2016/7/25, Mon.

 目覚まし時計のアラームで、五時半に覚めた。けたたましい音を止めると一旦布団に戻り、ごろごろとして六時を迎えた頃にまた起きた。洗面所に行ってきてから瞑想、六時一〇分から二一分までである。それから上がっていき、多分一番先に風呂を洗ったと思う。食事は前夜の、トマトソースを絡めたジャガイモやらが残っていたのではないか。食後に室に帰って、新聞を読みたいところだがもうあまり時間がなかったので、蕎麦茶を飲みつつ浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』を追った。七時四〇分になると歯磨きをし、服を着替えてから再度の瞑想、七時五〇分から五四分まで短く済ませて、階を上がった。そして何も持たずに出発、理性的居に考えれば職場で書き物を済ませてから帰ってきたほうがいいのだろうが、そういう気分が湧かず、帰宅後に自室で書くつもりでいた。行きの道中はよく覚えていない。職場に着くと八時四〇分、働きはじめて、午後一時に退勤した。裏通りを歩いていると前から蟬が飛んできて、こちらのネクタイの横、灰色のワイシャツの胸にぴたりと止まった。褐色の翅である。見下ろして、横から指で弾いてやると、ぎぎ、と一瞬声を立てて離れ、近くの草むらに降り立って行った。蟬の音に耳を向けながら進んでいると、作業着姿の男たちが何やら数人集まっている集合住宅のほうから、電動髭剃りのような低い鳴き声が立っている。じりじりと低音の連打を響かせながら時折り、じゃっ、じゃっ、と少々飛躍して高い音を挟むのが、ヘヴィメタルを演奏するギターがミュートした一六分音符でルート音を刻み続けながら、コードを諸所に差しこむのとほとんど同じ様である。その後鳴き声はさらに高まって、拡散的な叫びに変わった。表に出て、残りの道を辿って帰宅すると、一時半だった。自室に帰ると窓外で、先ほどと同じ種の蟬がまたヘヴィメタルを演奏している。低いところからだんだんと立ちあがってのち、ちょうどギターの六弦すべてを搔き鳴らすような、倍音混じりの声を響かせて、一旦収まってからまた高揚して二度目を終えると木を離れて飛んでいった。それからコンピューターで検索してアブラゼミの鳴き声を聞くと、まさしく今のものと同じ鳴き方である。クマゼミは主に関西以西に分布しているらしく、最近では関東以北でも見掛けられる場所もあるらしいが、どうやらおそらくこのあたりにはいないらしい。今まで耳にしてきた珍しげな鳴き声は多分どれもアブラゼミかミンミンゼミの声のバリエーションだったのだろう。ハーフパンツに着替えると上がっていき、カレーを食った。食事中に、祝儀用の金を下ろしてきたがすべて折り目がついていたと母親に言うと、あるかなとごそごそ付近を探って万札を取りだした。折り目はないとはいえ、あまりぴしりとしておらず、やや使用感のあるものだが、まあ良かろうと受け取り、もう祝儀の支度をしてしまうことにした。自宅に余っていたらしいものを背後の棚から取り、ひらいて、中袋に金を収めた。福沢諭吉の顔が見えるようにし、なおかつ上向きにするのがマナーだと言う。畳み方も下側が上になるように重ねるのがいいらしい、というのはそうすれば折り返しの方向がこれも上向きになるからだ。中袋の背後、折り襞で隠された内側には金額と住所を横に書きこむと言う。縦書きのほうが好みだし見栄えが良かろうと思うのだが、母親は葬儀用の袋を取ってきてこんな感じと見せるので、まあ一応従うかと横書きで、金額はアラビア数字で記入したところが、のちに調べたところによるとやはり縦書きで漢数字にするのが正式らしい。そして「寿」と記された短冊からテープを剝がして接着面を露出させ、外袋の表側に貼り付けた。堂々とした字で書けと母親が言うのだが、昔から筆跡が自らの身に相応して薄く細く、今まで堂々とした字など書いたことがない。筆ペンを取って、なかに入っていた型紙の上に何度か練習してから、短冊の下部に名前を記した。中袋のほうにも「御祝」と書かれた短冊を貼り付け、こちらのほうにも名を書くのかと訊くのだが、母親もそのあたり判然としない。二つの袋が分かれても贈り主のわかるほうが良かろうと考えて、そちらにも名を記しておき、袋を一緒にして金と赤の色の水引きを掛けて完成である。当日荷物はなるべく持たずに軽い身で行くつもりなので、何か袋はないかと母親に訊くと、色々と持ちだしてきたのだがどれもあまり見栄えが良くない。結局近くにあったティッシュ箱を包んでいた小さめの、地味な緑色の風呂敷のような布を母親はほどいて、それに包んでくれた。支度が済むと三時、眠気が湧いていたのでテーブル上に突っ伏し、数分まどろんだ。母親は買い物に出かけると言う。こちらは自室に戻ってベッドに入り、昼寝をすることにした。すぐに意識を落として、一、二時間程度で覚めるつもりが、結局七時までずっと眠り続けて、意識が定かになった頃にはもう室内が宵に満たされていた。さまざまな夢を見たなかに一つ、入れ子構造になったもの、つまり夢のなかで夢から覚めて今しがた見ていた夢のことを記録しようと思い返しているという時間があったはずなのだが、その面白そうな体験がよく思いだせず、残念に思った。生きている祖父の姿を見た夢に関しては、僅かに断片を記憶していた。自宅の居間らしい場所で祖母とともに並んでいるのだが、こちらが祖父はもう死んだのだったということに気付くと、途端に夢の均衡が崩れて祖父はどこかに去ろうとする、それを追いかけるようなものだったはずだ。ベッドから抜けだして一度上に行き、顔を洗ったり水を飲んだりしてから戻ってきて、部屋に明かりを灯すと七時二三分だった。腹は減っていなかったし、書き物をせねばなるまいというわけでコンピューターに向かって、Joe Henderson『At The Lighthouse』『In Concert』と流して前日の記事に頭から取り組んだ。ひとまず九時まで書いて、それから腕立て伏せをして、食事より先に入浴に行った。出るとカレーを食べ、あいだに母親が風呂に行って父親が帰ってきた。食器を片付けて室に帰ると一〇時、インターネットを回ってのち一〇時半からふたたび書き物を始めた。音楽はJoe Henry『Scar』を掛けて続け、一一時一〇分に終えた前日の記事は六六六七字である。この日の分はメモを取っておき翌日に回すことにして、歯磨きをしながら夏の花を検索した。裏通りの途中の民家に生えているのだが、藤の花を逆さにしたように小さな花が縦に連なっているものは、おそらくブルーサルビアというやつらしい。同じく裏通りの途中にオレンジ色の、やや毒々しいような斑点が付いた花がある。これは自室のすぐ外にも生えているのが窓から見下ろせて、よく黒いアゲハチョウがその周りを飛んで、旺盛に花にたかっているのだが、その花はどうも百合らしい。百合と言えば白く楚々としたものを思うのでそうだと気付かなかったのだが、出てきたサイトにちょうどオレンジ色のものが載っていてわかったのだ。花弁はくるりと捲れあがっており、その内側から蕊が何本か、昆虫の触角か口吻かのように伸びていて、全体としては海棲生物めいた異種なものを感じさせるのが、彼岸花の姿と同質である。それから正岡子規日清戦争の従軍記者として訪れた金州を検索すると、現在は大連市内の一区画であり、区内に正岡子規の、「行く春の酒をたまはる陣屋哉」と記された句碑があるらしい。さらに鶏頭の画像を検索して色々と閲覧したのち、口をゆすいできてブログに記事を投稿、一一時四〇分である。コンピューターを眠らせ、新聞を読んで新たな日付を迎えたのち、英語を数ページ復習してから『ベンヤミン・コレクション1』を読んだ。二時過ぎまで触れて、「写真小史」を終えたところでコンピューターを起こし、ポルノを視聴して射精をした。ちょっと休んでから洗面所で股間を洗い、眠ることにして瞑想、二時三八分から五二分まで座ってから就寝した。