2020/10/20, Tue.

 (……)テクストが与えるのは、テクスト自体だけである。テクストは素材やものを、露にするのと同じくらい隠蔽する。いかなるテクストも「もの」を歪曲し、誤訳していると言うことができるであろう。テクストは単にページの上の語という姿のままでいることで、ものに不実を働いているのだ。
 この特定の意味でのテクストは読解不可能である。自らの規範を伝えることもないし、自らの規範を読みとれるものにすることもない。テクストの規範はテクストの中で読み解くことはできない。ただ蓄えられただけである。私が本書で読解したジェイムズの数節に関して言えば、エリオットやトロロープの場合と同様、この読解不可能性に二つの定義が与えられるかも知れない。一つは、テクストは特有なものであり、特殊な実例であり、ジェイムズの言う「独自の見事な規範」に従属しているのだが、テクストを基盤として一般論を展開してみたいというほとんど抗しがたい魅力があるということである。つまり、批評家や読者はこの一編のテクストを、読者としての人類全体に対して普遍的な法の制定の基盤としたいという誘惑に駆られる。とはいえ、テクストはこういう動きに対して何の権威も与えないし、主張することもない。テクストは規範でもなければ、規範の表出でさえない。規範の生産力の一例なのだ。我々は規範の一例としてのテクストではなく、テクストがその一例となっている規範、倫理的規範そのものに敬意を払っているのであり、またそうでなければならない。
 (J・ヒリス・ミラー/伊藤誓・大島由紀夫訳『読むことの倫理』法政大学出版局(叢書・ウニベルシタス)、二〇〇〇年、165~166)



  • 九時台に一度目を覚まして寝床も抜け、コンピューターを点けたのだけれど、さすがに眠りが足りないということで布団の下にもどった。そうすると結局、一時過ぎまで留まってしまう。だが今日は休日なので大きな問題ではない。前夜、目標通り五時ちょうどで消灯できたのだから良い。カーテンの向こうは、大層久しぶりだと思うのだが雲のまったくない快晴で、しかし空の色味は一〇月らしくかなり淡い。馴染みの比喩だけれど、ミルクがふんだんに混ざったようなまろやかさだ。窓ガラスもめちゃくちゃに汚れていて、青空を背景にするとそれが誰の目にも明らかに見て取れる。その無数の黒い点が太陽に照られて輝く風景は美しくてけっこう好きなのだけれど、さすがにそろそろ拭き掃除をしようかなと思わないでもない。ただするとなると、濡らした新聞紙で拭くつもりなので、バケツに水を汲んできてそのへんに置いておかなければならないだろうが、置く場所がそもそもあまりないし、普通に面倒臭くもある。
  • しばらく手を揉んでから離床。急須と湯呑みを持って上階へ。父親は今日からまた山梨に発った。母親は勤務だと思う。洗面所に入ると櫛つきのドライヤーがないので(父親が持っていったからだ)、仕方なくちゃちそうな櫛で髪をちょっと梳かし、ワックスで適当に整えておいた。食事はカレー。新聞からは文化面を読む。「八咫烏の国」シリーズとか言ったか忘れたが、「八咫烏」というワードが入ったファンタジー小説のシリーズがあって売れているらしい。たしかにこちらも新聞広告などで目にしたような覚えがある。日本神話をたぶんいくらか取り入れた異世界物らしく、著者は二八歳。早稲田大学在学中に第一作を発表したとか書いてあったと思う。大したものだ。ほか、鈴木晶がエーリッヒ・フロム『愛するということ』を三〇年ぶりで改訳したということで、訳者本人がこの本は何度も読み返す価値のある名著で、現在の時代でこそやはり輝きを放つというような小文を寄せていた。鈴木晶という人は、最近Mさんのブログの五月ごろの記事で見かけた名前で、たしかジジェクの本を訳していた人ではなかったか。どこかの大学の名誉教授という肩書きで、たしか六八歳とあったと思う。
  • 食後は皿を洗ってから洗濯物の取りこみ。途中でベランダに出てしばらく柵にもたれた。陽射しは通っていて明るく、常に風が踊って、しかも冷たさはなくて非常に快適な、おそらく人体にもっとも適した陽気。爽やかなこときわまりない。ただ、やはり一〇月ということで、二時にもなればはやくもあたりの風景に乗せられた光のなかに斜陽の気配が混じりはじめている。梅の樹の葉は色褪せて乾き、多少くしゃりとした姿になっているし、隣家の庭の柚子の樹も陽射しをかけられながらどことなく粉っぽいような質感に変わっている。風はとにかく途切れることなく波を作ってそのなかに沢の音か川の音か水の響きが拡散しており、家屋根をちょっと越えた先、Oさんの宅の脇に、そこだけ小筆でちょんちょん点じられたようなオレンジ色が闖入しているのは柿だろう。SZさんの家の屋根上に掲げられた鮎の幟も屈託なく泳いでいた。
  • タオルを畳み、洗面所に持っていって風呂も洗う。そうして緑茶とともに帰室。FISHMANS『Oh! Mountain』を流し、背をすこし揉んでから今日を記述。やはり背中の筋はくせ者で、背骨と肩甲骨のあいだあたりか、それかもっと肩甲骨の際なのかもしれないが、そのあたりの感覚はなかなかほぐれず、椅子に長く座っているとだんだんこわばりが出てくることがよくある。
  • 「大雨の日に永遠[とわ]を知るかなしみに撃たれて僕は生まれ変わるさ」と「ときどきは不幸になりたいそうでなきゃ忘れちまうよ君の笑顔も」という二首を作った。今日は立川に行く予定。図書館でロラン・バルトを返すとともに貸出延長をしなければならない。また書店にも行って、一〇月二五日にMUさんにあげる漫画を買おうと思っているのだが、正直いまだに何にすれば良いか定まっていない。なんか岩本ナオの『スケルトン イン ザ クローゼット』か、あるいは『マロニエ王国の七人の騎士』あたりが良いのではとなんとなく思っていて、それは『スケルトン』をMさんがブログおりおり称賛していたし、『マロニエ王国』も、たぶんBLまでは行かないと思うけれど多少そういう要素がありそうな雰囲気だからなのだが、自分で読んでいないものをあげるというのもやはり変な話だろうというわけで、今回は見送る。『スケルトン』は書店にあるかどうかわからないがあったら普通に買って自分でも読むつもり。漫画というものをそんなにきちんと読みつけない人種なので、いままで読んだなかでMUさんにあげる候補として上がってくるのは市川春子くらいしか思いつかない。市川春子をあげるとしたら『宝石の国』の一、二巻くらいか、それか『25時のバカンス』か、あるいは短篇集を二冊まとめてという感じだろうが、どれにしても読んだのはだいぶ昔であまり記憶が定かでないので(「25時のバカンス」だけはちょっと前に読んだが)、なんかなあという気もする。それか泉光『圕の大魔術師』か。これはTにもあげたものだが、王道の物語としてかなり質が良く、エンターテインメントの勘所をきちんと押さえていながらも浅ましい形態の通俗に堕しておらず、安直さを誠実に排すとともに真っ向から物語をやろうとしている貴重な作品で、たぶんだいたい誰でも面白いと感じると思う。
  • 立川に出るので久しぶりに喫茶店に入って書き物をしようかなとも思ったが、コロナウイルスの蔓延が収まっていない現状、長時間の滞在が許されているのかも不明だし、まあ用事を済ませてラーメンでも食ったらさっさと帰るか。ほか、靴下もいくらか欲しいし、何より靴を新調したいのだけれど、服屋を見て回るのもなんだか面倒臭い感じはある。
  • 最近気になっている漫画としては、眉月じゅん『九龍ジェネリックロマンス』があって、インターネット上で一話だけ目にしたのだけれど、たぶんこれは質の良い恋愛漫画だと見込んでいる。その時点では知らなかったのだが、この人は『恋は雨上がりのように』の作者で、この作品はたしか四〇代くらいの男性と女子高生の恋愛を扱ったものだったはずで、これもまたMさんがいつだかブログでなかなか良いと評しながらも、作品の内容上この物語を人にすすめたら、中年に共感して女子高生との恋愛に憧れるキモいおっさんだと思われること必至なので、知人には絶対口外しないと宣言していたのを覚えている。あとはまあ普通につげ義春とか、萩尾望都とか、谷口ジローとか、手塚治虫とか、そういう巨匠の人々とか、さらにはやはり『ガロ』の方面も探っていきたいとは思う。ところでいま検索してはじめて知ったのだけれど、『ガロ』の創刊者のひとりって『カムイ伝』の人だったのだ(白土三平という漫画家)。ちなみに『ロトの紋章』の藤原カムイの名前は、『カムイ伝』から取ったのではなく、普通にアイヌ語の原語に遭遇したのがきっかけだったらしい(「そもそもカムイというのは、中学校の時の教科書ではじめて出会った言葉で、アイヌ語で 「神」を表わす言葉です。後々詳細を知るに至り、動物や草木などに「カムイ」と付けられて いることが分かり、自然のあらゆるものの中に神は宿るという考えが気に入って高校の頃から 「藤原カムイ」というペンネームを使うようになります」、「ちなみに白土三平の「カムイ伝」という作品を読んだのはこの後の事です」(http://www004.upp.so-net.ne.jp/studio2b/faq.html))。ただし白土三平自体は好きでよく読んでいたようだ(「白土三平さんが好きで、『サスケ』なんか繰り返し読んでいました」(http://www.acc-arakawa.jp/person/1998/09/No.117.html))。
  • 「トーチweb」なんかで活動している人たちにも面白いものはたくさんあるのだろう。『児玉まりあ文学集成』も何かの賞の候補になっていた覚えもあるし。あとはフランソワ・スクイテンというベルギーの作家が描いた『闇の国々』シリーズというバンド・デシネ作品が気になっており、特に根拠もなくこれはすばらしい作物に違いないと確信していて、けっこうほしいのだが、一冊四〇〇〇円くらいするので手が出しづらい。しかも昨日か一昨日に検索したところでは立川の淳久堂にも在庫はない。『パリ再訪』というやつはあるようなので、今日忘れなかったら買っても良い。『闇の国々』シリーズの原作はブノワ・ペータースで、この人はあの馬鹿でかい『デリダ伝』を書いた作家なのだが、スクイテンとは幼馴染だとか言う。
  • 四時まで今日を書いて、運動へ。今日はヨガ的な静止ストレッチよりも、微動的な柔軟というか、筋を伸ばした状態でちょっと動かしたり、首や腰をゆっくり何度も回したりするようなやり方を主に取った。これはこれでからだは和らぐ。あいだはFISHMANSの『ORANGE』がBGMだったが、なぜか作歌の回路が動くので、音楽を聞いたり歌ったりするよりもそちらのほうに意識が行ってしまった。以下の六つを成型。

 構造と実存の距離をはかりつつ言葉を死んだ無垢なマラルメ
 戦いを知らない子らが親となり子に戦いを強いる世界史
 陽を浴びて銀に輝く時の瀬で原子のようにすべてを忘れ
 「遠のいていくばかりだねあの声は」「でも聞こえなくなることはない」
 解放の音楽さえも憎しみの道具にできるひとの傲慢
 炎から生まれた鬼の亡骸を炎にかえす美しい秋

 

  • 音読。すでに時刻は五時過ぎ。六時前の電車で行かねばさすがに遅くなりすぎるので、猶予はさしてない。そういうわけで「英語」を一〇項目ほど読むだけに済ませる。帰宅後にできそうだったらまたやる。BGMはFISHMANS『空中キャンプ』。それから着替え。気温から判断してジャケットを着るまでもないかなと思い、グレンチェックのブルゾンを羽織ることにしたが、そうしてみるとなかに着るシャツとしてあまり良いものが見つからない。それで真っ白なシャツを、あるいはべつに白でなくても良いが、模様のない一色のシャツを何か買ってこようかなと思った。一〇月二五日の会合にもその新品を着ていきたい気がするが、しかし面倒臭いので実際服屋に寄るかわからない。
  • ある人の固有性とか特異性とかいうものは、「これは自分にしかできない」ということではなくて、「自分にはこれしかできない」ということだろう。
  • 五時四〇分まで昨日のことを記述。そうして上階へ。当然ながら居間は真っ暗。食卓灯を点け、各方面のカーテンを閉めておいて出発である。道に出れば視界の高くに星が明瞭に浮かんでいる。空は昼間から変わらず晴れ渡っているようで、雲の気配がすこしもない。空気には涼しさが強くて軽装すぎたかと思ったものの、寒さに至るほどではない。歩いていくと正面の空に、橙色をほのかに帯びたような三日月が現れた。これが実に典型的な、模範と言っても良いほどにいかにも綺麗な、右下を弧にほっそりと描かれた三日月である。
  • 坂に入って上りながら、MUさんにあげる漫画として芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行』はどうかと思いついたけれど、やはり物語があったほうが良いのではという気もするし、そもそもこの作品はおそらく新刊書店では売っていない。芦奈野ひとしが影響を受けたという鶴田謙二の名も思い出し、絵柄としては悪くないような気もしたが、こちらが鶴田謙二をきちんと読んでいないのでそれもどうかとも思う(昔何冊か買って読んだが、その後売ってしまった)。坂道の路面上には木枝や葉の屑が多く散らばってこすりつけられていた。
  • 抜けて街道。横断歩道。左を向けば停まった車のライトがいくつか連なっており、その上にふたたび三日月。下の道で見たときよりもちょっと遠く、小さくなったような印象。渡って階段通路に入り見上げた空にはやはり星が打たれているが、色味はなんとなく半端というか、青さは見て取れるけれどまだ宵の口で深く沈みきっていないからかえって澄んだ暗さがなくて、粘土板の表面めいた印象である。要するに艶がなかったのだ。〈つや消し〉の夜空。
  • ホームのベンチには若い男の先客があった。スマートフォンか何かを見ており、そこから音声が漏れている。それが何語なのか不明。日本語でないことは確実だが、最初はなんとなく韓国語の印象を持ったところ、しかし英語っぽいような響きもあったし、最終的にはスペイン語あたりではないか? という特に根拠のない判断に落ち着いた。いずれにせよ、茶髪と金髪のあいだみたいな色の頭をしている若者が異国語の動画を見ているというのは珍しい気がしたのだが、そうでもないのだろうか。音声の内容はもちろんわからない。しかしたぶんドラマなどではなかった気がする。あるいは、外見から特に外国人だと判断される意味素を受け取らなかったが、もしかすると異国の出自の人だったのかもしれない。
  • 乗車して北側のドアの前に。メモを取ろうとするが、電車は揺れるし立位だとどうしても書きづらいのでやめる。いい加減手書きをやめてポメラでも買うか? と考えたのだが、紙にペンで手づから文字を刻むという時間を、やはり完全にはなくしたくない気持ちがなんとなくあるし、そもそも出先で書き物をする時間も多くない。喫茶店で作業をすることもなくなったいま、せいぜい電車のなかくらいである。だったら手帳か、あるいはスマートフォンタブレットで足りるだろう。
  • 青梅に着くとホームをゆっくり先頭のほうへ。客はもう大方一番線の立川行きに乗りこんで席に就いている。彼らの視線の前をゆるゆる通り過ぎていく。左に目をやれば小学校の室の明かりが見え、屋根の下からはあたり一帯黒く包まれて電柱などのものの形もはっきりしないなかに、その白い矩形のみが切り取られたように存在している。窓枠というか何枚かのガラスを縁取る区切り線がその光の上を走っているのも見え、なかにある物か人の影が下辺からちょっと出っ張って四角形を乱しているのも視認される。
  • 二号車の三人がけに着座。メモ。手帳もあと一〇ページほどしかないので新しく買わなければならない。メモの取り方も、うまいバランスがわかってきた。基本的に名詞断片で記していくのが良い。まあ名詞でなくても良いのだけれど、短い一言を連ねていくのが良い。ひとつの記憶単位の中心的な情報を掴んで一語もしくは数語で記しておけば、それで(時間が空きすぎなければ)のちの想起には足りるし、時間もそうかからない。そういうわけでこのときも、羽村かそのくらいまででメモを終えることができた。そのあとはシラー/久保栄訳『群盗』(岩波文庫、一九五八年)を読む。
  • 57: フランツ: 「助太刀に来い、歎きよ、そして後悔よ、おそろしい復讐の女神、一旦牙にかけたものをまた嚙み返して、おのが糞まで啖[く]らう執念の蛇よ、きさまらは、永遠に破壊する女[もの]、永遠に毒を生み出す女[もの]だ」: 「啖らう」の表記はちょっと良い。「健啖」などの語で見る字だが、この訓読でははじめて見たと思う。 / 「歎き」「後悔」「復讐」といった情念、ならびにその破壊性と有毒性が、「女」と結びつけられている(女性という表象に託されている)。
  • 58: フランツ: 「復讐は、男子の胸にふさわしい」: 「復讐」がここでは男性のほうと結合している。
  • 20~21: フランツ: 「自然の奴めが、あらゆる人種のなかから、醜さのかぎりを山ほど搔き集めて、まるめて焼いたのが、このおれだ。言語道断! 誰が、自然にそんな権利を与えたのだ、或る者には一物を与え、しかもおれには寄越さんなどとは。生れぬさきから、自然の御機嫌が取り結べるか? 影も形もないうちから、自然の御機嫌を損ねられるか? だのに、やつめ、なぜ依怙ひいきをしやがるのだ?」: 「自然」から(人間/被造物が)「権利を与え」られるのではなく、あるいはそれを踏まえながらも、「自然」そのものに「権利を与え」る何ものか、という存在を発想しているのがちょっと面白い。ここでは「自然」はけっこう擬人的に捉えられている。
  • 21: フランツ: 「自然は、おれに何一つくれなかった、おれがおれをどんなものに仕上げようと、こっちの勝手だぞ。人には平等の権利があって、いちばん豪くもいちばん莫迦にもなれるのだ」: 「自然」はフランツに積極的な価値を持つ要素を何も与えなかった。しかし、(だからこそ、なのかそれでも、なのか論理の接続がわからないが)フランツはみずからの力でみずからを作り上げていくことができる。これはかなり人間(中心)主義的な考え方で、人間主体自身による人間主体の形成を言祝ぐ讃歌という趣すら感じられないでもない。いかにもな「(西欧)近代」の思考だろう。「平等の権利」なんていうワードもそれに連なるが、ここで言う「平等」というのは、やはり人間がみずからでみずからを形作っていけるという意味を濃厚に含んでいるようだ。自分の力量や行動次第で、自分を偉大にもできるし取るに足らない小人にもできる、というわけだろう。
  • 「自然」がフランツに与えてくれなかったものの具体的な例は、20ページに記されている。「なぜこのおれは、長男となって、母の胎内を這い出なかったのだ? なぜ一人子に生れなかったのだ? なぜまた自然は、おれに醜さの重荷を背負わせずには置かなかったのだ?」というわけで、それは「長男」もしくは「一人子」としての地位、それに美しさもしくは人並みの容姿である。二段落上の発言からも明らかなとおり、「自然」はフランツにとっては「依怙ひいき」をしてはばからない苛立たしい輩であり、明確に不平等な原理である。それに対し、「人には平等の権利があって」、みずから欲するところの自己形成/自己実現をしていくことができる。したがってこの箇所のフランツの発言は、「自然」が押しつけてくる「不平等」に対する「人」の「平等」にもとづいた反抗/闘争の宣言、ということになると思うが、「人には平等の権利があって」と言われているからには、それはおそらく「自然」から「人」に与えられたものではない。そもそも「不平等」そのものである「自然」が「平等」を与えるというのは変な話だ。この時代の西欧で、こういう文脈における「自然」の概念は、「神」のそれとほぼ等しいと推測するのだけれど、だとすればすくなくともフランツにおいては、「人」の「平等」は「神」から与えられたものではなく、人間に本来的に備わっているものだということになるはずだ。そのくせ彼は、たとえば16ページで聖書を引いて「神のお言葉」を語るなど、キリスト教徒としての振舞いを示してもいる。たぶんこれは老父の前で演じているだけの建前の姿で、彼の本性はおそらく人間中心主義的なAnti-Christなのではないか。
  • 26: モオル(カアル): 「ヘルマンの精神が、灰のなかに燃え残っていてくれたらなあ!」: ここは当代の堕落というかひ弱さみたいなものを嘆いている箇所で、最初に読んだときにはヘルマンというのが誰なのかわからず、文脈からしホメロスとかに出てくる神話的英雄の類なのかなと思っていたところ、どうもやはり紀元前後のゲルマン部族の長にそういう人間がいたらしい。ラテン名ではアルミニウスと呼ばれているようだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9_(%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA))。ところで57ページからはモオル家に仕えている家臣らしき存在として、やはりヘルマンという名の人物が出てくるのだけれど、普通に考えればこの名前の一致には何らかの意味で重ね合わせが施されているという推定になるだろう。まだ登場直後までしか読んでいないのでその内実はわからないが。
  • じきに立川に到着。客が出ていくのを待ち、本をまだちょっと読んでから降車。ホームには人が多い。六時半で帰宅時だからである。階段を上っても構内には縦横に斜めに行き交ってうねる人の群れが発生している。それをよけつつ改札に向かいながら人波を眺めるに、当たり前のことだけれど集団というものは人間個体を非常に強く匿名化するというか、そこでは大方どんな人であっても画一的に埋没するものだなと思った。人が集まって流れているとそれだけで全員がほぼ無特徴になるというか、個々人の差異、そのあいだの段差が自ずと埋まって、人々の存在的輪郭がなだらかに均される。目立つ人がいたとしてもせいぜい髪が赤い程度のことで、つまり単なる外見的色味の問題にすぎない。
  • 改札を抜けると六時三五分だった。最初に図書館に行くか飯を食うか服屋を覗くか迷ったものの、とりあえずLUMINEに入り、United Arrowsを見ることにした。店舗入口の脇にあるジェルを手に塗り、回って見分。白シャツは特にピンとくるものはない。むしろチェックのもののほうが、格好良く整っている品があったが、いまは無地がほしいわけだし、一八〇〇〇円くらいするので買う気にならない。靴だとNEW BALANCEのALL COASTSとかいうものが目に留まってちょっと良さそうだったのだが、背面に付された装飾というか、NEW BALANCEの文字入りの付加要素みたいなものはいらない気がした。値段は一二〇〇〇円だか一三〇〇〇円くらい。白と黒の二色。いま検索したところでは、ALL COASTS AM210という品だと思う(https://www.newbalance.com/pd/all-coasts-am210/AM210V1-32222.html#dwvar_AM210V1-32222_style=AM210BLS&dwvar_AM210V1-32222_width=D&pid=AM210V1-32222&quantity=1)。United Arrowsのページだとこちら(https://store.united-arrows.co.jp/shop/ua/goods.html?gid=52791240)。「シンプルなスタイルで展開するALL COASTSのコートモデルの国内exclusive」とか書いてあるので、たぶん前者と後者ではすこしだけ仕様が違うのだろう。United Arrowsのサイトの写真を見ればわかるが、背面上部に蛇の皮膚みたいな生地を付加して「new balance」の文字を示している。これはこちらの感性からすると完璧に不要で、無意味どころか有害ですらある。なぜこういう無用な自己主張をしてしまうのか理解できない。
  • あとは並んでいるスニーカー類のなかだとやはりadidasのSTAN SMITHが明らかに際立っているのだが、一五〇〇〇円くらいして高いし、そもそもこちらはスニーカーというものを履きつけてこなかった人種なので、自分の格好のなかでこれをうまく履きこなせるのか、似合うのか、という疑問もある。いずれにせよUnited Arrowsとはここで別れを告げ、六階にも行ってみることにした。エスカレーターで昇っていき、フロアに踏み入るとちょうどそこにLOFTがあったのでメモノートを求めて入ってみたものの、以前来たときと同様、こちらの求めに応じる商品がない。まずダイアリー用とか予定管理用とかではない汎用性の手帳がすくないし、さらにはそのすくないなかでポケットに入るくらいの小さなものがほとんどない。いま使っているEDiTもあったのだけれど、現在持っているものとおなじサイズの小さなものがなぜか棚に存在しないのだ。用途を満たせるものとしてはMDノートくらいしかなく、MDノートはたしかにペンの滑りが良くなめらかだけれどべつに欲望はそそられない。なぜなのか? やはり外出先でペンで紙に手書きをして何かを記録するという文化が廃れはじめているのか? いけ好かない時代だ。
  • United Arrowsの、今度はgreen label relaxingに。ここにもSTAN SMITHがあって、United Arrows本ブランドよりもすこしだけ安くて一二〇〇〇円くらいだった。しかしそのほかにはとりたてて目に立つものはない。シャツはさまざま色味があって棚に取り揃えられているが、わざわざ試着して確認してみようという気にはならない。それで出て、あとFREAK'S STOREだけ見てみるかとフロアを移動。入店すると、店の全体的なトーンとしてアメカジ色がきわめて強くなっているのが即座に見て取れる。もともとそういう店ではあるけれど以前よりもそれが濃くなっていて、ほかの雰囲気の品があまり見当たらなくなっている。アメリカン・カジュアル的なファッションもやってできないことはないだろうが、こちらに似合うかどうかは不透明だ。見回ったなかに薄めのワークジャケットみたいな品があって、黒のペイズリー柄のやつとオリーブ一色のものがちょっと気になり、しかも六〇〇〇円か七〇〇〇円くらいだったので悪くなかったが、もう時節ではない気がする。あれではたぶんもはや寒い時期に差し掛かってしまった。
  • そういうわけで何も買わずにエスカレーターを下りて外へ。総じてLUMINEの服飾店に飽きてきたというか、そろそろ駅ビルは卒業するべきなのかもしれない。南口のほうにたぶん個人でやっているセレクトショップみたいな店と、古着屋がいくつかあるはずなので、そのあたりに行ってみるか。セレクトショップみたいな店は大学生のときだかに一度だけ行ったことがあり、空間は小さく衣服が所狭しと並んでいるなか、鋭い顔つきの若い男性が店員をしていて、ジーンズが二万円くらいしたので恐れをなして立ち去った覚えがある。それか国分寺三鷹あたりまで出れば、そういった類の店もきっといくつもあるだろう。そのうち気が向いたら検索すること。
  • 北口から出て歩廊上を行く。伊勢丹の入口の横、壁の角に高校生くらいと見える若い女性が三人、しゃがみこんで溜まっていた。いかにもたむろ、という感じ。いまどきむしろ珍しいのかもしれない。進んで宝くじの売り場では男性が購入を呼びかけており、ちらと左に目を振れば五億円の文字が見える。五億円あればたぶん働かずとも一生生きていけるとは思うが、まったくほしいとは思わないし、これまで宝くじを買ってみたいという欲求を覚えたこともない。金というものは結局、単なる必要物に過ぎないし、良くてせいぜい役に立つだけのものでしかない。そして、単なる便利なだけのものが面白いわけがない。ただし、通貨というものの仕組みや、貨幣の(社会的・歴史的)影響力/魔力、紙幣に使われている技術の詳細などについては、面白くないわけがないので興味がある。
  • そういえば歩道橋を渡ったときに東の交差点を見なかった。反対側、つまりオリオン書房HMVメガロス(スポーツジム)が入っているビルのほう、すなわち左を向いていたのだ。それからシネマシティと高島屋のあいだを抜ける通路に入り、途中高島屋の脇の口に寄って、掲示淳久堂書店の営業時間を確認すると、九時までだった。それなので急がずとも良いなと判断して図書館へ。パレスホテル(だったか?)の横から図書館の入ったビルのほうに折れて道路の上を渡っているときに、スケボーのような音が聞こえ、右、すなわち来た方角を見れば下の道にたしかに人影がいくつかあったのだが、スケボーをやっているのかどうかは視認できなかった。
  • 入館。リサイクル本のワゴンを見ると、トフラーについての本(経済学者だったか? 景気循環の理論のひとつにそんな名前がついていたような気がする)や佐伯啓思アメリカうんぬんだったかネオリベラリズムうんぬんみたいな本、それにワイマール期ドイツについての本と社会主義の歴史みたいな本の四つに目が留まった。それでいったんゲートのほうに寄り、置かれているジェルを手に取ってすりつけながらもどり、順番に確認。トフラーについての本と先ほどは書いたが、これはたしかトフラーについてではなくてトフラー自身の本で、『第三の波』というやつだったと思う。アルビン・トフラー(Alvin Toffler)という人は、Wikipediaによれば「未来学者」なる肩書きらしい。『第三の波』はたぶん彼の著作のなかで一番有名なほうのものだと思われる。景気循環理論をいまぱっと検索してみたところでは、「トフラー」の名はないし、似た名前も見られない。強いて言えば「ジュグラー」(クレマン・ジュグラー)という名がメジャーな学説の提唱者としているが、それと覚え違えていたとも思えない。
  • いずれにせよこのトフラーの著作と佐伯啓思のやつはそこまで欲しいと思わなかったので捨て置き、あとの二つをもらうことにした。新明正道『ワイマール・ドイツの回想』(恒星社厚生閣、一九八四年)と、六人集まった論集みたいな本である『時代のなかの社会主義』(法律文化社、一九九二年)である。どちらもまったく知らない出版社だし、著者の名も知らないのだが、新明正道というのはWikipediaによれば社会学者で、「東北大学社会学講座主任教授として、長らく日本の社会学をリードした」とのこと。家永三郎の義父らしい。この本をもらおうと思ったのは、めくってみたところ、一九三〇年前後のドイツの状況がルポ的な文章や日記の形で記録されているようだったからで、この時期のドイツの現地状況というのはやはり貴重な証言だろうと判断したのだ。もう一冊のほうもコミンテルンの歴史とか長谷川如是閑とか扱っていて興味深かったので。
  • それからゲートを抜けて新着図書を見ると、なぜか今日はいつもより数がすくない。山川出版社の「歴史の転換点」というシリーズの3があり、たしか『七五〇年 普遍世界の鼎立』みたいなタイトルだった。ほか、以前も見た韓国近代小説史と、タイの歴史の本など。カウンターに寄って石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』を返却口に入れると、職員がやって来たのでありがとうございますと口にしたが、なぜか思いのほかに低くドスの利いたような声になった。横に推移して、今度は借りている三冊の貸出を延長する。そうして書架の通路へ。通路途中、棚の脇にワゴンというか、各区画の新着本を乗せておくカートがあるのだけれど、それも見ておこうと思ったのだ。しかし哲学方面のほうは空だったし、海外文学も同様。それでもどる途中、日本の小説の棚にやたら大きな本が見えて、何かと近づいてしゃがんでみれば、野坂昭如の未発表作品を集めたみたいな書物だった。それで日本の作家で何か見ておきたいものはあったかなと考えたところ、佐藤亜紀でも確認しておくかと思いついた。その前にしかし一応古井由吉のところも見てみると、松浦寿輝と文通および対談した『色と空のあわい』(だったか?)もあったし、最後のエッセイ集だと思われる『楽天の日々』も遺著であるはずの『この道』もある。それからその書架を抜けて壁際の全集棚を少々見分。海外作家ではホフマン、ジュール・ルナールロマン・ロランタゴールなど。ジュール・ルナールなんて日本では『にんじん』(だったか?)しか知られていない気がするが、全集はかなり冊数があった。ロマン・ロランも同様。水色のウルフ著作集全八巻だかもあるが、ウルフ全集もそろそろ完全なものを作らなければならないはずだろう。あと、昔はここの区画の最上段にラフカディオ・ハーンの全集だか著作集だかがあって、そのなかにマルティニーク島について書いたものが含まれておりいずれ読もうと思っていたのだが(ミシェル・レリスが何かの文章のなかでそれについて褒めていたからだ)、見当たらなくなっていた。
  • 日本だと吉行淳之介があるのをこの日はじめて認知し、ほか水上勉の仏教作品集みたいなものもちょっと興味を惹かれる。樋口一葉は全四巻で揃っていて、一、二巻が作品、三巻目が日記でどれも読みたいけれど、四巻目の題が「一葉伝説」と仰々しいものになっていてちょっと笑う。要するに知人らの証言を集めたものだろう。あと日本の作家の全集では埴谷雄高のものが目について、全一九巻プラス二冊もの数が並んでいて、こんなものがあるのかと少々興味を抱いた。一巻目を手に取り、一番うしろのほうにある全巻の内容一覧を見てみたところ、後半の五、六冊くらいは対談・座談で、ずいぶんたくさん対談をしているのだなと思った。そうして全集棚を調べているあいだ、背後の書架では何かぶつぶつと、念仏めいて低いトーンで独語を言っている声が聞こえていて、何かと振り返ってみれば老人が棚の前で本を持っていたのでその文章を読んでいたようだ。
  • それでふたたび日本小説の書架に入り、佐藤亜紀の本を確認。『スイングしなけりゃ意味がない』(だったか?)があるし、『ミノタウロス』もあった。『ミノタウロス』というのがたしかデビュー作ではなかったか? あとたぶんいまのところの最新作ではないかと思われる見覚えのない一冊も確認。それから視線を上下させて周辺の本を見てみるに、坂口恭平の『建設現場』が見つかり、その横には佐々木幹郎の本も三冊くらいある。その二者のあいだに幻戯書房の本があって、ささめきこと、ではないが、ささなんとかみたいな名前の人の一四分の一なんとかみたいな著作で、背表紙の色合いやフォントからしてなんとなく惹かれるところがあり、取ってひらいてみるとイラスト的な絵があらわれて、それに対して短い文章が付されているタイプの本で、あるいは三、四ページくらいの短い文章のおのおのに絵が添えられていると捉えたほうが良いのかもしれないが、いずれにしてもその文章が字面として良いものだった。ひらがなが多く、優れたバランスに調えられている。後半はやはり絵つきで鎌倉文士の紹介をするような構成になっており、その先のあとがき的な文を覗いてみると、たしか一九四〇年代だかの生まれでけっこう古い人であり、文章家ではなくて装画やイラストのほうで仕事をしてきた人のようだった。内容は仔細に読んでいないのでわからないが、ぱっと見た感じの印象ではかなり柔らかい感触で、Sさんの文章と似たような方向性を感じた。Mさんが以前、Sさんの文を評して、自分が(おそらくロラン・バルトの語を援用して)「白い」文体、あるいは「白い」エクリチュールと感じるものがあるとしたらそれはSさんの文章を措いてほかにない、と書いていた覚えがあるが、そんなような印象。罪がないというか、無害というか、重力が希薄だというか。
  • それからもうすこし、今度は佐藤亜紀よりも下方を見ると、佐藤洋二郎という名前があって、著作もいくつもあり、これはたしか今年か去年あたりに講談社文芸文庫に入っていた人ではないかと思ったのだけれど、著者略歴を見るにそれはまちがいで、文芸文庫に入ったのはたしか石井洋二郎とかいう名前だった気がする。その人の本の合間に、福間健二が編纂した佐藤泰志の小説集があって、この人も前からわりと気になってはいる。福間の弟子だったか生徒だったか忘れたけれど、たしか自殺してしまった人だったのではなかったか?
  • インターネットに頼って正確な情報を補完しておくと、まず野坂昭如のやたら巨大な本というのは、未発表作品集というか単行本未収録の小説を集めたもので、『20世紀断層』というシリーズである。全五巻プラス補巻の六冊。一巻目ですでに七五〇ページあるのですごい。佐藤亜紀のデビュー作は『ミノタウロス』ではまったくなく、『バルタザールの遍歴』というやつだった(一九九一年)。『ミノタウロス』は二〇〇七年。『金の仔牛』というやつもあったと思う。最新作は『黄金列車』らしく、『スウィングしなけりゃ意味がない』と合わせてSさんがブログで褒めていた覚えがあるが、こちらが最新作ではないかと思った著書がどれなのか、Wikipediaを見てもわからない。「~~と~~」みたいなタイトルだった気がするのだけれど、それらしいものが見当たらないのだ。『激しく、速やかな死』だったか? 佐藤亜紀は『小説のストラテジー』および『小説のタクティクス』と、実作では『吸血鬼』を何年か前に読んだだけである。『吸血鬼』はめちゃくちゃ過不足なく端正に作られたうまい物語という印象が残っているが、そこまで大きなインパクトは受けなかった。しかし当時のこちらのことだから、あまりきちんと、丁寧に読めていなかったと思う。
  • 幻戯書房のささなんとかという人はささめやゆきという画家で、このとき見た本は『十四分の一の月』。四三年生まれ。装画や挿絵、絵本などを色々描いているようだ。七〇年にパリに留学したらしいが、そういえばあとがきにも、パリのレストランで働いていて、その店にはBob DylanとかJim Hallとかがよく来ていた、と書かれていた。ちなみに「ささめきこと」というのは、『枕草子』の一章ではないか? とこちらは思っていたのだけれど、全然違って、いけだたかし作の百合漫画らしく、いったいどこでこの文言を見かけて記憶したのかまるでわからない。Wikipediaによれば、アニメ版の音楽を蓮實重彦の息子である蓮實重臣が担当しているので、それで目にしていたのだろうか?
  • 佐藤洋二郎は四九年生まれ。Wikipediaによれば、「25歳の時、当時、同居していた弟妹が慶應大学に通っていて、彼らが読んでいた『三田文學』に新人の投稿があるのを知って、はじめての小説「湿地」を書いた。それを投稿すると一年後に掲載され、作家になろうと決心する」も、「以後、十年以上没原稿が続く(エッセイ集『人生の風景』『沈黙の神々I・II』などに収録)。その頃、立松和平と知り合い、中上健次は毎月、北方謙三は二か月に一度、持ち込んでいる。おれは三か月。きみはもっと少ないからデビューが遅いんだ、それにおれたちには妻子がいるからなと言われた。心構えが違うと痛感させられた」らしい。文芸文庫に入ったのは石坂洋次郎で(『青い山脈』の作家)、石井洋二郎はフランス文学者のほうだった。ロラン・バルトの『小説の準備』を訳している人である。佐藤泰志はやはり自死だったが、福間健二の弟子とか生徒とかだったわけではないようで、「親友」だったらしい。福間健二佐藤泰志の伝記みたいな本も書いており、昔、青梅図書館の新着図書で見かけた記憶もあるが、佐藤という人は『きみの鳥はうたえる』の作者であり、このタイトルはもちろん、ここ一、二年方々で名を見かける映画作品(三宅唱監督)の原作だ。そうだったのか。
  • 書架を見るのに満足すると退館へ。ゲート前で新着図書にもう一度横目を送ると、宇喜多秀家の名が目に入った。それで戦国武将とか幕末の連中などについても読んでみたいなと思いながらビルを出て歩廊を行く。幕末はともかくとしても戦国や鎌倉あたりの武士連中なんて本当に明日今日殺すか殺されるかの時勢に生きていたわけで、そのような生というのはすくなくとも現代日本に生きる人間の大部分は経験したことのないもののはずで、普通に考えてPTSDとかなんらかの心的疾患に襲われてもおかしくないように思うのだけれど、そういう環境を生きた人々の精神性はいまとはやはり相当に違っていたはずだと推測するし、彼らには彼らとしての心身を統御する技術や知見があったはずだろう。それを知りたい。つまりはおそらく武道について学びたいということになると思うのだけれど、だからと言ってべつに剣道をやったり拳術を訓練したりするつもりはない。ただ一応、そういう武的「道」の類の歴史的蓄積に多少は触れたいとは思うし、そのなかでなんらか自分に活かせる身体的実践術が見つかればそれもそれで良いだろう。よりひろく言ってやはり身体を通した形での精神もしくは主体の捉え方というものにいくらかの関心があり、その観点で見た場合、たぶん武士という連中はかなり特殊な技術(art)を発展させていたのでは? となんとなく思うわけだ。だから剣客や武道者の伝記的研究とかわりと興味がある。したがって、おそらく『葉隠』や『五輪書』あたりをひとまずは読む必要があるだろう。
  • そういったことを考えながら高架歩廊を行っていると、下の道にたむろしている三人ほどの人間と、自転車を停めてそこに近づいていく警官の姿が見えた。目が悪いので、溜まっている人々が若者なのか年を食った瘋癲者なのかすらわからなかったのだが、先ほどスケボーらしきことをやっていた連中と同一だったのだろうか? 通り過ぎたあと、話しかけてきた警官に対して発されたと思われるげらげらとした感じの笑い声を背後に聞いた限りでは、若い男性だったように思うが。
  • 本当は淳久堂にも寄っていこうと思っていたのだが、時間もそれなりに遅くなり面倒臭い気持ちが立ってきたし、日記を書くためには時間がいくらあっても足りないし、土曜日も休日なのでその日にまた来れば良いかというわけで、ラーメンを食って帰ることにした。歩道橋を渡り、ビルの合間を通り抜けて伊勢丹横に出ると、そこにはベンチがいくつかと街路樹が設けられているのだけれど、その木に南天みたいな赤い実がついていた。風はまったくなくて、木の葉は一瞬たりとも揺れずに静まっている。
  • エスカレーターで歩廊から下りて「(……)」へ。たしかこの時点で八時前くらいだったと思うので、それなりに客はいた。豚骨つけ麺を注文。無料で中盛りにできるのでそうしてもらい、サービス券は餃子。今日も今日とてこの店はメロコア的な音楽がかかっている。途中、聞き覚えがあるように思われる曲が流れたが、Simple Planあたりだろうかと思った。Simple Planは高校生のときか大学生のときに、立川図書館にあったライブ盤のみわずかに聞いたことがある。品物が届くと手帳を閉じて食事。サービス券をまたくれたのだけれど、以前は一〇〇円キャッシュバックか餃子五個を選べる券だったのが、まず餃子の数が四つに減った段階を通過して、今日はついに餃子の選択肢はなくなり五〇円引きだけになってしまっていた。経営は芳しくないようだ。つけ麺はまあ普通に美味い。しかし最後のほうは麺の弾力にかえって飽きてくるというか、三分の二くらい通ったあたりでわりと満足してしまうようなところがあった。
  • 退店すると駅前のほうから風が湧いてきて、食事を取ったばかりで体温が上がっているはずなのに、けっこう冷たく感じられる。マクドナルドの前に高校生の姿があり(それを目にしたのはこのときではなくてラーメン屋に入る前だったかもしれないが)、リュックを背負ったひとりの男子の後ろ姿を見てなぜか高校時代のTDを思い出した。TD当人は高校時代、あのようなリュックサックは携えていなかったと思うのだが。表に出て階段を上り、高架歩廊を駅舎内へ。改札をくぐって一・二番線ホームに下り、発車間近の電車の一号車に入ると扉前に就く。まもなく出発したのだが、扉が閉まった途端に緊張が高まり、喉を突くような、あるいは逆に喉を胃のほうへとひっぱり巻きこむような感覚が発生した。久しぶりのことだが、なんとなくそんな予感はしていたのだ。昔は恒常的に嘔吐恐怖があって、公共の場で吐くということを非常に恐れており、食事を取ってさほど経っていないあいだに電車に乗ったりすると覿面に不安に襲われていたのだけれど、その軽いものだ。パニック障害時代のなごりがいまだにあらわれてくることにはやはり驚かされる。とはいえ大した力を持つものではなく、目を閉じて身体を見つめながら小さな山を一度やり過ごせばあとはおのずと収まっていった。パニック障害時代には、嘔吐という身体的異変の苦しさそのものに対する恐怖と、公共空間で嘔吐して周囲の他人に迷惑をかけたりその注目を引いたりすることに対する不安とがともにあり、どちらかといえば後者が強かったような気がされ、したがって「恥」の観念や自意識過剰が症状のひとつの大きな要因だったと考えられるのだが、今回何が久しぶりの回帰をもたらしたのかはよくわからない。ものをたくさん食って腹の中身が詰まっていたということはもちろんあるだろうが、落ち着いてから無表情で座席に就いている乗客たちの姿を眺め回してみても、べつに彼らに見られることが怖いとか嫌だというような感覚は、すくなくとも自覚的に認識できる範囲では感知されなかった。こちらにおいて「恥」の観念はかつてに比べれば相当程度解体され、希薄になったはずなのだ。それよりはやはり、逃げ場のない密室に対する不安というものが、パニック障害の経験を通して脳に染みついているのかな、というような気がした。町のなかを高速で走る密閉空間に捕らわれており、次の駅まで、たかだか二、三分に過ぎないけれど、すぐには、あるいは自由にはそこから逃げ出すことができないという、そうした状況そのものに対する不安がなごっているのではないか。
  • そのあとはどうしたのだったか? メモを取ったのだったか、それとも瞑目して待っていたのだったか覚えていない。シラーを読んだわけではなかったはずだ。河辺に着く直前に席に座ったような覚えがある。そのとき、何事かを考えていたような感触もないではないが、具体的には思い出せない。今日のことを順番に想起していたような気もする。その後、青梅に着いて以降の帰路も特に記憶していない。
  • 帰宅後も同様だ。ただ、日課記録によるとこの日のことをそこそこ綴ってはいる。記述の途中でからだが固かったのでベッドに移り、FISHMANSをバックに脹脛をほぐしたり、合蹠をしたり。合蹠はすごい。足の裏を合わせてからだを前に傾け、太腿の筋を伸ばしているだけで全身に効果がある。


・読み書き
 14:47 - 16:04 = 1時間17分(2020/10/20, Tue.)
 16:56 - 17:08 = 12分(2020/10/20, Tue.)
 17:08 - 17:21 = 13分(英語)
 17:26 - 17:40 = 14分(2020/10/19, Mon.)
 18:15 - 18:33 = 18分(シラー: 56 - 59)
 21:35 - 22:25 = 50分(2020/10/20, Tue.)
 24:36 - 26:16 = 1時間40分(2020/10/20, Tue.)
 計: 4時間44分

  • 2020/10/20, Tue. / 2020/10/19, Mon.
  • 「英語」: 159 - 169
  • シラー/久保栄訳『群盗』(岩波文庫、一九五八年): 56 - 59

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • FISHMANS『ORANGE』
  • FISHMANS『空中キャンプ』
  • The Dave Pike Quartet『Pike's Peak』