2020/11/28, Sat.

 二、ラカンはテクストに何を取り残したのか[﹅18]。この反論はそれ自体が二重的である。デリダはまず、彼〔デリダ〕がポーの「デュパン三部作」と呼んでいる他の二つの物語との関連から「盗まれた手紙」を考察していないとして、ラカンを批判する。また、デリダによるなら、この物語をシニフィアンアレゴリーとして読んでいる瞬間、ラカンはこのアレゴリーのテクスト[﹅4]――デリダはそれを「エクリチュールの舞台」と呼んでいる――におけるシニフィアンの散種力〔disseminating power〕に対して盲目になっている。テクストの参照の枠組みなど存在しないかのように、そこから一部だけを切り離し、複雑なテクストの機能を単一の意味に還元してしまうのは、文学批評史においてもまことに由々しき汚点と言えるだろう。だが、そうだからこそ、ラカンのテクストに対するデリダ自身の読みが、そこで告発している罪を反復していることがますます際立ってしまうのだ。まず、デリダは象徴的決定と偶然的連続の関係に関する息の長い議論展開には一言も触れていない。また、デリダラカンの「文体」を明白なメッセージをしばらくのあいだ覆い隠すための単なる装飾として、あっさり片づけている。「さらに、ラカンの「文体」は、分離可能な内容、エクリチュールを越えて決定可能な一義的意味への到達を長いあいだことごとく頓挫させるために作られていた」(Jacques Derrida, "The Purveyor of Truth", translated by Willis Domingo, James Hulbert, Moshe Ron and M.-R. L., Yale French Studies, 52 (Graphesis, 1975), p. 40〔Jacques Derrida, "Le Facteur de la Vérité", La Carte Postale: de Socrate à Freud et au-delà (Paris: Flammarion, 1980), 449/ジャック・デリダ「真実の配達人」清水正豊崎光一訳、『現代思想』(デリダ読本――手紙・家族・署名)、第一〇巻第三号(臨時増刊)、青土社、一九八二年二月、二七頁〕.)。デリダがみずから批判する仕草そのものを反復しているからといって、それだけで、そうした仕草の効果を告発する彼の批判が無効になるわけではない。しかし、それによって、そのような仕草を非難するデリダの言明は、当然問題視されることになるだろう。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、204~205; 「7 参照の枠組み ポー、ラカンデリダ」)



  • 一一時半に現実に復帰。からだは明確に固くなっており、疲れた感じがあった。やはり三時限分働くと相応に疲労するらしい。そもそもが人間が一日に六時間ほども義務に費やさなければならない世界が完璧に間違っているのだ。俺はこの主張を生涯捨てるつもりはない。本当には大してやりたくもない活動を毎日、生活の糧を得るためにがんばってこなさなければならない、そのために疲労し、肉体と精神をすり減らしている人が大多数である現状が、間違っていないわけがない。自明のことだ。というか、そうでない世界のあり方のほうが良いに決まっているということだ。現実がどうの理想がどうのという話ではない。良いか悪いかで言ったら、良いに決まっているということだ。もちろんこちらも多少の労働はこなし、昔に比べればそれにいくらかの楽しみを覚えるようにもなったけれど、しかし働く必要がなくなれば働かずにおのれのやるべきことをやるだろうし、義務的な労働が必然的に課せられる現今の世の中が間違っているという認識を放棄したことはない。そもそもがだいたいみんな、働きたくないと思っているわけだ。ところがその気持ちを、本当は働きたくないけど、まあ現実働かないと食っていけないし……文句言っててもしょうがないし……とか言って不承不承に飼い馴らし、薄めてしまう。それだけならまだ良いが、加えて、働きたくないという本音を直截に述べる者を怠け者だとか社会不適合者だとか言って糾弾し、排除し、あたかも自分たちが立派なつとめを果たしている正常者であるかのように装うわけだ。嘘をつかないでほしい。あなたたちだって、本当は働きたくないと思っていたはずではないのか? みずからの労働にやりがいを見出し、それをみずからなすべきこととして覚悟を持って引き受けている者は良い。しかし、そうではなく、本当は働きたくないと思っている者こそ、本当は働きたくないという真情をあけすけに吐露する者に反発する。それは、俺もみんなも我慢して頑張っているのにそれに同調しないやつはけしからんという形の単なる共同的ルサンチマンにすぎない。本当は働きたくないのだったら、本当は働きたくないと言うべきである。べつにわざわざ口に出さなくても良いが、すくなくとも自分のなかにその拒否心があることをただしく見据えておくべきである。本当は働きたくない、毎日しこしこ働かなければならないこの世は間違っているという根本的な世界認識を厳として維持しながら日々の労働を働いていくべきである。
  • 手のひらや背の筋などをしばらく揉んでから起き上がった。天気は晴れである。今日は立川の(……)家で父親の引退祝いという名目の飲み会がある。両親は車で行くようだが、こちらは車という乗り物があまり好きではないので電車に乗る。書店にも寄ってメルヴィル千石英世訳『白鯨』を入手したい。ついでにオリオン書房に残されているピエール・ルジャンドルの『真理の帝国』を買っても良い。宴会は五時からとか言われているらしいが、そんなにはやくからはじめることもあるまいとこちらは思っているので、六時過ぎくらいに着くつもりでいる。
  • 上階へ行ってもろもろ済ませると食事。ウインナーと白菜のソテーをおかずに米を食い、春菊と椎茸のスープを飲む。新聞には香港で「通識科」教育が削減されるとの報。一年の総時間数で言って半分に減らされるとあったと思う。批判的(批評的)思考力を養う、なんて教育はいらない、ということだ。正確な文言を忘れたけれど、かわりに、世界的視野を持った人材みたいなものを生み出すために、遵法精神とか愛国心とかについての教育を推進する方針だとあった。
  • 皿と風呂を洗って緑茶を用意。上階に上がってきたときにちょっとのあいだ立ち尽くして首を揉んでいたのだが、東の窓の向こうの宙に褐色の葉っぱがひらひらと、あまり間も空けず次々と流れていったので風があるようだ。玄関の外に落葉もひどく溜まっていると言う。この時季はどうしたって仕方がないだろう。何しろ掃いているそばから続々と新しいものが降ってくるのだから。自室に帰ると今日はFISHMANSではなく、AerosmithAerosmith's Greatest Hits』(https://music.amazon.co.jp/albums/B08CR8BW38)をまず流した。風呂を洗っているときに、ヒップホップという音楽形態を最初にやったのっていつの誰なんだろうと思い、RUN DMCとかいう連中が、八四年だったか忘れたがたしか八〇年代のうちにAerosmithの"Walk This Way"をカバーしてラップをやっていたはずでそれが元祖みたいな話を聞いたような気もするけれど、と思い出し、そこから"Same Old Song And Dance"に記憶が流れてなんとなく聞きたくなったのだった。『Aerosmith's Greatest Hits』というこのコカ・コーラの缶みたいな赤さのベスト盤はこちらが生まれてはじめて入手したハードロックの音源のひとつであり(Van Halenのベスト盤と同時に入手したので)、中学二年三年当時のこちらはこれをけっこうよく聞いていた。それで久しぶりに流してみたのだけれど、冒頭の"Dream On"のSteven Tylerの声がやたら若いのにまずちょっと驚いた。#2 "Same Old Song And Dance"の弾み方はいま聞いても悪くない。一四歳一五歳のあの頃は、音楽を聞くたびに何か特有の、「におい」としか言いようのないような感覚が空間に立ち籠め、醸し出されたものだった。もちろんそのにおいを嗅ぐことはもうできないし、どういう香りだったかを言いあらわすこともできない。
  • 今日の日記をまず書き出し、ここまで記述すると二時直前。
  • さらに一昨日の記事をちょっと書き足して完成させ、投稿したあと前日のことも四〇分ほど綴って三時が近づいた。五時の電車で行くつもりだったのでそろそろ休身せねばなるまいとベッドに移り、このときは本を読まずコンピューターを見ながら脹脛をほぐす。途中で母親が来て、もう行くから一緒に行こうよと言ったが断って休み続けた。四時二〇分に至ったところで起き上がり、身支度へ。歯磨きを済ませてから着替えである。シャツも薄手のものだったらけっこう数があるのだが、冬に着る類だと良いものがなく、仕方なく夏頃に「(……)」で買った淡い黄褐色みたいなストライプのものを選んだ。下はUnited Arrows green label relaxingで何年か前に買ったブルーグレーのズボン。それにモスグリーンのモッズコートを羽織るわけだがまだそれは着ず、椅子に座って音楽を聞いた。まずFISHMANS, "感謝(驚)"(『Oh! Mountain』: #8)。ドラムの低音部が自分のからだの鼓動もしくは脈動と親和するようで気持ちが良い。低音と言ってキックももちろんあるが、どうもスネアの残余というか、裏拍にこまかく入れたときなんかに音の消え際が低く響いていたようで、そちらに感応しがちだったと思う。曲が進むにつれて、ギター・キーボード・ベース・ドラムの四楽器の交錯をなるべくまとめて同時にとらえるように感覚を張ったのだが(ドストエフスキーの『悪霊』に、全身を耳にして、みたいな表現が何度か出てきたけれどそんな感じだ)、そうしてみるとこの組み合わせ、混じり方はやはりすごいのではないかと思われた。どこがどうすごいのかよくわからないのだが、入れ替わり立ち替わりの動きがなんだかとにかくめちゃくちゃ嵌まっていてこれ以上ないという感じがする。しかもおそらくリズム的にはものすごく完璧で機械のように正確、というわけでもないと思う。ギターのカッティングなんかには多少の揺らぎも見られるはずだ。だから(やはりそれゆえにということなのか?)、嵌まっているとは言いながらも、ガチガチに固まって接し合い摩擦し合うような窮屈さとか殺伐とした緊張感みたいなものがまるでない。前にも使った表現を繰りかえせば〈風通しが良い〉のだ。それでいてリズムもしくはビートとしてこれ以上なく調っているように感じられ、とにかく気持ちが良い。快楽主義としての音楽。これこそがバンド・ミュージックだ。
  • "感謝(驚)"を聞くともう猶予が三、四分しかなかったので何か短いものを聞いて終えようということで、空気公団の"電信"を流した(『こども』所収)。微光的な白いあかるさという感じのポップス。ギターのカッティングが本格的にはじまる直前の移行部、1Aの二周目に入るところだったと思うが、そこのキメがやたらと気持ち良くて好きだ。アンサンブルはサウンドもしくは音像としてボーカルの声や音楽性のわりに意外と厚い印象で、特にドラムのスネアなどドシャッという音になっておりフィルで連打されるとそれが際立つ。
  • 全体的に音がわりとよく見えた。音楽鑑賞を終えるとコンピューターを落としてリュックサックに入れる。帰りは車に乗るので道中音楽を聞こうと思ってそうしたのだが(いつからか外出中に音楽で耳を塞ぐことがまったくなくなったので、いまは携帯型ミュージックプレイヤーを持っていないのだ)、結局果たせなかった。それについてはのちほど。そうして上階に行くと食卓灯をつけておき、居間のカーテンを閉めて出発。
  • 玄関を出ると家の前や道路に落葉がたくさん伏して散らかっているのが即座に目に入る。道に出れば空は雲なく澄んで汚れなき縹一色、暮れ方でもはや残光もないが、電線と庭木のあいだに浮かんだ蜘蛛の姿が空を背後にはっきり映り、はるか果てに月もほとんど完成されて白々と明るい。林のなかには風の音がうごめいており、どこか近所で犬が大げさに鳴いていた。
  • 首もとが冷たいものの思ったほどではなかったしここでは吹くものもなかった。坂に折れると家の裏に(……)さんの姿があったのはやはり落葉掃除をしていたのだろう。曖昧に暗んだ人影に向けてこんばんはと挨拶したところで関電工の車がそばを上っていき声が通りにくくなったのでちょっと待ち、それから落葉がすごいですねとかけると、でも外人さんが来てやってくれるというような返事があった。誰のことなのかよくわからない。二、三年前に近くの家に異国の人が越してきたらしく、一度だけ遠目に挨拶を交わした記憶があるのだが、その人のことだろうか? 昨日もあれでしょう、あそこの……垣根を、切ってたでしょう、と手を差し伸べて言及しておき、ご苦労さまです、気をつけてといたわりで終えると、あちらもおなじ言葉を返してきた。
  • 関電工の人は坂の途中で停まって、光のなくなった街灯に向けて携帯を掲げ写真を撮っているようだった。その街灯が、単に明かりが点かなくなっただけでなくて首から上がなかったように見えたのだが気のせいだろうか? 葉を踏んで業者の背後を通り過ぎ、すこし進むと路面に褐色の粉がいっぱいに溜まっており、歩を置くたびに霜を潰すがごとくシャリシャリという音が立った。杉の落葉が崩れたものだろう。出口の近くで風が吹いたので目を上げると、頭上の枝先にわずか残った黄葉が蜘蛛の糸とともに青い空に揺れていた。
  • 駅ではホームの先のほうへ行き、乗るとすぐそこに立って手すりをつかんで瞑目した。乗り換えは間がなく、人々とともにすぐ目の前の車両に移るしかない。それから電車内を前へと歩いていき、からだを揺らされてよたよた踏み惑いながら車両を越え、三号車の三人席に落ち着いた。道中は手帳にメモ書きである。こちらの右隣はずっと空いていた。二つ右は路程も終盤になって老年に入るくらいの男性が座ったが、(……)で夫婦か恋人らしき若い男女が乗ってきたのに老人が立って席を空けた。そのときこちらはメモをすでに終えて徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、一九九七年)を読んでおり、長幼の順もしくは身体的堅牢さからいったらこちらが譲るべきところだったが、まああと一駅で俺も降りるし、前に立った老人もどうやらそれはおなじらしいしと見極めて、最後まで座り続けた。
  • 立川で三番線に降車。入れ替わりに乗る人々や階段に向かう人々のなかで柱に寄り、携帯を確認すると母親からの不在着信と留守メモが残っていた。聞くと電話をくれとのことだったがあとで連絡すれば良かろうと払って、四番線に着いた電車から降りてきた人々に混じって階段を上る。改札内もその外も群衆は多く、活気があったが、ほかよりもゆっくり歩いているためか、こちらの周りにはスペースが生まれがちだった。広場に出ると、電飾に彩られた植込みの段に乗って、親が間近で見守るなか光点のひとつに手指を触れさせている幼子がいた。フードを被って頭まで防寒しているその姿の、せいぜい三歳くらいだろう。こちらは左方に進み、オリオン書房に向かう。風が盛んに吹いて寒いが、からだが震えるほどの威力はまだないし、マフラーを出すのも面倒だったのでそのままだらだら歩いていった。モノレール駅の下をもぐるような通路からは昭和記念公園のほうへと続く道路が望まれ、地には車のライトがならび、宙にはマカロンみたいな形をしたオレンジ色の電灯が三々五々に浮いている。付近にはマンションらしく表面を無数の窓に区切られたビルがいくつか集まっており、その隙間は果てまで何も見えない黒に埋まって、背景の深さのために建物は妙に書き割りめいて厚みなく見えた。オリオン書房の入っているビルの前でも高架歩廊を縁取る柵に電飾が取りつけられ、化学的な緑色のネットワークがめぐらされたその合間を白いウイルスみたいな微光点がぱちぱち弾けて遊動的に動き回る趣向になっていた。モノレール線路下の広場の側の柵には青い装飾が見られる。
  • ビル内に入る。SUIT SELECTはいつも往年のモダンジャズを流している。このときはおそらくピアノトリオ編成の演奏の途中、ベースがソロを取っているところだった。そこを過ぎてエスカレーターに乗り、オリオン書房に入店。下に手をかざすと自動的に消毒剤が出る装置を使っておき、両手をこすり合わせながら文庫の区画へ。光文社古典新訳をちょっと見たあと講談社文芸文庫のところに行くと、棚の最下段にメルヴィル千石英世訳『白鯨』が上下巻とも問題なく見つかった。文芸文庫の棚には、ちょうど目の高さにあたるくらいの段を二、三個使って多和田葉子の特集が組まれていた。柳美里が全米図書協会賞みたいなやつに選ばれたので、二年くらい前に『献灯使』でおなじ賞をもらった多和田葉子も再紹介しようということではないか。
  • メルヴィルを保持すると(片方で二一〇〇円という、文庫にしては馬鹿げた値段だ)ルジャンドルを買うべく哲学のほうへ。途中、人文系の区画の入口にある海外文学の特集棚を見て、前回来たときにも見つけたサリヴァンの『精神医学私記』みたいな本を読んでみたいなとふたたび思った。しかしなぜこちらがこの本に興味を持っているのかはあまりよくわからない。精神医学や精神分析にも通り一遍の関心はあるが、いまだそれは通り一遍程度のものにすぎないはずである。やはり「私記」の文字なのだろうか。結局のところこちらの関心は、日記とか自伝とか、主体としての私自身を観察分析して綴ったテクストに強く向くということなのだろうか。そのわりにいままですごく好きになった作家や小説作品に、いわゆる私小説や自伝的なものはあまりない気がするのだが(梶井基次郎プルーストと後期のロラン・バルトくらいではないか?)。
  • それで四冊を持って会計へ。袋はいらないと断り、品物を受け取るとエスカレーター前のスペースでリュックサックに荷物を整理した。マフラーを手に持って下階へ。SUIT SELECTからは今度はトランペットが流れ出していて、六四年くらいの(つまり『Four & More』あたりの)Miles Davisみたいな印象を得もしたのだけれど、Miles Davisよりもテクニカルな感じもしたし曲も哀愁的なものだったので、そうなるとやはりFreddie Hubbardとかなのか? と思った。ここでトランペットを聞くと毎回Freddie Hubbardのように聞こえている気がするのだけれど。
  • 外に出るとマフラーを首に巻いて駅方面へ。モノレール駅の下からひろいスペースに出ると、凪いだ水みたいな黒を湛えた東の大きな空に月がぽっかり刳り抜かれたように白く照っている。歩きながら右方を見ればこちらは一度も入ったことがないが「LABI」といって電化製品か何か扱うらしきビルの前にも青と白のイルミネーションがずいぶんたくさん設えられていて、地から湧きのぼる樹木草木の形象と言っても良いし宙から垂れ流れる小滝の凍った形と言っても良いのだが、ともかく縦の線がいくつも繁栄しているその向こうにひとつ、蝶を模したようで左右にひらいた翅を型成す白く大きな姿があった。
  • LUMINEの地階で何か菓子を買っていくつもりだった。持っていくたびに叔父叔母からは気遣いとか手土産とかはいらないと言われているが、せっかくなのでといつも甘味を提げて出向く。それで駅舎からLUMINEの二階に入り、United Arrowsの店舗を通り抜けて(Monkey Timeの濃褐色のブルゾンみたいなやつが良さそうだったが、どうせ高いに決まっている)下りのエスカレーターへ。なんとなくシュークリームでも買えば良いのではないかという気分になっており、見分するのも面倒だからCozy Cornerで良いだろうと決めこんで店舗を探したところが見当たらず、エスカレーター口のフロアマップを見ても名前がないのでどうもなくなったらしい。それでどうするかと見回っていると、Morozoffのショーケースのなかにカスタードプリンがたくさんならんでいるのを見つけて、一番人気とかあったはずだから芸がない選択だが数も足りるしもうこれで良いだろうと決断し、カウンターに寄って女性店員に注文した(八つ、と言ったのを四つと聞き取られて、慌ててあ、いや四つじゃなくて八つ、八個ですと言い直した)。品物は四個ずつ二つの箱に収められ、重くなるのでと店員は袋を二重にしてくれた。会計をして礼を言って辞去すると、エスカレーターを上って二階にもどり、ふたたび駅舎のなかに出たところで脇に寄って財布を仕舞い、母親に電話をかけた。いまから行くと伝えて切り、南口へ。人波は相変わらずの勢力である。高架歩廊に出ずその前で階段に折れると、中央に走って空間を分けている銀色の手すり三本の影が頭上から降る光に抜かれて段の上に映り、屈折しながら下まで続く線の模様になっていた。南口のほうには久しぶりに来たが、ecuteの一階にあるSignというカフェバーみたいな店がまだ残っていて、この店もけっこう長いなと思った。たしか一度だけ入った覚えがある。(……)と待ち合わせていたはずだから、たぶん大学三年生くらいのことだろう。
  • 角を折れて西へ。道の向かいのローソンの上に夢庵食堂があって、(……)が大阪に行く前だったかここで飯を食って、当時彼が書いていた『Steins; Gate』の二次創作小説を読んだのだったと思い出した。その通りの途中にはGateway Studioがあるのだが、そのビルを見ればGatewayの名はなく、代わりにStudio neiとかいう全然聞いたことのないスタジオ名が表示されていた。しかし対岸から窓の向こうを窺う限りでは内装に変化はなさそうだったし、ただ名前が変わっただけなのだろうか。
  • 何人かに抜かされながらプリンの袋を提げてだらだら歩いていくあいだ、到来するものが神とか千年王国とか良いものだとは限らず、厄災の類であることもままあるわけだろうと思った。念頭に置かれていたのはたとえば地震で、徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』のなかでわずかに触れられていた一七五五年のリスボン地震や、東日本大震災のことを思っていた(新型コロナウイルスのことはこのときはまったく頭に浮かばなかった)。それが良いものであれ悪いものであれ、いずれ何かが来るということ、それもおそらくは大きな何かが来るということはきっと間違いがない。世界においても個人の生においても、歴史というものはそういう風にできている。それが何であれのっぴきならない何かが来たときのために、やはり日々鍛錬と精進と探究を重ね、心身と頭を整えてそなえておこうと思った。
  • (……)家に着くとインターフォンを鳴らした。扉の中央に取りつけられているクリスマス的な飾りを見ながら待っていたが、一度では反応がなかったのでもう一度鳴らすと、(……)らしき声ではーい、と出たのでこんばんはと低く告げた。それで扉を開けてもらい、これ手土産、と無愛想に言ってプリンの袋を渡すと、靴を脱いでお邪魔しますと床に上がった。先に居間というか飯を食う部屋のほうに行って挨拶とともに荷物を下ろし、もどって洗面所で手を洗っておく。そうして座敷のほうに用意された長めのテーブルの端に胡座で座った。左、卓の短辺には(……)ちゃん(叔父)が就き、向かいは父親である。二人はもうとうにできあがっていた。(……)ちゃんには元気そうだと言われ、のちには髭を放置していることを指してテロリストみたいだとも言われたのだが、髭面=テロリストというこの連想式はいったいどこから来たものなのだろう。テレビや新聞で報道される「テロリスト」(それはおそらく、二一世紀に入って以降はとりわけ、中近東やイスラーム圏の人間にかたよっているはずだ)の画像がそういう風貌に収まっているということなのだろうか。いずれにせよこの席では、兄貴のほうが人相悪いよと苦笑を返しておいた。すると兄とはもう先ほど、一回ビデオ通話をつなげたと言う。
  • (……)さん(叔母)が次々と飯を運んで出してくれた。彼女だけがこうしてせわしなく立ち回り給仕役をこなさなければならない状況に思うところもないではないが、とりあえずは出されたものをどんどん食って腹を満たしていった。品はカニや鮮魚の刺し身、唐揚げ、エビチリの類、明緑色が基調となった生サラダ、モツ煮込み、餅米を使った炊き込みご飯、といった感じである。炊き込みご飯がもちもちと弾力があって柔らかく、一番美味かった。意外とはやく満腹になって、買ってきたプリンをデザートに食う気が起こらなかったくらいだ。
  • 一応父親の仕事引退祝いという名目でひらかれた飲み会なので、父親が主役という扱いで、(……)ちゃんがそちらに話を振って父親が過去のことを語ったりする場面が多かったのだが、酒を吸って顔を赤くしながら酔漢のトーンでもって昔語りをしたり何かしらについての考えを述べたりするさまを見聞きしていると、なんというかいかにも酔っ払いの中年男性という感じを受けた。持論や訓戒を得々と垂れる男性という典型的な像の現出で、ロラン・バルトの言葉を借りれば「ディスクールを聞かせている」という印象がめちゃくちゃに強い(野崎歓訳『ロラン・バルト講義集成1 いかにしてともに生きるか』)。俺もときにはわりとこういう感じになってるんだろうなあ、嫌だなあ、と思った。「ディスクールを聞かせている」という印象のなかにはもちろん権威性のニュアンスがふくまれているわけだが、女性は酔っ払ってもあまりこういう感覚を与える言動をしないような気がするし(とはいえ酒を飲む女性と席をともにしたことなどほぼないので、事例データがすくなすぎる)、(……)ちゃんも同種の言語使用をしてはいたものの、そこまで強く「ディスクールを聞かせている」という感じはしなかった。それは彼の平常の振舞い方や性格・人間性といった周辺情報(すなわち文脈)が影響してもいるだろうし、その場に現前した声や口調のトーンの問題でもあるだろうし、さらにはこちらが(……)ちゃんよりも父親のほうを鬱陶しく思っているという個人的事情が関係してもいるかもしれない(最後の点がただしいとすれば、やはりそこにはエディプス・コンプレックスの働きがあるのだろうか?)。ただいずれにしてもこのときには、父親や(……)ちゃんが何かを語ろうとしても(……)が話を聞かずにふざけたことを言ったり、ほかの人もべつの話題を口にしたりしていて、それに対して(……)ちゃんが、いやお前ら、いま(……)ちゃんが真面目な話をしてんだから、今日は(……)ちゃんが主役なんだから、と突っこんで一座に笑いが起こる、という展開が多く、つまりは彼らのディスクールがだいたいその都度脱臼させられていたので良かった。
  • ところでたとえば塾講師もそうだが、一般に教育に関わる教師というのは、基本的にはまさに「ディスクールを聞かせる」ことが仕事となっている。そしてこちらはなるべくならそういう言動を提示したくない。それは良いとか悪いとか必要とか不必要とか立派とか矮小とかいうことではなく、ただこちらの個人的な性分としてなんか嫌だな、自分がそういうことをやっていたらうんざりする、ということだ。ところがこちらは正職ではないにせよ塾講師として働いている。学習塾という時空は「ディスクールを聞かせる」ことが許されるどころかむしろそれがふさわしい場面として設定され、整えられ、促進されてすらいるので、まだ個人における強引さがすくないし、こちらもあまり意識することがないわけだけれど、本当はやっぱり俺は塾講師をやめたほうが良いんだろうなと思う。
  • (……)ちゃんは以前から(……)ちゃんほど良い人はいないと父親のことを常にべた褒めしており、(……)ちゃんが婿に来てくれなきゃ(……)家はどうなってたかわからない、ひとつの会社を何十年もずっと真面目に勤め上げて、外から来たけど地域にもよく関わって馴染む努力をして、いまじゃ欠かせない人になってる、本当にすごい、というようなことをこのときも熱を籠めて口にした。(……)さんもそのあたりは同感らしく、(……)ちゃんじゃなきゃ(……)家(彼女は母親の実妹なのでもともと(……)の出自である)は成り立たなかった、(……)ちゃんが来てくれて良かった、本当に感謝していると礼を述べ、そのように持ち上げられた父親は(自分で過去語りなどをしていた段階からもすでに幾度か)涙を催していたのだが、のちほど(……)さんが引退祝いのプレゼントとして花と靴下と入浴剤を持ってきて贈呈し、みんなで拍手を合わせたときなどは真正の感涙にむせび泣いていた。そこに母親が引きつったように笑いながら(妙に泣き笑いに近いようなトーンで)、奥さんは何もしてない、ほんとは奥さんが用意しなきゃいけないのに、とか叫んで自虐したのはなかなか面白かった。それを言ったら息子であるこちらもそうで、還暦のときには酒とヘミングウェイの文庫本を贈った記憶があるが、今回はまあべつに良いかと不人情に払ったのだった。正直に言ってここ近年の家内での父親の振舞い方を見ていると、そういう気もあまり起こらない。五月には大声での一悶着もあったわけだけれど、それ以来は特にそうだ。(……)ちゃんや(……)さんが言っていることはその通りなのだろうと思うし、婿の身で家をつくり支え保ったこともこちらと兄を育てたことも長く働いたことも地域に深く関わっていることもどれも立派ですごいことだろうとは思うのだが、(……)の二人が外から見ていていかに立派で無害で善良な人間像をつくっていようと、家内でともに暮らしているこちらと母親にはもちろんそれだけではない具体的な言動が見えているわけで、だからこちらはこの席であまり手放しに祝うような気持ちにはならず白けたような気分になっていたし、母親もたぶんある程度はそうだっただろう。
  • (……)には仕事のことをいくらか聞いた。(……)
  • のちほど(……)が帰ってきてこちらの横に座り、飯を食っていた。お前もう二九かと訊くと、じきにそうだと言う。問い返されたのでこちらは次で三一だと言えば、二個しか違わないんだっけとなぜかいまさら驚いた反応があった。こちらは九〇年生まれで、あちらは九二年だと言う。あとになって仕事について(……)訊いた(……)。その(……)は、ロシアの兄夫婦と通話をつなげた際には((……)が高校に入学したときに買ったとかいう古いコンピューターを使ったのであまり動作が良くなかった)画面の前に陣取って、(……)ちゃんや(……)くんが映るのに、やはり酒を飲んでいくらかテンションが上がったのか妙なノリで色々と声をかけていた(なぜか知らないが、(……)、強くなれ、と強い成長を望むはげましを何度も繰りかえしていた)。せっかく通話がつながったのに(……)はそんな調子だし、酒飲み二人は奥で杯を交わしながらうだうだ喋っているし、ほかの連中も遠目に画面を見守るくらいで場をまとめる者が誰もおらず、コンピューターが鈍くて話しづらいこともあって空気はグダグダなこと極まりない。それで仕方ねえなと思いながら、(……)がトイレか何かで離れた隙にこちらが画面の前に入り、もうこっちも九時半だし(たしかそのくらいの時間だったはずだ)あまり時間を取らせても悪いからもう終わろうと思うけど、と言って、手を上げながら背後に向けて、ロシアにメッセージを伝えたい人は画面の前で、と呼びかけた。それで母親や父親がようやく動いて兄夫婦といくらか話していたようだ。その後も父親がしばらく画面前にとどまり、まさしく形なしといった感じでデレデレと(……)ちゃんや(……)くんに向けて声をかけていた。
  • こちらは食後、(……)さんにばかりやってもらうのも悪いし茶ぐらい自分でつぐわというわけで、ポットのあるほうに移動して茶を飲んだ。そこは座敷からそのままつながった普段の食事スペースで、いまは点いていないがテレビがあり、掘り炬燵が据えられた脇にポットが置かれてある。茶をつぐといつもは(……)ちゃんが就いている座椅子に無断でからだを預け、新聞をいくらか覗いた。東京新聞である。我が家は読売だが、時の政権に対する批評的視点からすれば東京新聞のほうが良いとは言われていると思う。紙面の構成にはけっこう違いがあり、東京新聞はまず社説のページに一緒に市井の人の声が載せられていたし、国際面もかなりあと、たしか書評欄よりも後ろだった(いつもそうなのかはわからないが)。見ているときは何ら疑問を持たなかったが、この日は土曜日だったので東京新聞はいつも土曜に書評を載せるのだろうか(読売は日曜である)。書評子としては佐藤卓己が『日本国憲法のお誕生』とかいう本を取り上げており、また斎藤幸平という人が株式会社の世界史みたいな本を紹介していたが、この人はたしかマルクス主義方面の研究者で、『大洪水のあとに』とかいう濃青のデザインの本を出したときに、ジジェクに推薦文をもらったとか言って喜んでいた人ではなかったか?(いま検索したところ、大洪水の、あとではなくて、『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』という本だった)。
  • それで茶を飲んでいると(……)も来たので彼女にも茶をついでやり、そのうちになんだか疲れたしやることもないので身を低くして炬燵のなかにからだを入れ、休身に入った。掘り炬燵なので穴の上にからだを渡すようにして寝そべらなければならず、あまり楽とは言えない。しかしその状態も長くは続かず、一〇時を回ったあたりで母親がそろそろ帰ろうよと父親に言い出し、こちらにも声をかけてくるのに、もう終わろうったってどうせまだ続くんだからとこちらはこたえていたが、意外にも実際まもなくおひらきとなった。なぜなのかわからないが、このあたりになるとこちらはやたらと喉が痛くなって声がしわがれていた。父親も同様らしく頻りに痰を取るようにして喉を鳴らしていたし、(……)もいくらか喉の感じが変になっているような様子だった。それで風邪を引いたか、あるいはコロナウイルスにかかったかと思ったが、もしコロナウイルスだとするとこの夜ここに集まった人間は全員アウトだろう。
  • ともかく挨拶と礼を交わして外へ。(……)の誘導で母親が車を道に出し、こちらは後部座席に乗った。(……)家の一同と別れ走りはじめてすぐに、両親がまたなんとか言ってクソみたいにくだらない小競り合いをはじめたのでうんざりした。いくら外面が良くて立派に見えようと、第三者の目がなければこれである。とりわけ父親が酔っ払っているからその言動の高圧性が度を増していて厭悪を禁じえない。客観的に見れば大した言い合いではなく、むしろまったくささやかでほとんど無害なものに思われるかもしれないし、もっとひどいやりとりが常態となっている家庭も世には多くあるのだと思うから、こちらがいくらか過敏なのかもしれないが、それはそれとして不快なことに間違いはない。やりとりの途中で父親が一度、信号か何かで停止するときに、ほらお前、停めろ、はやく、みたいな感じで運転している母親に上から命令したときがあり、ちょっと経ってから母親がそれを振り返って、停めろ、なんてあんな偉そうに言わなくてもいいじゃない、と文句を向けたのだけれど、すると父親は、停めろなんて俺がいつ言ったんだよ、え? 言ってないじゃねえか、みたいな感じでいくらか気色ばんだので、さすがに思わず、いや、さっき普通に言ってたけどねと口を挟んでしまった。まるで白痴である。自分が数分前に口にした言葉すら覚えていないのだから。あるいは覚えていながらも、売り言葉に買い言葉みたいな感じで、母親を黙らせるために威圧的に振舞い強弁を通そうとしたのかもしれないが、もしそれが真実なのだとしたら覚えていなかったよりもさらに悪く、できるだけすみやかに死ねば良いと思う。
  • こちらはこういうことになって不愉快な思いをさせられるだろうということがわかりきっていたので、音楽で耳を塞ぐためにコンピューターと外付けハードディスクを持ってきたのだった。それで、こんなくだらない言葉と声を聞かされていることはない、さっさと聴覚野からこれらの音声的汚物を排除しようというわけで、車に乗った直後からコンピューターを取り出しスイッチを押し、イヤフォンもつないで準備をしていたのだけれど、いかんせん老体の機械なので動作が遅い。やっとiTunesが準備されてBill Evans Trioを流せたと思ったら、一曲目の"Gloria's Step (take 1, interrupted)"が終わらないうちにはやくも停まってしまい、見れば画面にはバッテリー切れの表示が出ている。マジかよと思った。もう相当消耗しているから新調しなくてはと思ってはいたが、ここまでだとは予想していなかった。すくなくとも数か月前には電源から離れた状態でも一時間ほどは保っていたはずで、その記憶をもとに自宅までの一時間くらいのあいだ、大部分は音楽を聞けるだろうというつもりでいたのだ。しかしこうなってはどうしようもない。イヤフォンはカナル型で音楽を流さずとも周囲の音をけっこう遮断してくれるのでそのままつけておくことにして、瞑想的な静止状態に入った。というのも先ほど触れたように、少々体調が乱れていたからだ。喉は痛かったし、車に乗った直後からはちょっと気持ち悪さもあった(こちらは自動車のなかという空間の、狭苦しい密閉感もそうだが、特ににおいが苦手で酔うことが多い)。それでできるだけ心身を休めようというわけで目をつぶり、なるべくからだを動かさないようにした。それは我ながらかなりの徹底ぶりで、呼吸による避けられない微動を除いては、口のなかの舌の位置もなるべく動かさないようにしたし、唾を飲むのもできるだけ我慢した。そうして眠れれば手っ取り早かったのだろうが、しかし眠りに落ちることはできず、とはいえ父親もじきに酩酊に引かれて眠ったようでくだらない言葉のやりとりは上記以上には起こらず、ラジオの音声が占領する沈黙が続いたので良かった。途中までは身体内部の各所にノイズがあったし、気持ち悪さもなかなか消えずに名残っていて弱い苦しみが続いていたのだが、たぶん三〇分か四〇分くらい経ったあたりで違うフェイズに入った瞬間が訪れ、頭のなかが白く明晰に晴れるとともに肉体内部の感覚が明確になめらかになり、引っかかりなくつながり流れる一枚の平面みたいな感じにまとまった。気持ち悪さもなくなった。それでやっぱり瞑想ってすげえな、やはりまた習慣的にやるようにしようと思った。ラジオの音声はあまりはっきりとは聞こえていなかったのだが、途中で一度、Stevie Wonderの"Golden Lady"が流れた時間はあった。また、クレイジーケンバンドの人がやっているラジオがはじまったときは聞き取れて、これがはじまったということはたぶんいま一一時だろう、一〇時過ぎには出たからそろそろ着くはずだと思っていると、じきに左右への揺れが大きくなってまた気持ち悪くなってきたのだが、おそらくこれは家に続く坂を通っている揺れではないか、そうであってほしいと願って待ったところ、果たしてまもなく車は停まって到着したことが知らされた。目をひらいても気持ち悪さが残っていて吐き気があったのだが、喉はわりと回復していたしからだの全体的な感じは上々だった。降りると荷物をいくらか持って家内に運び、洗面所で手を洗った。父親はソファで力尽きていた。
  • クレイジーケンバンドのラジオでわりと良い音楽がかかったような記憶があったのでいま(一一月三〇日の夜)検索してみたのだが、「クレイジーケンバンド ラジオショウ HONMOKU RED HOT STREET」というのが当該番組で、"Golden Lady"が流れたのもこの番組内だったようだ。ほか、番組のブログ記事(https://blog.fmyokohama.jp/ckb/2020/11/20201128-2c71.html)によればOMC "How Bizarre"という曲もかかったようなのでYouTubeで聞いてみたが、車中でこれを認識した記憶はない。ところでこのブログの一一月二四日の記事に、「Roy Ayers: NPR Music Tiny Desk Concert」(https://www.youtube.com/watch?v=CghK8iVUHBs)という動画が紹介されていたので、Roy Ayersってまだ存命の人間だったのかと思ってちょっと聞いてみた。この映像の時点で七八歳だったらしいが、矍鑠としていて元気そうだし、手もはやく、八〇手前でこれだけ弾けるというのはすごい。すばらしい。Anthony Jacksonの息子か? みたいな風貌の人がベースを弾いているが(つまり顔が似ているけれど、彼よりからだが小さいということだ)、これはTrevor Allenという人らしい。さらについでに、その下の記事で紹介されていた「Tower of Power: NPR Music Tiny Desk Concert」(https://www.youtube.com/watch?v=IDksWTzZQ2c)も見てみたのだが、これもすばらしい。というかTower Of Powerが現役でまだ続いていること自体が驚きなのだけれど、ベースがクソ強力で、これFrancis Rocco Prestiaなのかな、まだ生きているのかなと思ったところ、コメント欄を見るとそうではなく、Rocco Prestiaはちょうど今年の九月に亡くなっていたらしい。この動画で弾いているのはMarc van Wageningenという人らしく(最初、Jeff Berlinだと言っている人がいて、似ているが違うと訂正されていた)、いまもメンバーとしてやっているようだ。一音一音の粒立ちとかブリブリした弾力感とかはFrancis Rocco Prestiaと比べても遜色ないのではないか。ボーカルはMarcus Scottという人のようで、高音がときにトレブリーだがかなり高いところまで出るし、歌は力強くてうまい。ドラムの姿がホーンセクションに隠れてほとんど見えないのでDavid Garibaldiなのかよくわからず、音を聞いても判別できるほどの耳がこちらにないし、あまりひろくない室での演奏だからそうバカスカ叩けないわけで抑え気味でもあるのだが、コメント欄によればGaribaldiだというし、わずかに垣間見える顔を画像検索で出てきたものと照らしてもたしかにそのようだ。
  • この日のことに話をもどす。自室に帰るとからだを休めようというわけで、ベッドに転がって徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、一九九七年)を読んだ。零時半頃になって入浴へ。入浴中に何か考えたことがあった気がするが忘れた。もどってだらだらしたあとは二時過ぎから前日の日記を綴って完成させている。この日から、各日の記事を仕上げるまでにどれくらいの時間がかかったのかも計算して記録することにした。作文として記録されている時間のうち、必ずしもいつも文章作成のみに傾注しているとは限らず、途中でウェブに寄り道して調べ物をしたりしていることもままあるので目安に過ぎないが、一一月二七日の記事には合わせて一時間三九分を費やしている。分量もさほどでなかったし、まあはやいほうだろう。
  • その後はまただらだらしたりして過ごしたようで、消灯が退歩してかなり遅くなってしまったが、就寝前に瞑想をおこなった。消灯後に瞑想をやってから寝ることを新たな習慣として据える。ただ、この日の消灯は四時四四分で、そのくらい深くなると、というか一日活動してきて最後にやるとなると、当然疲れていて眠くなるわけで、だからこのときも一六分しか座れなかった。


・読み書き
 12:55 - 13:55 = 1時間(2020/11/28, Sat.)
 13:56 - 14:06 = 10分(2020/11/26, Thu.; 完成)
 14:16 - 14:54 = 38分(2020/11/27, Fri.)
 17:34 - 17:44 = 10分(徳永: 98 - 102)
 23:54 - 24:21 = 27分(徳永: 102 - 108)
 26:10 - 26:57 = 47分(2020/11/27, Fri.; 完成)
 計: 3時間12分

  • 2020/11/28, Sat. / 2020/11/26, Thu.(完成; 2時間44分) / 2020/11/27, Fri.(完成; 1時間39分)
  • 徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、一九九七年): 98 - 108


・BGM


・音楽
 16:38 - 16:49 = 11分

  • FISHMANS, "感謝(驚)"(『Oh! Mountain』: #8)
  • 空気公団, "電信"(『こども』: #5)