2021/5/18, Tue.

 世界のはじまりを問うことは、それ自体としては神話的な問いでありうる。大地は、大河は、大海は、星々と天空はいったい、いつどのように生じたのか。鳥獣が、人間がどのように生成したのか。たとえば、ヘシオドス『神統記』が語りだすところによれば、はじめに生じたのは「カオス」である。ヘシオドスの語るカオスは「混沌」のことではない。カオスとは「裂け目」のことであった。そうであるとすれば、ヘシオドスの宇宙創成論(cosmogony)がまず語るのは、「大地」(ガイア)と「天空」(ウーラノス)との分離であったといってよいだろう。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、5)



  • きのうで毎日の日記の冒頭にふしている書き抜きストックのうち、石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)の分がつきたので、つぎはなにになるのかと過去の手帳をみかえして読書の順番をふりかえったのだが、そうすると去年の二月ごろとかのじぶんは手帳にずいぶんとおおく文章をかいていて、それが書き留めのレベルではなく几帳面に行の左右端をそろえたきれいな字でかかれているので、俺こんなに手書きしていたのかとおもった。いちど(……)に手帳をみせたときにめちゃくちゃきれいで感動したみたいなことをいわれたことがあったが(秋葉原にいったときだったはずで、ということはこちらと(……)くんの誕生日プレゼントにヘッドフォンを買いにいったときだから昨年の一月ごろだろうか? しかしハマスホイの展覧会をみにいったときだったような気もするが)、たしかにずいぶんきちんと書いている。ところで記事冒頭引用の順番は読書そのものの順序ではなく、とうぜんかきぬいてあるものからしか付せないので読書の順序を確認してもしかたがなかったのだけれど、あの本はもう付したのだったかと確認するためにここ数か月の日記をいくつか瞥見したところ、『ロラン・バルトによるロラン・バルト』の引用をはじめたのが一月後半のようだったので、それから三か月以上にわたって日記冒頭はずっとこの本からの書き抜きだったわけで、これには笑う。おまえはどれだけこの本を写しているんだ、と。ほぼ四か月だから、一〇〇箇所以上写しているわけだろう。これだけあるとそれを読みつげばけっこう本の内容が追えるわけで、ブログが著作権法違反で注意されないだろうか? 日記という形式上、この引用に内容との連関面からみた必然性などないわけだし。今日からの引用は熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)。新書のやつ。
  • この日のことはもうだいたいわすれた。いま二〇日の午後一時だが、休日で家にとどまった日にかんしては、一日もたてばだいたいわすれる。やはり外に出ないと、やることもみることもなじみのものばかりで知覚と身体がうごかないから、印象があまりのこらない。読みものは下の英文記事をよんだのと、ひさしぶりに『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫、一九八六年)をけっこうよみすすめた。二番目の「トラキスの女たち」を通過し、高名な「アンティゴネー」にさしかかったところで切り。いまのところすごくおもしろいというかんじでもないし、現代的リアリズムからすると筋立てもしくは人物の行動に、釈然としないというか、そこはもっと警戒しろよみたいなつっこみをいれたくなるところなどがないでもないが、それは問うことではないだろう。「トラキスの女たち」の前半の主人公というべきデイアネイラ、すなわちヘラクレスの妻は、「よく物事を考える人には、立派に栄えている者もいつかはやはり衰えるのだ、という怖れがあります」(97)と口にしているけれど、これは完全に『平家物語』の観念ではないか。もっともここでそれは一個人の「怖れ」や不安として提示されているけれど、『平家物語』のほうでそれに「怖れ」の情がつきまとっていたのかはしらない。よくあるイメージとしては、栄枯盛衰は人間ののがれられない宿命で、だからそれをそれとして淡々と受け入れていく、みたいなかんじだが。ここで提示されたデイアネイラの感慨は、16ページ、「アイアス」で、女神によって錯覚をおこされたアイアスのさまをみるオデュッセウスの台詞につうじているだろう。いわく、「それにしても、わたしはこの男が不憫でなりませぬ。たとえわたしを快からず思うとはいえ、この不幸な禍いにしっかりとくくりつけられているのを見、これもいつかはわが身のことと思うにつけても。しょせんわれらはこの世にては、空蟬のはかない影にすぎぬものでしょうから」ということで、まず衰退や不幸がいつかじぶんの身にもやってくるのではないかという恐れや不安が共通している(正確には、オデュッセウスのほうはその予測にたいして恐れや不安を表明してはいないが、すくなくとも不幸がいつかくるという、なかば確信的とも見える予測はしている)。もうひとつには、そこに「不憫」やあわれみの情がともなっていることが共通している。というのも、ヘラクレスが攻撃した町から戦利品としてぶんどってきた女性たちをまえにした97のデイアネイラは先の台詞にそのままつづけてこのようにいっているから。「親しい方々、このわたしには、強い憐れみの気持が浸み込んできてならないのです、この哀れな女たちが、異国の地にあって、家もなく父もなくて、さまよっているのを見ていますと。この女 [ひと] たちは、もとは自由な人たちの子であったでしょうに、今は奴隷の生活を送っています」と。だからこのふたつの箇所は、実際に栄枯盛衰の運命にのまれた人間をめのまえにして、我が身をかえりみるというか、自分もいつかはああなるのではないかと不安をおぼえたり、すくなくともそれをわりと蓋然性の高いこととしてかんがえたりしている。そこでは、いまのみずからのある程度の幸福とか良い状態とかがこのままこの先もつづく、という発想は信用されておらず、単純なはなし、この世においてはいつなにがおこってもおかしくはなく、ひとの生と世界のみちゆきははかりしれないもので、明日どうなるかもわからない、というかんがえが優勢である。一寸先は闇、というのにちかいのではないか。だからいってみれば、有頂天とか万能感みたいなある種のおごりめいた人間の情が、あらかじめいましめられ、罰せられている。
  • あと「トラキスの女たち」での死にかけたヘラクレスの苦悶の台詞とかはけっこうよかった気がする。劇的というか芝居の約束事にむろんそった調子ではあるのだろうが、なんかそれが、退屈な平板さにも堕さず、かといって大仰すぎてからまわりもせずにかんじがでていたような気がする。

Ukrainian officials have opened a synagogue at Babyn Yar near Kyiv - a place where the Nazis murdered nearly 34,000 Jews in World War Two.

Babyn Yar was a ravine where Jews from Kyiv were lined up and shot dead by the invading Germans over two days in 1941.

The death toll rose above 100,000 over the next two years as Hitler's Nazi SS murdered more Jews there, along with Roma (Gypsies) and Soviet prisoners.

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The synagogue's ceiling has a painted map of the night sky, with stars positioned as they were on 29-30 September 1941, when more than half of Kyiv's remaining Jews were massacred.

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The synagogue's Swiss architect, Manuel Herz, designed it to open and close like a book, with a manual mechanism that worshippers will operate. It was inspired by pop-up books, but also reflects the holy text of synagogue services.

"From a flat object of a book, when we open it, new worlds unfold," the [manuelherz.com](http://manuelherz.com/) website says.

The 11m-high (36ft) building has a metal frame and is made of Ukrainian oak more than a century old, to reconnect with the old Jewish traditions of the area. The painted constellations on the ceiling also echo the artwork of synagogues destroyed by the Nazis.

  • ほか、この日は日記もすすめてこの前日、一七日までしあげられてよかった。熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)の書き抜きも二箇所。非常にかるいものだがスクワットとストレッチもやった。めちゃくちゃかるく、ぜんぜんがんばらなくてよいので、ともかくもいくらか室内でもからだをうごかすようにはしたい。音読のかたわらにThe Carpenters『Their Greatest Hits』をながしたときがあったが、Carpentersってやっぱりすごいなとおもった。アレンジもそうだが、進行もところどころで工夫がこらされているような気がするし、その進行とメロディの結合のしかたがなんかすごい気がする。ちゃんときかないとわからないが。芸術的、というにあたいするポップスだとおもう。そりゃあこれをやったら売れないわけがないだろうというかんじ。これが売れない世は、隅から隅まで殺伐としきった地獄みたいなところだろう。