿してから館を抜け、歩廊を駅ではなく隣のビルの方へ渡ったのは、卵を買ってきてくれと母親に頼まれていたからである。なかに入って、通路の片側に積まれている灰色の籠を過ぎざまに一つ取り、スーパーに入った。乗り換えにちょうど繋がる電車まで時間が少なかったので、五分程度で買い物を済ませたかった。卵を求めて中央の通路を最奥へと進み、壁際に設けられたコーナーから一パック取って、ほかに特段必要なものも思い付かないのだが、戸棚のカップラーメンが少なかったはずと棚を移り、いくつか籠に入れた。あとはスナック菓子をたまには食うかというわけで、薄くおろして揚げたジャガイモやらチョコレートやらを手もとに加え、レジに行った。会計を済ませて礼を言うと、荷物整理台に移り、菓子類はリュックサックに入れて、ビニール袋のなかには、卵を底に敷いた上に即席麺を置いた。片手にそれを提げて、もう片手は傘で塞ぎながら急いで出口に向かい、濡れた歩廊の上も滑らないように気を付けながら急いでいると、夜空の雲から月が横に流れて姿を現して、それが見事に弓を張った形でふくよかに、真白に光っていた。駅のホームに降りるとちょうど電車がやってきて、乗ると一旦座席に袋を置いてiPodとイヤフォンを用意し、音楽を聞きはじめると扉際に移った。Antonio Sanchez『Live In New York』からディスク二の冒頭、 "It Will Be Better (Once People Get Here)" である。それを聞きながら揺られて、降りると電車が向かいに来ていると思っていたところが、ホームを移動しても線路上は空で、人々が曖昧に列を成すように立っている。遅れているらしく、いつ来るのか不明だったが、テナーサックスソロの途中だったので、駅内放送を聞くのは音楽のあとにしようと人々の後ろに入った。そして右に顔を向けると、すぐ近くに、塾生らしい高校生がいるのだが、目が合ってもこちらを認めるような反応も示さず、かと言って気まずそうな表情をして急いで逸らすでもないので、人違いだろうかと思った。それは置いておき、目を閉じてテナーサックスのソロを追いながら、一、二回目をひらいてみると、先の高校生が、人は皆前方を向いているなかに、身体をこちらの方に向けて何だかまごつくようにしているので、どうもやはり本人らしい。こちらに挨拶したいのではないかと思われたが、音楽を優先することにして瞑目し、そのうちに電車がやってきたらしい気配があったので視界を戻すと、入線してくる姿が見えた。高校生のあとから乗りこんで、扉際を占め、今度はアルトサックスのソロを聞きながらしばらく乗って、最寄り駅である。音楽を聞きながらゆっくりと、人々の一番後方を歩いていき、駅を抜けてもイヤフォンを外さないままに夜道を行った。家の前まで来ると、その時は曲は既に "Did You Get It" に移っていたが、またアルトサックスソロの途中だったので、切りの良いところまで聞いてから入ることにして、郵便箱の前に直立し、既に暗い視界をさらに瞼で閉ざして、Miguel Zenonの飛翔を追った。ベースとドラムの交代交代のソロに入ったところで音楽を止め、階段を上がって玄関をひらいた。居間に入ると買ったものをテーブル上に取りだし、卵は冷蔵庫へ、その他は袋にまとめて戸棚のなかに入れた。それから手を洗って自室に帰っていき、服を脱ぐと記録してある時間からしてすぐに瞑想をしたらしい。八時三八分から四八分まで、ぴったり一〇分間である。そうして上に行き、食事を皿に用意しようと台所に入ったところが、棚の足もとにゴキブリがいた。ゴキブリがいると母親に知らせると、殺してくれと言うのだが、自宅では素足でスリッパも履かないので、武器がないし、相手はすぐさま棚の下の隙間に入りこんでしまった。ゴキブリという虫は、昔は勿論嫌いだったが、近年ではだいぶ図太くなったようで、さすがに素足にたかられるのを想像すると嫌悪が湧くが、床の端のほうをうろついているくらいでは恐れることもない。棚をどかして追い詰めるのも面倒なので、この広い世界にはこちらとお前の存在と、両方とも受け入れるだけの余裕は十分にあるだろうと、『トリストラム・シャンディ』の叔父の心を一旦我が身に召喚し、放っておくことにした。それで素麺やらピーマンと焼豚の炒め物やらをテーブルに用意し、食べはじめた。母親は既に食事を終えているが、ソファの端に自堕落に乗ってテレビを見ている。その視線の先のくだらない番組には目を向けず、スマートフォンの画面をじっと見つめて他人のブログを読みながらものを食べ、皿も洗うと、自分が先に風呂に入ってしまうと母親に断りを入れた。それで、先のゴキブリは洗面所へ続く扉の近くにいたものだから、現れた時のためにと玄関からスリッパを履いて洗面所に行き、武器を用意しておいてから風呂に入った。出てくると、一〇時くらい、ゴキブリは見当たらなかった。蕎麦茶とともに、買ってきたスナック菓子を持って室に帰り、茶を飲みながら食ってのち、一〇時半前から調べ物を始めた。「調査検索」という記事をEvernote内に作り、検索したくなった事柄を日別に箇条書きでまとめてあるのだが、実のところ、そうしておいても項目が溜まるばかりであまり実行しないものだ。この日初めてそれに取り掛かって、六月二八日に作った分を消化することにして、まずホトトギスの鳴き声を調べた。すると、ひと月ほど前には深夜三時になるとよく鳴きだしていたあの声が、夜鷹ではなくてホトトギスのものだったと判明した。動画に収録された鳥の声が、摩擦性の三連符二回でアーチを描くあの声と、まさしく同一だったのだ。あれがホトトギスだったのか、正岡子規の歌を読みながらどんなものか聞いてみたいと思っていたが、既に耳にしていたわけだ、と驚いた。古井由吉の何かの小説には、ホトトギスの声は「てっぺんかけたか」と言われると書いてあったと思うが、どうもそうは聞こえなかった。その後、カナメモチ、真菰、荵草(シノブ)、杜若(ここから派生してアヤメ、花菖蒲、杜若の見分け方)、棗、茱萸、雁のほか、豊干、拾得、寒山天台宗国清寺の伝説的な禅僧たちについて調べて、一一時頃になった。それから書き抜きを始めるはずが、またもやJeff Beckの動画を眺めてしまい、実際に始めたのはもう一一時四〇分にもなったころである。『Jeff Beck's Guitar Shop』を聞きながら、翻訳されたプルーストの文章を写し、文中に出てきたリラ=ライラックや、サンザシを画像検索したのち、一時過ぎに終いとした。そこから二時まで本を読んで就寝のつもりが、しかしこのあと確か引き続きウェブをうろつきまわって二時を迎えてしまい、仕方なく就寝を遅らせることにして、ベッドに移って読書をした。浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』である。布団を身体にかぶせていても侵入してくる外気が肌寒いような、久方ぶりの涼夜に、窓の隙間を細くした。読んでいるうちにやはり瞼が降りるようになったので、二時四〇分頃になると起きあがり、切りの良いところまで読んで終いとして、二時五五分から瞑想を始めた。雨によって増水しているのだろう、川音が普段よりも近いような感じがして、細い隙間から入ってくるその音を聞いたり、この日のことを思いだしたりしているうちに、結構な時間座っていて、目をひらくと三時一七分になっていた。それでアイマスクを付けて消灯、仰向けになって自律訓練法を行ったが、あまりうまくいかず、重感が両腕にやってこない。そのうち横に姿勢を傾けて、その後つつがなく眠りに就いた。



 そのとき一気に、思い出があらわれた。この味、それは昔コンブレーで日曜の朝(それというのも日曜日には、ミサの時間まで外出しなかったからだ)、レオニ叔母の部屋に行っておはようございますを言うと、叔母が紅茶か菩提樹のお茶に浸してさし出してくれたマドレーヌのかけらの味だった。プチット・マドレーヌは、それを眺めるだけで味わってみないうちは、これまで何ひとつ私に思い出させはしなかったのだ。たぶんあれ以来、食べはしないが菓子屋の棚で何度もそれを見かけたので、そのイメージがこれらコンブレーの日々から離れて、もっと新しい別の日(end91)日に結びついてしまったためだろう。たぶんまた、こんなに長いこと記憶の外に棄てて顧みられなかった思い出の場合、何ひとつそこから生きのびるものはなく、すべてが解体してしまったためでもあるだろう。それらの形態は――厳格で信心深いその襞の下の、むっちりと官能的な、あの菓子屋の店頭の小さな貝殻の形も同様だが――消え去るか眠りこむかしてしまい、膨張して意識に到達することを可能にする力を失っていたのだ。けれども、人びとが死に、ものは壊れ、古い過去の何ものも残っていないときに、脆くはあるが強靭な、無形ではあるがもっと執拗で忠実なもの、つまり匂いと味だけが、なお長いあいだ魂のように残っていて、ほかのすべてのものが廃墟と化したその上で、思い浮かべ、待ち受け、期待しているのだ、その匂いと味のほとんど感じられないほどの雫の上に、たわむことなく支えているのだ、あの巨大な思い出の建物を。
 そして、これが叔母のくれた菩提樹のお茶に浸したマドレーヌのかけらの味であることに気づくやいなや(なぜこの思い出が私をこんなに喜ばせたのかはまだ分からず、そのわけを見つけるのはずっと後のことにしなければならなかったとはいえ)、たちまち叔母の部屋のある、道路に面した古い灰色の家が、芝居の書割のようにやってきて、その背後に庭に面して両親のために建てられた別棟に、ぴたりと合わさった(それまで私が思い浮かべていたのは、ただほかと切り離されたこの別棟の一角だけだった)。またその家といっしょに町があらわれた、朝から晩まで、いろいろな天気の下で見る町。昼食前にお使いにやらされた広場が、買物をしにいった通りが、天気のよい日に通った道が、あらわれた。そして、ちょうど日本人の玩具で、水を満たした瀬戸(end92)物の茶碗に小さな紙きれを浸すと、それまで区別のつかなかったその紙が、ちょっと水につけられただけでたちまち伸び広がり、ねじれ、色がつき、それぞれ形が異なって、はっきり花や家や人間だと分かるものになってゆくものがあるように、今や家の庭にあるすべての花、スワン氏の庭園の花、ヴィヴォンヌ川の睡蓮、善良な村人たちとそのささやかな住居[すまい]、教会、全コンブレーとその周辺、これらすべてががっしりと形をなし、町も庭も、私の一杯のお茶からとび出してきたのだ。
 (マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家の方へⅠ』集英社、一九九六年、91~93)

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 (……)叔母はもう実のところ、ふた間つづきの部屋だけで暮らしており、午後になって一方の部屋に風を通しているときには、もう一つの部屋にじっとしていた。この二つの部屋は――地方によっては目に見えない無数の微生物のために空気や海がどこもかしこもきらきらと輝いたり、匂いを帯びたりすることがあるが、それと同じく――田舎によくあるように、美徳、叡知、習慣などが、つまり宙に浮かんだひそかな目に見えぬ生活、あり余るほどの道徳的な生活の全体が、そこに数限りない匂いを発散し、その匂いで私たちをうっとりさせる、といった部屋だった。それはなるほどまだ自然の匂いであり、近くの田園の匂いのように、その時々の色を帯びたものだが、しかしもうすっかり家のなかに閉じこもって、人間くささがしみつき、むっとこもったような匂いになっている。いわば果樹園を離れて戸棚にしまわれるその年の(end95)すべての果物のゼリー、上手においしく作られた透明なゼリーと化した匂いである。季節特有の、だがまた家具や召使いとして居すわってしまった匂い、突き刺すような真っ白い霜の痛さを焼きたてのパンでやさしく和らげる匂い、村の大時計のように悠々として几帳面な、怠け者のようで堅実な、無頓着でいて用心のいい匂い、洗濯係のように糊のきいた、早起きの、信心深い匂い、その匂いが喜ぶ平和な生活は不安の増大しかもたらさず、またそれが喜ぶ散文的な日常も、実はそうした部屋で暮らした経験もなしにここを通りすぎてゆく者にとっては詩[ポエジー]の巨大な貯水槽であるような――そういった匂い。栄養に富む滋味豊かな沈黙の名花で、この部屋の空気は飽和していたから、私はかならず盛んな食欲を感じながら部屋のなかに進み出るのであったけれども、とりわけ復活祭の週の最初のいく日か、まだひやりとする朝のうちはひとしおで、そんなとき私は、やっとコンブレーに着いたばかりなので、部屋の空気をいっそうよく味わえるのであった。叔母におはようございますの挨拶をしに部屋へはいる前に、私はしばらく第一の部屋で待たされる。そこではまだ冬の弱い陽ざしが暖炉の前で身を暖めに来ており、煉瓦で左右を囲まれたその暖炉にはすでに火が燃えていて、部屋中に煤の匂いをぬりこめ、部屋を、田舎の竈の前の大きな「土間」か、お城のマントルピースのように見せていた――そういう場所に閉じこもる人は、室内の快さに冬ごもりの詩情を加えるために、外が雨か雪になることを、いや大洪水の災禍さえもがあらわれることを願っているのだ。私は祈禱台から、模様の浮き出たビロードの肘掛椅子まで、数歩進むのだったが、椅子の頭のあたるところには、いつも手編みのカヴァーがかかっていた。火(end96)はまるでパイか何かを焼くように、食欲をそそる匂いを発している。部屋の空気をすっかり凝り固まらせているその匂い、まだ濡れて朝の太陽を浴びている新鮮な空気によって、もうねりあげられ「ふくらまされていた」その匂い、火はその匂いをリーフパイに焼きあげ、卵の黄身を塗り、溝をつけてふくらませ、こうして目には見えないが感じることのできる田舎ふうの菓子、大きな「ショーソン」を作り上げる。そのような匂いのなかで、作りつけの戸棚や、簞笥や、枝葉模様の壁紙やの発する、もっと歯ごたえがあってしかも繊細な、もっと名は通っているがしかしさっぱりした香りを、わずかなりとも味わうと、私はいつもひそかに強烈な欲望を覚えながら引き返して、花模様のついたベッドカヴァーの放つ中間的な匂い、ねとねとした、味のぬけた、消化の悪い、果物の青くささを残した匂いに、べっとりと包まれに行くのであった。
 (95~97)

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 (……)叔母はごく小さな声でしか口をきかなかったが、それは、頭のなかに何か壊れてふわふわしているものがあって、あまり大きな声を出すとそれが動いてしまうと信じていたからである。(……)
 (97)

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 ミサを終えてからテオドールの店にはいり、いつもより大きなブリオシュを持ってきてください、いい天気なので、親戚の者がティベルジから昼食に来たのでね、と頼むときには、鐘塔は目の前にそびえ立ち、自分自身が祓い清められた大きなブリオシュさながらに黄金色に焼けて、う(end121)ろこのように光る陽光、ゴムのようにしたたる陽光を浴びながら、青空をその鋭い先端で突きさしているのだった。また夕方、散歩から帰る私が、まもなく母におやすみを言わねばならず、明日まで母に会えなくなる瞬間が来るのだと思っていると、鐘塔はこの一日の終わりに、逆にとてもやわらかくなり、褐色のビロードのクッションを色の薄れた空の上にそっとおいて、それを空のなかに押しこんだように見え、空はその力に負けて、軽くへこんで場所を譲るが、それからふたたび鐘塔の縁にもり上がってくるのだった。塔の周囲を旋回する鳥の鳴き声は、むしろ塔の沈黙をまし、いっそう尖塔を空に引きのばし、なにか言うに言われぬものを塔に与えているように見えた。
 (121~122)

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 パドヴァのこうした<美徳>と<悪徳>は、それ自身のうちに多くの現実性を備えているにちがいなかった。なぜなら、それらは例の妊娠した女中と同じに生きているように見えたし、その女中自身もこれとたいして変わらないほど寓意的なものに思えたくらいだから。そしておそらくこのように、ある存在の魂が、その存在を通して働きかける美徳と無関係である(少なくとも一見そう見える)という事実は、そのものの美的価値以外に一つの現実を、心理的現実とは言えなくとも少なくともいわゆる人相学的な現実を備えているのだろう。後に私の人生行路において、たとえば僧院などで、文字どおり神々しい活動的な隣人愛の化身に出会う機会があったとき、そのような人たちはたいていの場合いそがしい外科医のように、陽気で、積極的で、無頓着で、荒っぽい様子をしており、人間の苦しみを目のあたりにしてもなんの憐れみや同情も浮かべず、その苦しみにぶつかることを少しも怖れない顔をしていたが、これこそ真の善意というものが備えている優しさのない顔、共感を呼びはしないが崇高な顔なのである。
 下働きの女中は――ちょうど<誤謬>が対照的に<真実>の勝利をいっそう輝かしいものにするように、知らず知らずフランソワーズの引き立て役を果たしながら――ただのお湯にすぎないとママンが酷評するコーヒーを淹れ、それから私たちの部屋に、ぬるま湯ともいえないくらいのお湯を持ってくるのだが、そのあいだに私は本を手にして自分の部屋のベッドに横になっているのだった。その部屋は、鎧戸の向こう側の午後の太陽から、今にも崩れそうな部屋の内側の透明(end152)な涼しさを震えながら守りつづけている。ほとんど閉ざされたその鎧戸の隙間から、それでもひと筋の陽の光の反映がどうにかこうにかその黄色い翅を滑りこませ、鎧戸の桟とガラス戸のあいだの隅の方に、まるでチョウがとまっているように、じっとしているのだった。部屋はようやく本の読めるくらいの明るさで、外の輝かしい光の感覚は、ラ・キュール街でカミュが(叔母は「休んでいない」から音をたてても大丈夫だ、とフランソワーズに言われて)埃をかぶった箱を叩く音で伝えられてくるばかりだが、それは暑いときに特有のよく通る空気のなかに響きわたって、遠くの方にまで真っ赤な星をはね飛ばしているように思えるのだった。そればかりではない、光の感覚はまるで夏の室内楽のように、ハエどもが目の前で奏でるちょっとした音楽会によっても与えられる。人間の音楽にも、たまたま美しい季節に耳にしたために、次に聴くときこの季節を思い出させる旋律があるが、ハエの音楽はそのような仕方で光の感覚を喚起するのではない。もっと必然的な絆で夏と一体になっているのだ。よく晴れた日々に生まれ、そのような日々とともにでなければ蘇生することのない音楽、そのような日々の本質をいくぶんか内に潜めているこの音楽は、ただ単に私たちの記憶のなかに夏の晴れた日々のイメージを呼びさますだけではない、その日々がたち戻ってきたこと、それが実際に目の前にあり、私たちをとりまき、直接近づけるものになっていることを保証しているのである。
 (152~153)

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 本を読んでいるあいだ中、内部から外部へ、真理の発見へ、と不断の運動を行なっているこの中心的な信頼につづいて、次にくるのは、自分もそこに参加している筋の運びが与える感動であった。というのも、このような読書の午後は、しばしば人の一生より多くの劇的な事件に満ちていたからだ。それは読んでいる本のなかにあらわれる事件だった。なるほどその事件にかかわる(end155)人びとは、フランソワーズの言うように、「本物」の人間ではなかった。しかし、本物の人間の喜びや不幸が味わわせる感情も、そうした喜びないしは不幸のイメージを通してでなければ、私たちの心のなかに形成されることはないのである。最初に小説を書いた人の見事なところは、人間の情動の装置においてイメージが唯一の本質的な要素である以上、本物の人物をきれいさっぱり消し去ってしまうという単純化こそが決定的な完成となることを理解していた点にある。一人の現実の人間は、どんなに私たちがその人と共感しようとも、その多くの部分は感覚で知覚したものであり、つまりこちらには不透明なままで、私たちの感受性には持ち上げることのできないような重さを提供している。不幸がこの人を襲ったとしても、そのことで私たちが心を動かし得るのは、彼について持っている全体的な概念のほんの小部分においてにすぎないであろう。そればかりか、彼自身も自分の不幸を悲しみ得るのは、自分にかんする全体的な概念のほんの小さな部分においてにすぎないのだ。小説家の発見は、心のはいりこみ得ないこのような部分を、同じくらいの量の非物質的部分、つまり心が同化し得るものに置きかえてしまおうと考えついたことであった。こうなれば、この新たな種類の架空の人間たちによる行動や心の動きが真実のように思われようと、なんらかまうことはない。私たちはその行動や心の動きを自分のものにしてしまったのだし、また私たちが熱っぽく本のページをめくっているときも、作中人物の行動や気持が作り出されるのは私たちの心のうちにおいてであり、それに操られて私たちは思わず息をはずませ、目を輝かせているのだから。そして、純粋に内的な状態では、どんな感動もかならず十倍に(end156)拡大されるものだし、小説がまるで夢のように、それも睡眠中に見る夢よりもはっきりしている夢、その思い出が長つづきする夢、とでもいったような形で、私たちの心をかき乱すものだが、こういった状態にひとたび小説家によって投げこまれると、そのときたちまち私たちの心には、せいぜい一時間かそこらのうちにありとあらゆる可能な幸福、可能な不幸が解き放たれるのである。これが実生活だったら、幾年もかけてその幸福や不幸のいくつかのものをやっと知るくらいであろうし、その最も強烈ないくつかは、それがゆっくりと起こるために知覚できず、その結果私たちにはどうしても知り得ないものになったであろう(こんなふうに私たちの心は実生活では変化する。そしてこのことこそ最大の苦痛なのだ。ところがその苦痛を私たちはただ読書を通して、想像のなかで知るばかりである。現実では、自然のある種の現象の起こり方のように、心は徐々に変化してゆくものなので、たとえそのさまざまな状態は次々と認めることができるとしても、これとは逆に、変化の感覚それ自体は与えられないのである)。
 (155~157)

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 何かの本を読んでいるときに、その本に描かれている地方を訪れることを、もし両親が許可してくれたなら、私は真実の獲得に計り知れない一歩を踏みだしたと思ったにちがいない。という(end158)のも、たとえ人がたえず自分の心にとり囲まれているような感覚を持つにしても、それはびくともしない牢獄の壁にとり囲まれているといった性質のものではないからだ。むしろ自分のまわりにいつも同一の響きを、つまり外部の音の木霊[こだま]ではなくて内部で顫えているものの反響を聞きながら、一種の失望を抱きつつ、心の枠をこえて外部に到達するための不断の跳躍によって、いわば心ごと人は持ち運ばれてゆくのである。心の投げかけた光のために、貴重になった物があり、人はそうした光の反映を、その物のなかにふたたび発見しようと試みる。だが物は、思考のなかでこそある種の観念と隣りあっていたために魅力を備えていたが、自然のなかではそのような魅力を奪われているように見えるので、それに気づいた人はがっかりしてしまう。ときにはこの心のすべての力を、巧妙さ、華麗さに転化させて、人びとに働きかけようとすることもあり、しかも私たちは、その人びとが自分の外部に位置づけられていること、彼らには絶対に到達できぬことを、はっきり感じているのだ。だから、愛している女のまわりに、いつもそのとき最も行ってみたい土地を思い描くのも、私をその土地に案内して未知の世界の入口を開けてくれるのが彼女であればと願うのも、単なる連想の偶然のせいのみではないのだった。それどころか、旅と恋にかんする私の夢は――七色の虹に彩られた一見不動の噴水をあたかも異なった高さで区切るように、今日では人工的にそれを区別しているのだが――実は私の全生命力がいっせいに断固としてほとばしり出るさいの、いくつかの契機にすぎないのであった。
 最後に、意識の内部に同時に並んでいる状態を内から外へとたどってゆきながら、しかもそれ(end159)らの状態をとりまく現実の地平線にまで到達する以前に、私はまったく別種の楽しみを見出すのである。それはゆったりと腰を下ろして、いっさい客の来訪にわずらわされずに、戸外の空気のよい香りをかぐ楽しみであり、またサン = ティレールの鐘塔で時を告げる鐘が鳴りわたるときには、すでに消費された午後の断片がひときれずつ空から降ってくるのを見る楽しみだった。最後の鐘が鳴り終わると、やっと全体で何時だったか分かるのであったが、そのあとに来る長い静寂は、読書のためにまだ私に残されている午後のすべての時を、青空のなかに開始させるように見え、それは、フランソワーズの準備しているおいしい夕食、本を読みながら主人公のあとを追いかけまわしてへとへとになった私に活気を与えてくれるこの夕食のときまで、つづくのである。また、時を告げる鐘が鳴るたびに、私には、前の時刻の鐘が鳴ってからまだいくらもたっていないような気がするのであった。いま鳴った時刻は、これに先立つ時刻のすぐ傍らで空に記され、この二つの金の印にはさまれた小さな青い弧のなかに六十分が含まれ得るとは、どうしても考えられないからだ。ときおりこの早熟な時刻は、その前の時刻より二つも多く鐘を響かせることがある。つまり私には聞こえなかった時刻があったのだ。実際に起こった何かが、私にとっては起こらなかったのである。深い眠りのように魔術的な読書の興味が、幻覚にとりつかれた私の耳をごまかし、静寂の空の青い表面から金色の鐘を消し去ってしまったのだ。コンブレーの庭のマロニエの木陰で過ごした日曜日の晴れた午後たちよ、私は自分の個人的生活のなかにある平凡な出来事をお前たちから念入りに除き去り、これにかえて、清流に潤された地方で起こる奇妙な冒険(end160)と異様な憧れの生活でお前たちを満たしたが、今でも私がお前たちのことを思い浮かべるたびに、お前たちはそうした生活を呼びおこしてくれるし、また事実お前たちは、その生活を自分の内に維持しつづけている。それというのも――私が本を読みすすめ、また日中の暑さが退いてゆくあいだに――お前たちは少しずつあの生活をとり囲み、しんとした、音のよく通る、香り高く澄んだお前たちの時間が、葉の茂みを通してゆっくり変化しながら次々と作り出す結晶のなかに、それを閉じこめてきたからなのだ。
 (158~161)

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 「おや、ブロックくん、いったい外はどんな天気なんです? 雨でも降ったんですか? さっぱり分からないなあ、晴雨計は上々なのに」
 ところが父の引き出したのはこういう答えだけだった。
 「雨が降ったかどうかは、まったく申し上げられませんね。ぼくは断然、形而下的偶然事の枠外で生きる覚悟を決めましたので、感覚もそんな偶発事をぼくに知らせる労をとろうとしないのです」
 (中略、end168)
 「ぼくは大気の乱れにも、時間の因習的な分割にも、絶対に影響されないようにしているんです。阿片のパイプやマレーの短剣[クリス]などの使用ならば大喜びで復活させるところですが、これよりはるかに危険で、そのうえ俗悪なブルジョワ的用具、つまり時計だの傘だのの使用は、ぼくのあずかり知らぬところです」
 (168~169)

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 このお産のように、ごくたまにしか起こらない出来事を除けば、叔母の毎日のこまごましたことになんの変りもなかったが、そうは言っても私のふれなかった変化もあって、それは常に同じ形で一定の間隔をおいて繰り返されるので、この単調さのなかにいわば二次的な単調さを導入するにすぎないようなものだった。たとえば土曜日ごとに、フランソワーズが午後ルーサンヴィル = ル = パンの市場に行くので、みなは昼食を一時間早く食べることになっていた。そして叔母は、自分の習慣が毎週一回かならず乱されるという習慣をすっかり身につけてしまったので、ほかの習慣と同様にこれも大切にしていたのである。フランソワーズの言葉を使えば叔母はすっかりこれに「慣れっこになって」いたので、かりにいつか土曜日にほかの日の昼食時間まで待たね(end199)ばならなかったとすると、別の日の昼食を土曜なみに一時間くり上げるのと同様に、叔母は「迷惑した」ことだろう。それにこの早めの昼食のために、土曜は家中の者にとっても何か特別で、気前のよい、かなり感じのいいものになっていたのだ。ふだんなら食事のくつろぎまでにまだ一時間も過ごさなければならないときに、はしりのアンディーヴや、特製オムレツや、昼食には分不相応のステーキなどがすぐにも運ばれてくると分かっていたのである。均整をかき乱すこの土曜日がやってくることは、内部的で地方的な事件、いやほとんど全市民のものともいえる小事件の一つで、それはおだやかな生活や閉ざされた社会のなかに、一種の国民的なつながりを作り上げ、会話や冗談や勝手に誇張された話などに、好んで引かれる題材となるのである。もし家のだれかが叙事詩的な頭を持っていたら、これはそのままで、一連の伝説の核にもなったことだろう。朝まだ着替えもしないうちに、さしたる理由もなく、連帯の力を感じる嬉しさのために、家の者は上機嫌で、心の底から愛国の気持にかられて、たがいにこう言いあうのだった、「ぐずぐずしてはいられませんよ。土曜日だってことを忘れないようにしようね」 一方叔母はフランソワーズと相談しながら、その日はいつもより日が長く感じられることになると考えてこう言うのだった、「みなさんに犢[こうし]をたっぷりご馳走してあげたら? 土曜日なんですから」 もしも十時半に、だれかがうっかり懐中時計をとり出し、「さあ、お昼ご飯までまだ一時間半あるぞ」と言うと、だれもが大喜びで言うのだった、「なんだって? いったい何をぼやぼやしているんです? 今日は土曜じゃありませんか!」 十五分ほどたってもみなはまだそのことを笑っており、是非ともこの(end200)物忘れを叔母に話して面白がらせようと思うのであった。空の顔つきまで変わっているように見えた。昼食のあと、その日が土曜であるのを知っている太陽は、一時間も余計に空の高みをぶらつき、また散歩の時間におくれてしまったと思っただれかが、サン = ティレールの鐘塔から発する二つの響きが空中を過ぎるのを聞いて(ふだんならまだこの時刻には、昼の食事か昼寝のために川沿いの道には人気[ひとけ]もなく、流れの早い白く輝く川も釣り人からさえ見はなされているので、その鐘の音も、だれにも出会うことなく、怠惰な雲だけがいくつか残っているからっぽの空を、ひとりで過ぎてゆくのであるが)、「おや、まだ二時か?」と言うと、みなが声を揃えて答えるのだった、「そんなふうにまちがえるのはね、一時間早くお昼を食べたからですよ。ほら、今日は土曜日だもの!」 父と話をするために十一時にやってきて、家の者がみな食卓についているのを見てびっくりする野蛮人(家の者は、土曜日が特別なのを知らないすべての人をこう呼んでいた)、その野蛮人の驚きようは、フランソワーズの生涯で、彼女に一番楽しい思いをさせたものの一つであった。なるほど彼女は、土曜日に早めの昼食をするのを知らなかった訪問客がきょとんとしているのを見てひどく面白がったが、しかし彼女がもっと滑稽だと思ったのは(父の狭い愛国人に心の底から共鳴してはいるのだけれども)父が、野蛮人はそういうことを知らないかもしれないなどと思いもせずに、みながもう食堂にいるのを見てびっくりした相手に、ほかになんの説明も加えずにこう答えることだった、「だって、今日は土曜日じゃありませんか!」 話がこの辺までくると、彼女はすっかり笑いころげて涙を拭き、それから彼女の感じる喜びをいっそう(end201)増大させるために、言葉のやりとりを長びかせ、この「土曜日」の意味がさっぱり解せない訪問者がどんな答えをしたかまででっち上げる。みなもそんなつけ足しを不満に思うどころか、それだけではまだ足りずにこう言うのだった、「でも、まだほかのことも言ってたみたいだよ。その話を最初にしてくれたときは、もっと長かったからね」 大叔母でさえその手仕事をやめて、鼻眼鏡ごしに眺めていた。
 (199~202)

     *

 私たちは柵の前でしばし足をとめた。リラの季節は終わりに近づいていた。何本かのリラはいまだに、薄紫[モーヴ]色の背の高いシャンデリアの形をした微妙な花の水泡[みなわ]を吹きだしていたが、葉の茂みの多くの部分では、ほんの一週間前には香り高い泡沫が波しぶきを上げていたのに、今はそれもあらかたつぶれてひからび、香りも失せたひとつまみの泡が小さく黒ずんでしなびているばかりだった。(……)
 (242)

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 (……)その小径には、サンザシの匂いがさかんに立ちこめていた。生垣は並んだ小祭壇にも似たものを形成しており、それは、仮祭壇の形に積み重ねらればらまかれたサンザシの花の下に見えなくなっている。その下では太陽が、まるでステンドグラスを通ってきたように、地上に光の碁盤縞を置いていた。サンザシの香りは、まるで私が聖母の祭壇の前にいるように、ねばっこく、限られた範囲にひろがっている。花も装いをこらし、一つひとつが放心した様子で、きらきらした雄蕊の束を支えているのだったが、その雄蕊はフランボワイヤン式の細かい放射状の模様を形作り、あたかも教会の内陣桟敷の欄干やステンドグラスの仕切りなどの透かし細工が、苺の花の白い肌となって花開いたかのようだった。これと比較すると、何週間かたったのちに、少しでも風が吹けばはだけて崩れる赤い無地の絹のブラウスを着て、太陽をいっぱいに浴びながら、これまた同じこの田舎道を登ってゆくあの野バラの花は、どんなにか素朴で田舎娘らしいことだろう!
 (245)

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 この年、両親は例年よりいくぶん早目にパリに帰ることに決めてしまったが、いざ出発するとなったその日の朝、写真をとるために髪の毛を縮らされ、一度もかぶったことのない帽子を慎重にかぶらされ、ビロードのキルティングのコートを着せられた私のことを、母はあちこちと探し(end258)まわった末に、タンソンヴィルにつづく小さな坂で涙でくしゃくしゃになっているところを見つけた。私は刺のある枝を腕にかき抱いてサンザシに別れを告げている最中で、また――役にも立たない身の飾りが心にのしかかるあの悲劇の女王のように、一面にカールの結び目をこしらえた髪を苦心して額の上に集めようとしたしつこい手に対する恩を忘れて――リボン・カールの紙をひきぬき、新しい帽子とともに足でふみつけていたのだった。母は私の涙を見ても心を動かさなかったが、帽子がつぶされ、コートも台無しになっているのを見て、思わず叫び声をあげた。私にはその声も耳に入らなかった。「可哀そうに、ぼくの小さなサンザシたち」と私は泣きながらつぶやいていた、「お前たちじゃない、ぼくを苦しめたり、ぼくのことをここから発たせようとしているのは。お前たちはただの一度もぼくに苦痛を与えはしなかった! だから、ぼくはいつまでもお前たちのことを愛しつづけるだろう」 そして涙をぬぐいながら、私はサンザシに約束した、大きくなっても、ほかの大人たちのばかげた暮らしぶりなどけっして真似しない、パリにいても、春になったら、知人を訪ねてくだらない話に耳を傾けるのではなく、最初に花開いたサンザシを見に田園に出かけてゆくだろう、と。
 (258~259)