「果てしなく続く衣服を身にまとっている女性を(もし可能なら)想像してみてほしい。その衣服はまさにモード雑誌に書かれていることすべてで織りなされているのである……」(『モードの体系』より)。このような想像は、意味分析のひとつの操作概念(「果てしなく続くテクスト」)を用いているだけであるから、見かけは理路整然としている。だがこの想像は、「全体性」という怪物(怪物としての「全体性」)を告発することをひそかに目ざしているのだ。「全体性」は、笑わせながらも恐怖をあたえる。暴力とおなじように、つねに〈グロテスク〉なのではないだろうか(それゆえ、カーニバルの美学のなかでのみ、取りこむことができるのではないか)。
べつの言述。今日、八月六日、田舎で。光り輝く一日の朝だ。太陽、暑さ、花々、沈黙、静けさ、光の輝き。何もつきまとってこない。欲望も攻撃も。仕事だけがそこにある。わたしの前に。一種の普遍的な存在のように。すべてが充実している。つまり「自然」とはこういうことなのだろうか。ほかのものが……ない、ということか。〈全体性〉ということなのか。
一九七三年八月六日―一九七四年九月三日(石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、273; 「全体性という怪物(Le monstre de la totalité)」)
- 九時半ごろに覚醒。六時間ほど。よろしい。ただすぐにはおきあがらず、例によってこめかみや背中などをもんですごす。そのあと『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫、一九八六年)もすこしだけよんで、一〇時半に起床した。洗面所にいって用を足すとともに洗顔やうがいをすると、もどって瞑想。一〇時四二分からはじめて、今日は良いかんじですわれ、おのずとながくなって三〇分。ずいぶん力がぬけて、楽な調子だった。からだ全体がうっすらあたたかくなって、繭につつまれたようなここちよさ。とにかくあまりうごかずただすわりつづけていればよいのだ。窓外では鳥がたくさん鳴きをちらしており、かわるがわるどころかかさなりあっていて、やはりウグイスがめだつが、なかに一匹、ホトトギスもきいた。今年はじめてのこと。今日の天気は曇りで、雨ももしかしたらあるかもしれない。今週はずっとそんなかんじで、晴れ晴れとしない、はっきりとしない天気になるらしい。
- 上階へ。洗面所で髪をとかす。カレーののこりでドリアをつくったというのでそれをいただく。母親は、きのう、においがわからなくなっちゃって、コロナウイルスだったらどうしようというが、ちょうど今日、職場でPCR検査をやるのだという。それでもう明日には結果がわかるらしいから、もしかかっていたらそこではっきりするはず。今朝はにおいは問題なくわかるというので、たぶん平気ではないかとおもうが。新聞をよみながら食事。そういえばこの日のことではなくてきのうかおとといだったが、カーティス・フラーが死んだという訃報があったのをおもいだしたのでここにしるしておく。今日の新聞はいつものように国際面をみる。イスラエルがガザ地区にある米AP通信の建物を空爆したらしい。事前に攻撃をつたえていて記者たちは避難していたので被害者はなかったようだが、批判はでているし、バイデンは一五日のネタニヤフとの電話会談で懸念というか抗議めいたことをつたえたと。イスラエルは例によってハマスの拠点があるので、という言い分のようだが、よくわからない。また、イスラエルの報道官がTwitterで「地上攻撃」がはじまったと発言し、それをうけてNew York TimesやWashington Postが速報したのだけれど「地上侵攻」はしておらず、誤報だった、という一幕もあったと。ハーレツ紙は、意図的に誤報をながしてハマスの人間をトンネル付近にあつめる目論見だったのではないか、と推測しているという。その下にはミャンマーの記事が出ていて、チン州というところで地元市民の武装組織と国軍の戦闘が起こっているらしいのだが、そこで国軍が拘束した市民を前線に配置していわゆる「人間の楯」をつくることで武装組織を撤退させたという。完全に悪党のやりくちではないか。ミンダットという都市で戦闘がおこっていたのだが、武装組織側は市民を攻撃することはできないというわけで、そのミンダット自体からも撤退したもよう。あと二面にアフガンでタリバンと政府軍の戦闘が再燃しているという報も。一三日から一五日にかけてラマダンの停戦があったようなのだが、それがおわったためと。政府側はいままで二四二人だかが犠牲になっている。
- テレビはさいたま彩の国劇場の新芸術監督に、近藤なんとかいうダンスのひとが就任したとつたえていて、そのひとのインタビューなどをながしていた。彩の国劇場というのはこのひとのまえには蜷川幸雄が芸術監督をつとめていたところ。食事をおえると席を立って食器をあらい、そのまま風呂も。こすってながし、でると下階へ。部屋にもどってきてコンピューターにふれる。(……)
- この日のことをここまでつづると一二時四四分。
- ベッドでふくらはぎほかをほぐしながらだらだらとなまける。三時ごろまで。おかげで脚はだいぶなめらかになったが。それから「英語」を音読。401から413まで。『Solo Monk』をBGMに。四時まえになって上階にいき、一品つくっておくことに。母親がかえってきてから料理をなにかやるのはたいへんだし、父親も腰を痛めたためにたいしてうごけないだろうから。といって手軽に肉を炒めるだけ。まず流しに放置されてあった父親の食器をかたづけ、タマネギとキャベツを用意して切る。肉は冷凍に豚肉が二パックあったのでそのうちのひとつ。フライパンに油を垂らしてチューブのニンニクとショウガをおとすとともにしばらく熱し、肉をまとめて投入して箸でほぐしながら炒める。野菜もまもなくくわえて適当にかきまぜながら加熱。味付けは塩、コショウ、味の素に味醂と料理酒をほんのすこしだけと適当にいれる。そうしてしあがるとおにぎりをひとつつくって帰室し、食ったあと、先日の会議で記入したシートを今日提出しないといけないので、まあこまかくかんがえを書いておくかとおもい、あいていたメモスペースをいっぱい埋めるくらいに思考を大雑把にしるしておいた。あんまり読んだり書いたりになれていない人間にこういうものをださないほうがよいのかもしれないが。ひとはだいたいのところ、文をよむのを面倒臭がるので。だが(……)さんならたぶん多少はよんでくれるだろう。それから歯磨きし、スーツにきがえてここまでさっと書き足せば五時すぎ。もう出発する。
- 上階にあがり、髪をもういちどとかしておいて、マスクを顔につけて出発。玄関をぬけると道の東方からあるいてくる男女。高年。扉の鍵をしめて道に出て、西にむかってゆるゆるあるきはじめる。雨は降っていないが、蒸し暑いくもり。林のなかでたかく伸び上がって巨壁をなしている竹の群れがあせたような、老いさらばえたような黄色もしくは黄緑に染まっていた。こちらのあゆみはおそいので、背後からきた先の男女が横をおいぬかしていく。そのあとすすみながらうしろすがたをちょっとながめたが、夫婦らしく、男性のほうは左右外側に白いラインのはいった真っ赤なジャージをはいているのが目につく。みかけたことのある顔でないし、ふたりともおおきくはないもののリュックサックをせおっていて、あるきぶりにしても近所にちょっと散歩に出たという雰囲気でもないので、たぶん夫婦でやや遠出をしてハイキング的にあるいているというところではないか。彼らは西にまっすぐすすんでいったが、こちらは折れて坂へ。やはり暑い。あきらかに湿度がたかい。髪がのびてきているのでもさもさして鬱陶しい。しかし坂をのぼっていきながら、どうもからだの動きの感触がかるいなとおもった。ベッドでだらだらして脚を太ももまでふくめてよくほぐしたのでそれはそうなのだが、肉と筋の稼働ぶりというよりは、スーツをきていることの窮屈さが薄くて、からだをうごかしても服のほうから抵抗されるかんじがなくてなめらかにながれる。痩せたのか? とおもったものの、じっさい腹回りなどいぜんにくらべればかなり痩せているわけだけれど、ここ最近で急に痩せたというわけでないし(ちなみにきのう体重をはかったところではほぼ五八キロだった)、腹はともかく脚まわりはなおさらそうだろう。それで、これは体型ではなくて肌の問題なのではないかとおもった。肌触り、皮膚の感覚がととのっているのではないかと。というのも、きのうおとといあたりでひさしぶりに風呂のなかで束子で全身をこすったので。乾布摩擦の一方法でじっさいこれはかなり肌がすっきりする。皮膚を刺激すると副腎皮質ホルモンとかいうものがでていわゆる自律神経がととのうとかいう胡散臭いはなしもある。あとは瞑想を今日はながめにやったことももしかしたら影響しているかもしれない。あとは単純に、空気のなかに水気がおおいためか。
- そうして最寄り駅につき、ベンチにこしかけて、少々メモ。電車がくるので乗り、席で瞑目。むかいに女性ふたり。はいったときに視界の端でみたかぎりでは若い女性の山帰りとみえていたのだが、瞑目のうちにきこえてきた会話の一方の声音にもうすこし年嵩の、中年にかかるくらいのトーンをききとって、そのくらいの歳だったのかとおもったところが、もうひとりの声色や口調にあるあっけらかんとしたかんじというか、屈託やこだわりのなさそうな、ことばをぽんとなげだすようなかわいた調子がこれはわかいひとのもので、しかも漫画のはなしをしているので(最近なんかおもしろい漫画ある? 読む? みたいなはなしで、『チェンソーマン』と、『これはミステリーではない』みたいな名前があがっていて、後者は検索してみたところ漫画ではなくて小説であるらしかったのだが、これはたぶんこちらの記憶ちがいで、『ミステリと言う勿れ』という漫画を言っていたのだとおもう)、これどうも中年じゃないなとおもって、ついたときにみてみるとやはりわかい女性らだった。
- おりてすすみ、駅を出て職場へ。ホーム上で階段にはいるまえに空をみあげたが、天は全面雲におおわれていて、ありがちなイメージだがまさしくビロードの絨毯みたいにややうねりをおびた白・灰・青の三色混合雲で、そうおもいながらしかし俺はビロードの絨毯というものをじっさいにみたことはたぶん人生でないし、そもそもビロードってなんなのかよく知らんぞとおもった。ベロア生地みたいなイメージなのだが。それでいま検索したが、ビロードとはベルベットのポルトガル語で、そうだったのかとはじめて知ったけれど、ベルベットならそういうたぐいの生地をみたりふれたりしたことはまったくないことはないだろう。Wikipediaいわくベロアというのもベルベットのフランス語らしいので、こちらのイメージはまちがってはいなかった。厳密にはわけることもあるようだが。「和名で天鵞絨(てんがじゅう)とも呼ばれる」とあるが、この漢字表記はたしかに日本近代文学の作品中でみかけたおぼえがある。
- 勤務。勤務中のことは面倒臭いのでこの日は省略気味に行くか。(……)
- 九時前に退勤。駅前の自販機でチョコレートブラウニーのスティックとコーラを購入。ロータリーにはタクシーがとまって運転手が車のそとでたぶん同業者とはなしている。ひとりのすがたしかみえなかったが。今日は徒歩をとる。やはり人間、あるかなくては。ふくらはぎを中心に脚をほぐしまくることで血流が促進されてからだ全体が楽になるのは事実なのだけれど、といってそれはやはりからだをおおきく動かしているわけでないから運動ではなく休息のたぐいで、それだけでなくやはり運動をし、単純にからだをうごかさなければならない。と来ればあるくに如くはない。歩行は自由の行為である。歩行中の肉体は振動によって円環をなす。駅前から裏通りにはいると、あちいし、ひとどおりもさしてないからいいだろうとマスクをずらして顎はおおったまま口と鼻は露出し、そうするとすずしいしとうぜん空気のにおいもわかるからもちろんこちらのほうがよい。空は日中とおなじく隈なくくもっているようで道の先や建物の合間にのぞいている空間全体の背景スクリーンは全面黒いのだけれど、そのなかの一箇所に、うっすらとした不定形の、熱い湯のなかに溶き卵をおとしたときにできるダンスのその一片みたいなほのめきがうかがわれて、それであそこに月があるなとわかる。すすむうちに少々あらわれた月はかなりほそい、ひとびとの視線が多数あつまればその重みでぱきりと折れそうなくらいにほそい湾曲性のものだった。しかしひとびとなどわが町の夜の裏路地にはいない。あるくときの肌のかるさというか拘束の弱さみたいなものは往路とおなじで、空気も暑くもなくすずしくもなく、そのなかをすすむからだにたいしてなんの摩擦も抵抗もあたえてこない無色透明のなめらかさで、今日は少々湿気はおおいが良い季節になったものだ。その他帰路にとりたてて見聞きの印象はなく、とりたててものを見聞きしようともせず、思考もせずにただあるいていて、それはわるくなかったが、もうすこしぷらぷらあるきたかった気はする。尋常のひとにくらべればすでによほどぷらぷらしているとおもうが。瞑想をするとき、つまりなにもせずにただすわっているときみたいにあるきたいし、そのほかのすべてもそういうふうになれば楽なのだが。そういえば(……)をわたったあたりで上に書いた空気の無抵抗さの印象をおぼえたのだが、それと同時に大気中になにかの食べ物もしくは料理のにおいが、素朴な煮物のような、それも昆布かなにかはいっているようなにおいがまざってきて、ちかくの家のどれかからでてきたのだろうが、それでちょっと快感をおぼえた。そういえば今日は風もぜんぜんなかった気がする。風の感触を肌に明確にうけた記憶がない。
- 勤務から帰宅して、いま一〇時。ごろごろしてやすみながら過去の日記をよんだ。去年の五月一七日と一月一〇日。後者には二〇一六年中の記述がひかれていて、「一読して現在の自分の文章よりも精度の高い描写」、「ある観点から見ると、今の自分はこの頃の自分に明確に負けているだろう」といっているのだが、いまよめばべつにそうはおもわない。下にひいておくけれど、わるい描写ではないがとりたててよいとおもう部分があるわけでもなく、なんか全体に調子がかたいし、リズムも一定で単調にかんじられて、たいしておもしろくはない。かいてあることも目新しくないし。二〇一六年一七年あたりはたぶんこういう風景描写をととのえることをおりおりがんばっていたはずで、だからそういう意味でこのがんばりが基礎体力的な文章の力をつくったとはおもうが。そういう基礎練習的な、筋トレ的な文調のようにかんじられる。色気はあまりない。「この路線、つまり緻密な風景描写の路線を改めて推し進める必要は必ずしもないが、現在においても過去の自らに負けないような文章を書かなければならない」と一年前のじぶんはいっているが、文章の「緻密」さにせよ過去のおのれとの勝負にせよそんなことはどうでもよろしい。
既に暮れて地上は暗んでいながらも空はまだ青さの残滓を保持していたが、それもまもなく灰色の宵のなかに落ちて吸収されてしまうはずだった。雨は降り続けており、坂に入ると、暗がりのなかを街灯の光が斜めに差して、路面が白く磨かれたようになっている。前方から車がやってくると黄色掛かったライトのおかげでその時だけ雨粒の動きが宙に浮かびあがり、路上に落ちたものが割れてそれぞれの方向に跳ね、矢のような形を描いているのが見えた。街道に出ると同じように、行き過ぎる車のライトが空中に浮かんでいるあいだだけ、無数の雨の線が空間に刻まれているのが如実に視覚化されるのだが、それらの雨はライトの上端において生じ、そこから突然現れたかのように見えるため、頭上の傘にも同じものが打ちつけているにもかかわらず、光の切り取る領域にしか降っていないように錯覚されるようで、テレビドラマの撮影などでスタジオのなか、カメラの視界のみに降らされる人工の雨のような紛い物めいた感じがするのだった。道を見通すと、彼方の車の列は本体が目に映らず、単なる光の球の連なりと化しており、それが近づいてくると段々、黒々とした実体が裏から球を支えていることがわかる。濡れた路面が鏡の性質を持っているために光は普段の倍になり、二つの分身のほうは路上の水溜まりを伝ってすぐ目の前のあたりまで身を長く伸ばしてくるのだが、その軌跡は水平面上に引かれているというよりは、目の錯覚で、アスファルトを貫いて地中に垂直に垂れながら移動してくるように見えるのだ。横断歩道が近づくと、信号灯の青緑色が、箔のようにして歩道に貼られる。踏みだすたびにそのいささか化学的なエメラルド色は足を逃れて消えてしまい、自分もその照射のなかに入っているはずなのに、我が身を見下ろしても服の色にはほとんど変化がないのだった。
(2016/8/27, Sat.)
- ほか、(……)さんが当時やっていたブログをよんでいたり。彼もどうしているのかなとおもう。またはなしたいものだ。メールをおくって近況をうかがってみようかともおもうのだが、どうかけばよいのかというのがあまりおもいつかない。アメリカもいろいろたいへんな状況だろうし。
- 夕食時のことはわすれた。いや、わすれていなかった。『しゃぺくり007』がながされていて、この番組もなんだかひさしぶりに目にしたが、ジャニーズWESTとかいうグループがでていた。ぜんぜんしらない。恋人からのメールにどういうふうにかえすかでセンスを問うという企画や、クラブでグラスを片手に音楽にのってゆらゆら揺れるその揺れ方のセンスを問うみたいな企画。なんだかんだでわりと目を向けてしまい、目を向ければ多少笑いもして、新聞をあまり読めず。その後入浴だが、風呂のなかでは瞑目に静止し、そうしていると心臓の鼓動がからだにあらわにひびいてくる時間があって、からだが熱を持っているためかじっとしているわりにけっこうはやいようにかんじられたのだが、この脈動がとまってきえればそれで死んでこの世とおさらばなのだから人間というのもいかにももろくてあっけないもんだなあ、というような、わりとありがちな感慨をえた。逆にかんがえれば、このとくに堅固ともおもわれない、単調で勤勉ではあるもののまるで疑いなく安心できるような確かさをもっているともおもわれない、ちいさく無個性な律動が、生まれていらいずっと基本的には故障することなくほぼ逸脱することなく保たれて、この程度のものによって根本のところで生命が維持されているというのはおどろきでもある。それはそれでわりとありがちな感慨だが。
- いま二時前。入浴後にもどってくると買ったコーラを飲み、またブラウニースティックをもぐもぐやりながら今日のことをかいていたのだが、じきにどうも肩から背の上部あたりがこごってきたので、ベッドにころがった。それでだらだら。どうもなぜか書見をする気があまりおこらない。かといってウェブをてきとうにまわるのもなんかなあというかんじで、しばらくそうしていたのだが、過去の日記をよみたしておくかとおもって、いまおきあがって去年の一月一一日をよみはじめた。冒頭の引用は栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』(ミネルヴァ書房、一九九七年)から。第三帝国時代、一九四一年六月六日にドイツ国防軍にたいして発せられたいわゆる「政治委員射殺命令」についての部分で、軍部隊へのこの指示もしくは命令のなかには、「野蛮なアジア的闘争方法の首謀者は政治委員である」という文言があって、アジアと野蛮さが等号でむすばれていたことがわかる。「ボリシェヴィズムとの戦いにおいては、敵が人間性と国際法の原則に基づいた態度をとるものとは考えられない。とくに、抵抗の本来の担い手としてのすべての種類の政治委員からは、我々の捕虜に対する憎悪に満ちた、残酷にして非人間的な取り扱いが予想される」ともあって、アジア=野蛮=非人間という語彙的・意味的連関だ。あいて側、つまりソ連の連中が「人間性と国際法の原則」を無視した残虐なたたかいかたをしてくる(と予想される)ので、われわれもそれにおうじなければならず、「寛大な態度や国際法上の顧慮は誤り」であり、「政治委員は、戦闘あるいは抵抗の最中に捕らえられれば、基本的にただちに武器によって始末しなければならない」という理屈になる。
- 本文中だとこの日は朝から出勤しているのだが、その往路中の記述に「(……)家の脇の斜面に生えた蠟梅の、もうだいぶ花が膨らんで色勢が強いのに目をやっていると」とあり、「色勢」なんていうことばはめずらしく、一般的な語彙としてもないだろう。たぶんこれいらいいちどもつかっていないとおもうがなかなかよいのでまたつかいたい。
- ロラン・バルト/鈴村和成訳『テクストの楽しみ』をよんでいる。ほんのすこし感想をしるしている。「断片的に〈娼婦〉であること」という表現はちょっと印象的。「娼婦」ということばはよくないかもしれないが、要はわずかばかりの営業性というか、難解とか前衛的とかいわれるようなテクストでも、ひろく受け入れられる、流通的な部分、ある意味では読者に媚びたりおもねったりするようなところをすこしはふくんでいなければそもそも読まれないよということだろう。狂気にみちていながらも、その狂気のなかのどこかにしかし誘惑と魅了の要素をはらんでいなければならない。「放蕩者が大胆な謀略の果てに、歓びを味わいつつ、綱を切らせて自分の首を吊る瞬間に」という後段の比喩も、たしかにいまよんでも「鮮烈」だとおもう。
「バタイユや――他の作家――のテクストは、神経症に逆らって、狂気のただなかで書かれ、そのテクストのうちに、もしそれが読まれることを欲するなら、読者を誘惑するのに必要な、ほんの少量の神経症を有する。こういう恐るべきテクストは、それでもなおコケティッシュなテクストなのである」(11)。これはちょっと魅力的な洞察である。〈狂気〉のなかに一抹の〈誘惑〉を(〈狂気〉の〈裂け目〉を?)孕ませること、断片的に〈娼婦〉であること。ただ、ここで使われている「神経症」の意味は、おそらく主にラカンの精神分析理論を下敷きにしていると思われるが、当該理論を学んだことのないこちらにはその意味の射程がよくわからない。
また、「文化やその破壊がエロティックなのではない。エロティックになるのは、その双方の裂け目なのだ」(13~14)とのこと。それに続けてさらに、「テクストの楽しみは、こうした把捉しがたい、不可能な、純粋にロマネスクな瞬間に似ている。――放蕩者が大胆な謀略の果てに、歓びを味わいつつ、綱を切らせて自分の首を吊る瞬間に」(14)とある。最後の一文は、鮮烈で印象的な、〈頭に残る〉隠喩/イメージである。