2022/7/1, Fri.

 話題は再びシエラ・クラブになった。クラブが積み重ねてきた誠実な努力に称賛の念を覚える一方で、わたしは、自然への愛を特定のレジャー活動や眺望の美学に結びつけることは、異なる趣味や務めをもつ者の排除につながるのではという危惧を感じた。自然の土地を歩くことは、ある特定の伝統のデモンストレーションとなり得る。それが誤って普遍的な経験として受け止められれば、参画しない者は北ヨーロッパ的なロマン主義の伝統の素養がないと思われるのではなく、自然への感受性を欠いていると思われかねない。マイケルは、彼がリーダーを務めてヴァレリーが食事の世話をしたあるシエラ・クラブの遠征について話してくれた。何名かの会員が善意から都会の貧しい地区に暮らすアフリカ系アメリカ人の子どもを連れてきたところ、子どもたちは完全に気が動転してしまったのだという。彼らはありのままの自然に動揺してしまい、自然のなかで力試しをするという遠征の意図は実現できなかった。魚釣りに連れていった男性と、毎日ハンバーガーをつくってあげたヴァレリーだけが彼らの経験にとって救いだった。そのことを、マイケルはジョン・ミューアについての著書『道なき道』に書いている(シエラ・クラブをはじめとする団体はそれ以来、体験のやり方に工夫を凝らした〈都会っ子のための遠征〉を支援している)。(end256)

我々にとってなによりもショックだったのは、ありのままの自然への感受性は文化的に決定された、不足のない階層に暮らす一部のアメリカ人の子女だけにゆるされた特権であるということだった。遠足に出かけてユートピア的な共同生活の感覚を養うことは、基礎的な価値観を深く共有する人びとの集団という出発点があってこそ可能だったのだ。

 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、256~257; 第十章「ウォーキング・クラブと大地をめぐる闘争」)



  • 「読みかえし2」: 861 - 864
  • 「英語」: 183 - 200


―――


 一〇時ちょうどの起床。それまでにもなんどか覚醒。さくばんはかなり夜更かししてしまったから一〇時起きでも睡眠はみじかい。寝るときはエアコンを切っているが、それだととうぜん掛け布団が暑くて、もう一段うすいやつを実家からもってきてあるのでそれに替えなければならない。カーテンをあけるときょうもまた快晴で、ねころがった状態で見る窓がほとんど一面みずみずしい青さに満たされている。起き上がると洗面所に行って顔を洗い、それからマグカップに水をついでいくらか飲んだ。小用も足した。そうして寝床にもどってホッブズリヴァイアサン』のⅡを読みすすめる。242から278まで。やはり文献学的な注釈みたいなものがけっこうつづく。261にはモーセの支配権について、「彼の権威も、他の王公たちのそれと同様、人民の同意と彼にたいする服従の約束とにもとづかなければならない」と述べられ、その根拠として「出エジプト記」(二〇・一八)から、「(……)彼らはモーセにいった、『あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう』」という記述が引かれている。原始ユダヤ共同体とホッブズのかんがえる理論的コモンウェルスは同種の成り立ちをしているものとしてかさねあわされているわけである。まずもってモーセ以前には、アブラハムが神と最初に契約した「主権者」とみなされるが、かれだけが直接に神と契約し、かれの家族や子孫、その他のひとびとはそうではない。したがって、アブラハムの「契約」のなかにその他のひとびとの契約もふくまれているというのがホッブズのかんがえであり、そこから、アブラハムがゆいいつ神の命令をつたえ、解釈する権力をもっていたとみなされる。そしてこの点は、コモンウェルスの主権者にかんしても同様なのだ。「したがって、どのコモンウェルスにおいても、反対の超自然的啓示を得ないかぎり、人は宗教上の外的行為、告白いずれについても、彼らの主権者の法に従わなければならない」(258)、「したがってこんにち、主権者が、法に反して私的な霊を対抗させる者を処罰するのは合法的である。なぜなら主権者はコモンウェルスにおいて、アブラハムが彼の家族のなかで持っていたのと同じ地位を持つ者であるからである」(259)、「アブラハムの家族のなかではアブラハムだけだったように、キリスト教コモンウェルスのなかでは主権者だけが、何が神のことばで、何がそうでないかと知ることができるということである。(……)同様にコモンウェルスにおいても、アブラハムの地位を持つ人だけが神のことばの唯一の解釈者なのである」(259)。第三部「キリスト教コモンウェルスについて」におけるホッブズの聖書読解は、そこにみられる記述から再構成されるユダヤ人の原始共同体を類比的にもちいて、みずからの国家論を支える論拠にするはたらきを担っている。聖書にはこう書いてあり、このときにはこうだったのだから、それと同様にこうである、というわけだ。
 モーセ以後は祭司長が主権を担う時代がつづくのだが、サムエルにいたって民衆がみずから、他国と同様、王をたててほしいともとめることになる。ひとびとをおさめる主権はとうぜんながらもともと神にあり、モーセや祭司長らはその代行者だったわけだが、王をもとめることはホッブズの理解によれば、「もうこれ以上、神の名において、祭司によって与えられる命令には支配されたくないということを意味したのであった」(269)。「したがって彼らは、王の権威を持つ祭司長をしりぞけることによって、神の特別の統治を廃したのである」(269)。「民がすべてあなたにいう声に聞き従いなさい」(「サムエル記上」八・七)とサムエルに語った神じしんもそれをみとめたというのが興味深いが、これ以降、「宗教上の至上権」もまた、現実には制限を受けることがありつつも、王の手に帰されることになった。ソロモンはアビヤタルを祭司職から追放したのだから、「したがって彼は祭司長にたいして、他の国民にたいすると同様の権限を持っていた。それは宗教上の至上権を示す大きなしるしである」(270)。その他王が神殿を献納したり聖別や祈禱の儀式をみずからおこなったのも同様であり、「結論するに、神の王国の最初の設立から捕囚にいたるまで、宗教上の至上権は政治的権力を持つ者と同一の手中にあった。そしてサウルが選ばれたあとの祭司の職務は、為政者としてのものではなくて代行者にすぎないものとなった」(271)。
 原始共同体においては政治的主権と宗教的至上権が同一の者にあたえられていたのだから、それはいわゆる神権政治になるだろうが、民が王をもとめたことでそこに微妙な変化が生まれる。つまり祭司職が政治権からひきはなされるとともに、その宗教上の地位もいわば「代行者」となり、王という存在が政治面でも宗教面でも祭司にとってかわることになる。政教一致の体制は変わっていないように見えるが、重要なのは神との距離の違いである。つまり、「人民にたいする主権は、かつては神の力だけではなく、神とイスラエル人との特別の協約によって神にあり、ついで神の下にあってその地上の代理人である祭司長にあったが、いまやそれが神自身の同意を得て、人民によって破棄されたからである」(268~269)。神がサムエルにいうところでは、「彼らが捨てるのはあなたではない。わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである」(269)。したがって統治権が世俗化されたというか、王としての地位が神からにんげんの王にうつった、ということになるはずだ。
 いずれにしても、「旧約にかんするかぎり、私たちはつぎのように結論することができよう。ユダヤ人のあいだでは、コモンウェルスの主権を持った者が、同時に、神の外的崇拝にかんすることがらについても最高権威を持っており、神の人格すなわち父なる神の人格を代表していた」(274)。「コモンウェルスの主権を持った者」がモーセであれ、祭司長であれ、王であれおなじだったわけだが、国家と教会との関係をかんがえるにあたっても、やはり軌を一にしている。まずもって、「すべてのコモンウェルスにおいて、政治的主権者の許可のない集会は不法であるから、集まることを禁じているコモンウェルス内で集まりを持つ教会は、やはり不法集会である」(254)。ホッブズの時代には古代とくらべて世俗的政権と宗教権力の分離がはるかにすすんでいるので、この発言は前者を明確に後者のうえに置く宣言と読める。それどころかホッブズにいわせれば、キリスト教コモンウェルスと教会とはまったく同一なのだ。記述はつぎのようにつづく。

 したがって、地上には、すべてのキリスト教徒の服従を拘束する普遍的教会は存在しない。なぜなら他のすべてのコモンウェルスがそれに従わなければならない権力は、地上に存在しないからである。それぞれの王公や国家の領土内にはキリスト教徒が存在するが、彼らはすべて自分自身がその成員であるコモンウェルスに服しており、したがって他のいかなる人格の命令にも服すことはできない。
 またしたがって、命令、判決、赦免、断罪、その他あらゆることを行なうことができる一つの教会は、キリスト教徒から成る世俗的コモンウェルスとまったく同一である。そして一方はその国民が「人々」であるために「市民的国家」と呼ばれ、他方はその民が「キリスト教徒」であることから「教会」と呼ばれる。「現世的」および「霊的」統治という呼び方は、人々に「合法的主権者」を二重に見せて誤解させるためにこの世に持ちこまれた二つのことばにすぎない。
 確かに、信心深い人たちの肉体は、復活ののちには霊的でしかも永遠のものとなるであろう。しかしこの世においては肉体は有形のもので、いつ死滅するかもしれないものであり、国家についても宗教についても、この世においては現世的な統治以外にはなく、国家および宗教の統治者が教えることを禁じている教義を教えることは、国民のだれにとっても合法的ではない。そしてその統治者はひとりでなければならない。さもなければコモンウェルスのなかで、「教会」と「国家」、「霊主義者」と「現世主義者」、「正義の剣」と「信仰の楯」、〔そのうえ〕各キリスト教徒の胸のなかでは、「キリスト教徒」と「人間」の、分裂と内乱が起こることは必然だからである。
 (255~256)

 これはこの時代に現実に起こっていた事態だとおもわれるが、それにたいするホッブズの解決策はうえに見たように、政治的主権に宗教権を吸収させて一元化させるというものである。かれの読解によれば聖書の時代にはもともとそうだったのが、しだいに政教分離がすすんで教会が独立の権力を持ったために事態がややこしくなったところ、ホッブズの論はある意味、聖書の時代のありかたにもどれという反動的な呼びかけとも取れるのかもしれない。それにしても、「世俗的コモンウェルス」と「教会」が「まったく同一」であるというのは、どうもイメージしづらい、理解しにくい言い分である。この部分の「教会」は現実にあったローマ・カトリックの機構ではなくて、なかば理念的なものだろう。ホッブズの論調にしたがってかれの考えを現実化すると、ローマ・カトリック教会は(おそらくは君主を主権者とする)世俗的国家と同一のものにならなければならない、主権者の命令に服する国家の一機関として吸収統合されなければならないはずである。しかもかれは、「地上には、すべてのキリスト教徒の服従を拘束する普遍的教会は存在しない」とも述べている。「カトリック」とはまさしく「普遍」の意だったはずである。教会にたいして相当喧嘩を売っているような気がするのだが、とはいえ、逆にかんがえることも不可能ではないはずだ。つまり、教会組織がそのままコモンウェルスになって政治的主権を持つというかたちでの吸収統合も、理論上は可能ではないか。いずれにしても重要なのは「合法的主権」の確立とその単一性であり、合法的な統治であるかが問題なのであって、そこに「現世的」、「霊的」の別はない、ということだろう。


―――


 一一時過ぎまで読み、一一時二〇分くらいから椅子のうえであぐらをかいて瞑想をはじめた。二七分ほど。おもったより行かず。しかしそのときのからだの感覚にしたがうのがなによりである。終えると正午がちかく、食事にすることに。そのまえにコンピューターをつけて用意した。洗濯機のうえのまな板でキャベツを切り、大皿に乗せて大根をそこにスライス、バジル風味のサラダチキンも牛乳パックをつかって切り分け、ぜんたいに散らした。そのうえに容器を行き来させてクリーミーオニオンドレッシングをかけて、机のランチョンマットのうえに。あとは手巻き一本のみ。豆腐はひとつだけのこっているが、いいかなという気分だったので夜にまわすことにした。そうして食べるまえに洗濯も。ニトリのビニール袋に入れてある汚れ物をひとつずつ取り上げて洗濯機に入れていき、きょうもパワフルコースでスタートを押した。あいかわらず23Lの表示になる。ながしの水道についている洗濯機用の蛇口をあけておき、重量におうじて水がさだめられた量まで溜まると自動的にとまるので、すでに食事をはじめていたその席を立ってエマールを投入した。そうして蓋を閉めて稼働にまかせながら食事。Chromebookでウェブを見る。ほんとうはこういうときにニュースとかをみればよいのだが、てきとうな娯楽系サイトとかみてしまう。食事を終えると洗濯機はまだうごいていて洗ったものをそこに乗せられないのでひとまず流しに置いておき、洗濯が終わるとちょっとしてから干しにかかった。きょうはおもいのほかに風がつよい。さいしょにバスタオルを出したが、すぐに左右におおきく振られていた。その他集合ハンガーにタオルとパンツと靴下、Tシャツに肌着の黒シャツ二枚である。干し終えるとそのながれで洗い物も済ませ、そのあとはやはり夜更かしをしたうえ睡眠がみじかかったからだろう、なんだかからだがなまっているような、肉体の奥にこごりとか停滞とかがあるような、どうもやる気が出ないという身体だったので、椅子についたままもしくは寝床でウェブをまわってだらだらしてしまった。ある程度気力が呼び起こされてきたのは四時台。気づくと陽がかげっており、カーテンと窓をあければ雲がけっこう湧いていて空は左右ひろく覆われており、朝方の真っ青な平面はうしなわれて意外と晴れない日だったのかとおもいつつ吊るしたものを取りこんだ。ハンガーから外し、洗濯ばさみはそのままつけておき、ピンチは台紙にもどして、寝床のうえで衣服をたたむ。おのおののばしょに整理。あと座布団も干していたのでこのとき入れた。皿などを洗う用のスポンジも柵の内側に置いておいたが、これはわすれていて、のちに出かけるときに回収した。布団も干したほうがよいのだがなかなかやる気にならない。
 それでそろそろ日記にというところだけれどまだからだにノイズがあったというか、わずかな息苦しさみたいな阻害要因があったのでどうしようかとおもい、とりあえず音読するかという気になった。口をうごかすとかえって眠くなるようなときがある。しかしそれを越えるとあたまが晴れておちついてくる。このときもわりとそういうふうになって、そろそろ取り組めそうだったが瞑想をしてより身体観察をしたくなったのでまた椅子のうえであぐらをかいた。そうしているとやはりだんだんこごりが抜けてととのってくる。このときも三〇分いかなかった。たしか四時四二分から五時一〇分までだった。しかし三〇分弱を二回、あわせて一時間弱やればまあ相応に楽にはなる。いちどで一時間はまだ当分無理だな。時間を基準とするなら四〇分が当面の目標だ。しかし外面的な数値にとらわれるのではなくて、あくまでもじぶんの身体感覚に忠実でなければならない。
 そうして打鍵する準備がととのったのできょうのことを書きはじめた。しかしホッブズリヴァイアサン』の読んだ部分を見返しながら要約じみた振舞いに出てしまい、べつにこんなことやらないでよいとおもうし時間もかかるのだからそのぶんほかのことの記述にまわせとおもうのだけれど、だがいざ打鍵するとそうしているじぶんがいる。それでこのとき書けたのは『リヴァイアサン』の内容まで。それで六時半くらいに至り、そろそろ出かけようとなった。というのは、あした(……)とその母親がゆずってくれる電子レンジを届けに来てくれるから、まあちょっとお礼をあげようというわけで、それを買いに行きたかったのだ。昼頃には億劫さがまさっていてやっぱりいいかな、あるいは後日に(……)をとおしてあげればいいかなともおもったのだが、瞑想をしているうちに気力が湧いてきたからやっぱり行こうとあいなった。買う品はもう見当をつけていて、(……)の「(……)」にあるクッキーの詰まった袋の品で、過去にもなんどか買ったことがある。あれでよいだろうと。ついでにじぶんの分も買ってつまもうと。そういうわけでシャツを脱いで制汗剤シートで肌を拭き、洗ったばかりのTシャツと黒ズボンにきがえた。リュックサックには財布や携帯くらいでたいした荷物はない。電車を調べると六時五〇分くらいのやつがあるが、これはたぶん無理だなとおもってそのつぎ、七時三分くらいのやつで行く目算を立てた。マスクをつけて部屋のそとへ。缶とボトルを自販機横に捨てる。時計を見ると電車まで一〇分くらいで、あーこれは駄目だなというか、駄目ではなくて一〇分ならまあわりとふつうに、もしくはじぶんのばあいだったらすこしはやめにあるけばぜんぜん間に合うのだけれど、ゆっくりあるきたかったのでやめようとおもい、道もわざわざ遠回りになるほうを選ぶことにした。アパートのある角から出て西に向かい、通りにあたると渡ってわずかに右へ。すなわち北方向だが、そこにある比較的幅の広い道に折れる手前で横に一本まっすぐ伸びた裏道の果ての空が、雲に暖色含みの薄紫を受けて粋だったのでそれにつられて、そこに曲がって入ってしまった。幅広の道のほうでも行く方向はおなじなのだから、おなじ景色が見えたとおもうが。行く肌に風はゆるく、なまぬるさは帯びず、涼しさに結してはいないもののその前触れめいたやわみがあってひどくなめらか、道沿いの庭木があるいはふるえあるいは穏和にゆれ、垣根のいちばんしたに地面から生えたカエルの乗りそうな楕円の葉も、裏に小動物でもいるかのように上下にパタパタ、口を開け閉じするごとく揺動していたが、それも物好きな風にすくわれたものだろう。車道にあたってそれに沿い、ガードレール内の歩道を左に行って、なかの壁もテーブルも照明も白いコインランドリーなりクリーニング屋なり焼き鳥屋なりのまえをすぎれば横断歩道に行き着いてわたる。そのさきの細道を抜ければ駅で、駅前の空を領するマンションはふたつ、どちらもなかば階段型のデザインだが駅舎の向こうだろう奥のものが、こちらを向いたひろい面、おそらく通路と部屋の扉がならんでいる平面にところどころ、等間隔で点じられた黄橙の電灯で縦の破線を走らせており、それがふしぎと目をひいた。細道のとちゅうで五〇分だかの電車が来たなとおとが聞こえてこちらのそばにいた男性ひとりは走り出したが、ホームは向こうにわたらなければならないからもはや乗れる間でもなし、もともと急ぐつもりもなかったので鷹揚にあるき、駅にはいるといましがた発った電車から降りて階段通路をくだってくるひとびととすれ違いつつのぼっていき、渡って下りるときに見えた西の空は紫と薔薇の交合がいっそう濃くたゆたっていた。
 ホームに降りるとベンチについて瞑目。そのまえにやはりベンチについている女子ふたり、おそらく(……)大学の学生らしきそのまえをとおりすぎたとき、ひとりのほうがゲップってやっぱり出ちゃうよねえ、とわりとあけすけなはなしをしていた。そのあとおばあちゃんの家に行くとどうのこうのとか言っており、じぶんはじぶんの席で目をつぶってなにもしない時間を実践しており、するとここでも風がとおってTシャツから出た腕の肌にここちよかったり、まえをあるきすぎていく男性がまえはキャラ弁どうのこうのとはなしたりしたのだが、この男性は声音からイメージされるにたぶん三〇代くらい、四〇は行っていないのではないかという年齢で、もう夏だからジャケットを着ずにワイシャツにスラックスのサラリーマン、しかもシャツは半袖で、おそらく腕はわずかに浅黒く、ことさら太いわけではないがたしょう筋肉質に締まっていると、なぜか声だけでそんな容姿のイメージが勝手に湧いたのだけれど、もちろん合っていたかどうかはさだかでない。右方にいるさっきの女子はけっこうおおきな声で、こんどは家にいるときにお腹鳴る? とかいうはなしをしていた。
 来た電車に乗車。そこそこの混み。七人掛けのまえでつり革につかまるしかない。こちらの左には女子高生が来て、小型扇風機みたいなあれをもっていたようだ。瞑目して揺られる。やはりまだ緊張が身のうちに生じることをたしかに感知する。なにもしない精神でじっとしつづけ、じきに(……)に到着。降りる。すぐだと階段口にひとがおおいので、かれらとは逆にあるき、ホームの端にある自販機をちょっとながめて、それから階段へ。エスカレーターのほうにめちゃくちゃならんでいるのだが、そんなにエスカレーター乗りたい? とおもった。その横の階段のぼったほうがぜんぜんはやいぞと。みんなやはり疲れているのだろうか。のぼると(……)に直結する改札へ。抜けるともう小綺麗なフロア内で、宝飾品を売っているガラスケースから細いネックレスのたぐいをとりだしている女性がいたり、女性用衣服が売られていたり、ケーキ屋のたぐいがあったりし、客もバッグを小脇に吊るした女性のほうが多いような印象。「(……)」に行き、品を見回って、クッキーを発見すると三袋持って会計へ。あげるものかときかれるのでふたつそうですとこたえると、お渡し用のお手提げを二枚入れればよろしいですかねと紙袋を用意してくれたので、そうですねと受けた。そうして金を払い、礼を言って通路に出て、財布をリュックサックにしまったついでに携帯を見ると(なにもなし)、袋をリュックに入れるのもめんどうだったのでそのまま片手に提げてあるきだした。なにか飯を買っていったりしてもよかったのだけれど、きょうはべつにもう野菜だけでもいいかなと億劫なきもちだったので、はやばやと帰ることに。日記も書かなければならないし。それで元来た改札からまた入り、(……)線のホームに下りた。(……)で降りたときに改札からいちばん遠くなるほうの端に行ってみたのだけれど端の車両にもかかわらず混んでいて、この帰りの時間の(……)線はどちらの端でもおなじなのだろう。扉のすぐまえでもなく、といって席のまえでもない半端なところに身を置かざるをえない。まもなく発車し、するとやはりけっこう緊張を感じた。さきほどよりも周囲にひとがおおいから、そのプレッシャーを心身がおのずと感じるのだろう。しかしなにもしない森田療法の精神で手すりを持ったまま瞑目に立ち尽くし、着くと降りてひとり最後尾からぷらぷら行く。行きに電灯の線に目を留めたマンションが向かいのホームの背景にあり、段上になったその輪郭のそばにはたそがれて宵にはいる直前のさいごの赤みが、ほそく引かれた雲を宿りとして線状に、ムース風のほの青さとくみあいながら層を成すかにいろどられていた。自販機をいちいち見ながらホームを行ってそとに出ると、来たときの細道にははいらず右に折れて行き、踏切り前の柵に尻を乗せ片脚を浮かせもたれるようにしつつ動きのとまった女性がいるのになにをやってんだろと過ぎたあと、ふりむいてみると線路を越えマンションだか病院だか高い建物も越えて、紫、青、赤の入り混じりをしっとりといだいて官能的な夏の暮天がとおくにひらき、あああれをみているんだなとおもった。七時二〇分だった。こちらも向きかえり向きかえり道を行った。表に来ると折れて飯屋のテイクアウトメニューなど見つつも素通りし、今宵の食事場をさがしているらしい男児と両親の三人連れの脇を過ぎ、横断歩道でわたるともうだいぶなじみの裏路地にはいり、そこで気づいたようにマスクを口からずらして暮れの気を吸った。風は駆けるというほど激しくないが変わらずのなめらかさで肌によく踊って、涼しさにだいぶ寄りながらも背の汗に応じず波打つそれのとにかくただやわらかい。向かう方角は東でありそちらの空はもう暮れきって色味もあらわならず雲が敷かれているのか否か、星が出ようとしているか否か、それもわからずただなんともいえない小暗い一色で夜に移行しつつあり、横道のさきから痰を喉から剝がして吐くおおきな声がひびいてきた。犬の散歩のすがたもある。アパート脇のベランダは細部の取りつけがもう弱っているのか微風でもしずかな路地にカタカタ音を散らし、出て渡ってまた行けば庭で植物の支柱かなにか立てている婦人のすがたがもう暗い。公園にひとかげは見えなかった。折れてアパートに向かうと自転車の女子高生が携帯をみながらまえから来て、端に寄ってやりすごしたあとアパート前の自販機で水とコーラを買っていると、右方で女子高生はとまっておりサドルに乗ったまま携帯をみつめているようだった。
 部屋にもどると冷蔵庫に飲み物を入れ、手を洗い、服を脱いでジャージにきがえて、椅子についてみずをマグカップにそそいで飲むと、きょうの日記のつづきを書いた。ここまで記して九時四二分。そういえばだらだらしているさいちゅうにチャイムが鳴り、出ると兄から送られてきた浄水ポットだった。さきほど礼のSMSをおくっておいた。
 ここまで書いたはよいものの、きのうの外出時のことがまだ手つかずであり、しかもきのうはきのうでいろいろ風景を見てしまったし図書館にも行ったから書くことが多そうで、今日中に終わらないのではないかという気がする。とはいえさきほどLINEを見たら、三日の日曜日に予定されていた会合が延期になりそうなので、それで余裕が生まれるが。しかしアイロンも買いに行かなければならない。どうもネットで見る気にならん。


 この日はあと特段のことはない。したのニュースを読むなど。書抜きをしようとおもってかろうじて一箇所だけはやったのだけれど、もう夜になってくると目のはたらきがひどくなって、本の文字とモニターの文字を視線が行き来するときにピントが合わず、とてもやっていられない。それで目のマッサージを調べたりしたが、けっきょくやはりこめかみとか目の周りとかを揉むのがいちばん効果がありそう。目を閉じて眼球を各方面にうごかすのもわるくないが。あと、目をおおきくひらいた状態でまばたきをくりかえすというのもけっこう効いた。


―――

  • 「読みかえし1」: 99 - 101


―――


 ロシアは南部オデーサで、軍事的目標がない地点にミサイル攻撃をしているもよう。ウクライナEU加盟への望みはおおむね好意的に受け止められている。ウクライナ軍はロシアの戦力をSnake Islandから追放したという。東部リシチャンシク(Lysychansk)の情勢は(当局者によれば)「非常に困難(extremely difficult)」で、ロシアの砲撃によって市民が避難できなくなっていると。ラブロフはあらたな「鉄のカーテン」がロシアと西欧諸国とのあいだにすでに降りつつあると発言。バイデンは八億ドルの追加支援を発表し、NATOイェンス・ストルテンベルグ(Jens Stoltenberg)事務総長は、スウェーデンフィンランドNATO加盟手続きは火曜日に正式に調印されるだろうと表明。NATOマドリードで会合を持っていたらしい。トルコが二国の加盟には難色を示していながらも受け入れに至ったと東京新聞では見出しのみみたおぼえがあるが、この記事では、〈Turkey’s president has warned that Ankara could still block Finland and Sweden’s accession to Nato if the two countries fail to fully meet his expectations. Recep Tayyip Erdoğan said that if the two Nordic countries reneged on their promises, including to extradite terror suspects with links to outlawed Kurdish groups, Turkey’s parliament could refuse to ratify the deal reached on Tuesday.〉と記されている。クルド人武装組織の人員引き渡しに応ずるという条件付きで、ということだ。


 【モスクワ=小柳悠志】ロシアのプーチン大統領は6月30日、日本企業などが出資する極東サハリンの天然ガス・石油開発プロジェクト「サハリン2」について、運営会社を国有化する大統領令に署名した。外国の資金と技術力で進められてきた巨大プロジェクトをロシア政府が事実上接収することになり、日本のエネルギー事情にも一定の影響を及ぼす可能性がある。
 大統領令は「自然や人間によって生み出された脅威に対し、ロシアの国益を守る」と明記。サハリン2運営会社の「サハリン・エナジー」の従業員や全資産をロシアが新たに設立する会社に移すことを定めた。
 サハリン2はロシア国営ガスプロムが約50%、英石油大手シェルが27.5%、三井物産が12.5%、三菱商事が10%を出資。シェルはロシア軍のウクライナ侵攻を受けて撤退を表明したが、日本政府は「長期的な視点と国益」(外交筋)に基づき、事業参画を続ける方針を示していた。

     *

 三菱商事のホームページによると、サハリン・エナジーは年間960万トンの液化天然ガスLNG)生産能力があり、その6割は日本向けに供給している。また日量15万バレルの原油生産能力も備えている。

伊勢崎 日本の一部の国際政治学者とロシア専門家たちは、この戦争が今年2月24日に“突然”始まった侵略行為という印象操作を意識的にやっているように見えます。だからこそプーチンのことをunpredictable(予測不可能)な怪物だとか、完全に正気を失った異常者とまで言っている。
 しかし、開戦の3か月前のノルウェーでの僕たちの議論では、ロシアによる開戦は明確に予測されていた。プーチンだったら「この機」を逃さないだろうと。じゃあ具体的な開戦の時期は? 今年のアメリカの中間選挙、それまでのいつかだろうと。
 バイデン政権の一方的な撤退宣言によって引き起こされた、昨年8月のNATOのアフガン戦争の敗退は、アメリカとアメリカ以外のNATO諸国との信頼関係に決定的な亀裂を生んだのです。NATOは、この屈辱的な敗戦、それも、これは日本の研究者全般に欠落した認識なのですが、NATOが設立以来初めて、そして今のところ唯一のNATO憲章第5条(NATO加盟国のひとつに対する攻撃はNATO全体への攻撃とする、という原則)作戦の完敗を総括さえできていない状態だったのです。
 アメリカ国民も、NATO諸国の国民も、自らの兵を新たな戦場に送るなんて絶対に支持しない厭戦気分の状態。だから、プーチンがやるのだったら今。アメリカの中間選挙前までにやるだろうと。

     *

伊勢﨑 じゃあ戦端が開かれたら、その後はどういう戦況になるか。今、柳澤さんが最初におっしゃったように、現在動員されているロシアの兵力では、ウクライナ全土の占領はできるわけがありません。これはアフガン戦争の経験からも明らかです。アメリカとNATOが束になって、人口4000万のウクライナよりちょっと人口の少ないアフガニスタンを平定できなかったのです。ピーク時で20万の兵力を送り、圧倒的な空爆力で攻め、同時に最終的に30万に達したアフガン国軍、それでも軽装備のタリバンに完敗してしまったのです。プーチンは冷静に見ていたはずです。その前の冷戦期には自分たちもアフガニスタンで痛い目に遭っていますしね。
 だから、ロシアにはウクライナを占領統治する能力も意思もない。プーチンが言う「非ナチ化」とか「武装解除」は、ウクライナの政治軍事体制を根こそぎ変えることです。これは、時間をかけて駐留しない限り実現できません。だからプーチンの「ブラフ」なのです。
 「首都キーウにも迫るだろうけれど陥落させるまでのリスクはとらない」。そういう見方がなされたのです。
 もちろん、ロシアは徴兵制がある国ですから、ロシア国民に広くそれを敷けば、昔の赤軍みたいに80万とか100万というような総兵力を確保できるかもしれない。けれども、ロシア人研究者は、「それは絶対あり得ない」と。

柳澤 ロシアの研究者が言った。

伊勢﨑 はい。きっぱりと。広い徴兵を敷こうとしたら、国民の方が黙っていない。今のロシアは昔と違う、ということでした。
 そのリスクをプーチンは頭に刷り込んでいるはずだから、リザーブ、予備役を使うぐらいに止めるだろうと言っていました。 [※2021年11月末から12月、ノルウェーでひらかれたオスロ国際平和研究所主催の会議で]

     *

伊勢﨑 僕は2017年に太平洋地域陸軍参謀総長会議(PACC)という会議にアメリカ陸軍から呼ばれて参加しました。場所は韓国ソウルです。ちょうどトランプがソーシャルメディア米朝開戦をほのめかしていて、世界中、特に日本国民とメディアが騒然となっていた時です。僕がNATO主要諸国を含む親米32か国の陸軍のトップ達に講演を頼まれたテーマは、まさに「占領統治」。チャタムハウスルールで、会議中の受け答えは口外しない紳士協定が原則でしたので、どの国の誰が何を言ったかは明かせませんが、“斬首作戦”を実行した後に、北朝鮮を占領統治するというシミュレーションをやったのです。
 北朝鮮の人口を2500万人として、試算では50万人から70万人の兵力が必要だと。32か国が束になっても、そんな総兵力は拠出できないという結論になりました。だから、戦争は起きてないわけです。
 同じ試算を当てはめると、ウクライナの人口を4000万人として、必要兵力は80万人以上。それもロシア一国で。総動員しても土台無理なのです。
 「占領統治」はブラフだとして、プーチンの狙いは何かを見極めなければなりません。やはり、既にロシアが勝手に独立を承認した東部ドンバスのふたつの州と、2014年以来実効支配を続けているクリミアをウクライナが放棄すること。そして、NATOウクライナを「トリップワイヤー化(*)」させないこと。
 (*トリップワイヤー(仕掛け線)化:抑止戦略論上の用語。超大国や軍事同盟が、敵国の軍事力に均衡するよりずっと小さい兵力をその敵国の間近の緩衝国家に置き、際限のない軍拡競争のジレンマを回避する抑止力とすること)
 それが最低限の戦争目的であり、それ以上のものは、戦況次第で引き出せるものは引き出す。そういうことになるのではないかと。ふたつの州とクリミアの支配だけだと、クリミアがいわゆるエンクレーブ、飛び地になってしまうので、中間にある都市マリウポリを陥落させ「回廊」にする。それを更に西に、モルドバとの国境にまで拡大すれば、ウクライナ黒海にアクセスできない「内陸国」になる。

柳澤 オデッサも含めてね。

伊勢﨑 はい。その「内陸国化」がプーチンのこの戦争の最終目標であり、首都キーウへ侵攻はするが、それは見せかけで、東部と南部に展開しているウクライナ軍を誘き出し、同地を手薄にさせる陽動作戦だろうと。これらが開戦3か月前のノルウェーでの僕たちの予想だったのですが、かなり的中しています。ロシアの研究者は、我々が考えるほど政府寄りではありません。

     *

加藤 案外みんなが理解してないことがあって、ウクライナって、私は初めて行ったときに、ここはアフリカかと思ったぐらいに貧しいところでした。

柳澤 貧しいですか。

加藤 貧しいです。ウクライナには過去の栄光は確かにあるでしょう。由緒ある教会や歴史的建造物など、本当にいっぱいある。だから、それに目を奪われて、何となく我々はものすごく発展した、ある意味では我々と同じような先進国同士の戦いだというふうに思いがちですけれども、経済的にどうかというレベルで考えると、とても先進国のレベル同士の戦争ではない。
 参考までですが、ウクライナの一人あたりGDP(2020年)は3741ドルで、日本の10分の1です。購買力平価が1万3000円で3倍ぐらいになっていますから、貧しくてもアフリカよりはましかなと思いたいんですが、実際に見た目の印象でいうと、ウガンダケニアのナイロビぐらいのレベルです。
 ロシアだってひとりあたりのGDPは1万ドルで、世界全体のGDPに占める割合は2%もないのです。だから、GDPが2%ない国と、0コンマ何%という、この2国が戦争しているのです。例えばイランは、1980年4月から経済制裁を受けているのに、ひとりあたりGDPは1万3000ドルあります。

     *

加藤 本当に不明を恥じているのは、私は30年前に『現代戦争論 ポストモダンの紛争LIC』(中公新書、1993年)という本を書いて、これからの戦争は国家間の戦争ではない、非国家主体の戦争だとずっと言い続けてきたことです。だから、今回の戦争が起きて、本当に私の研究は何だったのだろうかと、反省しきりです。
 今、戦われているのは間違いなく、19世紀型のクラウゼヴィッツの三位一体戦争です。国民と軍隊と政府による戦争です。世論がどうかという問題よりも、もっとむき出しの暴力が出てきている戦争です。停戦の問題を考えるにしても、この戦争の性格を押さえる必要がある。それともうひとつ、戦争の原因をどこに求めるのかということですが、こういう古典的な戦争の場合には、やはり指導者の価値観や世界観が大きく影響します。
 それで、古典的戦争で参考になるものは何か。やはりキッシンジャーの『外交』(邦訳、上下巻、日本経済新聞出版、1996年)という本だと思い至りました。その中にロシアに関する記述があります。私は印象として大ロシア主義に基づく祖国防衛戦争だろうとは思っていたのですが、やはり『外交』にこういう記述があったのです。

アメリカが自己を例外的な存在とみなす考え方は、時には道徳的十字軍に走らせ、時には孤立主義に走らせた。一方、ロシアが自己を例外的だとみなす考え方は、これ、宣教(ロシア正教共産主義──加藤の注釈)の精神を呼び起こし、多くの場合、軍事的冒険に引きずり込んだ。」(『外交(上)』193ページ)

 これがキッシンジャーのロシアに対する見立てなのです。もうひとつは以下の記述です。

アメリカでは全てが契約関係に基づいているが、ロシアでは全てが信仰に基づいている。この違いを生んだのは、かつて教会が西側で選んだ立場と東側で選んだ立場の相違である。西側では二重の権威(教会と政府)が存在したが、東側では一つの権威(ロシア正教)しかなかった。」(同前)

 ここでキッシンジャーが信仰というのは共産主義も含めてということです。だから、今、プーチンの思いの中には、キッシンジャーの考え方からすれば、宣教、宗教を広めている、ロシア主義を広げるということなのです。