2016/7/24, Sun.

 起床は正午前になった。連日の午前四時までの夜更かしのために身体はやはり硬く、しばらくごろごろとして少しほぐしてから布団を抜けた。洗面所に行ってきたのち、朝の瞑想は一一時五九分から一二時一二分までである。上階に行くとまず風呂を洗い、それから炒め物か何かを皿に用意し、席に就いた。食事を取って室に帰ると、一時頃だったろうか。Joe Albany『Pasadena Session』を流し、前日の新聞記事を写したあとこの日のものも読んだ。家を発ったのは三時過ぎだったのだが、音楽の再生履歴は一時五一分で停まっている。そのあいだ何をしていたのか、新聞を読むのにそれほどの時間が掛かったのか、それとも何かほかのことをしていたのか、記憶が抜け落ちている。そろそろ出ようと準備を始める前に、腕立て伏せ、腹筋運動、スクワットと少々身体を動かしはした。それから多分制汗剤ペーパーで身体を拭きに行き、戻ってくると薄ピンク色のシャツを羽織り、灰色のチェック模様のズボンを履いた。居間に上がっていくとちょうど三時頃だった。出かけることは決まっていたが、どこに出かけるかという点については迷っていた。一つには勿論、書き物をせねばならず、一つには切らしている蕎麦茶を買いたい。もう一つには、友人との会合で課題図書となっているゼーバルト『目眩まし』を入手したい気持ちがあった。同書は図書館にも収蔵されており、通常ならばそれを利用するはずだが、現在貸出中で、いつ返却されるのかがわからない。加えて、書架をうろついているなかで『目眩まし』を見かけた記憶はないので、返却されたとしても書庫入りの状態に置かれるのではないかという疑いがあった。そうなるとリクエストをする必要があるが、それだったら手もとに買っておいて、今読んでいる『ベンヤミン・コレクション1』が読了されたら即座に読みだすほうがいいかと考え、ひとまず入手するだけはすると確定させた。目当ての蕎麦茶を売っているスーパーは地元の図書館の駅から歩く。それで、先に蕎麦茶を買うか、それともハンバーガーショップで書き物を済ませてから買いに行き、その後立川にも繰りだすか、あるいはその逆で先に立川に行ってきてから書き物をするかとソファに就いて迷っているあいだ、窓外では二、三時間ほど気の早いヒグラシの声が、林の縁から驚くほど鮮やかに飛びだしていた。結局――今から考えると何よりも書き物を優先すべきだったと思われるのだが――まず立川に出ることに決め、三時を幾分過ぎたところで家を出た。家の南に下っていくと、父親は畑で立ち働いており、母親は植木鉢のあいだに座りこんで草をいじっている。出かけると告げて道路に戻り、歩きだした。曇りのわりに空気がやや熱っぽいようで、汗が湧く。腕まくりをしながら街道まで行き、さらに裏通りに入って歩いていると、家々の向こうの林からもヒグラシの音が、まだ早い時間だがしきりに棚引いた。途中で腕時計を見ると三時半、その直後に薄陽が出て足もとに自分の影が映しだされ、服の内が粘りはじめた。駅まで行くと電車に乗って、浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』の読書である。音楽で耳を塞がない状態で電車内で本を読むのは久しぶりのこと、車両の端で男児がうろうろしたり、身体を軽快に動かして父親とやりとりしたりしており、その声が届いてくるが、それで苛立つほど余裕のない精神でもない。途中で見やると、子どもは父親の腕に抱えられて車掌室を通して見える線路の先の景色を楽しんでいるようだった。立川に着くと、便所に寄ってから改札を抜けた。広場のほうに歩いていくと、植えこみのなか、若者たちが腰を掛けているその背後に高い旗がいくつか立って、確か憲法九条を守るというような文言が書かれていたはずである。その手前に「住んでよし、働いてよし、環境によし」と例のスローガンを掲げた看板を持った、ピンク色のポロシャツの男が立っているのを、鳥越俊太郎の陣営かと見た。青いメガホンを使って何やら訴えているその隣にもう一人男が並んで、この人も何らかの表示を持っていたが、それも憲法九条の護持を宣言するものだったかもしれない、忘れてしまった。日本共産党の腕章を付けた女性がチラシを配っている。その前を通るとさらに若い男性も同じチラシを配っていたので、左手を伸ばして受け取り、小さく折り畳んでポケットに入れた。通路の分かれ目付近に犬猫ボランティアの女性が立っているのは、久しぶりに見かけたものだ。本屋のほうに折れて歩いていき、建物に入るとエスカレーターに乗って店に踏み入った。とりあえず岩波文庫の平積みを見に行き、それからちくまやちくま学芸や講談社学術もちょっと見てから、海外文学のほうに移った。ゼーバルト『目眩まし』があることを確認してから、積まれているゲーテとシラーの往復書簡の上巻を手に取り、ひらいた。ちょうど今読んでいる『ベンヤミン・コレクション1』のなかの、「ゲーテの『親和力』」に、まさしくゲーテとシラーのあいだの書簡の文言が引かれている。ゲーテがシラーに、それそのものとしては完全に詩的な対象ではないにもかかわらず、自分のなかに詩的な感情を惹き起こすものがあるのだというようなことを書き送っていたのを覚えていて、それを確認してみようと思ったのだ。自信がなかったが、確か一七九七年の手紙ではないかと認識していた。それで文字列の上に視線を点々と映しながらどんどんページを進めていくと、ゲーテヴァイマルからフランクフルト・アム・マインに移った直後の手紙、八月一六日のものに例の文言があった。さらに、上のような感受性の状態に至ったゲーテに対するシラーの寸評、「詩的な気分も詩的な対象も抜きにした詩的な要求、それが、ゲーテの場合であるように思われる。実際ここでは、重要なのは対象ではなく、その対象が彼にとって何かの意味をもつことになるかどうかという心情なのだ」という言葉が収められた書簡も探したのだが、それはこの時は見つけられなかった――『ベンヤミン・コレクション1』の訳注によると、一七九七年九月七日のものであるらしい。棚の前に立って本に目を落としていると、横の通路を行く若者たちが、江ノ島ラプラスがいるんだって、今度は皆で江ノ島行くしかないな、とか話しながら流れていったのは、現在世間を席巻している『ポケモンGO』のことであろう。ゲーテとシラーの書簡集を置くと棚を見分したのだが、もう大方何があるのかは知っている。マヤコフスキー叢書の続刊が出ていて、新訳を完結させることはできなかったとはいえ、岩田宏の仕事だから買わねばなるまいとは思うのだが、一体どこまで買ったのかが思いだせない。最新の『第五インターナショナル』はまだ買っていないはずである。それ以前のものは『ミステリヤ・ブッフ』までは買ったはずだが、そのあと、『一五〇〇〇〇〇〇〇』は、そしてマヤコフスキーが子熊を抱えて表紙に写っている『ぼくは愛する』は買ったのかどうか、わからなかったので、それを確認してからにしようと今回は見送ることにした。海外文学をうろつくと次に哲学の棚に移って見分したのだが、新たに買い足すほどの気持ちにはならない。しかし古代ギリシア哲学など今読めば凄まじく面白いのだろうなという確信があり、ひとまず持っているプラトンの対話篇をすべて読み返したいと思った。それから文化人類学のほうに行ってレヴィ=ストロース『野生の思考』の中身をほんの少しだけ確認し、会計する前に最後に漫画のコーナーに寄った。すると芦奈野ひとし『コトノバドライブ』の三巻が出ていたので買うことにして、『目眩まし』とともにレジに持って行き、会計を済ませた。エスカレーターを下って退店し、建物も出ると、雑貨屋に行くことにした、メモ用の手帳がそろそろ書き尽くされそうだったのだ。歩廊を行っていると風が湧いて、湿り気を含んでいるようで柔らかく、膨らんだ布のような空気が正面から顔に腕に触るのが気持ちがよかった。街路樹は緑色の詰まった葉を振って身じろぎしている。歩道橋から東の空を見通すと、灰色が不定期に白と青に寄りながら雲の広がりが織りなされて続いていき、果てでは覆いを逃れて淡水色が覗いていた。そちらのほうを見やりながら歩いていると、歩道橋の真ん中あたりでも男性が一人柵に接しながら、携帯電話を構えて、伸びる道路の上を奥へと展開する空の写真を取っていた。その後ろを過ぎて、雑貨屋のあるビルに入り、フロアを渡って階段を上った。それでメモノート類を探したのだが、ノートと書かれたコーナーにあるのはいかにもノート然としたもので、コンパクトな手帳めいたもの、ポケットに入りそうなほどの小ささのものが見当たらない。今使っているのは、ZEQUENZというメーカーのものである。あれも確かここで買ったはずだがと思いながらうろついてみても、それらしいものがない。フロアを歩いて端のほうにある、手帳のコーナーに入ってもみたが、そこにあるのは勤め人が使う類の予定管理用のものとか、ダイアリー系統のものなので、趣旨が違う。ノートの一角付近に戻ってくると、四角い柱の周りにそれらしいものが集まっているのを発見した。以前は測量野帳とか、ほかにも似たような品がいくつか棚に並んでいた記憶があるのだが、それらは姿を消していた。四周を眺めてみても、こちらの求めに応じそうなのはモレスキンくらいのものである。The Beatlesのものとか、特別なデザインを施されたなかに無地で一色のカバーで、手のひらを覆うくらいのサイズのものが並んでいたので、これにするかと決めた。手に取って見てみるとどれもハードカバー、ソフトカバーのものは一つしかなかったが、後者のほうがなんとなく良さそうだと思って、ビリジアンブルーのものを取って会計に行った。少々待ってから店員に品を差しだしたのだが、機械に映しだされて店員が読みあげた値段が二一六〇円、それを聞いた瞬間にマジかよと驚愕した。確かに、棚の縁に掛かった二一六〇円の値札を見かけてはいた。しかしそれは特別なデザイン品のほうだと思いこんでおり、通常の製品はそのすぐ近くにあった八五〇円だかの値札の領域に位置しているように見えたのだ。モレスキンというのはこんなに高いものなのか、このちっぽけな紙片の集合にカバーを付けたものがそんなにするのかと動揺した。しかし、勘違いを説明するのが煩わしくて――この煩わしさにはおそらく二つの要因がある。一つは、あるいはこれもあとのもう一つに吸収されるのかもしれないが、自意識過剰的な、単純な羞恥心である。もう一つは憂鬱で、と言うのも、おそらく夜更かしをした上に緑茶を飲んだためだろうが、いざ街に出てくるとその雰囲気や騒音がかすかに精神に障るようで、店員とやりとりするのにも僅かに緊張して親しみにくさを感じていたようなのだ――、まあロラン・バルトモレスキンの手帳を使っていると『小説の準備』のどこかで言っていたし、と考えて、平静を装って黙ったまま粛々と流れに従い、千円札三枚を金受けに置いた。レジを抜けて、手帳の入ったビニール袋をリュックサックに移すと、しかし二一六〇円とは、ゼーバルトの著作とほとんど変わらない、Brad Mehldauの新譜も買えるのではないかと早くも後悔の念が立ちはじめたが、まあロラン・バルトも使っていたわけだしと再びおのれを説得して、階段を下った。歩廊に出て進むと、百貨店の側面に接するあたりにベンチの置かれたちょっとしたスペースがあるが、その付近にやたらと人が多い。ベンチは埋まっているし、そのあいだにも人が立っている。またそこを抜けても、通路両側の壁際に人々が並んで佇んでいるのだが、この何もない場所でそんな光景を見たのは初めてである。彼らが互いのスペースを侵さないほどの微妙な間隔を置いて、それぞれスマートフォンの小さな画面を覗きやっているのは、まさしく巷間話題の『ポケモンGO』をプレイしているのに違いない。その姿を見ながら進み、駅舎に入ってざわめきに包まれると、やはり街の空気というのは、群衆のなかに入るということは、それだけで一種の不快感が、気に障るものが、憂鬱さが、意気阻喪させるものがあるなと思われた。托鉢僧の鳴らす鈴の音がひどく大きく聞こえて、耳というよりは頭に痛い。改札を抜けてホームに降り、混みあった電車に乗って扉際で、『ベンヤミン・コレクション1』をひらいた。そのまま立って読書を続けて、図書館の駅で降りるとベンチに座った。立ち尽くして疲れたこともあったし、「シュルレアリスム」が終わり間近だったので区切りまで休みがてら読んでしまおうとも思ったのだ。本に目を落としているとそのうちに背後に、声だけで判別するなら高校生くらいらしい男女たちがやってきて、友人たちのなかの一人がイケメンだとか、いやイケメンではないが可愛いとか、いや痩せたらイケメンになるだとかそんな雑談を交わすのが耳に入って、頭に入るものも入らない。ひとまずなおざりに最後まで読んで席を立つと、六時四分だった。駅舎を抜けて歩廊から通りに下り、だらだらとした調子でスーパーに向かった。空腹もあって、身体が疲れていたので、コンピューターを持ってきた意味がないが、書き物はせずに蕎麦茶を買ったら帰ろうと考えた。空は大方青灰色の雲が邪魔をして磨りガラスのようになっているが、西の方角にはオレンジ色の火の粉があるかなしか、隙間に覗いた。スーパーに着くと蕎麦茶を三パック、あとはガムのボトルを取って会計を済ませ、出ると同じ道を反対方向に辿った。途中の公園の大木から、激しく燃えたつ炎のような蟬の叫びが落ちていて、なかに入ってその下でちょっと聞いた。それから残りの道をまただらだらと行って、駅に入ってホームに立つともう七時前、しっとりとした青さの帳が地上にも落ちている。電車に乗ってしばらく、降りるともう来ていた乗り換えに移って、読書をした。最寄りに着くとあたりは薄暗んで、水中から水面を見上げているような青さは空に残るが、ヒグラシの音もない。帰路を辿り、帰宅すると手を洗って室に帰った。七時過ぎである。ロラン・バルト『小説の準備』を探って、モレスキンの一件が真実か調べてみると、それを使っていたのはバルト自身ではなく、フローベールだった。買ってきた手帳の包装を剝がして少々弄んだあと机の上に投げだしておき、ポケットから取りだしたチラシを見ると、鳥越俊太郎の名は紙面になく、彼を指す語として「ジャーナリスト」が用いられ、小池百合子に批判を向ける際には、「元衆院議員(女性)」と迂遠に書かれている。発行元は「革新都政をつくる会」と最下部にあって、よくわからないが公職選挙法の規定に、名前をそのまま出すと引っ掛かってしまうのだろうか。歴史の微細な一断片として日記に文言を写そうと一応は思ってこの日もこのチラシをもらってきたのだが、いざ前にしてみるとそんなことに時間を使うのだったらほかにやることがあろうという気にもなって、実際に写すかどうか今のところ不明である。それからベッドに転がって携帯電話を少々いじったあと、瞑想を始めた。空腹のために短めに、七分で切りあげて、食事を取りに行くと八時である。焼き鮭に、ジャガイモやハムのトマトソース和え、ワカメと卵のスープを並べ、米は一度椀を空にすると、もう一杯をよそってきた。今のうちにもう少し身体に肉をつけておかないといけないと思ったのだ。他人のブログを読みながら食べ、一度室に帰った。それで多分ウェブを見分したあと、九時二四分頃から書き物を始めたのだが、すぐに母親が風呂から出て呼びに来たので、入浴に行った。湯浴みして戻ってくると一〇時一〇分頃からパンツ一枚でまた書き物である。Joe Henderson『The Kicker』、同じく『At The Lighthouse』と流し、前日の記事を頭から書いて零時前に仕舞えた。三七〇〇字である。翌日は朝から労働なので、一時台には眠る必要があった。ベッドに移って欠伸をもらしながら『ベンヤミンン・コレクション1』を読んだのち、一時ちょうどから就寝前の瞑想を始めたのだが、眠気に刺されて姿勢を保つのにも苦労する有様なので、五分で諦めて眠りに向かった。