2021/12/8, Wed.

 ――ああ何てここは暖いだろう、と彼は溜息をつくように思った。これからは、もう父や兄や姉の云うことを何でもよく聞いて、素直に、永久にここで暮らせばいいのだ。

 藤枝にしてはめずらしい安手な感傷が語調を犯しているこの文章には、まるでそこで暮すことが一つの虚構にすぎず、やがては見捨てねばならぬその虚構を無理に信じこもうとしているかのごとき説得力のなさが露呈している。「永久に」といった言辞は、「永久」から拒絶されたものの口に、あるうしろめたさを隠蔽する仕草としてはじめてのぼってくるものにすぎないからである。死者の言葉とは、おそらくすべてを肯定的に許す父親の、「ええに、ええに、ええ子だっけに」でなければならないだろう。その「それでええ――心配せずともええによ」を秘かに期待しながら、「身体をもんで父の膝に頭をこすりつけ」るといった身振りは、章の死が、章自身によって一つの虚構としてしか生きられていないことを証(end154)拠だてている。それ故、『一家団欒』が章の単なる墓への歩みと、その地中の窪みでの「一家」との再会のみで終っていたとしたら、作品『欣求浄土』は、一篇の風変りな異色作にとどまり、フォルムと意味との緊密な結びつきにおいて人をうつことはなかったであろう。
 だが、藤枝は、慰め許す父のイメージを一挙に希薄化することで、感傷を鋭利に断ち切ってしまう。「山と山とが浅く入り合いになった窪みの山裾」の小さな神社での火祭り、多分「火踊り」の訛りにちがいないヒヨンドリの見物へと一家が出発することになるからである。藤枝の独創性は、「一家団欒」の場を墓の中ではなく、まさに大地の表層における藤枝的彷徨として設定した点にあるのだ。

 彼等は一団となって、真暗な外に出て田圃のなかを一直線にどんどん歩いていった。

 彼等が足をとめるべき目的の神社が、「山と山とが浅く入り合いになった窪みの山裾」にある点に注目しよう。作品『欣求浄土』で章がたどった幾つもの軌跡と、この一団の歩みとはその風土において酷似しているではないか。そして、その地点めざして渡ってゆく松明の火を闇をとおして目にとめるとき、「章の胸に、幼かったころのわくわくするようなときめきが蘇っ」てきたのである。
 ここにおいて、章は頑迷な独行者でもなければまた同行者を伴って遊山に興じているわ(end155)けでもない。この「わくわくするようなときめき」を間違いなく共有しているはずの一団に、すっかりとけこんでいればそれでよいのだ。彼はいまや、名前も顔もなく、ただ一つの運動と化しているのである。

 章は、兄と姉とのあいだにはさまれて、どんどん近づいていった。

 そのとき世界は、交錯するもの音によって満たされ、章の存在はその響きとほとんど無媒介的に交わりあっている。

 「デンデコ、デコデコ。デンデコ、デコデコ」 単調で濁った太鼓の音が響いていた。あいまに、調子はずれの笛が「ピー」と鳴り、それにつれて鉦が「カーン、カーン」と鳴っていた。

 まるで、聴覚ばかりが無意識的な記憶をとり戻したかのように、章の存在は、あたりに氾濫する響きへと向けてみずからを拡げてゆく。死者の瞳には映らない村人たちのざわめきが「わにゃ、わにゃ」と空気をふるわせるというときの「わにゃ、わにゃ」はいかにもすごい。おそらく豊饒なる生殖へのいのりからなっているであろうヒヨンドリのいささか(end156)卑猥な仕草に「厭だよう、わっちら」と反応する姉の言葉に、章は「ああ、これだ」と思い、「こういう無邪気で単純なもの」が自分の内部にとりこまれると、たちどころに重く澱んで濁ってしまう不幸を回想するのだが、不意に露呈される藤枝的主旋律としてのこの自己嫌悪の念も、「深い安堵の思い」として彼の心を浸してゆく「デンデコ、デコデコ」の中に薄れて行ってしまう。「もういい。もう済んでしまった、と章は思った」。
 父に促されて飲む「麴の香に満ちた熱い甘酒」が「ガラン洞の内臓をどろどろと下って行」くとき、一家は帰途につく。

 そして彼等はまた一団となって、背中にヒヨンドリの太鼓の音を聞きながら、墓場にむかって帰って行った。
「デンデコ、デコデコ。デンデコ、デコデコ」

 作品『欣求浄土』をしめくくるこの部分に接するわれわれは、藤枝的「存在」が、その度重なる彷徨を通じて、言葉の手前にとどまって絶句するしかなかった自分を全的に肯定する環境として、「デンデコ、デコデコ」との遭遇を無意識に希求していたのだということが理解できはしまいか。サロマ湖での水の不気味な戯れを前にしたときの「逃げてゆく」、円形の原始の窪みを想起するときの「土中の庭」、昭和新山にめぐりあった瞬間の(end157)「感心しました」などは、ほとんど誰にいうともない自分自身へのつぶやきなのだが、まだそのとき彼に残されていた言葉との戯れの可能性が、この「デンデコ、デコデコ」によってすっかり吸いつくされて、その後に、声が言葉にならない薄白い地平が浮きあがることになる [原文は区切りなくつづいているが、おそらくここに「。」が抜けている] 藤枝的「存在」はそこに自分を見出すべく、歩き続けていたのだ。
 (蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)、154~158; 「藤枝静男論 分岐と彷徨」; 「Ⅳ 分岐するものたち」)



  • 一一時二〇分の離床なのでまたすこしおそくなってしまったが、からだのかんじはわるくなかった。瞑想も三〇分ほどできてよい。
  • 新聞は文化面に岡本喜八という映画監督について。喜劇的な作風でありながらも自身が体験した太平洋戦争を作品にしつづけたと。岡本自身は戦地におもむくことはなく、工場で飛行機の部品をつくったり、工兵学校にはいったりしただけで終戦をむかえたらしいが、愛知県豊橋の学校に移動したときにすぐ目のまえに爆弾が落ち、周囲のなかまたちが死傷してくるしむという地獄絵図を経験したのだという。故郷にもどってみても同級生のおおくが死んでおり、じぶんにとって太平洋戦争とはなにかと言われれば、おなじ年代の若者たちのおおくが声もなくただ死んでいったということいがいにこたえようがないと後年述懐しているらしい。
  • その他太平洋戦争のはじまりから八〇年とか、米国が北京五輪にたいして外交的ボイコットをするとか、ミャンマーの状況とかいろいろあるけれど、まだ読んでいない。天気は雨降りで、最高気温はきのうから五度下がって一〇度ほどだという。風呂を洗うさいに窓をあけてみればしとしとと弱い雨が舞ってはいるようだが空気はさほど暗くよどんではいない。となりの空き地にはわずかにオレンジがかったような褐色の葉がたくさん散っており、道路のほうでも端に帯なして溜まっているだけでなく、道のまんなかにもおおく差しこまれていて、全体に赤っぽいようないろどりがそえられている。石壁のうえで林のいちばん外側の低い木々もおおかたおなじ色合いにそまっていた。
  • 出勤まではきのうの記事を書いたり『ボヴァリー夫人』を読んだり。ストレッチと二度目の瞑想もできた。無動式の瞑想をするとちょっとねむかったというか、上体がまえにややかたむくことがけっこうあったので、一五分できりあげたあとそのまま深呼吸式もやってみたのだけれど、そうするとあたまや筋肉に酸素がいくのか、背がかるく伸びて頭蓋の感覚もほぐれ、意識がゆらぐことがなくなった。ストレッチもまあよろしいですね。一年前などとくらべると、からだの恒常的な状態、ベースのありかたがもうべつもの。筋肉が芯からやわらかくなったとおもう。さらに柔軟をすすめたい。
  • 四時でおにぎりをひとつ食った。釜にのこっていた米をすべてつかってつくり、食べたあとにあたらしく磨いでセットしておいた。
  • 四時半で出発。雨はまだ降っており、傘をひらいてバッグをかかえながら道へ。五時まえだとまだ空気が暗んではおらず、そのまえに膜をいちまいかけられたような鈍い空の白も木々の黒っぽい緑も、風をうけて枝先をゆらしている黄褐色のこずえの色も、くすんだ雨に濡らされてあざやかさはないものの、あきらかにわかたれている。あたまのそばでちりちりと燃える雨音をききながら坂道にはいると、薄褐色の落ち葉が路面をまさにおびただしく埋めつくしており、足の踏み場もないとはこのこと、ほんとうに葉を幾枚か踏まないですむ歩をつくりようがなく、そのあいだにも風音とともにはらはらと抵抗なく降ってくるものがいくつもあって、地に伏したもののわずかに湾曲してちいさな弓のようにはたまたおもちゃの船のように型なしたその表面にたまった水気が街灯のひかりを分有し、あゆむたびにそこかしこで白い点状のきらめきが生まれては消える。
  • 最寄り駅から乗車。(……)につくと降り、直後に発車する乗り換えには乗らずいちど駅を出た。(……)それであいさつして駅にもどり、ちょうど来た(……)行きに乗って座席で瞑目。
  • (……)までずっと目を閉じてやすんでいた。ホームでない場所ではたらくということで、ちいさいけれど多少の緊張はおぼえていた。それをかんじつつ、ほかの教室に行くだけで緊張するとはおれもぜんぜん未熟だなあとおもっていた。まあそういう緊張とか不安とかをかんぜんになくすのは不可能なのではないかとおもうし、問題ではないのだが。着くと降り、でむくのにちょうどよい時間まですこしあったので、ベンチについて脚をくみつつ『ボヴァリー夫人』を読んだ。風が寄せてさむいはさむいが、芯まで侵食してはこない。もういいかなというところで立ち、階段をのぼり、改札を出てひだりへ。(……)で降りたのはマジでひさしぶりのことで、大学生のとき以来ではないか。いまとうとつにおもいだしたのだけれど、二〇一一年三月一一日にじぶんはこの(……)にいたのだ。というのはとうじまだ実家にいた(……)と会っていたからで、なぜその日に彼女と会うことになったのか理由はまったくおぼえていないのだけれど、大学に行く電車のなかで彼女とはたまに顔をあわせていたので、それであそぼうということになったのか。しかしさらにかんがえるに、二〇一一年三月というのはじぶんがパニック障害で一年休学して大学に復帰するその直前の時期ではないか? じぶんは二〇〇八年の四月に入学したから二〇〇九年四月には二年、そして二〇一〇年の四月に三年生をはじめたところがパニック障害がひどくて五月を待たず休学しようという決断にいたったのだった。過去にもしるしたことをついでにまた余談としてしるしておくが、休学の決断にいたった日のことはわりとおぼえている。二〇〇九年のおそらく一〇月のなかばから後半あたりにじぶんははじめての発作をむかえて、その後も消耗しながらも二年次はなんとか終え、春休みをはさんで三年次もどうにかかよおうとおもっていたのだけれど、症状がひどすぎて、毎朝電車に乗れば席にすわってじっとしているだけでとにかく不安でたまらず、呼吸はうまくいかないし、すこしでもなにかがずれれば発作がやってきそうだし、ここからいますぐ逃げだしたいという気持ちとつねにたたかいつづける通学路だった(大学での講義のあいだも、それとさほどちがいはなかったが)。とくに一限から授業がある日などは満員電車に乗らなくてはならず、じぶんのばあい電車の接続関係上、席にすわっていけるのはよいけれど、すわっていても目のまえをひとの列が圧迫的に埋めつくしているわけで、となればとうぜんすぐに出口にむかって逃げるということができないから、目を閉じて人間を見ないようにしながらひたすら不安がたかまらないようにやりすごす朝だった。一時間くらいずっとそれがつづくわけである。いまからかんがえてもよくがんばっていたなというか、過去のじぶんにたいしてさっさと医者に行けばよかったのにとおもうところだが、そういう日々がつづいての四月の終盤、ついにピークがやってきたのだろう、乗り換えのために(……)で降りてホームを行っているあいだ、鬱病のひとの気持ちがわかったような気がしたのだった。つまりそこで生まれてはじめてある程度明確な希死念慮をおぼえたというか、これでは無理だなと、このままだとじぶんは自殺するかもしれないという予感をえたのだとおもう。それでその日はもう大学には行かず、地下鉄にむかうのはやめてそのまままた一時間いじょうかけて帰り、その日のうちだったかどうかはわすれたけれど両親に休学したいという旨をもうしでて、二〇一一年の四月まで一年やすむことになった。とおからず医者にも行き、精神安定剤を飲みはじめることになる。
  • さいしょの発作が起こった日のことについても書いておこうかとおもったが、いままで何度もしるしているし、めんどうくさくなったのでそれはいずれまた。はなしをもどすと、じぶんは東日本大震災が起こった日、(……)とともに(……)のドトールコーヒーにいたのだった。時期をかんがえると休学明け直前なので、体調ももどってきたしリハビリがてらそとに出てひとと会おうみたいなことだったのかもしれない。とはいえ三年次四年次もまだまだ症状の残滓はあって、それなりにくるしめられることにはなる。(……)という女性は高校の同級生であり、おなじクラスになったのは二年時だったが、一年のときからつきあいはあった。バンドメンバー(ベース)であり一年時の(そして二、三年時も変わらず)クラスメイトだった(……)と、ドラムだった(……)が吹奏楽部で彼女としたしくしており、その関係で交流をもったのだ。ちなみにバンドののこりのひとりで実質的なリーダーでもあった(……)もまた吹奏楽部で、じぶんとおなじ学年の吹奏楽部男子は五人しかいなかったので(うえの三人に、(……)と(……)さん)、しぜんその五人のつきあいは濃くなった((……)と(……)はいろいろあってのちほど険悪になるが)。(……)はパーカッションをやっていたはずで、(……)もそうであり、ふたりは一時期つきあってもいた。それで(……)と(……)と(……)には交友があり、こちらはクラスで(……)と仲良くしていたし、(……)もあわせておなじバンドだったということもあって、そのへんで(……)とも知己をえたのだろう。一年のときは(二年時もいくらかはそうだったかもしれない)昼休みによく階段にあつまって、あきらかに通行の邪魔なのだけれど段のとちゅうにすわりこんで飯を食っていたのだが(なぜかふしぎと(……)がそこにいた記憶がないのだが)、(……)と(……)いがいにもうひとり、(……)の友人だった(……)というおとなしい女子がいて、彼女も吹奏楽部だったのか否か、それはもうおぼえていない。したのなまえもわすれてしまったのだけれど、(……)はそこそこの軽薄漢だったので、したのなまえを取って~~ちゃんとちゃんづけで呼んでいた(たぶん同性の(……)もそう呼んでいたのではないか)。じぶんはこの(……)さんとは、けっこうな時間をいっしょにすごしたはずなのだけれど、ほとんどはなした記憶がない。ものしずかで声のちいさな女子だったし、じぶんはじぶんで陰鬱ぶった根暗野郎だったので、会話が生まれようがなかったのだ。ところがそんなじぶんでも高校時代には数人の女子から懸想されたことがあり、そのうちのひとりがこの(……)だった。彼女がなぜじぶんのことを好いたのかまったくわからないのだが、おそらくおなじクラスになった二年時以降に、下校中の電車のなかでメールで告白されたことがある。たしかそこには(……)さんもおり(彼も家が(……)だったからである)、ほかにもだれかいたかもしれないが、メールを見るように(たぶん(……)自身から)うながされて、見ると好意をつたえる短文が書かれてあったはずだ。ちょっとかんがえてからことわりの返信をおくったが、どう言ってことわったのかはおぼえていない。いまはだれともつきあう気がない、みたいないいかただったかもしれない。(……)はその後、消沈したような表情と雰囲気になったはずで、ことによるとちょっと涙ぐんですらいたかもしれない。じぶんは朴念仁ではないので好意を持たれているなというのは多少感知していたはずで、この告白のときにも、その直前になんらかの前兆というか、なにか妙な空気みたいなものが車内にあったのかもしれないが、その点はおぼえていない。これがじぶんが高校時代にかろうじて経験した恋愛沙汰のひとつであり、数人の女子から懸想されたとうえに書いたとおり、あとふたりだけ、じぶんに恋愛的な意味で好意をいだいていた女子の存在を知っている。ひとりは(……)さん(字が合っているか不明だし、そもそもしたのなまえが(……)だったかも自身がない)であり、もうひとりは(……)である。そのうち後者の(……)とはだいぶ仲が良かったと自負している。彼女はあかるくてけなげな女性だった。それなのに高校を出て(……)と別れていらい、男運にめぐまれず、だめな男ばかりにひっかかったという評判で、いちど結婚して名古屋に行ったのだけれどうまく行かずに離婚し、いまはたぶん東京にもどってきているのだとおもう。あかるくけなげだった彼女のすがたをおもいだし、勝手ながら平穏なこころの暮らしをおくっていてほしいとねがうばかりである。
  • ちなみに(……)とはその後、大学を出ていこういちどだけ会ったことがあり、ということはつまりすでに読み書きをはじめていたわけだけれど、それはたぶん二〇一四年か一五年、行っても一六年のことではなかったかとおもう。彼女はそのときもう結婚しており、ことによるとこどももひとりいると言っていたような気がしないでもなく、(……)にでむいてファミレスにはいったのだけれど、すぐちかくの(……)あたりに住んでいるとのことだった。(……)さんについてはめんどうくさいのでしるさないが、ことほどさように、じぶんが人生でいちばんモテていたのはまちがいなく高校二年から三年のあいだである。ところがじぶんはもうそろそろ三二歳にもなろうとしているけれど、いまだにいちどもだれかと交際を持ったことがなく、風俗などに行ったこともないし、いわば行きずりの性交渉を持った経験もないので童貞をまもっている。恋愛弱者と言ってよい。なにかがちがっていればIncelになっていてもおかしくはなかった。それは冗談だけれど、まじめな意味もすこしはふくんでいて、恋愛は措いても、子どものころや一〇代で受けた承認が人格形成の面でじぶんをすくったということはあるとおもう。じぶんのばあいは勉強ができたということがおおきかったとおもうのだ。さいわいなことにじぶんは小学一年生から学業面では相対的に優秀なほうで、小学校から高校までずっと成績は良いほうだったので、勉強ができる、あたまの良い人間と周囲からみなされていたのだが、共同体のなかでそういうふうに一目置かれて承認されることが、じぶんじしんへの漠然として一般的なある程度の自信、みたいなものにつながったとおもうのだ(反対に、運動はからきしだめだったので、そちらの面ではもちろん劣等感をおぼえていた)。それがたぶん、こちらの人格や実存の基礎的なささえをなしたのではないかと。逆にいえば、もし学校の勉強ができていなかったら、じぶんはもっと劣悪にゆがんだ人間になっていた気がする、ということだ。ところでじぶんは勉強がけっこう得意だったとはいえ、それで調子に乗らないように気をつけてもいた。中学二年くらいになって中二病をわずらったじぶんは、周囲の同級生を幼稚なやつらだといくらか見下しながら、そのように他人を見下しているじぶんじしんの傲慢さを同時に嫌悪するという、まさしく自意識の病におかされていた。したがって勉強面でも、じぶんはできるといってもしょせんはたいしたことのないレベルだとおもっていたし、また積極的にそうおもおうともしていたはずである。つまり、じぶんは絶対に天狗になりたくなかったのだ。なぜかといえばそれは臆病さのゆえであり、ようするに、ほんとうはたいした人間ではないのにじぶんをたいした人間だとおもいこんだ勘違い野郎になって恥をかくのが怖かったのだといまからはおもわれる。一〇代の子どもにあるまじき(あるいは一〇代の子どもにこそあるべき)屈折した小賢しさだが、だれかから決定的に去勢されることをおそれて、おおきな傷を負わないようあらかじめ自己去勢していたという理解になるだろうか。そうはいってもやはり自己顕示欲たっぷりな馬鹿な子どもなので、調子に乗る場面もいくらかあっただろうけれど、じぶんがなぜそのような自戒的なメンタリティをはやくから獲得するにいたったのかはわからない。というか精神分析的にはそれはむしろ一般的なコースなのかもしれないが、いずれにしても恥をかくことをおそれるという精神性がある時期までのじぶんに支配的だったのはまちがいのないところである。それはおそらくおおくの他人もおなじであり、とりわけ日本人はその傾向がつよいという、ある程度まであたっているのだろうけれどある程度いじょうはうさんくさいような文化論も(たぶんルース・ベネディクトいらい)世に流通しているようだ。
  • ふたたびそれてしまったはなしを巻きもどすと、二〇一一年の三月一一日にじぶんは(……)と(……)のドトール・コーヒーにいたということだったのだが、午後二時四六分だったか、地震の起こったその瞬間もふたりは店内におり、ゆれがきてまもなくおおきくなったので客らはあわてだし、店外に出たひともおおくいた。われわれもいちど出たような記憶がないでもないが、その後電車が停まったか、あるいは停まるかもみたいな知らせがあったのだろう、帰れないのではと困ったところに(……)が、じぶんの家まで来て車に乗っていくかとさそってくれて、それで駅からけっこうながくあるいて彼女の実家に行き、たしか彼女じしんが運転する車に乗せてもらって家に帰ったのだった。(……)で近年降りたのはそれがゆいいつだったのではないかというはなしで、もしほんとうにそうだとすると一〇年ぶりということになる。(……)にまつわってはもうひとつおもいだす記憶があり、それは幼少のころのことで、じぶんは小学校三年か四年から六年のときまで近所にあったそろばん塾にかよっていたのだが、その検定試験が毎回(……)でおこなわれていたのだ。それでたまにおとずれることがあって、駅前のマクドナルドでハンバーガーやポテトを食ったり、広場に群れている鳩をおどろかせてあそんだりしたという記憶が、今回の(……)行きを受けてよみがえってきたのだった。
  • この日の本線にもどると、(……)駅を出ると(……)さんがメールにしるしてくれた道順を確認しつつ教室へ。雨はまだ微妙に降っており、さいしょは傘を閉じていたのだけれど、これだといちおうさしたほうがいいかなというかんじだったのでひらいた。到着。入り口まえで傘をばさばさやり、はいって階段をのぼり、傘立てに傘を置くと戸をくぐってあいさつ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • 意外とはやく終わった感。(……)ではたらいているふだんよりよほどはやい。出たのはちょうど九時半ごろだったはず。携帯を見ると(……)さんから礼のメールがはいっていたので、道をたどって駅にもどり、ベンチについたあと返信しておいた。車内では瞑目に休み、(……)について乗り換え待ち。自販機でチョコレートなんかをすこし買う。そうしてベンチについたが、電車が来るまでまもなかったので本は出さず、なにもせずに数分待った。正面は線路をはさんだむこうに建設とちゅうの新ホーム(もうかなりながくやっていて、いつになったら利用可能になるのかわからないが)があり、むきだしの灰色の平面が横に伸びているそのところどころに定期的にある継ぎ目のまわりに水がうすくたまっており、それを見れば雨はまだ降っているらしくたたかれた水面がうねるようにしてうごめいているのだが、それはさらにさきに停まっていた待機電車のあかりによってあらわに視認されていたにすぎず、その車両が移動していなくなると水はとたんにくらんで黒さにつつまれ、そのうごめきもほとんど知覚できないようになった。来た電車に乗ってまた休む。
  • 帰宅後はちょっと休息したあときょうのことをすこし記述。零時前まで。(……)のことをおもいだしていろいろとだべるながれになってしまった。夕食はしけたようなボリュームのなさのサンマなど。なんだか平べったいようだったのだが、しかし食ってみればうまくはあった。テレビは視覚障害者の女性と元ヤンキー的な男性が恋するドラマを映していた。この主演の女性はこのあいだ(……)くんがさいきんの好きなタイプとしてあげていたうちのひとりだ。食後、風呂をすませるとまた日記。つらつらと過去のことをつづってしまい、三時ごろまで。なぜかわからないが指がよくうごいた。楽に書こうとか言ったばかりのわりにずいぶんおおく書いているのだが、それで負担だたいへんだというかんじもなく、すらすら記すことができた。過去にも書いたことのあるはなしだからか。書きぶりもぜんたいにゆるくなっている。その後はだらだらして四時四六分に就床。