2021/4/18, Sun.

 プルーストにおいては、五感のうちの三つの感覚が思い出をみちびきだしている。だがわたしにとって、響きのよさよりも結局は声のきめの点で〈よい香りのする〉声の場合はそうなのだが、それをべつにすると、思い出や、欲望、死、不可能な回帰といったものは、そうした感覚のほうにはない。わたしの身体は、マドレーヌ菓子や敷石やバルベックのナプキンの話には共感しない。もはや戻ってこないであろうもののなかで、わたしのなかに戻ってくるもの、それはにおいである。たとえば、バイヨンヌでの子ども時代のにおいがそうだ。〈曼荼羅〉の枠のなかの世界のように、バイヨンヌ全体がひとつの複合的なにおいのなかに集約されている。小バイヨンヌ(ニーヴ川とアドゥール川にはさまれた地区)のにおいだ。サンダル職人が編んだ紐、薄暗い食料品店、古い木製具のワックス、風通しの悪い階段、団子にまとめた髪をとめる布カバーまで黒色のバスクの老女たちの黒服、スペイン油、(end202)職人工房や小売店(製本職人や金物屋)の湿気、市立図書館の紙ぼこり(そこでわたしはスエトニウスやマルティアリスの作品中の性欲を知った)、ボシエール店で修理中のピアノの接着剤、バイヨンヌ特産のチョコレートの香り。これらのにおいすべてが、しっかりとして、歴史をになっており、田舎ふうで、南フランス的なのである。(〈口述筆記〉。)
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、202~203; 「におい(Odeurs)」)



  • 一〇時四五分頃に覚めた。ぴったり六時間。しかしわりと眠い感覚。それでも二度寝には入らず、例によってこめかみやら背骨やら揉んで過ごし、一一時三六分に離床した。今日は良い天気で陽射しもあるが、風がとにかく強い。手のつけられないやんちゃな子どものように吹きまわっている。水場に行ってきてから瞑想。一一時四三分からちょうど正午くらいまでだった。わりと良い。目を閉じているあいだも風が盛って、巨大な龍が家のまわりをうねり徘徊しているかのように窓や家屋を揺らす。上階へ。母親はまた天麩羅をやっており、米がないから蕎麦を茹でると言う。着替えてうがいをしたり髪を整えたりすると、茹で上がった蕎麦を冷水で洗う。三人分のザルにそれぞれ盛り分け、食事。共産党の(……)さんが来たという話があったが、これは食事のときではなくて上階に上がってきてすぐに聞かされた。キヌサヤの筋を取っていたときに来た、新聞を取ってくれと言うが断り、署名をしてほしいと言うのにも、すみませんがうちは主人と相談して誰にも署名をしないようにしているので、と断ったと言う。たぶん本当はそんな相談などしていないと思うが。なんの署名だったのかは知れない。父親は近間の駐車場のまわりの草を刈っているとかで、そこは他人の土地だから母親は、やらなくていいのに、腰も痛いのに、と余計なことだと表明するので、偉いじゃんとこちらは受ける。近間の坂道の途中に誰がやっているのかビニール袋にゴミを入れて投棄する者がたまにあって、その中身が路上に散乱していたりすることがあるのだけれど、それも父親が以前拾って片づけておいたのを母親は取り上げて、わざわざやらなくてもいいのに、みたいなことを言う。それから話は職場のことに移って、駐車場にやっぱりゴミが捨ててあることがあって、それを誰も拾おうとしない、駐車場で見かけたものくらい拾ってもいいのに、自分はついでに隣の建物の前くらいまで、なんだかんだ言われることがあるから、掃除しておいた、とかなんとか話すので、じゃああなたも似たようなことやってるじゃんと返した。
  • 新聞は書評面にジョン・サザーランドの文学史もしくは文学概論みたいな本。ジョン・サザーランドという名前は聞いたことがあるのだが、どこで聞いたのか定かでない。紹介していたのは名前の読み方がわからないのだけれどアイルランド文学研究のひとで、この本の訳者はシェイクスピアを研究している河合祥一郎だった。サザーランドは界隈では大御所らしく、さすがの魅力的な筆致で面白い、というような評価だった。ほか、一面の日米首脳会談の報をいくらか読むが、すこししか読めなかったのでとりたてたことはない。
  • ものを食っていると父親も入ってきて食事。皿を洗いに行くと蕎麦の茹で汁を使ってくれと言い、また蕎麦湯をちょっとついでくれと言うので二人分コップのたぐいに注いでやり、鍋から茹で汁を洗い桶にあける。そうして洗い物をすると風呂場へ行った。天気が良いので窓を開けたが、あかるさのわりに入ってくる風の質感はけっこう冷たいほうに寄っている印象。浴槽内にくわえて、浴槽の外側の壁やその下端、室の角に取りつけられている物を置く台なども今日は洗っておいた。出て緑茶を用意していると、父親の携帯がゴールデンボンバー "女々しくて" をけたたましく鳴り響かせる。電話である。取って玄関のほうに行って笑いながら話していた父親は、もどってくると、(……)さんと(……)のひとのところに出かけてくると言い、すると母親が途端に慌てだして、その格好で行くのと聞き、父親は遊びだからいいとそのまま行こうとするのに、着替えたほうがいいとひどく甲高い大声でわめくので、クソうるせえなと思った。父親もうるさいなあとやや気色ばんだのだが、実際草を刈ってきたあとの作業着的な服装だったから、草のかけらがたくさんついていたようで、それを母親が笑いながら指摘すると笑いを誘われて、たぶん結局母親が持ってきたシャツに着替えて上くらいは変えていったのではないかと思う。母親が言うのは、そんな格好だとこっちまでなんか思われちゃうよ、ということで、亭主がみすぼらしいような格好をしていると、たとえば奥さんがちゃんと言ったり服を替えさせたりしないのかなと思われたりして、妻である自分まで不名誉をこうむるというわけだろう。だから結局は自分のことを考えた他愛ない虚栄心なのだが、それをまるで他人そのひとを慮っているかのような言辞につつむのがわりと母親の得意技である。母親自身はもちろん、それを虚栄心だとは認識していない。彼女にとってはそれは非常に重要な関心事なのだ。だからあれだけ大きな声を出してにわかに焦りだした。彼女は、ただでさえ小汚いんだから、とまで、笑いながら言っていた。
  • 室に下りてNotionを用意し、茶を飲みながらここまで記述。今日は夜から読書会。
  • この日はまずひとつ、二葉亭四迷浮雲』(新潮文庫、一九五一年/一九九八年改版)を読み終わった。最初のうちは語りに落語家的な諧謔味があってリズムとしてもよく流れていたし、それだけでもわりと面白かったのだけれど、話がすすみだして文三が免職になったことを周囲に知らせ、叔母に疎まれるようになったりお勢とも距離ができたりすると、内容が真面目なようになるにつれて文章としてもあまり流れないようになった気がして、うーん、なんかなあ、という感じだった。思ったのはこの小説に出てくるのはみんな実に平々凡々とした人間だということで、大げさな言い方をすれば、ある種の高貴さのようなものを持った人物がまったくいない。その点は二葉亭四迷自身もたぶん承知していて、第三編の最初には、「固 [も] と此小説ハつまらぬ事を種に作ッたものゆえ、人物も事実も皆つまらぬもののみでしょうが、それは作者も承知の事です。/只々 [ただ] 作者にハつまらぬ事にハつまらぬという面白味が有るように思われたからそれで筆を執ッてみた計りです」(169)と記されているし、桶谷秀昭の解説によれば、二葉亭の理想的小説観からすると、「『浮雲』はみじめな失敗にみえた」(252)、彼は「やくたいもない小説に三年の歳月を空費した悔いに責められ、「吾過てり」と呟かずにいられなかった」(253)と言う。文三が一応、高貴とまでは行かずとも、ものを学んで知識をつけ思想的信念を育んだ人間として提示されはするのだけれど、実際には彼は恋慕した女性の様子や反応に一喜一憂し、自分とは真逆の軽薄漢本田に嫉妬して、先日も記したようにああすれば良いかこうすれば良いかと迷い、引き裂かれながら、なかなか身動きが取れなくなり部屋に籠もるばかりだ。この作品で彼が外出する機会はすくないが、その数少ない機会は知り合いに仕事の周旋を頼みに行くか、家にいづらいかで、つまりほぼどれも状況に強いられたたぐいの受動的な外出だったと思う。彼は行動力に乏しいと言わざるを得ない。頭のなかでは色々考えているが、考えているとは言っても先にも書いたようにそれは二律背反的な懊悩に空回りしているばかりだし、考えてもいざ喋ってみればうまく言葉を操れず、本田と口論しても相手のほうがよほど口がうまいから負かされてしまい、決まって場が過ぎてから憤激する。文三は、最後にお勢とまともに話したとき、というのは本田と仲違いしたあと叔母に叱られて彼に再雇用の斡旋を頼みに行くか行くまいか相談するときなのだが、本田のことを課長の腰巾着で、犬であり、奴隷みたいな卑しいやつだ、みたいな風に口汚く罵っているのだけれど、そういう文三も、好いた女に背中を押してもらわなければ自分の帰趨を定める決断のひとつもできない優柔不断野郎なわけで、お勢の「奴隷」とまでは言えないにしても、立派なことを考えたり言ったりはしていても、惚れた弱みか、精神の自律性を失っていることはあきらかである。彼はお勢に、本田に斡旋を頼むなんてことはやめなさいよ、と言ってもらいたくて相談に行くのだ。しかしそこでお勢が自分の意に添わないことを言い、本田のことを気に入っていると(文三のしつこい問いに強いられて)明言するので怒り、喧嘩になって決裂する。そのとき文三は、いままでさんざ自分の感情をもてあそんで、不埒な女だ、みたいなありがちなことを言って非難するのだけれど、お勢のほうはそれを「妄想」だと言っていたはずで、だから言ってみれば童貞の高校生みたいにちょっと親しくされればすぐに惚れてしまうような、女性に慣れていない男が勝手に勘違いして相思相愛だと思いこんでいた、という話になっているわけで、なんとも哀しい。そこでお勢が本心を言っているのか、最初のうちは実際に文三のことを好いていたけれどいまはもう本田に靡いたあとだからそういう風に言ったという可能性はあるにはあるが、ただたしかにはじめから、お勢のほうが文三を愛しているとは一度も明言されてはいなかったのだ。ただ思わせぶりな態度や様子がおりおりにあっただけである。この件を機に園田家中での文三の地位はそれまでも良くなかったのに決定的に下落し、さっさと出て行ってほしいと疎まれるようになるのだが、それでも文三は、ほとんど物も言わず黙りこくりながら留まっており、第三編でその心中が説明されるのだけれど、それもひとつの「人情」によるものだと言い、つまりお勢が一八歳の結婚適齢期で大事な時期なのに、本田のような人間に惑わされて大丈夫か、それを措いてもやんちゃな娘なので何かのことで精神を損ねないか、いまの時期のあり方で今後の彼女の人生が決まるのだから、軽薄に流れてやくたいもなく、ときにだらしなく遊んでいるお勢を自分が善導してその精神を整えてあげなければ、みたいなことを考えているらしく、それはさすがに理想主義が過ぎるというか、ここまで事の推移を読んできたこちらとしては、お前にそんな能力はねえだろと思わざるをえない。彼の行動力と言語運用能力からしてそんな大層なことができないのはあきらかだし、なんだかんだ言っておきながら実のところ、未練たらたらなだけだろうという印象は、おそらくほとんどの読者が免れえないのではないか。事実、そういう心情もわずかながら触れられていたと思うし。お勢はしかしその後、本田とも疎遠になり、かと言って文三とよりを戻すでもなく、その真意はつかめない。ある夜に寝床の上で何かを思いついたかのように急にうきうきしだして、寝室内を踊るように回り、床にもどってにっこり笑う、みたいなお勢の描写があるのだが、これが何を意味しているのかは明かされないままに終わる。この作品は未完だったので。最後ではお勢の文三に対する態度も、外観上は多少やわらいで笑みを見せるくらいにはなるのだけれど、女中のお鍋とともに何かを企んでいるようなそぶりも見られて、それが文三を陥れようとするものなのか、それとも彼にとって良いことをしようと思っているのか、それもわからない。湯浴みに出かけたお勢が帰ってきたら話を試みてみようと文三が思ったところで物語は尽きる。
  • この小説には平凡な人物しかいないという話だったが、文三は上のような調子でぐらぐら動揺してばかりだから、舶来の西洋思想を吸収した新世代の代表人物であるにもかかわらず、実に頼りない。上で「高貴さ」と大げさに書きつけたのは、大方、通俗的価値観を越えて引き受けられた確かな信念としての行動指針とか倫理観みたいなもののことだ。もうひとりの主要男性である本田昇は上述のように根っからの軽薄漢で、要はいまで言う女好きのチャラ男であり、実際お勢の腕をつかんでわりと無理やり迫るような場面もあるから普通にクズだが、口はうまく、世渡りもお手の物で、ペラペラ冗談ばかりを言って周囲を賑やかに楽しませるものだから好かれる者には好かれるタイプだろう。それで叔母であるお政は彼のことをよほど気に入っているし、お勢も最初は冷淡にしていたのがだんだんと楽しむようになる。そういう人物だから「高貴」というような形容が当てはまるわけもないけれど、頭から足先まで軽薄で固められている人間だからかえってそこに一貫性を感じなくもなく、そういうかたちで自己を知り、言ってみれば安定的に自足しているから、したがって文三のような不安定な揺動者は彼に勝てないわけだろう。かたや女性陣のひとりであるお勢は、かぶれやすく飽きっぽいタイプの人間で、学問も隣家の娘に影響されてはじめたは良いが半端に終わり、「真理」のほうが親より大切だなんて言葉を口にして一時は文三と気脈を通じているものの、根が派手で軽薄寄りなほうだからじきに本田に流れていくわけで、「高貴」な一貫性など望むべくもない。文三も、お勢と決裂して目が覚めたようになったあとに彼女の性格を考察して、憧れやすい娘だからいままでのことは文三にかぶれていただけのことで、本当は派手な性分なのに無理をして地味なほうに寄せていたのだろう、と冷静な認識に至っている。お勢の母親であるお政は維新前旧世代の人間で、だから封建的な価値観のなかに生きている。もともと女中だったところから叔父の後妻におさまった次第で、だから下町的と言って良いのかわからないが、気風のわりと良いような、威勢の良いような、蓮っ葉までは行かないにせよそんな雰囲気で、当然ながら学問だのなんだのはちっともわからず、どちらかと言えば嫌っている。気に入らない人間、すなわち文三に対してはずいぶん冷淡な態度で当たるが、娘を思う心自体は真情のようだし、言うことも、古いとしてもひとつの理屈としてはきっちり通っていて、文三を主人公とするはずのこの小説で彼女はいわば大きな敵役にあたるわけだが、かえって、強いて言えばもっとも「高貴さ」に近い人物はこのひとなのではないかと思ってしまうような具合だった。やはり人生と浮世をそれなりに長く生きて渡ってきた年甲斐か、それをみずから主体的に身につけたのではないとしても、ひとつの定かな人生観、価値観を身に通してそれを守っている様子で、それは明治新世代からすれば解体放棄するべき固陋な遺物なのだろうが、しかし文三とならべたときにこの若者はいかにも頼りなく、ひるがえってお政は実に堂々と生きている。
  • そういう感じの、ちょっと不思議と言えば不思議なような話だった。冴えない平凡な青年が平凡な人物たちに包囲され、平凡なのでそこでうまく切り抜けられず四面楚歌になって、平凡な悩みと平凡な不幸に落ちるという、ある種とても悲惨なのかもしれないような、この世の平凡さの恐ろしさが際立ってくるような、そんな小説だったとは言えるかもしれない。べつに感情移入をするわけでもないが、文三にとってはとにかく救いのない小説だったなあという感じ。しかしそこで彼がおちいる不幸は悲劇と言えるほどに大仰なものではないので、とりたてて感情を喚起されるわけでないし、したがってカタルシスも起こりようがない。そういう意味でこの世のリアルを写し取っているとは、もしかしたら言えるのかもしれない。落語講談的な諧謔調で最後まで行ってほしかったという思いはあるが、そうするとたぶん、救いのない感じは出なかっただろうとも思う。
  • 五時で上階に行ったとき、母親が父親が蜂の巣をもらってきたとか言って、余計なことをするとか、ものを増やさないでほしいとかグチグチ漏らしてきたので、要約すると、うるせえ黙れ、あなたは結局自分のことしか考えていない、というようなことを言って非難したのだが、こまかいやりとりは面倒臭いので省く。本人の好きであるはずのことをなんだかんだ横から口出しして文句を言うのが、こちらはとにかく嫌いらしい。母親が懸念しているのはものが増えると将来父親が死んだあと自分が片づけなければならないということで、母親にははやいところ家をなるべく綺麗にして生前整理をしておかなければならないというオブセッションがあるのだが、結局のところ自分が面倒臭いことをやりたくないから余計なことをしないでほしい、という話なのだ。全部そう。上にも記したけれど、父親に小汚いような格好で外に出ないでほしいというのも自分が恥ずかしいからだし、父親にはやく再就職してほしいというのも自分が恥ずかしいから。そう、このときは、はやくまた仕事に行ってほしいと毎日のようにくり返し愚痴っていることをまた垂れるので、それでこちらも苛立って、あなたは父親当人のことをちっとも考えておらず、自分のことしか考えていないじゃないか、となじったのだった。自分が面倒臭いから、自分が恥ずかしいからこうしてほしい、というのみで、父親本人の感情とか事情とか考えとかを考慮したり想像したりしようという発想が母親にはない。つまり、母親には他者が存在していない。彼女にとって唯一他者として存在しているのは、世間だけである。しかもその他者は、当然ながら母親と対等なものではなく、彼女にさまざまな面で規範を植えつけてくるもので、母親自身はそのように規範をいつの間にか埋めこまれたことにむろん気づいていない。その証拠に、「恥ずかしい」と言ったときに、たとえば具体的に誰に見られたら「恥ずかしい」のか、誰がたとえば父親が定年後で家にいてみっともないと思っているのか、特定の個人名が母親の言動にはまったく出てこないし、聞いたとしてもおそらくまるで判然とせず、いままでの経験からすると、「近所」とか「まわり」とかいう語が吐かれるのみだろう。たとえば「近所」の、誰でも良いのだが仮に(……)さんでも取り上げてみるとして、彼女が父親のことをまた働きに出ず家にいて暢気だとかみっともないとか思っているのか、と問うたとして、母親のこたえは、そうじゃないとは思うけど、とか、わからない、とかいうあたりの曖昧さに落ち着くと思う。(……)さんが実際にそう思っているかどうかは、母親にとっては関係がない。(……)さんが実際にそういう風に考えそうかどうか、そういう性格や価値観のひとか、父親とどういう関係を結んでいて父親のことをより一般的にどう思っているか、いままでの交流や経験やかかわりから考え、見定めるという能力が母親にはないし、能力というよりむしろ、そうしようとする発想自体が母親のなかには存在していない。彼女にとって重要で、判断の基準になるのは、とにかく自分が「そう思われているような気がする」というこの一事なのだ。それには証拠や根拠がない。だからなぜそう思うのかを問うても仕方がないし、(……)さんにそんなそぶりは見えないと言っても意味がない。とにかく「そういう気がする」のだから。だからこの、なかば被害妄想じみた思いこみを解体しようとしてもそれは不可能で、まちがいなく徒労に終わり、益がない。実際のところ、根拠となっているのは、自分がそう思うから、ということだけなのだ。つまり、本当は母親自身が父親に対して恥ずかしいとかみっともないとか感じているだけなのだが、それを世間という大きなものにたくさないと表出することができないのだ。これが彼女の精神的世間依存であり、まさしく言葉のまったき意味での主体性の欠如である。自分がこう思っているんだから、まわりのひともこう思っているはず、というのが、母親当人はたぶん自覚していないと思うが、彼女の恒常的な判断構造である。そこでは自己と他者(具体的な一個人の姿では決してあらわれてこない曖昧模糊とした他者)とが無前提に同質のものとされており、自分と世間は癒着し通じ合っており、自己は世間につつみこまれてほぼ同一化している。上に書いたとおり、インストールさせられた規範をインストールさせられたと意識できていない以上、それは順当で、容易に納得の行く事態だ。自分の考えや感情を、自分の考えや感情として表出することができず、そしてそのことに気づいてすらいないという奴隷的な疎外状況である。ロラン・バルトが『テクストの快楽』のなかで言っている以下のことは、これとだいたいおなじことではないのか? 「《支配されている者》の側には、何もない。どんなイデオロギーも存在しないのだ。まさに、支配している階級から――象徴するために、従って、生きるために――どうしても借りざるをえないイデオロギーを別にすれば――これこそ疎外の最終段階だ」の部分。

 (《支配的イデオロギー》とよくいわれる。この表現はおかしい。なぜなら、イデオロギーとは何か。正に、支配するものとしての[﹅10]思想ではないか。イデオロギーは支配的でしかあり得ないのだ。《支配階級のイデオロギー》ならわかる。支配される階(end61)級が現に存在するからだ。ちょうどそれと全く反対に、《支配的イデオロギー》というのは筋が通らない。支配されるイデオロギーは存在しないからだ。《支配されている者》の側には、何もない。どんなイデオロギーも存在しないのだ。まさに、支配している階級から――象徴するために、従って、生きるために――どうしても借りざるをえないイデオロギーを別にすれば――これこそ疎外の最終段階だ。社会的闘争は敵対する二つのイデオロギーの闘争には還元されない。イデオロギー全体の顚覆が問題なのである。)
 (ロラン・バルト/沢崎浩平訳『テクストの快楽』みすず書房、一九七七年(Roland Barthes, Le Plaisir du Texte, Editions du Seuil, 1973)、61~62)

  • 夕飯にはキャベツを混ぜた麻婆豆腐などをつくったはず。

 埼玉県春日部市議会の井上英治市議(71、無所属)が9月議会で、同性同士で生活する人も家族として扱う「パートナーシップの認証制度」の早期創設などを市に求める請願をめぐり、「(差別は)市内には実際に存在しない」などと発言し、波紋を広げている。当事者支援団体が発言に抗議して撤回を要求。市議会議長が「おわび」を出す事態となっている。

 請願は、市民から出された「春日部市におけるパートナーシップの認証制度および性的少数者に関する諸問題への取り組みに関する請願」。市の教育や医療など行政活動で「性自認性的指向に関する理解の増進を図ることを目的とした施策」を求める内容。9月18日の本会議で井上氏を除く議員が賛成し、採択された。

 市議会の録画映像によると、井上氏は15日の一般質問で、市教育委員会のいじめ相談窓口でのLGBTに関する相談件数が過去2年間ゼロだったなどとする市の答弁を踏まえ、18日の本会議で「請願は差別を解消して欲しいと言いながら、教育委員会のいじめ相談窓口などの活用もせず、市内には実際に存在しない差別があると言っている」と主張。「同性カップルよりも、男女間の婚姻を優遇するのは、出産、子育てを考えれば当然のことという認識が国民に浸透している」「狙いは明らかにLGBT条例の実現」「共産主義者、左翼勢力の戦略を甘く見てはいけない」「子どもたちにレズビアンやゲイを教える必要は全くない」などと述べた。

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 井上氏は11日、記者会見し、「差別感や偏見は持っていない。市内に問題ある差別は存在しない」と述べた。また、「私を批判するのは自由だが言論の自由を認めるべきだ。議会は反社会的でない意見ならば自由に賛否を述べる場だ。謝罪の必要はないし、発言の撤回もしない」と語った。(加藤真太郎)

 北海道では有名な小笠原克という群像新人文学賞をとった評論家がいましたが、1983年に『日本文学の中の〈北海道〉』という小説アンソロジーを出しています。小笠原は、もう亡くなっているのですが、専門は久保栄です。久保栄は自殺してしまったのですが、『のぼり窯』という小説がありまして、それは北海道の一種のモダニズム、北海道が工業化する社会をうまく捉えた作品です。小笠原は自費で、『のぼり窯』を復刻・紹介していました。

 それからさっき言った亀井秀雄。この方も最近亡くなってしまいましたが、『感性の変革』という本がありまして、これは柄谷行人の『日本近代文学の起源』を一番早い段階で批判した本なんですね。こういった論客がたくさんいて、1960年代は北海道は評論王国と言われていて、要するに日本の近代文学の研究者たちが北海道文学に対しても盛んに発言していったということがあります。

 『日本近代文学の中の〈北海道〉』には、北海道文学の簡単な批評史が載っていて、作品を見ていただいたらわかるんですが、国木田独歩の「空知川の岸辺」が一番最初にありますね。次が、長田幹彦の「澪」があります。これは漂泊譚なんですね。北海道に流れてきて、長田幹彦は芸者と遊んだりする、そういうものを書いていました。基本的に谷崎潤一郎の影響がとても強い。美文体と言われますね。
 戦後の研究としては、佐藤喜一『北海道文学史稿』を嚆矢に、和田謹吾『風土のなかの文学』、そして『物語・北海道文学盛衰史』、小笠原克『近代北海道の文学』を経て木原直彦『北海道文学史 全四巻』という集大成が出るに至るわけです。

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岡和田 この『北海道文学代表作選集』の看板作家である、木村不二男という作家を読んだことをある人は……いませんね。
 木村不二男は戦前から活躍している作家なんですけど、北海道の文壇ではすごい有名。『文学的自叙伝』(1954年)など。ただし全国的には知られていない人です。
 二人目に載っているのが中沢(中澤)茂という根室の文学者で、私は面白いと思うんですがいまひとつマイナーで。

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 さて、三人目が原田康子という作家です。いま、従来の「北海道文学」で広く読まれているのは、李恢成と原田康子くらいでしょうか。ほかの収録作家だと、沢田誠一も実は直木賞候補になってるんですが。なお、『北海道文学代表作選集』には、鳥井省三の「武田泰淳試論」ほか、批評もちゃんと載っています。
 『北海道文学代表作選集』が出た後に『挽歌』ブームというのが1950年代に来るんですけど、その『挽歌』というのは原田康子が出した長編小説で、第二回のゼミでは『挽歌』を参考文献に入れています。『挽歌』って何度も映像化しているんですけど、今でも新潮文庫で普通に入手可能です。

 原田康子は「北海文学」という同人誌に連載された作品が、いきなり単行本になってベストセラーを叩き出したという、当時では非常に希少なタイプです。
 「挽歌族」という流行語もできるくらい、『挽歌』も映画のタイアップでベストセラーになりました。
 ロケ地を見るためにわざわざ北海道に行くという人たちも出てきて、挽歌族のあとには「カニ族」っていう荷物をいっぱい抱えて北海道に行くという人も生まれました。

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岡和田 『物語・北海道文学盛衰史』の話に移りますと、北海道文学展というのを開催する前に、準備段階としていろんな評論家が手分けして書いたものなんですね。ここで作られたフォーマットというのが80年代までずっと、細かくなってますけど、基本的にフレームとしては残っていて、トレースされていきます。
 ここが何をやっているかと言うと、キーワードは二つあって、一つは農民文学です。もう一つは開拓文学なんです。1960年代というのはまだ日本近代文学というのは制度としてはそんなに定着していなくて、国文学研究というのは近代文学をやるのはまだ異端だったわけなんですね。
 そんな状況でも、日本近代文学の中に北海道文学をどう位置付けるのかということが、彼らにとって重要な仕事だったんです。
 要するに北海道に根差した文学というのは、どうも日本近代文学の枠にあまりすっぽりとはまってくれないと。しかし地域主義というのも、地域の風土性から発してもそれは中央から見るとすごい田舎臭く見えて、それを乗り越えられないもどかしさ、ジレンマというのが彼らの中にあったわけですね。
 北海道文学の代表作と言われるものは、私から見るとおそらく二つです。一つは有島武郎の「カインの末裔」で、もう一つが国木田独歩の「空知川の岸辺」です。独歩の方は「発見された北海道」を描いているという側面があると思います。

 では、一番最初の「北海道文学」とは何でしょうか? 北海道文学の嚆矢、さきかげとよく言われるのが幸田露伴の「雪紛々」という、戯作調でシャクシャインの戦いを書くというものなんですけど、それが明治期に出た最初の北海道物というのでよく研究されて、北海道文学史には幸田露伴が最初ということになっています。
 それ以前、三遊亭円朝の「蝦夷訛」という北海道行きを綴ったエッセイを出発点とする意見もあります。

 ただ、いずれも私には、どうも信用しきれないところがあります。
 「北海道新聞」のリレー連載「現代北海道文学論 『北の想像力』の可能性」(2015年4月~2017年12月)という連載では、藤元直樹さんという明治期の文学にとても強い専門家の方に幸田露伴の「宝窟奇譚」というものを紹介してもらいました。

 これはどういう作品かと言うと、H・R・ハガードの『ソロモン王の洞窟』という英語圏の冒険小説は知っていますか? アフリカ探検の話なんですけど、幸田露伴の「宝窟奇譚」というのはその翻案で、アフリカの地名が全部北海道に置き換わっているんです(笑)。
 北海道は、露伴にとってはアフリカだったわけですね。こっちの方がもっと北海道文学っぽいとしか思えないんですけど。

 ただ、「発見された北海道文学」というのは「アイヌ」を完全に無視しているわけですね。そもそも「アイヌ」の口承文学というのは、あるのはわかっていたけれど、彼らは別に意識していたわけではない。
 『アイヌ神謡集』というのをまとめて19歳で亡くなってしまった知里幸恵という少女がいましたが、彼女に「アイヌ」のカムイユカル(ルは小文字)を翻訳させたのは金田一京助ですから。
 要は「アイヌ文学」というのも元々アイヌ語で文字で書かれたわけではなくて、日本語訳をつけて書かせていて、その流れにあるんですよね。

 だから「アイヌ文学」というのは一つの日本語文学の中に、一種の滅びゆく民族の物語として登録されたわけです。
 バチェラー八重子という歌人がいまして、アイヌ語を織り交ぜた短歌をたくさん書いている人なんですね。すべてアイヌ語で書かれた短歌もありますが、生前には、『若きウタリに』という歌集を一冊しか残していないんです。

 アイヌの才媛ということで持ち上げられてさんざん喧伝されたんですが、彼女自身も滅びゆくウタリというのを植え付けられてしまっていて、その文脈の中で、「立ち上がれ」というメッセージソングを同胞のために歌っていたわけです。
 そして違星北斗というアイヌ歌人もいますけれども、彼もまた、滅びゆく民族としてのアイヌという「状況」を内面化させられたところから出発しています。
 元来あった豊かな口承文芸としての「アイヌ文学」というのは、一種のロマンチックなものとして非常に外部化された状態から当初からあったわけですね。

  • 浮雲』本篇をちょうど読み終えたあと、九時過ぎから読書会。(……)くん、(……)さんと、今日は(……)さんとも、画面越しではあるが顔を合わせることができた。課題書はフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』。話に入る前に、なぜか色々な作家の原稿や字を調べて見る時間が挟まった。フォークナーはけっこう綺麗で、几帳面で、小さくてつつましやかとも言えるような感じだった。わりとみんな、たとえばベケットと言われればたしかにこれはベケットっぽいとか、ジョイスはたしかにジョイスだな、みたいな感じがあって、イメージとそこそこ相応する。古井由吉はなかなか格好良く流れていて達筆風だったが、大江健三郎は子どものような字で笑った。中上健次もけっこう丸いのだ。以前図書館でめくった赤い全集の最初のほうに写真が載っていて、こんな字なのかと思ったのをおぼえている。カフカカフカだな、という感じだった。斜めの線が長くてトゲトゲしているようなのがあったが、それはカフカだったか、それともベケットだったか? そういう時間があったあとに、『アブサロム、アブサロム!』の話にはいったのだが、たぶんけっこう皆難しかったというか、読むのに骨が折れて完全にはついていけねえよ、という感じだったのではないか。こちらは面白かった、なかなかすばらしい小説ではないかと言って、色々語ったのだけれど、その内容はだいたいいままで日記に書いてきたことのくり返しだったと思うので省略する。ただ、こちらが大方ペラペラ語るようなかたちになってしまったのがちょっと恐縮だった。ほかのひとからは感想らしい感想もあまり出てこなかったし。原文はたぶんかなり難しい様子で、翻訳にはところによって、ここは原文に句読点なし、という註が付されている箇所がけっこうあったのだけれど、だからたぶんそこは原著ではカンマもピリオドもなしにひたすらずっと続いているわけだろう。前回ちょっと原文を覗いたときにも、そのとき「窒息的」という形容をしたと思うがそういう感じの、息が長いというか息が続かなくなって苦しくなるような文章だったと思うし、だから今回も、原文のことが話題に出たときに、僕と(……)くんは、To The Lighthouseを読んで、これより難しい英語の文章はないって思ってたじゃないですか、ところがアメリカにこういうやつがいて、と振って大笑いしたのだが、(……)くんも、フォークナー研究だけはしたくないなと思いましたと言っていた。驚くべきことはやはりこの濃密な『アブサロム、アブサロム!』が、いわゆるヨクナパトーファ・サーガ全体から見るとその小さな一部でしかないということで、そういう風に小宇宙としての共同体を頭のなかに、あるいは紙の上につくり上げてしまうというのはこちらには生まれ変わってもできる気がせず、どういう頭の働きになっているのか想像も理解もできないのだけれど、でも物語、っていうもの(この場合たぶん、小説、というよりは物語、のほうではないかと思うのだが)を突き詰めていくと、最終的にはそういう風になっていくんじゃないかと思いますね、小宇宙を、世界そのものをつくっちゃうっていうこと、神話になっていくというか、で、そういう場合の物語とか小説って、これは民族学的なものなんですよね、民族学っていうのは百科事典的な民族学ということで、どんなことでもそのなかに入れて書きこんでしまう、どんなにささやかなことでも卑俗なこと、くだらないことでも、またすばらしいこと、すごいこと、聖なることでも、なんでも含みこんだひとつの世界をかたちづくってしまう、それがやっぱり一番面白いんじゃないかと、そういう風に突き抜けるとすごいですよね、などと述べた。ただこれはだいたいロラン・バルトの受け売りなのだが。受け売りではあるけれど、こちらもそのまま同意するものなので、そう述べたわけだが。典拠は下。

 彼がミシュレのなかで気に入った点は、フランスについての民族学を創始したことである。顔や食物や衣服や体質といった、もっとも自然だとみなされている対象を歴史学的に――すなわち〈相対的に〉――検討する意志と技術をもっていたことである。彼は他方で、ラシーヌの悲劇に登場する人びとや、サドの小説に出てくる人びとについては、未開原住民や閉鎖的民族のように描きだしたのだっ(end115)た。その構造を研究する必要があったからである。『現代社会の神話』においては、フランスそのものを民族誌的に分析している。さらに彼は、小社会にきわめて近いけれども壮大な小説宇宙発生論(バルザック、ゾラ、プルースト)をつねに好んでいた。民族学的な本というのは、愛される本のもつ力のすべてを有しているのである。それはひとつの百科事典であり、あらゆる現実を、もっとも浅薄なものであれ、もっとも官能的なものであれ、書きとめて分類するのだ。このような百科事典は、「他者」を「同一のもの」に還元して歪めるようなことはしない。他者を所有しようとすることは少なくなり、「自己」への確信は緩和される。結局のところ、あらゆる学問的言述のなかで、民族学的言述が「虚構」にもっとも近いように彼には思われるのである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、115~116; 「民族学の誘惑(La tentation ethnologique)」)

  • もう二三日の午前二時にいたっているのでその他の話をあまりおぼえていないのだが、『アブサロム、アブサロム!』周辺について話した時間はそういう感じで短くて、おのずから逸れていってだいたい雑談をしていたはずだ。(……)さんの家のことが最後に話されたのはおぼえているのだが、それまでにどんな話があったかがどうも思い出せない。最後のほうで(……)くんがなぜかGoogle Earthをひらきだし、こちらの在所を聞いて、あの道に沿って移動するモードにして我が家を特定したということはあったが。こちらも積極的に、その通りのあたりですね、そこからまっすぐ行って右です、などと誘導したのだが。しかしこう見てみるとマジで容易にひとの住居を特定できる世の中になっているものだ。住所情報さえわかればGoogleが自動的に検出してくれるから、画像を簡単に入手できるし、画像データを入手できればそれをばらまき拡散することもいくらでもできる。(……)くんも自分の家とその付近の様子をみずから紹介してくれて、彼は(……)に住んでいるのだが、いまさら当たり前のことなのだけれど、おなじ東京都内とは言ってもやはりあちらの住宅地とこちらの田舎ではかなり違うなというか、まずもってそばに樹々や林があるか否かというところで、当然なのだけれど(……)くん宅のまわりには林などあるわけもなく、こちらの家は目の前が林で、それはすなわち人口密度や隣家やほかの建物との距離などもかかわってくるわけだけれど、こうして見ると住心地が相当に違うだろうなと思ったのだった。
  • (……)
  • 次回は五月二三日日曜日。課題書はちくま文庫の、『ギリシア悲劇 Ⅱ ソポクレス』。(……)くんの選。次回から、(……)さんという、(……)くんの友人の画家のひとが参加するという。Instagramか何かの画像を見せてもらった感じでは、なかなか良さそうだった。彼女はジョイスの『ユリシーズ』か、ゾラの『製作』を読みたいと言っているらしい。