2020/10/19, Mon.

 私は読むことの倫理を、自分自身を読み解こうとする作家たちの文例を通して探究してきたが、その探究の最終到達地点は、少なくとも目下のところは、読解はその規範としてのテクストに従属するのではなく、テクストが従属している規範に従属するという奇妙で難解な考え方であった。この規範は読者を、読解という行為のなかで、テクストを通してのみ達成できるより高度な要請の名において、テクストを裏切らせ、そこから逸脱させる。(……)
 (J・ヒリス・ミラー/伊藤誓・大島由紀夫訳『読むことの倫理』法政大学出版局(叢書・ウニベルシタス)、二〇〇〇年、165)



  • 一一時半前、現世に復帰した。両親が話している窓外の声で覚めたのだと思う。睡眠は消灯から数えて六時間二〇分ほどなので悪くない。正午を越えなかったのも良い傾向だ。夏のあいだにゴーヤとアサガオを育てていたネットを父親が外しているようで、カーテンの向こうがガサガサいっているなか、手首や手のひら、それに両の腕を揉みほぐした。そうしてじきに離床。鼻のなかをちょっと掃除してから、湯呑みを持って上に行く。
  • ジャージに着替えて整髪。頭を水で濡らし櫛つきのドライヤーで乾かしたあと、母親がいつか美容院で買わされてきたARIMINOのワックスを指先に塗って、髪になんとなくの流れをつけていく。できると食事。前夜のスンドゥブを使ったおじやと、吸い物めいたスープ。食べながら新聞を読む。二面にドナルド・トランプの動向が伝えられていたのだが、ミシガン州での集会で、支持者が同州知事のグレッチェン・ウィットマー(Gretchen Whitmer)を「収監しろ/刑務所に入れろ(lock her up)」と叫んだのに対し、ドナルド・トランプは初めはその言葉を流しながらも、最終的に「全員収監しろ(lock 'em all up)」と応じたと言う(Bloombergの「ミシガン州知事、トランプ氏を非難-「刑務所に入れろ」発言巡り」(https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-10-18/QIE6RFDWX2Q101)や、元記事 "Whitmer Rebukes Trump After ‘Lock Her Up’ Chants at Rally"(https://www.bloomberg.com/news/articles/2020-10-17/trump-renews-attack-on-toppling-monuments-linked-to-slavery)も参考)。いまにはじまったことではないが、完全無欠に絶望的な発言だと思う。まずもって支持者から"lock her up"の声が上がること自体が絶望的なのだが、さらに、一応いまだに世界最大と見なして良いだろう(「民主主義」)国家の最高指導者がそれを承認し、反対者を刑務所にぶち込め、と、仮に愚劣極まりない冗談だったとしても、公の場ではっきりと口にしたからである。これは言辞としては、普通に独裁者のそれだと思う。終末感がきわめて強いというか、末世の感がめちゃくちゃに漂っているように感じられる。通常の状況でも馬鹿げた発言に違いないと思うけれど、今回の件でとりわけまずいのは、現実にグレッチェン・ウィットマー州知事を誘拐し、あるいは殺害しようと目論む武装集団がいることが事実として明らかになっている状況下での言葉だからで("Six people charged in plot to kidnap Michigan governor Gretchen Whitmer"(https://www.theguardian.com/us-news/2020/oct/08/six-people-charged-plot-kidnap-michigan-governor-gretchen-whitmer))、ドナルド・トランプの発言は、本人の意図はどうあれ、そうした武装グループの行動にお墨付きを与えることになってしまうと思う。すくなくとも武装集団側が、ドナルド・トランプの発言を取り上げて自分たちの行動を正当化しようとする可能性は容易に予想できるはずだ。したがって、ひとつの(「民主主義」および「法と秩序」を重んじるはずの)国家の最高指導者が、その本心はどうあれ現実的な言葉の機能として犯罪行為を是認し、そそのかしているということに、どうしたってなってしまうだろう。
  • 一二面あたりには苅部直による源了圓への追悼文。戦後の日本思想研究を代表する人物で、一九二〇年生まれの九州男児には似つかわず(偏見かもしれないが、と苅部直はことわってもいた)柔和な性向であり、年下の研究者にも丁寧で人当たりが良かったが、それでいて指摘するべきことはきちんと指摘する人だった、と。丸山眞男の六年下とか書いてあったか? ほか、山内志朗中島隆博末木文美士(彼が代表とされていたはず)らが、「未来哲学研究所」なる組織を立ち上げたとのこと。ちくま新書から出ている『世界哲学史』の仕事の周辺から発展したような感じなのだろうか。一一月に会誌を出す予定らしい。ちょっと読んでみたい気はする。
  • 食後は母親の分もまとめて食器を洗い、風呂も洗う。天気は雨降り。緑茶を持って自室に帰れば、足もとがやはりいくらか冷たい。Evernoteを準備し、LINEやslackを覗いておのおの返信、さらにAmazon MusicからJeff Ballardの作品やTakuya Kuroda(黒田卓也)のアルバムなどをメモしておいた。そうして今日の記事をここまで記述。二時四〇分である。今日は二コマの労働。いつもどおり五時に出るのでそれまでに昨日の日記を仕上げ、柔軟と音読をしたい。そして今日の消灯は五時ちょうどを目指す。
  • そういえば、「死神が我が物顔に飛ぶ街で歌を止めない吟遊詩人」という一首をさっき作った。
  • 2020/10/18, Sun.を書いて完成。「夜歩きに出たきり消えた君を追い暗夜行路に身投げする日々」という一首も作った。
  • そういえば新聞の一面下部の書籍広告のなかに勉誠出版のものがあり、そこに「中国癌」うんぬんみたいな書名があって、本の主旨はあまりよくわからなかったのだが、この「中国癌」というのは中国という国が世界にとって「癌」だということなのかな、「武漢ウイルス」とだいたいおなじような、「反中」の姿勢を典型的に表すレトリックなのかなと思い、もしそうだとすれば勉誠出版という会社がそういう類の本を出すというのは意外な気がした。こちらの印象では、同社はだいぶコアな方面の、相当に専門的でありながらも重要かつ面白そうな研究書を色々出している重厚な会社だと思っていたからだ。それでいま検索してみたけれどこの本は林建良『中国癌との最終戦争 人類の未来を賭けた一戦』というもので(https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&cPath=1&products_id=101161)、目次の文言を見る限り、やはり「中国という名のガン細胞」が「世界中に転移」していくのをどう防ぐか、みたいな話のようだ。著者は一九五八年生まれ台湾出身の人で、「医師としての仕事のかたわら、台湾正名運動と台湾建国運動を展開」しているらしい。台湾の人でしかもそういう立場なら中国共産党を嫌うのはむしろ当然だとは思うし、内容の正当性はもちろん同書を読んでみなければ判断できないし、中国がその国家的動向においてさまざまな面で問題でありやばいのも確かだと思うけれど、それにしても「中国癌」などという、こちらには下劣としか思えない病理学的言辞をはばかりなく使っているあたり、それだけで抵抗感を覚えざるを得ない。
  • 運動。cero『Obscure Ride』を流してベッド上で合蹠していると窓がガンガン鳴るので、何かと思って見てみれば、父親が園芸の支柱みたいな棒を持って下に立っており、ひらくと、念のため鍵を閉めてくれと言う。というのはべつに防犯の問題ではなく、水を使ってやるから、と言う。つまり放水によってネットに残った草の残骸を綺麗にするという目論見らしく、承知して兄の部屋ともども窓を施錠した。それで柔軟にもどると、その後しばらくビームみたいな水の条が窓に撃ちつけられ、ガラスを襲っていた。
  • 四時を回って上へ。豆腐ひとつのみを食っていくことにして用意。水を切るとパックに入れたまま上に鰹節と麺つゆをかけてチューブの生姜を添える。こちらが台所にいるあいだ、母親は父親となぜか永山丘陵のことを話しており、なんだっけ、小学校の上のあの見晴らし台、とこちらにも訊いてきたが、そんなことは覚えているはずがない。そもそもこちらはさほど永山丘陵に入って遊んだことはなく、せいぜいグラウンド止まりである。母親は自分で、金比羅[こんぴら]さまか、と思い出していたが、その名前ならたしかに聞き覚えがあるし、実際行ったこともあったはずで、ぼんやりとした風景の感触が頭のなかに浮かんできた。
  • 卓に就いて豆腐を食べる。かたわら夕刊。チリで昨年の大規模な反政府デモから一年を期してふたたび運動が盛り上がり、一部が暴徒化して教会に放火したとか言う。ベラルーシでも八週連続だったか何週だったか忘れたが、毎週日曜日の抗議デモが続いており、二一〇人ほどが拘束されたとか。世界中、さまざまな国でデモが起こっているという話題が目立つ昨今だ。そしてデモが大規模化すると大概は暴徒が発生して破壊行動も行われる。無関係の人とか施設とかに暴力を働くのは道徳的に見ても戦略的に見てもただ有害なだけだと思うのだけれど、かと言って行儀良くやっているだけではどれだけの効果があるのだろうか、という疑問をこのとき抱いた。体制側に、暴動が起こるかもしれない、秩序が壊乱するかもしれないという脅威と恐怖を与えられないとやはりいけないのかなと思ったもので、その線から考えると、非常に限定され作為的に構築された形での、戦術的かつパフォーマティヴな破壊行動というものがあるいは必要なのかもしれないとも考えるわけだけれど、しかしそれはそれで有効性が疑問だし、パフォーマンスだったものから自然発生的に暴力が拡大してしまう恐れもあるし、そもそも体制側に要求を通すことにならずむしろ強権的な弾圧を招く可能性も普通にある。そう考えるとやはり非暴力のほうが良いのだろうか。非暴力での反対運動がさまざま効果を上げてきたという歴史も確かにあるはずで、そのあたりの調査も重要なテーマだろうし、そもそもこちらは実際の現場をまったく知らないわけで、その段階のくせに新聞の文字情報から観念的に考えていてもあまり大した意味はない。べつに積極的にデモに従事したいとは思わないし、大きな声を上げて主張したい事柄も特にないのだが、なんにせよ現場に身を置いてそこの時空を見ることはとりあえず大事だとは思っている。
  • 食事のあいだ母親が今度はギフトカタログを見て、なんにしようか、やっぱり米にしようか、肉もせいぜい六〇〇グラムくらいしかないし、とかなんとか言っていた。そのカタログはどうも父親の定年祝いで入手したもののようだったが、会社から与えられたのかそれともほかの誰かがくれたのかは知らない。当の父親はなんでもいいよそんなもんと言って関心がなさそうだった。
  • 手指の皮膚がいくらか荒れているというか、荒れているとまではいかないかもしれないがところどころガサガサして多少剝けてもいるので、洗面所にある保湿液の類とか「ユースキン」とかを塗っている。部屋にもどるとcero "Orphans"をバックに着替えて、歯も磨いた。ベスト姿で出発まで音読。猶予がすくなかったので「記憶」から一項目先に読み、そうして「英語」も時間いっぱい。なぜかわからないが音読をしていると眠くなってくることがわりとある。
  • 五時に至って上へ。母親は台所。父親は頭を青いタオルに包んで、炬燵テーブルの前で書類か何か見ていた。ラジカセからは松任谷由実の"守ってあげたい"が流れ出していて、洗面所で手を洗いながらちょっと聞いた。前にも思ったのだけれどこの曲で優れているのは、やはり非常に明快な開放感に満ちてキャッチーこの上ないサビよりも、その陰に隠れているBパートのほうなのではないか。ここの移行の仕方があってこそのサビだというような気がする。手を洗って「ユースキン」を塗っておくと出発へ。その前にトイレに入って排便。糞を垂れながら、偶然と必然もしくは運命(神の摂理)というのは、その地位において同等というか、世界を定める最終原理として捉えた場合、実は相違はないのではないかというようなことを考えた。こまかい理路は省くけれど、つまりこの世の物事がすべて法則的に解析でき、科学の知見によって分解・分析されつくして、どんなに微細な動きのひとつさえも数理的な組み合わせによって統御されているということが事実として完璧に明らかになる事態が訪れたとしても、ではどうしてそのような法則が成立しているのか、この世においてどうしてそうした動向が成り立ってしまえるのかということはおそらくわからない。科学の役割は世界がどうあるのかを正確に記述することで、世界がなぜそうあるのかを解明することではない、という話はよく聞くけれど、だから科学は物理的法則の意味や、さらにその向こうにあるかもしれないものを解き明かすことはできない。科学にとっては、そんなこと知ったこっちゃねえという話になる。人文学においてもそれを「解き明かす」ことはたぶん不可能だろうが、それに対してなんらかの姿勢を用意していくということはできるはずで、そこにおける了解方法としては、偶然と必然というのはあまり変わらないのではないかという話だ。「偶然」の立場を取れば、世界がそういう風になっているのは〈たまたま〉そうなっているだけだということになる。ある事象が〈たまたま〉そうなっているということをさらにこまかく分析して、どういう要素の結合からそれが成り立っているかを明かすことはできるかもしれないが、ではなぜそういった要素が結合したのか、ということを突き詰めていくと、最終的なところでは結局〈たまたま〉に帰着せざるを得ない。その〈たまたま〉を実は統御している高次の存在があるというのが「神」もしくは「必然」や「運命」を取る立場で、人間にはわからないこと、知ることのできないこと、理解できないことを、なんか知らんけどともかくそれはそういう風になっているんだ、というところで了解するか、俺らにはどういうわけなのかわからんけどそれを司って操作してしまえる力能の存在がいるんだ、ということで納得するかの違いというわけで、そう見るとこの二つの姿勢にはほぼ差がないような気がする。要するに超越性(超越的な存在という位相/審級)を導入するか否かの違いにすぎない。
  • 人間にはとにかくものを問うという悪癖があって、そこでもう終わりだろう、その先はないだろうという最終的な次元においても、問いを差し向けることがおそらくできてしまえる。すなわちある種の人間の精神は習癖として無限遡行を志向してしまうということで、人間にとってはだから常に問いがあり、謎が見出され、したがって知の可能性と、おそらくは意味が発生するということになる。「意味という病」という言葉はひとつにはたぶんそういうこととして理解できるはずで、問いを問うという精神の動きが、一方では人に迷妄と苦悩とをもたらさざるを得ないのだが、もう一方では生を生かすことにもなっているわけだろう。問いを問うというのは対象を対象化することであり、束の間そのものの外に位置することであり、すくなくとも部分的にはメタ視点に立つということであるはずだが(「部分的なメタ視点」などというものはあるのか?)、メタへの外出をひたすらに続けていくと、それ以上超出できない地点がついに訪れる。言語と論理が行き止まるその位置においてまさしく「信」の問題、宗教の問題が発生してくるわけだろうけれど、いまはそちらの方向に深入りしたいわけではない。うまく考えられないのだが、人間が問いを問うというこの働きこそが、世界を作っている(創っている?)のではないかという直観的な印象があって、つまり生産としての問い(知)もしくは問い(知)としての生産というテーマを考えたいのだと思うけれど、それにはまたべつの機会を待たねばならない。
  • あと、無限遡行ができるということ、そして最終的な次元(第一原理)に至ったあとでも、答えが得られないとしてもそれに問いを差し向けることだけはできる、という点が重要なポイントのような気がする。とすれば、人間にとって〈最終原理〉なるものは存在しないのではないか? 〈最終原理〉をその都度生産していくというのが人間であり、そうしなければならないのではないか? という発想が当然そこから即座に導出され、それは上の「知=生産」のテーマそのものであるわけだけれど、そのように落としこむと、これはわかりやすく単純であまり信用ならない感じもしてくる。
  • 排便すると出発。玄関を出ると、郵便が来ているかと言って母親がついてきた。傘をひらいてポストに寄り、開ければなかは空っぽ。道の先からは中学生が来ており、母親は、まだ聞こえないほどの距離があるうちからおかえりなさいとつぶやいていた。こちらは道に出て歩き出す。ジャージ姿の中学生女子は傘を持っておらず、避けがたく小雨を受けて濡らされながらこちらを抜かして先を行った。風がしばしば湧き、いくらかうねりをはらんで、吹く、と言って良いくらいの動き方をしてジャケットを着ていても普通に寒い。南の山は稜線付近がぼやけており、薄白く濁った霧の層に、冷たい空気のなかだけれど、あるいはなかだからこそなのか、温泉から湧き出す湯気を思って、山のなか一帯が温泉地になっているようなイメージを抱いた。
  • バッグを濡らさないように胸に抱きかかえて行く。坂を上りながら日記のことを考えた。ついつい毎日全力を尽くすとかなんらかの徹底性がほしいとか思ってしまうが、すくなくともこの日記という日々の営みにおいてはやはりそのようなものは不要なのだ。そもそも毎日いつも全力で頑張ろうなどという姿勢は続くものではない。そしてこの文章はとにかく死ぬまで続けるというその一事をひとつの大きな賭け金としているので、やはり無理なく、粛々と続けられるやり方や形態でなければならないのだ。何年も前からいつも徹底性への欲望と自然さへの志向とのあいだを行ったり来たりしているような気がするのだが、やはり自然に、気負いなく綴ることが重要だという地点にまた立ちもどっている。ただそれは、弛緩した文をだらだらと書くということではない。なるべくならそれはやはり避けたい。特に鋭い文章を作ったり見事な思考を提示したりする必要はないが、だからと言って適当に、だらしなく取り組むのではなくて、やはりある程度はきちんと心身を調えて行いたい。つまり、外を歩くときのように文章も書くということだ。道を歩くとき、こちらは完璧な歩き方をしようとか、格好良い歩き方をしようとか、歩みをめちゃくちゃ整えようとは思っておらず、力を籠めて頑張って歩いているわけでもない。ただ単に歩いているだけで、強いて言えば急がずゆっくり歩くことを望ましいと思っているくらいである。そして、そうだからと言ってだらだらと緊張感なく弛緩した歩き方をしているわけでもない。すごく頑張っているわけでもないが、特に怠けているわけでもない。ゆっくり歩いているだけだ。日記を書くこともこれとおなじ感じで良いのだろうと思った。急ぐことならびに焦ることは生を損なう、という認識はこちらにおいて絶対的な真理なので、それはできれば避けたいが、しかしことさらに速度を落とそうとする必要もない。好ましいのは落ち着いてゆっくり静かに書くこと、ただそれだけである。心身の落ち着きと静けさというのがやはりこちらにとっては重要なもので、それをなるべくいつも保っていたいと考える。それはべつに感情を殺すということではない。ただ静かな心身でいたいというだけだ。平静を高い価値とみなす点で、おそらくこちらはストア派およびエピクロス派に親和している。
  • 完璧とか全力とか徹底性を常に追究する思考の難点は原則と実行の乖離を生まざるを得ないということで、こちらの日記を例とすれば、たとえばやはりできるかぎりすべてのことを記録しないと駄目だ、とかいうやんごとなき使命感めいたものに撃たれたとしても、それに従って頑張れるのはせいぜい一日か二日程度のことだし、そういう気負いをみずから担うことによって、日記を書くという行為自体の敷居を高くしてしまうという問題が発生する。自分のキャパシティを超えた原則を立ててしまうことで、その大変さを思って実際にそれを行為する前から腰が引けてしまう、というよくある事態だ。何かひとつの作品を長期間かけて作るのだったらそれでも良いかもしれないが、このように毎日取り組む類の営みに関しては、それは明らかに不適である。日記を書くことはもっと気軽で、気楽で、いつでもはじめられ、いつでも終えられるようなものでなければならない。
  • 最寄り駅のホームには風が強く流れ、寒かった。立ったままメモを取りはじめ、車内でも続けたと思う。手帳のメモには青梅駅のホームを歩きながら今日は心身がかなり落ち着いていると感じたらしき言葉が見られるが、特に覚えていない。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 帰路のことは覚えていない。夕食時に「the Covers」がテレビに映っており、原田知世が出演していた。名前は聞いたことがあるものの、どういう人なのか全然知らなかったのだが、映画『時をかける少女』に出演して主題歌を歌った人だった。松田聖子の"小麦色のマーメイド"と、竹内まりやの"September"、ナイアガラ・トライアングルの"A面で恋をして"の三曲を披露。どういう音楽性なのかと思っていたら、わりと洒落た感じで、原田知世の歌唱自体も、温度感が低めというか、冷たいというのは違うのだけれど落ち着きがあって控えめな感じで、シックとかスタイリッシュとかいう形容が相応しいような声色および歌い方で、こういう感じなんだなと興味深かった。トークをしている様子を見るにおっとりしたような雰囲気の人なのだけれど、歌になるとぐっと締まって、端正な成熟感みたいなものが発散されて、なるほどやはり歌手だなと思う。アレンジもそれに応じたというか、歌がアレンジに応じ、アレンジも歌に応じという相互関係だと思うのだけれど、なかなか悪くないクールなサウンドに構成されていて、これは伊藤ゴローという人の仕事だったらしい。最初の"小麦色のマーメイド"はイントロを中心として弦楽の動きが良かった。"September"に関しては原田知世トークで、間奏の、「借りていたディクショナリー明日返すわ/ラブという言葉だけ切り抜いた跡/それがグッド・バイ グッド・バイ」というところが好きだと言うのに、ホストのリリー・フランキーが、竹内まりやは当時この「借りていたディクショナリー」の文言を歌いたくない、こんな言い方しないでしょと言って「スタジオ内を一瞬凍らせた」らしいというエピソードを紹介した。竹内まりやは当時大学生で、けっこう暴れていたんですね、などとリリー・フランキーは言っていたが、この点に関しては竹内まりやの感性にこちらは与する。「借りていたディクショナリー」は普通にダサい。一応その場では、それを言ったらそもそも「セプテンバー」だって言わないじゃないかということで収まったらしいのだけれど、「セプテンバー」はまだしもその一語で比較的独立して使われているので(やや合いの手/掛け声的な構成ではあるが)許容可能である。しかし「借りていたディクショナリー」の日本語と英語の結合はまちがいなくダサい。一方、この曲の詞(今回取り上げられた三曲はいずれも松本隆の仕事である)のなかでは、サビの、(「セプテンバー」を除いて記すと)「そしてあなたは/秋に変わった」と、「そして九月は/さよならの国」がなかなか悪くないとこちらは思った。「あなた」の語と「秋に変わる」という変容・拡散・象徴化のテーマを結合させた点と、「さよならの国」という風に(「九月」を受けて)「国」の語を使った点である。
  • ナイアガラ・トライアングルというのは大滝詠一のユニットらしい。大滝詠一周辺も全然聞いたことがないのでさっさとディグする必要はある。"A面で恋をして"をこのとき一聴した感じでは、なるほどたしかに、とりわけ当時の(当時というのが何年あたりなのか正確に把握していないが)日本にはあまりないタイプのポップスなのかなという印象で、リリー・フランキー原田知世トークにおいて、大滝詠一の曲はすごく良いのだけれど、いざ歌ってみると何か手応えなくさらりと流れていってしまうようなところがある、と話し合っていたのがわかるような気がした。まずもってサビに当たると思われる部分の盛り上がりがある種弱いと言うか、サビを高々と見せ場にするというタイプの曲でないし、構成としてもサビ→AもしくはB→サビというループ構造になっていて、だからこれはサビと言って良いのかもよくわからず、一般的に言うサビというよりはそこにもどってくるホームのような形で位置づけられていると思う。洋楽だとこういう形はよくあって、その場合なんかVerseとかChorusとか、何かしらの用語があるのだと思うけれどそのあたりはこちらにはよくわからない。加えてそのサビ(と一応しておくが)のメロディの作りもちょっと面白いというか、冒頭の「A面で恋をして」の「A」の部分、「え」の音が「え~ぇ面で」、という感じで伸びるのもちょっと妙だし、なんだか飄々としているような感じで、いまの時代にはこういうのはたぶん流行らないのではないか。サビの構成としては二小節をひとまとまりとした八小節で、そのうち三つ目の区画、すなわち六小節目までは多少の異動はあっても大方はじめの二小節のやり方を繰り返しているわけである。だから楽曲としてもサビの内部としても、わかりやすく前進的に展開するのではなくて、反復的な気味が強い。それでいて最後の七・八小節ではきちんと終結させてみせる。物語的な展開(いわゆるジェットコースター的な構成と言っても良い)が希薄なくせに、なぜか終結部では見事に収まり、着地しているなという感覚があって面白い。加えてサビのメロディも、その変な手触りがかえって記憶に残りやすい。実際こちらもこのとき一度聞いただけで"A面で恋をして"のワンフレーズの部分を覚えてしまったというか、番組を見たあとしばらく、勝手に頭のなかに繰り返し再生されていたくらいだ。だから、全般的な雰囲気として淡々と、飄々としているくせに、すくなくともその一部分をひそかに聴者の脳内に植えつけてしまうというような、ウイルス的な機能を果たす曲、という印象。
  • 入浴中に短歌を多少考え、「神さまをやめたあの娘が泣く今宵雨になるには空が足りない」「音楽のなかった時代ひとびとが知っていたのは雨の音だけ」「注意せよ君の瞳にすむ夜が君を夢から奪わぬように」の三つを作成。

On Sunday [2020/10/18] Lara Trump, the president’s daughter-in-law and a member of his campaign team, said on CNN that Trump was just “having fun” at Saturday’s event. And Jason Miller, another Trump campaign official, said on “Fox News Sunday” that the president had no regrets about the incident.

     *

Trump in April issued tweets urging citizens to “liberate” Michigan, Minnesota and Virginia amid lockdowns in place at the time to combat the coronavirus pandemic. All three are led by Democratic governors.

The Federal Bureau of Investigation said that the kidnapping plot identified in its criminal complaint took root prior to Trump’s tweets.

Lee Chatfield, the Republican Speaker of the Michigan House, who also spoke at Trump’s rally, disavowed the “lock her up” chants. “It was wrong,” he said on Twitter. “She was literally just targeted. Let’s debate differences. Let’s win elections. But not that.”

In Muskegon, Trump targeted Whitmer several times, criticising state rules on the coronavirus, calling the governor “dishonest” and making light of the plot that was foiled by the FBI.

Thirteen men have been charged in connection with the plot, which included plans to storm the state capitol and hold some kind of trial. Trump took credit for federal law enforcement’s role in foiling the plot.

“They said she was threatened,” he said. “And she blamed me. Hopefully you’ll be sending her packing pretty soon.”

The chant of “Lock her up!” was a reprise of chants Trump supporters aimed at Hillary Clinton throughout the 2016 campaign.

     *

Lee Chatfield, the Republican speaker of the Michigan house, wrote: “Trump didn’t chant ‘lock her up’ about our governor. But others did and it was wrong. She was literally just targeted. Let’s debate differences. Let’s win elections. But not that.”

But Lara Trump told CNN’s State of the Union on Sunday the president “wasn’t doing anything I don’t think to provoke people to threaten this woman at all. He was having fun at a Trump rally and quite frankly, there are bigger issues than this right now for everyday Americans people … he wasn’t encouraging people to threaten this woman, that’s ridiculous.”

The president’s daughter-in-law also said: “Well gosh I would like to show people my social media and the threats against me, the threats against my children.”

  • 一応文章情報だけではなくて、動画があればそれを見ておくかと思ってYouTubeで短い抜粋を見たのだけれど、たしかにドナルド・トランプは、聴衆が"lock her up"のコールをはじめた直後は、苦笑めいた笑みを浮かべて手を払うように動かし、いやいやお前ら、それはちょっとやりすぎでしょ、というような感じを見せている。ただなぜかそのあと、やまない聴衆の声に応じて"lock 'em all up"とつぶやいてしまうわけだけれど、とはいえこれに関しても、あからさまに雄々しい叫びを上げるというような感じではなかった点に、一抹の安堵を得ないでもなかった。ドナルド・トランプ自身が"lock 'em all up"を本心として持っているのはたぶん確かだと思うけれど、この場面を見る限りでは、根本的な問題はドナルド・トランプよりもむしろやはり聴衆のほうだなという印象を受けるもので、ドナルド・トランプの"lock 'em all up"は、群衆たちの圧力と熱気に押されて、あるいはそれに誘われて、思わず引き出されたもののようにこちらには感じられる。オーディエンスのchantの前にドナルド・トランプが口に出した言葉は、"Now you got to get your governor to open up your state. Okay? And get your schools open. Get your schools open. The schools have to be open, right?"である。そして、このときの演説の書き起こし(https://www.rev.com/blog/transcripts/donald-trump-michigan-rally-speech-transcript-october-17)を検索する限り、これ以前にドナルド・トランプは"lock"の一語を口にしていない。それにもかかわらず、"get your governor to open up your state"を、"The schools have to be open"を受けた結果、聴衆から自発的に"lock her up"の叫び声が上がりはじめるという、このきわめて短絡的な事態の推移こそが恐ろしい。
  • この動画を見た結果として、いわゆる主体性ということについてとか、党派性・哲学・真理の追究・確信/懐疑・(自己の)特異性 - 単独性(にこだわり続けること)などのテーマについて思いを巡らせはしたのだが、それらの思考は特にまとまった形をなしてはいないし、記すのも面倒臭いし、そもそもよく覚えてもいないので詳述することはできない。


・読み書き
 13:48 - 15:13 = 1時間25分(2020/10/19, Mon. / 2020/10/18, Sun.)
 15:55 - 16:09 = 14分(2020/10/19, Mon.)
 16:39 - 17:00 = 21分(記憶 / 英語)
 22:59 - 23:26 = 27分(ニュース)
 26:00 - 26:55 = 55分(ニュース)
 28:21 - 29:00 = 39分(2020/10/19, Mon.)
 計: 4時間1分

・音楽