2020/12/28, Mon.

 ポスト記号論及びポスト物語学としての脱修辞学が、精神分析と密接な関わりを持つことには、多言を要すまい。記号の無意識を探り、語りの効果を探る批評――それはまさに、フロイトが臨床医として実践した言説の形であった。分析医は患者を読む。症例というテクストにおける死角=無意識を読み、驚くべき明察を示すことで患者を納得させ、治療を完遂する。ところが、実際に行なわれているのは、むしろ患者の告白する記号断片群を巧みに隠喩化し、物語の効果を踏まえて翻訳=秩序化する作業なのである。それは、患者というテクストの中に医師が自分自身というテクストを読み込む転移の結果にほかならない。この転移がいかに首尾よく運ぶか、患者に与えられる真実の効果=虚構がいかに強力であるか、説得力を持つかによって、治療の程度は決まる。
 ド・マンは精神分析にはほとんど関心を示さなかったが、チェイスはド・マンにおける「事実を引き起こす言語(パフォーマティヴ)」への興味を、転移が発揮する「説得力」と関連させて考えた。これは「目前の事実を説明する言語(コンスタティヴ)」とは逆で、それまで何もなかったところに言語自体の力が事件を引き起こしてしまう効果 "positing" を指す。チェイスが『比喩の解体』以後に発表した論文「パフォーマティヴとしての転移」(一九八七年)では、かくして転移さえひとつの修辞形式[トロープ]として位置づけられる[註3: Cynthia Chase, "Transferance as Trope and Persuasion," Discourse in Psychoanalysis and Literature, ed. Shlomith Rimmon-Kenan (London: Methuen, 1987) 211-32. 転移 "Übertragung" を翻訳 "Übersetzung" としてずらそうとするこの論文構成自体が脱修辞化のレトリックを駆使した好例。]。分析医が患者を治療すること――それは決して患者の医学的真実が解明されるからではなく、むしろ医師が症例の断片を翻訳するその時の物語学的効果が患者を言語的に納得させるためだとすれば、たしかに転移はひとつのレトリックだ。この見解は、同時に翻訳というものの本質さえ再発見させてくれる。翻訳としての転移は、一言語の意味を単に愚直に他言語へ移行させるどころか、逆に他言語によって原語を物語化してしまうような、それによって記号効果を稼働させてしまうような修辞学であり、脱修辞学なのだから[註4: Ibid. 214. ここでチェイスは既にジャック・ラカンが転移、すなわち隠喩であり、一種の言語効果[スピーチアクト]でもあるものと見た事実に着目し、そのような認識こそ「修辞言語の本質としての脱修辞性へ到達するもの」と評価する。]。
 (巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』(松柏社、二〇〇〇年)、140~141; 第二部「現在批評のカリキュラム」; 第四章「ディスフィギュレーション宣言 シンシア・チェイス『比喩の解体』を読む」)



  • 六時半前に起き上がることができた。水場に行かずそのまま瞑想。腹が空っぽなので内臓がよく蠢いた気がする。
  • 何で米を食ったか思い出せない。何かおかずがあったので卵を焼くのをやめたおぼえがあるのだが。そもそも米を食ったかどうかすら思い出せない。
  • 帰室すると「英語」を音読。一六分間。それから調身も少々。そうして着替えると五分間のみ短く瞑想をして出発。
  • 玄関を出るとちょうど歩きに行っていた父親が帰宅して階段を上ってくるところだった。行ってくると言って道へ。朝のうちはまだ曇っていた。灰色をかすかにはらんで不健康な白さの雲海に太陽が溶けてかろうじて姿を映している。
  • 電車内では座席に座って瞑目。(……)で降りるとゆっくり行って職場へ。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 一時頃退勤。電車に乗って最寄りへ。この頃には晴れていた。ホームにひらいた温もりのなかをたどっていき、今日も街道を東へ曲がる。通りの向かいの奥に伸びた木々から鳥の声がいくつも立ち、左手ではフェンスの向こうを満たしている枯れ草の茂みのなかでスズメか何かの小鳥の群れがガサガサガサガサいっている。一昨日もおなじ現象に行き当たった。こちらが横を通るのに感じて草の迷宮のなかを動き回るのだが、厚みのなかにうまく隠れて姿は見えない。
  • 空に雲はなかったのではないか? 一昨日と同様、(……)さんの家の横を下りる。通路の外を埋め尽くす草から鳥が飛び立って木に移っていく。ちょっと視線を上げれば梢の隙間に青空が覗き、果てに浅くつつましい白さが塗られているのが渚めき、その絵図を切り取った穴を縁取る枝葉は褐色まじりの橙を残しているが、あと幾許もない命だろう。足もとは落葉が溜まって靴をすすめるたびに音が立ち、それを聞きつけてまだだいぶ距離のあるうちから前方で鳥が道を去って林に昇っていった。下の道に出て眺める川向こうの山や木々は煙るような淡い光に覆われて、色と量感をゆるめて精霊体じみている。
  • 帰宅して室に帰ると着替えてベッドに。ともかくもからだを休めて肉をほぐし、疲れを散らさなければ話にならない。ハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 上』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)の解説を読んでいたが、眠気に抗えず沈下。復活すると最後まで読んで上階へ行き、「どん兵衛」の鴨蕎麦を用意してもどった。それを食ったあとは社会の授業の予習。「(……)」の五章、公民分野。そんなに困難な問題はない。わりとはやく終わったのでまた「英語」を音読し、仕事着に着替えると五時頃。
  • 出る前に米だけは磨いでおいたほうが良かろうと思っていた。それで上階に行くと、母親がすでに帰宅している。もう行くかと訊くので肯定すると、メルカリで何かが売れたのでコンビニに行くけれど乗っていかないかと言う。コンビニで手続きをしているあいだ、車に乗っていてほしいということだろう。それで今日も乗せていってもらうことにして、これで音読の時間が多少確保できた。ベスト姿のワイシャツを腕まくりして米を磨ぐと、もどってまた英文を音読。
  • それで五時半頃出発。夜空は青味がまだ弱いものの晴れ渡っており、今日は月ももうだいぶ満月に近くて形が整っているので、はみ出したという感じはなく、あるべき風におさまっている印象。助手席に乗って発車。道中、こめかみを指圧しまくる。母親は職場で今日出たらしいお汁粉がまずかったと漏らしていた。業務用スーパーのものは品質が悪い、と言う。白玉がまったくもちもちしていないし、そのほかも全体的に味が悪く、それを飲んでなんだか胃が変になったようだとのこと。
  • 駅前のコンビニを折れた裏路地に駐車。母親がコンビニに行っているあいだこちらは車に残り、ひたすらこめかみを揉む。母親がもどってくると降りて職場へ。
  • ふたたび勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)一〇時で退勤。(……)駅へ。(……)行きに乗ると電車は五分程度遅れていた。意に介さず、席に就いて目を閉じじっと停まって体力の回復を図る。そこそこ長く、たぶん一五分くらい時間を取れたので、からだの感覚はいくらか軽くなった。疲れていると身体の輪郭がぶれるというか、皮膚が微振動して落ち着かないような感覚が見受けられるのだが、停まっているとその振動が収まって肌がしずかになる。眠気に惑わされることもなかった。
  • とはいえ疲れてはいる。最寄りで降りて、高く月が輝くなかを帰宅。自室で休息。『白鯨』の下巻を読みはじめた。一時間休み、もう零時も近くなってから食事へ。コンビニのメンチをおかずにして米を食う。夕刊から今年の漫画界の回顧を見る。このページだけ切り取って自室に持ってきてある。「ポスト『鬼滅』」として『呪術廻戦』というのが挙がっているが、これはたしかにこの日職場でも子どもたちがタイトルを口にするのを聞いた。それよりもこちらとしては、同時に紹介されている『風太郎不戦日記』の漫画版(勝田文)と、ダヴィッド・プリュドム『レベティコ―雑草の歌』というやつが気になるが。『レベティコ』は、「第2次大戦前の政情不安を背景に、ギリシャのブルースといわれる「レベティコ」を奏でるならず者の音楽家たちを活写する」とのこと。ギリシャナチスドイツの侵攻を受けた。アウシュヴィッツには、テッサロニキユダヤ人たちが連行されて一団をつくっていた。この漫画の訳者である原正人という名前はどこかで見たことがある気がする。それでいま検索してみたが、原正人という人にはいくつもの作品を手掛けている映画プロデューサーもいるらしいが、おそらくこちらではなくてバンド・デシネ研究者とされているほうの人だろう。となれば容易に予想がつくが、やはり翻訳書のなかに、フランソワ・スクイテン/ブノワ・ペータースの『闇の国々』が入っていた。おそらくこの作品にかんして名前を見たのだろう。ほかにアレハンドロ・ホドロフスキーの名があって、ホドロフスキーって聞いたことがあるなと思ったが、チリの映画監督らしい。バンド・デシネの原作もいくつも書いているよう。
  • 新聞記事に話をもどすと、今年は少女漫画史にかかわる貴重な証言も色々あり、とりわけアシスタント経験をもとにした笹生那実『薔薇はシュラバで生まれる』や、『「少女マンガを語る会」記録集』という文献が紹介されていて、後者にかんしては以前も新聞で見かけたおぼえがある。ほか、三宅乱丈の『イムリ』が全二六巻で完結したと。異民族の共生をテーマにしていると聞くとちょっと気にはなる。『憂国のモリアーティ』も以前から多少の興味を得てはいる。
  • 食後、入浴。首から上を揉む。出ると一時。緑茶を用意してプリンを食う。その後、この日の日記。一時間すすめて三時が近くなると切り、ウェブを閲覧してから三時一八分に消灯。今日はさすがに疲労が濃かったので瞑想せずに寝た。