2020/12/27, Sun.

 不完全な言語がたまたま存在するのではなく、言語とは当初より不可避的に不完全であり、その欠損をおおい隠す衣装として修辞形式が存在すること。ただし、そのような修辞形式があまりにも所与のものとなっているため、我々は日常、たとえば「椅子の脚」という表現に顕著なように、本来ならば隠喩であったものをいまではすっかり字義と思い込んでいること。ただしマグリット的なシュールレアリスムの過剰性においては、逆にまさしく「脚の生えた椅子」を隠喩でなく字義として誤読するよう要請されていること。
 右を脱修辞学の根本とするならば、ことは第二部第七章に収められたデビュー論文「象たちの解体――『ダニエル・デロンダ』の二重読み」(初出一九七八年)にもそっくりあてはまる。チェイスはこのジョージ・エリオットの長編のうちに、いわばソフォクレスの『オイディプス王』がすでに内包していたような、物語学的逆説の典型を見るのだが、ワーズワス論で彼女がこだわった言語の字義性/隠喩性の循環は、ここにおける物語の原因/結果の循環をも照らし出すだろう。たとえば『オイディプス王』の場合、オイディプスが父王を知らぬ間に殺していて、これも知らずのうちに母と結婚するというのが通常の「事件の連鎖[ストーリィ]だが、これを文字どおりそのまま並べたのでは、何の盛り上がりもなければ発見の驚きもない。したがって、物語作者は少なくとも主人公オイディプスだけには真相を隠し、最後になって最も効果的にすべてが発覚するような順序に、いわばひとつのドラマティック・アイロニーのかたちに「語りの構成[ディスコース]」を仕組む。一方チェイスは、同様なストーリイとディスコースのからみが『ダニエル・デロンダ』に顕著だという。デロンダはユダヤ人として生まれたが、この小説の妙味は、そのような主人公の出生の秘密が、物語の展開とともに明かされていくところにある。冒頭から出生が明かされては何の興味もわくことはない、むしろ物語の効果から逆算する形で出生という起源が設定されたのだ。作中メイリックの書簡の言葉を借りれば、デロンダの出生はもちろん彼の現在を保証してはいるものの、同時の彼の出生は物語全体から逆産出された結果、要するに「効果の結果」である。「事件の連鎖[ストーリィ]」を言語の字義性にたとえるならば、「語りの構成[ディスコース]」は字義が隠喩化を受け入れる過程に相当する。だが、我々が往々にして字義を隠喩と、隠喩を字義と誤読してしまうように、物語においてどこからどこまでがストーリイを成し、どこからどこまでがディスコースの仕業であるのか、にわかに読み分けるのは難しい。オイディプスの父殺しや近親相姦さえ、単に物語学的要請だったふしがみられる。我々は、ストーリイを軸とする読みとディスコースを軸とする読みをからみあわせ「二重の読み[ダブル・リーディング]」に徹底するしか道はない。そして、そのような作業こそ、いうまでもなく物語の脱修辞学[ディコンポジション]なのである。
 (巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』(松柏社、二〇〇〇年)、139~140; 第二部「現在批評のカリキュラム」; 第四章「ディスフィギュレーション宣言 シンシア・チェイス『比喩の解体』を読む」)



  • またしても離床が正午を越えてしまった。滞在は八時間半。よろしくはない。意識をとりもどしたあと、確実にからだを起こすにはどうすれば良いのか、良い方法がないだろうか。洗面所でうがいをしたり、トイレで尿を放ったりしてきてから瞑想。ともかくも起床後の瞑想はかならずやるようにはしたい。
  • 身体感覚をなめらかにして目をひらくと、一八分が経っていた。体感的にはもっと座っていると思ったのだが。最近はそういうことが多い。実際の数的時間の経過よりも長く瞑想したように感じられる。
  • 上階へ。煮込んだ蕎麦などで食事。新聞は書評面を見る。各書評委員が今年の三冊を上げていて、けっこう興味を惹かれる本も見られる。ページを切り取っておいたので、あとでメモしておくつもり(いまは切り取ったものを自室に持って帰ってくるのを忘れてしまった)。
  • 食後、風呂洗い。蓋がちょっと汚れていたので(おそらく髪染めではないか?)、また縁のほうがすこしぬるぬるしていたので擦っていると母親が来て礼を言いながら、マットの縁もぬるぬるするから擦ってくれと言うので断った。そんなにいっぺんにやる必要もあるまい。今日は蓋と排水溝カバーと鏡の前のものを置く台みたいなスペースだけで充分。
  • 父親は台所で母親に頼まれてずっと冷凍してあった鹿の肉を捌いていた。帰室。今日のことを五分だけ書いたあと、便意があったので上階へ。用を足すとともに茶を支度。もどるときに書評ページも持ってきたので興味を惹かれるタイトルを順不同でメモしておく。
  • 加藤聖文という人が石井妙子『女帝 小池百合子』を挙げて、「単なる暴露本ではな」く、「歴史資料としても耐えうる時代の証言」だと言っている。苅部直は一冊目に田島列島『水は海に向かって流れる』を挙げている。松沢弘陽の書は、「日本思想史分野での今年最大の収穫」だという。アーノルド・ゼイブル『カフェ・シェヘラザード』は三中信宏という人の選で、「メルボルンのカフェに集まるユダヤホロコースト生存者たちのモノローグ本」とあっては読まないわけにいかない。くどうれいんから東慎一郎までは山内志朗の三冊で、『ルネサンスの数学思想』は「本年度の思想史関連書の白眉と思う。圧倒的力量を示す本だ。この本は紛うことなく世界一流である。本が輝いている」と絶賛している。マシュー・スタンレーを挙げているのは仲野徹という人。尾崎真理子は古井由吉『われもまた天に』を一冊目に持ってきている。三冊目のエリック・ヴュイヤールは、「ヒトラーによるオーストリア併合までの経緯を、極限まで断片化した事実だけを精緻に積み上げ、文学作品とした。初めて出会った真の歴史小説」とのこと。
  • 書評欄の入り口ページ下部には岩波書店の広告があって、『ショパン全書簡』が載っているが、パリ時代の上下巻でそれぞれ二万円もする。
  • ここまで記述すると二時半。今日は「(……)」の会。しかし課題書のメルヴィル『白鯨』上巻をまだ読み終えていない。
  • 二四日から二六日の記事をもうブログに投稿してしまった。前から順番に投稿するつもりでいたのだけれど、もう面倒臭いので、完成した日からさっさと公開してしまえば良いだろう。日課記録をブログに載せるのもやめた。検閲をほどこして投稿するあいだのBGMは小沢健二犬は吠えるがキャラバンは進む』。そしてそのまま柔軟へ。"天使たちのシーン"はやはりすばらしいのではないか。こういう感じのループしながらだんだん進行していく曲をつくって弾き語りたい。
  • わずかばかりの調身を終えると音読。四五分で「英語」の一五七番から二〇〇番まで。太腿や腰がこごっていて椅子に座っていると煩わしかったので、途中で立って足先を掴み、それを背のほうに引っ張り上げる形の柔軟をやりながら読んだ。これをうまく活用してからだの角度をちょっと変えれば、太腿や脚だけでなく、脇腹や背中のほうも伸ばすことができる。あとはいつもどおりダンベル。BGMはThelonious Monk『Solo Monk』に変えた。
  • ベッドに仰向いて書見。ハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 上』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)。五時まで一時間ほど。六一五ページまで読み進めたので、解説を除けばあと二〇ページ。会合は九時からとなったのでなんとか読了できるのではないか。この小説の話者イシュメールは、大きな物事を「運命」として言及することがかなり多いような気がする。
  • 五時で上へ。アイロン掛け。自分のワイシャツを、べつにかけなくても皺のつかないタイプなのでほぼ必要ないのだが、一応ちょっと均しておく。あとハンカチ一枚。それから台所へ。鹿肉を焼くらしいが、こちらはこちらで勝手に卵でも焼いて食おうと思っていた。食器乾燥機のなかの皿などをいちいち運んで戸棚などに整理しておき、流し台に放置されていたものを洗って片づけると、洗い桶も綺麗にしてキャベツをスライスした。大根も同様に。それを水に浸けておくと、鹿と合わせるべく切られたタマネギを炒める。母親はそれを切っただけで台所から出て、(……)さんに電話をかけたり(何か届け物をしてくれたよう)、黙りこくって妙に熱心にスマートフォンを見つめたりしていた。加熱したタマネギを皿に取っておくと、冷蔵庫の卵をパックから出して置き場に設置しておき、パックを潰してひらかないようにセロテープで留めて捨てておくと、べつのフライパンで二つ焼いた。それを米に乗せ、生野菜や昨日買ってきた即席の味噌汁とともに食事。新聞からコロナウイルス関連の報を読む。医療体制はけっこうやばいというか、ここから感染者重症者が増えるとマジでやばいくらいのところまで来ているよう。東京都の病床使用率は五〇パーセントを超えていた。大阪が一番高いようで、六三パーセントくらいだったと思う。また、イギリスで発見された例の変異種とやらが国内でも発見されたと。二五日にすでに五人出ていたらしいのだが、昨日の二六日には航空機のパイロットとその配偶者の人が感染しているのがわかったと言う。パイロットの人は飛行機運行上の都合で空港での検査を免除されていたらしい。
  • テレビは『笑点』を映していて、上がってきた父親がソファに就きながら前かがみになって妙に熱心に見ていた。食事を終えると洗い物を片づけて帰室し、ここまで書き足して六時半前。
  • ふたたび音読。今度は「記憶」。ナチス第三帝国関連の記述など。七時過ぎまで。それからベッドに投げ身してメルヴィル。解説を除いて一応上巻の最後まで読み終えることができた。終盤で五回目の「ピラミッド」の語が観察された。読んでいるあいだはゴルフボールで背をほぐしていたが、これはマジで良い。すごい。めちゃくちゃ柔らかくなる。
  • 八時過ぎに入浴に行くつもりだった。すこしだけ間があったのでまた音読。今度は「英語」のほう。ダンベルの持ち方も色々変えれば腕の各方面を温めることができる。そのほか音読しながらできるヨガ的柔軟の形を今度調べてみよう。八時を回って風呂へ。風呂のなかではこめかみや前頭部を揉みほぐした。頭蓋という場所は気づかぬうちに凝り固まっている。頭を洗う際、シャンプーをつけて擦るときにも、かなり念入りにがしがしやるようになった。そうするとだいぶすっきりする。
  • 出るともう九時頃。帰室し、コンピューターを持って隣室へ。LINEにアクセスすると(……)くんがちょっと待ってくださいと言っていてまだはじまっておらず、猶予があったので日記をわずかに書き足した。そうしてZOOMのURLが投稿されるとアクセスして参加。前回はおのおの全体的な感想を言っていってそれから個々の論点に入る、という感じだったと思うが、今回は最初からおのずと、それぞれここが良かったというのをどんどん言っていく進み方になった。翻訳がすごいというのはみんな言っていた。リズムにせよ言葉選びにせよ、かなり特殊な訳になっているのはまちがいないと思う。突然戯曲形式になって水夫たちが順繰りに喋っていくような章があるのだけれど、そのなかでひとりが、女ってのは天国だ楽園だみたいなことを語る際、「~しちゃってよう、~しちゃってよう」という口調で興奮するところがあって、(……)くんはそこが良かったと言った。たしかにその箇所は言葉が生き生きとしていて、「蒸かしたてみたいなおっぱい」とかいう表現も出てきて、乳房に「蒸かしたて」なんていう言い方をつなげるのはなかなか思いつけないと思うし、台詞の最後が、「おれは、もう、だめ!」みたいな感じで「だめ!」という強い言い切りで裁ち落とされるのも良い。(……)くんもこの断言が気に入りだったようで、みずから音読し、良い感じの調子を出していた。
  • あと、語り手イシュメールがクイークェグと仲良くなってナンタケットに行く途中の船上だったと思うが、蛮人であるクイークェグと白人イシュメールが仲良くしているのを奇妙に思ってやや嘲笑的に絡んでくる若者連中がおり、それに対してイシュメールは「お粗末な都市のお粗末な公園のお粗末な便所から来た餓鬼共」みたいに、「お粗末な」をしつこく繰り返した罵倒を地の文で述べているのだけれど、(……)さんがURLを貼ってくれた原文でこの部分を確認したところ、「お粗末な」の反復にあたるような語は見つからなかった。だからこの繰りかえしはたぶん訳者の独創であるはずで、ほかの箇所もきっと色々、かなり意訳的な工夫が凝らされているのではないか。千石英世という人は日本の小説の批評本とかも出しているようだが主にはメルヴィルの研究者として著名なようだし、翻訳はこの『白鯨』しか手掛けていないので、おそらくこの作品が本当に好きで、自分の思うがままにやってみたという感じなのではないか。
  • それで思い出したけれど、丸山健二もたしか『白鯨』を翻案したような本を出していたはずだ。
  • こちらが気になったこととしては、ありがちだがキリスト教的文明と未開の野蛮の対立構図がどのようになっていくかという点がひとつ。イシュメールはいわゆる文化相対主義的な立場の典型みたいなものをすくなくとも部分的には表明しているのだけれど、ただそれが貫徹できているのかというと疑問だし、キリスト教的文明や「白人」を相対化しているのはまちがいないが、それでも「蛮人」に対する(自覚的か無自覚かはともあれ)蔑視的な感覚が残っているのではないかという感じも、いま根拠を明確に挙げられない印象だがないではない。そのあたりの副筋としてのプロットが、下巻でどうなっていくのか。それにはおそらくクイークェグとの友情関係が絡み合ってくるのではないかと思うのだが。
  • ただそれはこの作品の本旨ではあまりないような気もするというか、「鯨学」などというものをぶち上げていることからも知れるように、語り手もしくはメルヴィルの目指すひとつの主眼としては、鯨についてのあらゆる事実やそれにまつわる物語や捕鯨の実態を伝えるこまごまとした知見などを集積し、いままできちんと世に知らされてこなかったそれらを正確に記述する、というあたりがあるように思われる。蓮實重彦柄谷行人の全対談本のどこかで、たしか柄谷行人のほうが、この作品のことを百科事典的な小説の例として挙げていた気がするのだけれど、そう言われるとたしかにそうかもしれないとは思う。そこで柄谷行人はまた、いわゆる近代小説、という言葉を使っていたかどうかは怪しいが、現在の人間がイメージする「小説」の典型的な形態が確立される前の小説、そのあとのさまざまな試みをすでに先取りしている作品として『白鯨』を提示していたような気もする。しかしこの記憶に自信はない。英文学で言ったらそういう作品としてはあと、たぶん『トリストラム・シャンディ』などが挙がってくるのだろう。あれも読みたい。
  • 百科事典と言えばたしかに民俗学的というか文化人類学的な趣はあるというか、要するに捕鯨船という小共同体を舞台としたフィールド・ワークという感はある。提示されるイシュメールの立場もそれをいくらか裏付けるというか、つまりすくなくとも上巻の範囲では、ピークオッド号に乗ったあと、イシュメールと周囲の人間の関わり方や、彼と同僚たちとの具体的なやりとりなどは、ほぼ語られないのだ。序盤ではあれほど仲良くしていたクイークェグとのエピソードも、海に出てからはひとつもなかったような気がする。語られるのはエイハブの目的や、彼と船員たちとの力関係や、捕鯨の様子の実地的観察や、船上での仕事の細部や、鯨という生き物にかんしての煩瑣な知識などなどのみで、イシュメールが船内でどのように過ごしているか、どんな仕事をしているか、ほかの船員とどんな言葉を交わしたかなどは、いまのところほとんど出てきていないと思う。そういうところからして、イシュメールは外部からやってきたよそ者として、自分の姿を消しながら、船内共同体を観察・記述している民俗学者、というような感じはわりと受ける。
  • あとこの作品の本筋としてはもちろんMoby Dickとの戦いがあるわけで、ほかの皆が言っていたことによれば、どうもMoby Dickとの戦いでエイハブは死に、船もほかの船員も滅び、おそらくイシュメールひとりだけが生き残ってその物語を伝えている、というような趣向になっているらしい。とすれば、イシュメールには「証言者」としての側面が濃厚に出てくるわけだ。この点はちょっと気になる。
  • エイハブが破滅的な最後をむかえるということは上巻の時点でも何度かほのめかされているのだが、この作品の大きな主題としては、絶望的だが避けられない「運命」に敢然と立ち向かう人間の姿を描く、というところがあるのだと思う。千石英世の解説はそのあたりをメルヴィルの「悲劇意識」という言葉に要約していたし、おなじく解説によれば、『白鯨』は『嵐が丘』『リア王』と合わせて英文学の「三大悲劇」などと呼ばれている、ともあったと思う。イシュメールは何か事件に言及する際、おりにふれて「運命」という言葉を口にしているし、そもそも最初に、なぜそれまで慣れ親しんでいた商船ではなくて捕鯨船に乗ったのか、という理由を説明するときにも、自分は「運命」に「謀られたのだ」と言っていた。(……)くんは全体的にニーチェ的な感じを強く受けたと言っていたが(まあ、(……)くんはニーチェが大好きなので何にでもニーチェ的なところを発見してしまうのだが)、それはたぶん、超越的な「運命」(というのは当然、「神」とほぼ同義であるはずだ)に翻弄され、不可避的に破滅に追いやられていきながらも、それに対抗し、抵抗し、立ち向かっていく、という要素が主な印象源なのではないか。そういう意味で、ギリシア悲劇以来の「悲劇」の系譜として、わりと正統的な作品なのだろうか? ギリシア悲劇について知識がないのでわからないが。ギリシアだと超越的かつ絶対的な神に対抗する人間、などという発想はまだないのだろうか? オイディプスも、自分が「運命」に操られているということは、すくなくとも真相があきらかになっていくその中途では自覚していなかったと思うし。
  • 形式としては色々ごった煮というか、やりたいことを詰めこんだみたいな感じで、これが当時のアメリカ文学の流れのなかでどのように位置づけられるのかというのは気になる。(……)さんが、すでにある形をもとにして試みているというよりは、いわゆる近代小説が成立する前の実験、というような印象を述べていたが、だいたいそういう理解にはなるのだと思う。ソローとかエマソンアメリカには独自の思想がないからそれを生み出さなければ、とか言い出したのが一八七〇年代くらいでなかったっけ? と思っていて、だから文学としてもたぶん、正統的とされる「アメリカの文学」のイメージや史観がまだ成立していない頃なのではないかと述べたのだけれど、下巻の年譜を参照した皆が言うには、『ウォールデン』が一八五四年らしいからソローやエマソンは思ったよりもはやかった。しかし『白鯨』は一八五一年、ホイットマンの『草の葉』が一八五五年らしいので、実際、いま我々が耳にする「アメリカ文学」がまさしく形成されているさなかの作品ではやはりあったのだろう。ただ、そのなかでも、『白鯨』みたいなものはあまりスタンダードな文学作品としては受容されなかったのではないか? 実際、解説を読んだ記憶によれば、メルヴィル捕鯨船を脱走してなんとかいう島のいわゆる未開人共同体にむかえられた体験をもとにした第一作は人気を得て、第二作だったかタヒチを描いた作品も売れたらしいが、三作目は本人としては重要な試みをやったつもりが人気にはならず、四、五作目は金のために書き飛ばした駄作とみずから認めており、六作目の『白鯨』を経て、その後は不遇だったという話だった。途中で専業作家を続けられなくなって税関の職員をやりながら詩を書いていたらしいし、再評価されたのは死後三〇年か四〇年か経ったあとの一九二〇年代、イギリスでのことだったともいう。
  • あとこちらとしては自然の風景描写がどうしても好きで、広大な海の気のなかで自己を忘れて恍惚をおぼえながら世界に溶けていく、みたいな記述は古典的だけれどやはり好きで書き抜く気になってしまう。海を舞台としたいわゆる海洋小説というものにも興味が出てくるものだ。コンラッドメルヴィルと同様船員をやっていたはずで、その体験からそういう作を書いていてたしか平凡社ライブラリーに入っていたような気がするし、あと、海洋小説を専門に書いている人が誰かいた気がするのだけれど、あまり有名ではなかったと思うし名前がまったく思い出せない。小説ではないがレイチェル・カーソンなんかも読んでみたい。
  • ほかの人が言っていたことをあまり思い出せず自分のことばかり書いてしまったが、とりあえずそんな感じ。次回は二月七日に決まった。『白鯨』の下巻と、ついでにインターネットに転がっている「バートルビー」の柴田元幸訳もできれば読んでくるという話になった。こちらが以前これを助けにして原文で「バートルビー」を読んだと言って、有名な作品だしそれではせっかくなので、となったのだ。『白鯨』のあとは(……)さんが課題書を決める番で、彼はフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』を読みたいと言う。そのあとは(……)くん。彼は新旧の聖書か、ギリシア悲劇と言った。ギリシア悲劇だと誰かと訊けば、やはりソフォクレスかと返り、ちくま文庫ギリシア悲劇全集の二巻目にソフォクレスがまとまっているので、それが良いのではとのこと。