2019/12/6, Fri.

 暗い収容所が、鐘の音に目覚めるのが感じられた。不意に熱いお湯がシャワーからほとばしり出た。五分間の至福だ。だが、おそらく先ほどの床屋だろう、男が四人すかさず押し入ってきて、びしょ濡れで湯気をあげている私たちを、叫んだり突き飛ばしたりして、隣の冷たい部屋に押し込む。ここでは別の男たちが何かを叫びながら、私たちにぼろきれのようなものを投げつけ、木靴を腕に押し込み、訳の分からないうちに外に放り出す。夜明け時の青く凍った雪の上を、全財産を腕にかかえて、素足で、裸のまま、百メートルほど離れた別のバラックまで走らねばならないのだ。そこでやっと服を着るのを許される。
 服を着終わると、みなは片隅に身を寄せるのだが、目を上げてお互いに見合おうとはしない。鏡がなくても、自分の姿は目の前に見える。百個の青白い顔の中に、百個のみすぼらしい不潔な人間の中に映っている。私たちは昨夜かいま見た幽霊に姿を変えたのだ。
 そこで私たちは初めて気がつく。この侮辱、この人間破壊を表現する言葉が、私たちの言葉にはないことを。一瞬のうちに、未来さえも見通せそうな直観の力で、現実があらわになった。私たちは地獄の底に落ちたのだ。これより下にはもう行けない。これよりみじめな状態は存在しない。考えられないのだ。自分のものはもう何一つない。服や靴は奪われ、髪は刈られてしまった。話しかけても聞いてくれないし、耳を傾けても、私たちの言葉が分からないだろう。名前も取り上げられてしまうはずだ。もし名前を残したいなら、そうする力を自分の中に見つけなければならない。名前のあとに、まだ自分である何かを、自分であった何かを、残すようにしなければならない。
 こうした事態を理解するのがひどく難しいのはよく分かっている。それはそれでいい。だが毎日のささいな習慣に、自分のこまごまとした持ち物に、どれだけの意味と価値が含まれているか、よく考えてみてほしい。たとえば、どんなにみじめなこじきでも持っている、ハンカチや、古い手紙や、愛する人の写真といったものだ。こうしたものは自分自身の一部分で、付属器官のようになっている。普通の世界では、こうしたものを奪われるままになるのは考えられない。すぐにそれに代わるものが見つけられるからだ。つまり自分の記憶を残し、呼び起こせる、また別の何かだ。
 さて、家、衣服、習慣など、文字通り持っているものをすべて、愛する人とともに奪われた男のことを想像してもらいたい。この男は人間の尊厳や認識力を忘れて、ただ肉体の必要を満たし、苦しむだけの、空っぽな人間になってしまうだろう。というのは、すべてを失ったものは、自分自身をも容易に失ってしまうからだ。こうなると、このぬけがらのような人間の生死は、同じ人間だという意識を持たずに、軽い気持ちで決められるようになる。運が良くても、せいぜい、役に立つかどうかで生かしてもらえるだけだ。こう考えてくると「抹殺収容所」という言葉の二重の意味がはっきりするだろうし、地獄の底にいる、という言葉で何を言いたいか、分かることだろう。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、26~28; 「地獄の底で」)


 九時一〇分のアラームで一度床を離れたのだが、例によって舞い戻ってしまう。一一時一〇分まで留まり、睡眠時間は八時間となった。そこまで酷くはないが、やはりもう一、二時間は減らしたいところだ。一度目の覚醒で正式に起きて寝床に戻らないような強い意志を身につけたい。コンピューターを点けて各種ソフトを立ち上げておいてから、上階に行き、寝間着からジャージに服を替えたあと――陽は薄く、風もあるようで、ベランダに続くガラス戸の向こうで吊るされたタオルなどの洗濯物が大きく揺れ動いているのが見えていた――トイレに行って用を足した。台所に入ると大鍋に大根や肉の煮物が拵えてあり、小鍋の方には昨夜の若布や卵のスープの余りが僅かに入っていた。冷蔵庫からは青椒肉絲を少量取り出してレンジに突っこみ、米とスープをそれぞれ用意して卓へ、そのほか厚揚げも一つ残っていたのでオーブントースターに入れてつまみを回しておく。新聞にはそれほど強く興味を惹かれる記事は見つからなかった。一面を漫然と読みながら、僅かな青椒肉絲をちまちまとつまんで米と一緒に口に運び、中途半端に温まった厚揚げなども食ったあと、台所に食器を持って行ったが、そこでは母親が採ってきた大根を切っている最中だったので、洗い物は一旦流しに置いたまま放置した。そうして洗面所に入り、寝癖を整えたあと、風呂を洗って出てくると、下階のストーブの石油を補充してくれと言うので、階段下に置かれてあったタンクを持って外に出た。家の前には落葉が甚だしく散らばっていた。片づけても良いが、今はやる気にならないので素通りして勝手口に行き、箱を開けてポンプを取り、タンクの口に挿しこんだ。そうしてスイッチを入れ、石油が移動するのを待ちながら肩を回したり、薄い白さが広く塗られた空を見上げたりした。タンクはすぐに満杯になったのでポンプを外し、箱を元通り閉ざしてタンクを抱えて屋内に戻り、下階の両親の寝室に行ってストーブにセットしておいた。それから自室に行って急須と湯呑みを持って上がり、緑茶を用意して引き返してくると、一服しながらだらだらと過ごして、あっという間に正午も越えて一時が目前となった。そこでようやく日記を書きはじめて、ここまで一〇分で記せば一時を回った頃合いである。
 続けて前日、五日の記事にも取りかかり、四五分で仕上げることができた。それほど書くことがなく、この日の記事は六〇〇〇字程度に収まったようだ。書くことがあまりないというのは退屈なことでもあるが、なかなか余裕のない現状においては有難くもある。この程度のペースを保つことを目指すべきだろう。the pillowsのベスト盤を"New Animal"から流しだすと、歌をちょっと口ずさみながらインターネットに記事を投稿した。名前を検閲処理して公開し、noteの方にもブログからコピーしたものを貼りつけて投稿し終えると、運動に入った。いつも通り下半身と肩周りをほぐしたあと、ベッドに乗って仰向けになり、"Tokyo Bambi"の流れるなか、腹筋運動を行った。身体を柔らかく温めると時刻は二時を回った。今日は二コマの労働なので、帰りは早くても一〇時前、夜の自由時間は読書に充てることにして、労働で疲労して明晰な聴取ができなくなる前に音楽を聞くことにした。今まではBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』も必ず習慣として、音楽鑑賞の最初に聞いていたのだが、"All Of You"とほか一曲を、定かな印象が固まるまで繰り返し聞いているとそれだけで一時間くらい使ってしまうので、今日は断念して『The 1960 Birdland Sessions』から聞いた。
 まずは八曲目の"Blue In Green"である。四月三〇日録音。スタジオ盤よりもLaFaroの動きは多く、わりあい長めに用意されているベースソロでも、序盤ではトレモロ的な連打で装飾を添え、終盤では大きなグリッサンドを繰り返してダイナミックである。一方、ドラムは音質の劣悪さの犠牲になって全然聞こえてこず、後半から辛うじて耳に入るものの、前半はほとんどピアノとベースのデュオのように聞こえる。拍子のキープが明瞭に耳に届かず、さらにベースソロはリズムとして結構緩い箇所もあって、途中で拍頭が明確にわからなくなるような演奏になっている。Evansのピアノは綺羅びやかと言うか、録音のせいでやけにきらきらしたような質感に聞こえるものの、フレーズの明快な連ね方などはさすがで、上昇してくるベースとの絡みも上手く嵌まっている。ただやはりライブなのでいくらか粗さが感じられるような気もして、隙なく静謐に整った世界観の構築度で言えば、隅まで緊張感が行き届いて折り目正しいスタジオ盤の方が上ではないか――とは言え、このライブは客のざわめきなども入っていて雰囲気としても猥雑だし、そもそも録音の質が違いすぎるので単純な比較もできないのだが。
 次に九曲目、"Autumn Leaves"。同じく四月三〇日の録音である。冒頭、テーマの半分まではLaFaroは高音部にグリッサンドしながらほとんど同じ音を繰り返しているのだが、コードが変わっても動かず同位置を保つことで、サウンドに奇妙な浮遊感が生まれている。テーマ後のベースソロは伴奏なしの完全な独奏が長く続き、リズム感が自然に揺らいでいながらもフレーズはコードに上手く密着して拍頭は比較的わかりやすいようになっていて、ついていくのがなかなかに面白い。途中で弦がビビる音が何度か大々的に入っているが、これは表現として意図して利用したものなのだろうか。ベースソロ後、三者でのインタープレイは緊張感に満ちていながらも、最後では連打を突っこんでちょっと遊ぶ余裕も見せている。ピアノソロの緊密さはあるいは『Portrait In Jazz』のテイクを越えているかもしれず、熱の籠り方も上々で、スタジオ盤では行儀良く抑えていたところを、もう少し奥まで突っこんでみようと境を少々踏み越えているような感触だ。そのほか後テーマのベースにおいて見られるものだが、八分音符三つを一単位としてリズム感覚をずらす捉え方など、全体的にスタジオ盤を下敷きにしながらも、さらに細かいところで発展させることに成功しているのではないか。このライブ音源には"Autumn Leaves"は三つ収められているけれど、このテイクが一番面白いかもしれない。
 二曲を繰り返し流して聞くと、あっという間に一時間が経過して三時に至った。食事を取るために上階に上がると、母親は居間の隅でアイロン掛けか何かをやっている。コンビニで買った冷凍食品の焼き鳥をおかずにして米を食おうと思っていたのだが、ちゃんぽん麺を作ったと言うので、有難く頂くことにした。鍋を火に掛けて麺を熱し、その他、大根・豚肉・人参の煮物をレンジに突っこむと、丼に流しこんだちゃんぽんの上に白葱をたくさん下ろした。そうして卓へ運ぶのだが、ミシンを扱いたいということでいつもこちらが座っている東側の席は母親が占めているので、普段と反対側の、部屋の中央辺りの席に座った。テレビは『ミヤネ屋』を流しており、沢尻エリカの薬物問題について報道しているのだが、糞みたいにどうでも良い話題である。芸能人の薬物問題などに本当に心底から関心を持っている人間が、一体どれだけいると言うのか? 特集を組んで時間と労力を費やすほどの事柄でもなく、ほかに報道するべきことはいくらでもあるはずではないか。そう思いながら煮物をつまみ、麺も啜ったが、当然既に伸びていて歯応えはない。スープが濃くて塩っぱいので全部飲まない方がいいと母親は言ったが、構わずすべて飲み干してしまうと皿を洗って、茶菓子抜きで緑茶を用意して自室へ戻ると一服しながら日課の読み物に触れた。温かい麺を食ったばかりでダウンジャケットの下が汗ばむので、ストーブは停めた。そうしていつもの順番で過去の日記、fuzkueの「読書日記」、Mさんのブログと読んでいく。中国で日本語教師をしているMさんのブログには、彼の軽口に対して生徒の女子がぽかぽかと叩いてくるとあって、それを読みながら萌えキャラみたいだなと思った。微笑ましいものである。歯を磨きながら記事を読むと三時四〇分に至ったので上に行き、仏間で靴下を履いたあと、居間の角に掛かっていたワイシャツ二枚を階段横の腰壁の上に移動させておき、それからトイレに行って便を排出した。出るとワイシャツを持って階段を下り、廊下にシャツを吊るしておくと、『Portrait In Jazz』を"Autumn Leaves (take 2)"から流しだして着替えである。ジャージの上着を脱いで畳み、崩れないように優しくベッドに放って、白いワイシャツを身につける。次にズボンも脱いで同様に畳んで投げ、真っ黒のスラックスに履き替える。そうして昨日と同じ灰色のネクタイを首周りに巻いてベストを羽織ると、コンピューターの前に立ってメモ書きをした。一五分で現在時刻に追いつき、すると時間は四時一〇分なのでちょうど三〇分が余ったことになる。
 その猶予を書見に使うことにして、下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』を読む。四時三六分まで読み、出発。明らかに寒い。身体が震える。 
 坂道の出口付近で(……)と遭遇。今日は塾だと言う。授業当ててくださいよと言うので、決める権限がないんだよと答える。アンケートでいつも「いい先生」の欄にこちらの名を書いてくれていると言うので、笑いを立て、有難うございますと礼を言う。室長に言っておいてくださいと言うので、ある程度配慮するよと答えて別れる。
 道中、色々と知覚はあり、メモも取られているが、面倒臭いので省略する。職場。(……)先生がいる。七〇歳だか何歳だか知らないがそれくらいの、高年ながら新人の男性である。席に座っているところに、お疲れさまですと背後から挨拶。この日は彼のデビューということだが、上手く行かなかった。あとから考えると、準備時間のあいだに声を掛けて流れなどを確認しておいた方が良かったのだが、メモを優先してしまった。どうもタブレットの使い方からしてわかっていなかったのではないか。そのあたりは一応、多分、(……)先生に訊いていたようだが、授業の進め方は理解していなかったようで、冬期講習のマニュアルに沿っていなかったようで、途中で(……)先生が介入していた。その後はこちらも多少見に行き、授業の終わりは手伝った。生徒の手前、あまり大っぴらに指導をするのもまずいかとも思ったのだが、背に腹は変えられないと言うか、低劣な仕事をされるよりはましである。授業終了一〇分前に介入しに行き、一緒に宿題を決めたり、タブレットでの記録項目入力や撮影などを導いた。
 こちらの授業については割愛。特段の問題はなかったと思う。翌日は朝からの労働。(……)先生に鍵開けを頼んだ。それで彼女と共に職場をあとにし、帰路へ。行きよりも寒くない。空、雲掛かっており、平板な沈黙。帰路の終わり近くで見上げると、白っぽい曇りが一片生まれており、辛うじて月の在り処がわかる。
 帰宅後は食事。ブロッコリーや菜っ葉、鮭、大根の梅酢漬け、煮物。米を食うためのおかずらしいものがなかったので――鮭では貧弱である――冷凍食品の焼き鳥を食うことに。その他冷蔵庫のなかに余っていた生サラダ。テレビはどうでも良い類の、何かミステリーのようなドラマで、出演者の演技がもはや演技とすら言えないと言うか、あまりにもわざとらしくて驚嘆する。父親や世人はこのようなドラマを本当に楽しんで見ることができるのだろうかと信じられない気持ち。
 入浴後、下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』を読む。何となくはわかるものの、細かいところは難しい。翌日は六時に起きるつもりだったので、二時には眠ろうと思っていたが、それよりも早く、一時四〇分で力尽きた。


・作文
 12:55 - 13:05 = 10分(6日)
 13:05 - 13:49 = 44分(5日)
 15:54 - 16:10 = 16分(6日)
 24:24 - 24:56 = 32分(6日)
 計: 1時間42分

・読書
 15:15 - 15:41 = 26分
 16:11 - 16:36 = 25分
 23:12 - 24:17 = 1時間5分
 25:00 - 25:20 = 20分
 25:20 - 25:36 = 16分
 計: 2時間32分

  • 2014/3/14, Fri.
  • fuzkue「読書日記(162)」: 11月9日(土)
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-12-03「約束を交わす両者の指先が尾羽のように可愛く立つとき」
  • 下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』: 336 - 350
  • 下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、書抜き

・睡眠
 3:10 - 11:10 = 8時間

・音楽

  • Bill Evans Trio, "Blue In Green"(×3), "Autumn Leaves"(×2)(『The 1960 Birdland Sessions』: #8, #9)