2021/4/19, Mon.

 三、しかし、彼自身が言語活動の主体であるならば、彼の闘いが直接的に政治的解決になることはありえない。なぜなら、ステレオタイプの不透明さを見出すことになってしまうだろうからだ。したがって、闘いは黙示録のような動きをとることになる。すなわち彼は、徹底的に分割をして、価値のたわむれそのものを激化させ、そして同時に、ユートピアを夢見て生きるのである――社会関係の最(end206)終的な透明さを〈渇望して生きる〉と言ってもよいだろうか。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、206~207; 「不透明と透明(Opacité et transparence)」)



  • 一〇時二〇分頃に覚醒したから、睡眠自体はちょうど六時間ほどで、昨晩は疲れていたわりに思いのほかにはやく目覚めた。いつもどおりこめかみやら背骨のまわりやら揉んで、一〇時五〇分に離床。快晴の日和である。洗面所やトイレに行ってきてから瞑想。一一時八分からちょうど二〇分。だいぶ良い。静止できている。
  • 上階へ。食事は大根を混ぜて焼いた餅みたいな粉物など。食卓に就いたときにちょうど映ったテレビのニュースが、ミャンマーで日本人のジャーナリストが軍に拘束されたと伝えたが、これははじめて知った。二月だかにも一度デモの取材中に拘束されていたらしいが、そのときはすぐに釈放されたと言う。ミャンマー国軍は最近、SNSでの発信力のある著名人を相次いで拘束したりして影響力を削いでいるとのこと。
  • 流しに放置されてあったものとまとめて皿を洗い、風呂も。昨晩、胃から空気がたびたび上がってくる苦しい状態になったのだが、これは昔、茶をたくさん飲んでいた時期にもよくなっていたもので、だから最近ちょっと飲みすぎたかなと思って今日はいったん飲まないことに。かわりにカルピスをつくって持ち帰り、Notionを準備するとさっそく書見。二葉亭四迷の『浮雲』を昨晩読み終えたわけだが、次は『金井美恵子エッセイ・コレクション[1964 - 2013] 3 小説を読む、ことばを書く』(平凡社、二〇一三年)を読むことに。ボールを踏みつつ、またそのあとはベッドに仰向きつつ、読みすすめる。冒頭は「絢爛の椅子」という文章で、カフカからはじまって深沢七郎『絢爛の椅子』、『東北の神武たち』を通して作家がものを書くということについて述べるようなもの。一九七〇年から七一年の『現代詩手帖』に載ったらしいので、二三歳から二四歳の頃の文だろうか。その歳でこういうものを書けるのはすごいなと自分の過去と照らし合わせれば思うが(こちらが読み書きをまともにはじめたのは二三歳のとき)、めちゃくちゃ面白いわけではない。テーマ批評というほどでもないが、モチーフに着目してそれをつなぎ合わせていくようなやり方が多少見え、文章の感じとしても蓮實重彦的なにおいを感じるときがわずかにないでもなく、一九七〇年に蓮實重彦の、映画はともかく文芸方面の文章ってすでに世に出ていたのか知らんのだけれど(『批評、あるいは仮死の祭典』がたしか七四年ではなかったか?)、出ていたとしたら金井はすでに読んでいたのだろうか。まあべつに共通箇所を結びつけていくのは批評ならだいたいどれでもそうだろうし、文章の調子もこの時代のひとってわりとみんなこういう感じだったのかもしれないが。
  • 二時まで。一時台終盤で切り、多少のストレッチをおこなった。合蹠と前屈をやはりよくやりたい。上階へ行き、洗濯物を取りこむ。ベランダに日なたが、全面覆うではなく片寄りながらもまだ残っているので、そこに入ってちょっと体操した。それからタオルなどたたんでおき、豆腐と即席の味噌汁を用意。それを持ってもどってくるとウェブをちょっと見ながら食べて、ここまで記せばもう三時なのでそろそろ出かける時間である。今日は二時限の労働。
  • ほかのことは忘れた。

 柄谷行人の『日本近代文学の起源』は、それまで本質主義的に捉えられていたものを構築主義的に捉え返したというのが一番成功した要因だというふうに思います。
 つまり文学の本質論、例えば内面というのは人間誰もが最初に持っているものではなくて、近代によって発明されたものであって、それゆえに「内面」というものですら、自分のオリジナルと思っていてもそれは誰かのコピーに過ぎなかったりするという矛盾があるわけです。
 『日本近代文学の起源』というのは「風景の発見」というのが一つのテーマになっています。それは風景が歴史的文学的な意味を持たされた名所化を手伝わされている、と。それは翻訳を通してのみ可能だった。つまり「空知川の岸辺」っていうのはそれまで日本近代的な歴史からは意味付けがされていなかったところですね。
 それを実際に二分法を発見して、自然に感動しているわけですね。これは顛倒した事態であるという意味のことを、柄谷行人は言っています。
 一方、亀井秀雄の『感性の変革』という、「群像」という雑誌にずっと連載しされていた評論では、むしろ人間と自然との徹底した断絶が描かれているというふうに反論しています。
 そもそも亀井さんというのは言文一致の頃の江戸期から明治期の文学が専門で、『明治文学史』という大変な名著も書いていますが、そこでもやはり柄谷さんの明治文学理解というのは、すごい大雑把だという趣旨の批判をしています。

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岡和田 メイヤスーの言う「祖先以前性」ね。ごく簡単に言えば、独歩が直面していたのは、「祖先以前性」の世界だったのですよ。もちろん、そこでは「アイヌ」が不可視化されているので、そう見えたわけですけど。
 国木田独歩柄谷行人以前の文脈でどう読まれていたかというのは、『物語・北海道文学盛衰史』の影響が大きいのではないかと思います。章のサブタイトルの一つに、「山林に自由存す」があります。
 『物語・北海道文学盛衰史』というくらいですから、なるべく北海道文学の枠組みをわかりやすく物語にして説明する、と。まぁ、「北海道新聞」の連載ですしね。そういったコンセプトなんですけれども、『物語・北海道文学盛衰史』では「牛肉と馬鈴薯」ですごい北海道熱にとりつかれて云々と喋っているのは国木田独歩の分身であるというふうに言っています。
 先ほどすずきさんがおっしゃられた、恋愛でね、離婚の傷心旅行の先として北海道の自然に憧れて、それが山林に自由存すという言葉に憧れの象徴として出てきます。「欺かざるの記」という独歩の日記があって、それは事実イコール感情イコール思想史である、つまり本当のことを言っているんですよという話なのですが、これは恋人の信子の父母によって北海道に目を向かわされたということもわかります。
 これを書いたのは、北海道文学の研究者として有名な武井静夫で、後で言及する沼田流人という作家についても研究している方なんですが、これによれば、「室蘭に土地を購入していた」うんぬんかんぬん……と。
 で、新聞記者として雇われの身であるよりも自然と戦い自由を得たいというロマンがあったわけですね。それを象徴する詩というのが「山林に自由存す われ此の句を吟じて血のわくを覚ゆ 嗚呼山林に自由存す いかなればわれ山林をみすてし」。
 『物語・北海道文学盛衰史』では、「これが精神世界における北海道の凛たる開拓者であると」書いていますね。なんだか、まるで感動できないというか、クソみたいな事言ってるわけですけど(笑)。

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 札幌農学校、つまり「ボーイズ・ビー・アンビシャス」のクラーク博士ですね。クラークは植民地農政学というのを導入していて、それは内村鑑三のようなキリスト教を経由し、八紘一宇イデオロギー、今の日本会議などにも繋がっていくわけですが、元々の植民学というのは札幌農学校のみならず北大の伝統でもありまして、北大の総長というのは戦後になるまではずっと植民学の人が就任していたわけですね。そういう問題があって、今もアイヌ遺骨問題で、遺骨を返さないというふうに色々屁理屈をつけて頑張っていて、これはずっと問題になっているわけですが、その伝統はこの時代に端を発しているということです。

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 早川三代治という作家がいまして、有島武郎島崎藤村の両方に師事したという珍しい書き手で、「土と人よ」六部作というすっごい長いのがあるんですけど、第二作の『処女地』というのだけ『北海道文学全集』の第9巻に入っています。これは名作です。
 甘言を弄されて安いお金で根釧台地に入植して、家族全員色んな理由で少しずつ死んで、最後気が狂って自殺してしまうという話です。
 そういうプロセスをリアリズムで書いている。社会学的に早川三代治の小説の背景描写って、ほとんど事実そのままだということが判明しているんですね。なのでこれはもう社会史の一環として読めてしまうという。これは水戸にいた木戸清平という高校の先生だった批評家が早川三代治の作品を戦後再発見して、『日本残酷物語』というのにいれたわけですね。ノンフィクションのアンソロジーにフィクションが入っている(笑)。つまり、リアリズムどころか、ディテールが全部本当だった、ことですね。

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山城 [むつみ] さっき柄谷さんの風景の発見、柄谷さんのやつだとたしか国木田独歩ツルゲーネフの「あひゞき」の翻訳を通して見ることによって「武蔵野」ないし北海道の自然を風景として発見したんだという。それはそうだと思うんですが、でももっと大事なのは、買うっていうのは、単に僕が北海道に旅をして、自然に触れて「ああすごいなぁ」って思うのと、実際にそこに行って土地を、一万五千坪ってどれくらいの広さか知りませんけど、ものすごい広いでしょ? それをたぶん二束三文で買うんだと思うんですけど、そういうふうにして見て初めて風景というのが切り取られるのかなって思って読んだんです。

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マーク [・ウィンチェスター(アイヌ現代思想史研究者、神田外語大学専任講師)] そういうふうに読むと原蓄小説ですよね。

山城 そうそうそう。

マーク 原蓄。原始的蓄積。

岡和田 マルクスの。

山城 そうそう、まさにその通りで、僕の魂胆もそれなんですけど。

岡和田 そういう観点の独歩論や「北海道文学」の批評は読んだことがないので、とても新しい視点だと思います。

山城 そう考えると、風景の発見というのは今までと違うように見える。買おうとして見る一万五千坪と、単に僕が観光客として空知川の近くに行って、へぇこれが空知川なんですかぁって見てすごいねって思うのとは違うのではないのかな。しかも、独歩自身が言っている自然は、はっきりと歴史と社会の背景があって初めて成立する「自然」です。それなのに、いったんその中に入ってしまうと、いったいどこに歴史がある、いったいどこに社会があるというふうに顛倒してしまう。そういう顛倒は、実は「買う」ということが視野に入ってからなのではないのかなということにちょっとこだわりをもって今回読んだんです。
 なので、選定としか書いてないというのがひとつひっかかっていたのです。この当時の選定の手続きっていうのを具体的に知りたいなぁと。

マーク 選定事業が明治19年? 1886年から始まっているんですよね。あらゆる地域において区画していって商業人や東京の人に売りだしていくというようなことを。

渡邊利道(作家・文芸評論家) それは「インディアン」みたいに、もともとアイヌの人が住んでいたところを奪ってということですか? それとも誰も住んでいない土地?

マーク いたら強制的に移動させたんです。

山城 それもね、僕聞きたかったんです。タイトルで「空知川の岸辺」って言っているけれども、本文の中で空知川の「岸辺」って言っている箇所はたぶん一か所もない。「沿岸」としか言っていなくて、しかも独歩っていうか主人公は川には一回も行けないんですよね。水の音しか聞こえない。見ることすらしていない。
 もう一つ僕がひっかかって今回読んだところは、ーー独歩は北海道で安く買えるんだって割と軽い気持ちで行くんですよね。それでとりあえず井田は知っているので、札幌から井田を訪ねて行こうとするわけですが、井田がどこにいるかは、今みたいに携帯もないのでわからない。たぶん、空知太に行って、そこから川沿いに「岸辺」を行けばどこかで会うでしょうっていう発想でしょ? でも、それは無理ですよって言われる。小川の岸辺を歩くんじゃないんだから。もちろんひとつには、道がない。森林の中だし、とても人が通れるところではない。「而も其道らしき道の開け居るには在らず」というふうに書いてある。もうひとつには、その直前に、空知川の岸を伝うには「案内者」がいなくてはできない、とある。追加でそれを言っているということはなんかあるのかな(後記ーー何を言いたかったのか思い出せない、ーー沿岸の森林地帯はアイヌの狩猟場? もしそうなら、道のないこのあたりを歩くにはアイヌの案内でもないかぎり無理というニュアンスでもあるのかなーーくらいのことを考えていたように思う)。
 だから、迂回するわけですよね。砂川まで戻って、そこから歌志内に行って山を越えて行ったらたぶんそこにいるでしょう、と。迂回をするということは、この空知川沿岸の森林地域にはその時点ではまだアイヌが狩猟や採集や交易をして遊動的に暮らしていたけど、進行中の森林伐採や開墾の過程で、彼らを土地から追い出したり、出て行かなかったら殺戮したりということが生じつつあったのかなと思う。

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山城 もうひとつすごい初歩的なことだけど、だって空知川の所は歩けないですよ、と。だって森の中を流れていて音は聞こえるけど、井田さんのところに行けば、どれがいいか素人にはわからないけど、これがいいんじゃないですかみたいに紹介してくれるということかなと思っていたんですけど。役人というのも僕はちょっとひっかかっていて、買いに行く時セットですよね。例えば僕が今買いに行くと言っても役人はついて来ないと思うんですけど、当時は役人が手引きをしながら、ここだったら百万円で一万五千坪も買えますよ~みたいなかたちで北海道の役人がやっていたのかなぁとかね。

ごちょう 私が役人が気になったのは、私が公務員だからなんですよ。明治時代の公務員どんなことやっていたのかなぁっていうのがあったんで。ただたしかに、北海道の規則しらないのであれなんですけど、たぶん土地改良をして、今も区画整理事業とかありますけど、区画をきれいにして、斡旋して、払い下げて、町にしていくということは、マメにやっていたと思うんですよ。
 あと公務員的には砂川とか空知太ってちょっと有名で、それで今回読んでみようと思ったんですよね。

岡和田 どういった理由で有名なんですか?

ごちょう 砂川政教分離訴訟ですね。1892(明治25)年くらいに神社を建てたいと空知の人が北海道庁に土地を貸してくださいって言って、北海道が土地を貸すことから始まるんですけど、それから実はいろいろ変遷はありますが詳しい経緯は省きますけど、明治の話なんですけど平成何年かに(編注:平成22、2010年)、神社に土地を無償で貸すというのは政教分離に違反するっていう訴訟を住民訴訟で起こされて、違憲判決が出たんですよ。
 いろんな経緯があって無償で貸しつけるというのがずっと続いちゃっていたんですけど、本来は土地を貸すってお金をもらわなきゃいけないじゃないですか。お金をもらっていないというのは、つまり補助金をあげているのとイコールだから政教分離違反だと。だから公務員界隈では空知太とかけっこう有名なんですね。それで今回空知という名前を目にして読んでみようと思いました。