2020/11/29, Sun.

 ここでの問題は、明らかに、2という数のステイタスに関わっている。二人の対抗者、もしくは両極的な対立者の対決が、いつも同時に、逆発・空発を引き起こすとすれば、その理由は、2がきわめて「風変わりな〔odd〕」数〔これはむろん、奇数という意味でもある〕だからという以外にありえない。一方で、2は鏡像的な対称性の幻想、あるいは隠喩として、ナルシスティックな安心感を与えるもの(私のアイデンティティを強化するものとしての他者イメージ)ないしは、まったく破壊的なもの(私を完全に消し去ることができる他者の存在)になりうる。これはラカンが「想像界的[﹅4]二重性」と呼ぶものである。それを特徴づけているのは、その絶対性、対立という形であれ、融合という形であれ、当該項の統一性を転覆するかもしれぬあらゆる事件や偶発事からの自立性である。ラカンはこれに、象徴界[﹅3]を対置している。象徴界とは、アイデンティティという概念の中に、差異、他者性、あるいは時間性を立ち入らせるものである――それは想像界的二重性に降りかかる何かではなく、常にすでにそこに内在していた何かである。それは、想像界的な一対の対称性ではなく、一項の自立的統一の可能性をことごとく転覆する何かである。それは2という数ではなく、1という数の不可能性なのだ――そしてそれは、はなはだ逆説的なことに、人を3という数に導くことになる。
 3が2を1の不可能性に変えるとすれば、一対から三つ組みへの移行によって、内在的な明晰さは増大するのか。三つ組みはどうあっても、一対より「正しい」のか。
 精神分析にとってはそうである、というのがデリダの主張である。三つ組みは人間の欲望機能を説明する、魔法のオイディプス的形象である。子供と母親の初源的・想像界的な一体化――二元的一体化――は、父親の掟――それは、去勢の脅迫を元に近親相姦を禁ずるものである――によって転覆される。子供は欲望対象における代替の必要性(欲望対象は、代替の場、反復の焦点となる)として「去勢を単純に引き受け」なければならない。そして、その後、子供の欲望は「正常化された」ものになるのだ。ラカンのポーの読みに現れる「三つ組み」あるいは「三幅対」に対するデリダの批判は、ラカンの三角図式の使用が、精神分析的な神話に由来するという想定に基づいている。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、209~210; 「7 参照の枠組み ポー、ラカンデリダ」)



  • 一一時台後半に覚めて、なかなかまぶたがきちんとひらかないのだけれど眠りにはもどらず、こめかみや首筋をぐりぐりほぐしたりしながら起きるための力を待った。天気は白けた曇りだが、太陽の所在が知れるくらいの厚さではある。離床したのは一二時一四分。昨晩はまたずいぶん退歩してしまったので消灯を四時前にもどしていかなければならない。就寝前の瞑想もやはり習慣化したいところだ。あと日中にも一度できれば良いのだけれど。昔は起床直後にやる習慣だったが、起きてすぐはからだに水もすくないし血もめぐっていないし肉は固まっているしであまり良くないような気がする。
  • 食器や茶器を載せた盆とゴミ箱を持って上階へ。皿を洗ったり顔を洗ったりしてからトイレに入ると会合に行っていたらしい父親が帰ってきた。食事は昨日立川からもらってきた炊き込みご飯や唐揚げなど。新聞は一度全ページめくって目ぼしい記事をチェックしたあと、書評面を覗いた。山内志朗が『カラマーゾフの兄弟』を紹介しており、また藤澤なんとかという中国文学研究者が張愛玲という作家を取り上げていた。はじめて知った名前なのだが、いわく中国の二〇世紀の作家では十指に入る存在だと言い、世界文学が生み出した価値ある達成、みたいなことが書かれてあったと思う。光文社古典新訳文庫藤井省三訳が入っているらしく、なかの『封鎖』という篇は一九四三年日本占領下の上海を舞台にしたものだとか。ところで藤井省三という人はかなり昔の人ではなかったか? それが古典新訳文庫に入るとはどういうことか? と思っていたのだけれど、いま検索してみると一九五二年生まれの存命者だった。それで気づいたが、こちらの念頭にあったのは藤田省三のほうだった。
  • ほか、書評欄本面にはエシなんとかというカナダ出身の人の『ワシントン・ブラック』とかいう小説の紹介。木内昇という人が書評子だった。このカナダの作家は二〇〇四年以来三作くらいしか出していない寡作家だが、そのうち二作がブッカー賞の最終候補になっている実力者だと書かれてあった。紹介を読む限りではけっこうスケールの大きい物語らしいという印象。一八〇〇年代が舞台で、アメリカの農園で働かされていた黒人奴隷の少年が農園主の弟と仲良くなって二人で逃亡し、国を渡るというような内容だったと思う。
  • 食事を終えると食器と風呂を洗い緑茶をついで、昨日買ったMorozoffのカスタードプリンを持って自室に帰った。プリンを食いながら一服し、slackを覗いて(……)の投稿に反応を返したり自分でも投稿したりしておき、それからFISHMANS『Oh! Mountain』とともに今日のことをここまで記した。一時四八分。
  • いま一一月三〇日の夜半前なのでこの日は前日にあたるわけだが、これ以後のことで明確に覚えているのは、まず瞑想をしたことである。五時四〇分から六時五分まで、二五分間座っている。夕食の支度をしたあとの時間だ。BGMとしてThelonious Monk『Solo Monk』をかけた。たしか特に眠くもならず、それなりに悪くない瞑想ぶりだったと思うが、特筆するべきことがあったわけでもない。音楽を流すとそちらに意識が行ってしまうのではないかと思っていたが、そうでもなく、むしろ音を確かにとらえる時間はあまりなかった。ただ、自分の頭のなかは見えづらくなったはずだし、身体感覚を志向する時間も通常より減った気がするので、内観もしくは体観の観点からは、本当はかけないほうが良いのだろう。やはり持続的な情報がひとつ増えるだけで意識野が多少それに浸食されて、志向性がかき混ぜられて拡散するような気はする。
  • 夕食には肉を焼くと言うので、こちらは米を磨ぎ、タマネギと椎茸の味噌汁をつくった。そのあとアイロン掛けもこなす。
  • 夕食時には新聞に載っていたイアン・ブレマーのインタビューを読んだはずだ。彼は「Gゼロ」に続いて、テクノロジー方面での米中の競争をあらわす言葉として「T2」というものを最近は提唱しているらしい。その状態が苛烈になれば新たな冷戦に入り、世界の秩序は乱れて混乱するだろうとのこと。米国はバイデンが大統領になったからと言って、すぐに分断が修復されるわけでないというのは誰もが言っていることだし、普通に考えればたぶんそうだろう。ドナルド・トランプは史上最大の票を得たとかいう話だし、一一月中旬の調査でも共和党員の七割以上は変わらずトランプを支持していると言う。ジョー・バイデンアメリカの歴史上もっとも弱い大統領として就任するのです、という言葉が印象的だった。米国がいわゆる世界の警察官的な立場にもどることはもうないし、経済面ではともかくとしてもたとえば香港や台湾に関しては(つまり人権問題においては、ということだろう)中国との対立が続くだろうし、先述のように技術的競争は加速すると思われる、そこで重要になってくるのが日本です、日本は世界屈指の経済大国ですし、アメリカのようにエスタブリッシュメントとそうでない層で大きく分断されているわけでもない(「日本社会には絆があります」とかいう言葉をイアン・ブレマーは述べていた)、日本が中国とどのように関わり合っていくかがアメリカにとっても、ひいては地域や世界の安定にとっても非常に重要なファクターになっていきます、みたいなことが言われていたのだけれど、そう言われても、うーん、そうか、という漠然とした見通しの暗さを覚えるばかりである。この日本国がそんなに枢要な役割をきちんと担うことができるのかな? という疑念と不安を感じずにはいられないし、日本社会の「絆」だの非分断的な一体性だのについても、たしかにアメリカよりはだいぶマシではあるのだろうがイアン・ブレマーが言うほど楽観的な現状なのかなあとは思うし、いまはまだ比較的安定しているとしても、これからますますアメリカみたいな状況に近づいていくのではないかという気もする。
  • あと、この日の国際面に載っていたのか、それともこの前日だったのか、ことによると(……)家で読んだ東京新聞に載っていたのかわからないのだが、中国がネパールやブータンの国境地帯、それも隣国にいくらか入った地域に軍の施設などを無断で建造し、強引な進出を強めているという話があった。中国という国は、海でも山でもとにかく力づくの方針を取っていて、それでどうすんの? このまま進んだら自分の首を締めることにならないの? マジで世界征服というか、世界のトップに立つことを目指してんの? と思う。ネパールの例では、野党議員が現地に行って建物に近づこうとしたところ、中国所有の施設だから立ち入りは許されないといって兵士に止められたと言う。もともと動物の検査か何かをするための共同施設として計画されていたらしいのだが、それがなぜかいつの間にか中国の進出拠点になっていたという話だ。中国政府はもちろんそのような事実はないと否定しているし、ネパールの与党である共産党も(ネパールという国が共産党政府であることをここではじめて知った)中国に経済など色々な面で依存しているから、中国共産党に同調して調査団をつくることすらしないという現状らしい。
  • そのほかはまあだいたい、前日二八日の日記を作成することと、徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、一九九七年)を読むことに費やされた。消灯は四時二一分。就寝前に瞑想をしたものの、やはり意識が保たず頭が前に倒れては引きもどすことを繰りかえすような具合で、一三分しか座れなかった。


・読み書き
 13:25 - 13:48 = 23分(2020/11/29, Sun.)
 13:58 - 14:22 = 24分(2020/11/28, Sat.)
 18:18 - 18:52 = 34分(2020/11/28, Sat.)
 19:27 - 20:31 = 1時間4分(2020/11/28, Sat.)
 20:31 - 21:07 = 36分(徳永: 108 - 125)
 22:02 - 23:59 = 1時間57分(2020/11/28, Sat.)
 24:27 - 25:53 = 1時間26分(徳永: 125 - 154)
 27:32 - 28:16 = 44分(2020/11/28, Sat.)
 計: 7時間8分

  • 2020/11/29, Sun. / 2020/11/28, Sat.
  • 徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、一九九七年): 108 - 154


・BGM


・音楽
 なし。