2022/7/2, Sat.

 イギリスを除く世界では、集団的なウォーキングはハイキングやキャンピングへと変化し、現代ではアウトドアや自然体験などと呼ばれる漠然としたものとなっている。その種の同好会では、ウォーキングは常に何かをともなっている。ウォーキングとクライミング環境保護活動。ウォーキングと社会主義にフォーク・ソング、ウォーキングと若者らしい希望、そしてナ(end264)ショナリズム、といった具合に。言葉こそ「散策」などと呼んではいたものの、ウォーキング自体を関心の中心におきつづけたのはイギリス人だけだった。歩くことの意味、すなわち文化的な重みという意味でも、イギリスには他所のどことも違う特別なものがある。夏の日曜日に郊外に出かけるイギリス人は千八百万人を越え、レジャーとして歩くという者は一千万人を数える。書店に行けばウォーキングのガイドブックが多くの棚を占め、古典の傍らにはラディカルな書物も並ぶという具合にジャンルとしても確立されている。前者はたとえばアルフレッド・ウェインライトによる手描きの挿絵つき山野ガイド、後者にはシェフィールドのランド・ライツ〔土地権〕の活動家テリー・ハワードによる、不法侵入となる経路だけの道案内といった具合だ。歩くことがエクササイズのバリエーションに過ぎないアメリカでは、雑誌『ウォーキング』といえば女性向けの単なる健康とフィットネス雑誌にすぎないが、イギリスには肉体よりも風景の美を主眼に歩くことを扱うアウトドア誌が五、六誌もある。アウトドア作家のロリー・スミスによれば、「ほとんどスピリチュアルに近い」。「ほとんど宗教。人との交流として歩いている人も大勢いる。野原には隔てるものはないし、誰にでも挨拶するから。我々の忌々しい英国的遠慮を乗り越えてね。ウォーキングには階級が存在しない。そんなスポーツはそれほど多くはない」。
 しかし、土地へ進入するということは階級闘争と無縁ではなかった。千年をかけて、ブリテン島の土地は地主たちによって少しずつ占有されてきたが、この百五十年間は土地を持たない人びとによる反撃が展開された。ノルマン人は一〇六六年にイングランドを征服した際、広大(end265)な土地をシカの猟場として確保した。それ以来何世紀にもわたり、侵入しての密猟や狩猟の妨害行為には去勢・追放・死刑といった厳罰が課されていた(たとえば一七二三年以後でも、シカはいうに及ばず、ウサギや魚を獲ることも死罪に相当する侵犯行為だった)。共有地 [コモンズ] と呼ばれる私有地では地元の住人が木材や牧草のために利用する権利を有していたが、仕事や旅行のためには伝統的な通行権が必要だった。これは山野を歩く際、横切る土地の所有者にかかわらず自由に通行することができるという権利である。スコットランドでは一六九五年に議会によって共有地の撤廃が決定され、イングランドでは十八世紀に、法にもとづく囲い込みや、非合法ながら強い追い風のあったコモンズの取り込みが勢いを増していった。
 往時隆盛を極めた開かれた庭園のゆきついたところは大きな利益を産み出す囲い地であり、柵で囲われ、単一の大規模地主の下、羊の放牧や農耕が行なわれるようになった。これは、開放耕地や共有地からの農業従事者の締め出しによって行なわれることが多かった。十九世紀になると、上流階級に狩猟が流行したために、それまで多くの人びとの生活の糧としていた共有地がさらに地主たちの手に落ちていった。とくに烈しかった一七八〇年から一八五五年にかけてのスコットランドにおけるハイランド・クリアランスでは大量の人びとが土地から追われ、大部分は北アメリカへと渡ることを余儀なくされた。海沿いの土地まで移り、小さな農地にすがってかろうじて生き延びた者もあった。一年のうちわずか二、三週間行なわれるライチョウやキジ、あるいはシカの狩猟を口実に、何千マイルというイギリスの奥深い田舎道は一年中立ち入りを禁止されることになった。狩りは合衆国では貧者や田舎暮らしや先住民の食料調達手(end266)段になる程度だが、イギリスの狩猟はエリートたちのスポーツなのだ。昔もいまもこうした土地では大勢の猟場管理人が巡視し、非常手段に訴えて人びとを排除する場合もあった。スプリング銃、対人用の罠、犬、威嚇発砲、棍棒素手による攻撃、そして脅し。たいていは地元の法執行機関がこれに加担した。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、264~267; 第十章「ウォーキング・クラブと大地をめぐる闘争」)




林 地政学的にはおかしいと言われるかもしれないので、ご指導いただきたいのですが、冷戦構造崩壊の直後に、モスクワ大学にアレクサンドル・ドゥーギンという地政学の学者が戻ってまいりまして、ユーラシア主義を主張し始めます。プーチンがいたくこれを気に入りまして、「将来のロシアはどうあるべきか」ということをテーマにして、ドゥーギンが論文を書くのですが、それはユーラシア主義の拡大というものでした。
 まず元のソビエト連邦の範囲だけでユーラシア経済連合をつくったんですけれども、それだけでは何せ貧乏ばかりなのです。だからドゥーギンは、「ロシアは日本とドイツを引き込まなければいけない」として、2013年頃ですが、領土問題ではドイツと日本に妥協してもいいじゃないかとプーチンに言うのです。いわゆるカリーニングラードの問題と、それから北方四島の問題だろうと思います。そういうところを日本国政府は全く嗅ぎつけていない。だから機を失してしまうことが多くある。
 ところが、ドイツのメルケルはその辺をしっかり押さえていて、まず経済的にということで、ノルド計画ワン・ツーをやったのです。今はそれが経済制裁上悩ましい問題になるわけですけれども、当時は見事にロシアとの接点をつくっていくわけです。
 今回の戦争がユーラシア主義に沿っているとすれば、元のソビエト連邦に含まれていた国が外へ出てしまうのは地政学的、勢力的にはきわめて問題があるのです。NATOとの対峙で安全保障上の安定にも問題が生じるというのは理解できます。
 そうなってくると、次に発生するのが中国問題です。中国にはチャイニーズドリームというものがあり、具体的には一帯一路が非常に盛んに進められているわけですけれども、ロシアのユーラシア主義と中国の一帯一路が合体すると、理屈の上では非常にうまくいくのです。お互いが利益を共有できる。いわゆる価値観も共有してしまうのです。そうすると旧西側にとっては経済も安全保障も対峙するととんでもないことになると思っております。

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林 そういった意味では、大事なのは、単にこの戦争をやめさせることはもちろんですが、戦後の秩序をどう回復するかということです。通常、戦後秩序の回復は、勝った側が負けた国に対して意思を強制するものであったわけです。今まではそういうことが多い。第一次世界大戦では、それがドイツにインパクトを与えたからヒトラーが反旗を翻すわけです。第二次世界大戦後は、国連をつくってドイツと日本が監視下に置かれるわけです。
 そういったことを考えますと、戦後秩序の形成で成功した例というのは、敵も味方も一緒になって戦後秩序をつくったウエストファリア体制しかない。その後は全部、勝者が敗者に対して強制する戦後秩序だったのです。

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柳澤 大事なテーマが提示されていますので、順次、議論していきますが、まず伊勢﨑さんが紹介されたロシアの研究者のお話です。戦局はそのお話の通りに動いているわけですが、ではプーチンがそう考えていたということは、私たちだけが知らなかったというだけでなく、バイデンだって多分知らなかったのではないかと思います。ただ、そうであればあるほど、東部二州で何らかの手柄を立てようという目的のために、あんなに大勢の人を殺すような戦争をやるということが、余計に許し難い感じになってしまう。でもそれは、そういう指導者がいて、そういう戦争を起こしている現実があるというしかない。
 これって本当に、何というのか、本当にどうしようもない状態に置かれているというか、情状酌量すべき余地、同情すべきものが全く見えないのです。ロシアの側、プーチンの側には。その点はどうなのでしょうか。

伊勢﨑 僕は戦争をやる指導者は全て悪魔だと思っています。プーチンであれアメリカの歴代大統領であれ、そこはどの国の指導者でも同じです。今回のプーチンが、“より”悪魔なのは、戦後の「復興」にビタ一文も払わないだろうということです。戦争の勝利者には、復興の責任という問題が付随します。プーチンは、ゼレンスキー政権のレジームチェンジは敢えてせず、破壊するだけ破壊して、その復興の責任を西側に押しつける算段です。冷戦時代にソ連アフガニスタンに侵攻して、同国を焦土にした後、戦争を終結させ、戦後賠償の責任さえ一切果たさなかったように。今回のウクライナ戦争を、「自由と民主主義」のための代理戦争と位置づけ、徹底抗戦のため武器だけを供与し戦争継続を支援したアメリカ、全NATO・EU加盟国は、もはや復興の責任から逃れられません。日本も、です。

柳澤 ロシアに同情する議論をする人の中には、プーチンNATOの東方拡大に対して非常に恐怖も感じていたし、物すごい不満を募らせていたのであって、それに寄り添わなかった欧米が悪いという人もいます。けれども、プーチンはふたつのことを言っているのです。NATO拡大のことと同時に、ドンバスでウクライナによってロシア系の住民が迫害を受けていて、だから解放しなければいけないと言っている。実際にあの地域では、ロシア系とウクライナ系の人たちが争っているから、多少の暴力沙汰は当然あるのだろうとは思います。けれどもそれがこんな戦争をするまでの脅威かというと、僕は全然そうだとは思わない。プーチンがそのふたつの理由を挙げて戦争を正当化しているけれども、何というか、彼の考えている本当の戦争の動機はそれとは違うと感じます。

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加藤 この戦争は、冒頭で述べたように構造的な戦争ですから、停戦で参考になるとすると、おそらく第四次中東戦争のときの停戦監視のような問題になると思います。

柳澤 今回の戦争では、停戦は成立するかもしれないけど、戦争の火種はずっと続きます。それをどうするのかを考えておかねばなりません。

伊勢﨑 プーチンはもちろんですが、ゼレンスキーも、今のところ、それぞれの国民の強い支持を維持しています。これは、一般論として、停戦交渉を進めやすい環境にあると言えます。紛争が疲弊化してくると、それぞれの陣営の内部の統制が利かなくなってくるのですね。交渉を「弱腰の妥協」と捉える強硬派が暴れ出すのです。これが心配されるのは、むしろウクライナの方です。ゼレンスキーが民族主義者から背中を撃たれる心配をしなければならない。そうなる前に、早期の交渉が必要です。
 占領統治をする軍事能力がないロシアにとって、ウクライナレジームチェンジは当初からのプーチンのブラフであることは既に述べました。プーチンの方も、求心力のあるうちのゼレンスキー政権の方が、利益を誘導しやすい相手と考えるはずです。
 停戦協議はまだ難航しそうですが、それが成立したとしても戦争の火種は、果たして、なくなるのか。おっしゃる通りです。親ロシア系の人々は、東部のドンバス以外にも混住しているのですから、ここまで傷つけ合った民族的な断絶は、紛争再発の火種になり続けるでしょう。ですから、“戦後”復興において、日本を含めた西側の援助は、単にインフラ支援だけではなく、民族和解へのケアが焦点となってくると思います。

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柳澤 そういう意味で、戦争の決着というのは、やはりお互いが納得して認め合わないとあり得ないわけですね。

伊勢﨑 そういう意味での納得はないでしょうね。多分傷はずーっと残っていく。恐らく一世紀単位で。

柳澤 残りますよね。

林 今までと違うのは、ロシアがプレーヤーの主役であることです。そのプレーヤーの主役を管理していかなければいけないという難しさがあると思います。大国が管理できないのですから。

加藤 このウクライナの戦争の結果、多分ロシアが大国の座から降りるんだろうと思います。経済力も回復不能です、しばらくの間は。

柳澤 そうならざるを得ないでしょうね。

加藤 そうなってくると、あとに残るのは、ロシアの巨大な北朝鮮化という深刻な問題が起こることです。

柳澤 分かりますね。

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加藤 ウクライナも復興が簡単ではないので、ヨーロッパが相当荒れる、荒廃する可能性が出てきている。
 それと先ほど民族和解の問題が出てきましたが、ロシアとウクライナの問題は民族問題ではなくて、ロシアがソ連邦のときに移住政策でいろんなところにロシア人を移住させたことによる問題です。それが今火種になっている。モルドバウクライナ国境は沿ドニエストル自治共和国で、ここにはロシア系の人たちが入っていて、そこまでつなぐと初めてウクライナの包囲が完成するのです。ロシアは多分そこまで狙っていたんだろうと思います。
 ほかのコーカサス中央アジアにも、1920年代からロシア人の移住がずーっと続いています。あの辺りはイスラム教の人たちが多かったんですが、バスマチの蜂起という名前で有名ですけれども、共産党がやってきて徹底してイスラム教徒を弾圧したんです。一体どれぐらい虐殺されたか分からないぐらい虐殺した後、そこに住んでいた人々をシベリアに送り込むのです。その後にロシア人が入ってくる。その結果、コーカサス中央アジアの辺りには、ずっとロシア人が残っている。それを今、残っているロシア人がここは自分たちのところだと言っているわけで、単純に民族問題ではないと私は思っています。
 むしろこれに近いのがユーゴスラビアの崩壊でしょう。ユーゴスラビアも同じように、セルビア人が各共和国にいて、そのことが問題になって紛争が激化しました。セルビアは割と小さかったからみんなで抑え込みましたけれど、あんな小さくなってしまったので、セルビア側は不満たらたらですよ。ロシアに対してはさすがに同じことはできないから、結果的に、和解政府をつくるしかないかもしれませんが、それならばジョージアから始めて、各地域で和解政府をつくっていかないとどうしようもないという状況です。

柳澤 それも含めて、旧ソ連のような大国としての求心力を持ったロシアの存在感は確実に失われてしまいますね。

加藤 そういう意味では、これからの周辺国では、逆に今度はロシアに対する反撃も起こってくるだろうと思います。ジョージアでも、オセチアでもそうでしょうね。

     *

柳澤 結局、武力で目的を達成しようとしたことの失敗というか、反作用というか、逆に大国であらんとするための武力行使が自らの大国としての墓穴を掘るという、こういう結末になるんだろうということですね。

伊勢﨑 それは結果的に、ずっと問題視されていた国連安保理の機能不全が、世紀末的に印象付けられる、ということでしょうか。

加藤 形式的にはロシアはずーっと常任理事国でい続けるでしょうけどね、今の状況では。

伊勢﨑 はい。国連安保理に「拒否権」があることで、国際連盟の時のような決裂を予防し、少なくともUnited Nations(連合国)の形を維持し、戦勝五大国間の戦争を抑制してきたのですが、国連安保理を解体せよ、というような意見も出てきていますものね。

柳澤 感情論としてはそうなるでしょうね。だけど、実際にそれは難しいので、国連総会の機能をもっと実質的なものにしていくということになるのでしょうね。

伊勢﨑 はい。それが後の国連平和維持活動PKOの元祖となったのですが、1956年、英仏が戦争当事者で、同じく安保理が機能不全に陥った第二次中東戦争の時に、国連総会で国連緊急軍が創設されたように。

加藤 ロシアに対する国連総会の非難決議で、旧CISの共和国で反対、棄権がどうなったかを見ると、モルドバウクライナトルクメニスタンジョージアは賛成に回ったのです。反対に回ったのはロシアとベラルーシだけです。残りのカザフスタンキルギスタジキスタンは実は棄権に回った。このことは何を意味しているかというと、ロシアがまさに正統性を失っているということです。これを基にして国連改革が進められるかどうかが問われるのでしょう。

      *

林 一つ怖いのは、プーチンの悪あがきでしょうね。

加藤 そうですね。本当に。

林 これであっさり引き下がると思えないですよ。

加藤 独裁者が追い詰められると何をするか分からないというのは、シリア紛争でもはっきり分かったのです。シリアのアサドは、ダマスカス周辺まで追い詰められたのですが、それを助けるためにロシアが軍事介入し、アレッポは平地になりました。何万人死んだか分からないです。

柳澤 あれもひどい戦争でした。

伊勢﨑 そこにアメリカが、地位協定もなしに、悪政とは言っても一応は主権を担うアサド政権の許可なしに駐留しているわけですから。

柳澤 まだ常駐しているのですか。

伊勢﨑 しています。油田があるところに。

加藤 多分何か形式的な言い訳をしていると思いますけどね。

伊勢﨑 はい。あくまでも「テロとの戦い」が名目です。だけど、国連安保理の決議もなく、アサド政権はもちろん、それに反抗するシリアのいかなる政体の要請も受けていない駐留です。違法どころの騒ぎではありません。


―――


 九時に正式な覚醒。それいぜんにもやはり一回か二回、覚めてはいる。紺色のカーテンの上端から朝の外気のひかりが漏れでて天井にうつり、あいまいな不定形の影絵を生みだしている。深呼吸をしばらくしたりこめかみなどを揉んだりして、九時二〇分に起き上がった。洗面所に行って顔を洗う。きのう髭と顔全体を剃ったから肌の感触がつるつるしている。出るとマグカップに水をそそいで椅子について飲む。兄からとどいた浄水ポットの包みはまだあけていない。さっさとつかいだすべきなのだが。それから寝床にもどるとホッブズリヴァイアサンⅡ』を読んだ。一〇時半くらいまでで、291から337まで。第四十二章「教会の権力について(抄)」と、第四十三章「人が天上の王国に受けいれられるに必要な条件について(抄)」のふたつを読んだかたち。はなしはやはりおなじで、コモンウェルスの政治的な主権者が宗教にかんしても決定権を持っており、したがって宗教者も国家の法にしたがわなければならないし、それは神への信仰・服従と矛盾することはないとか、聖書は主権者が法とさだめたそのときから法になるのであって、それいぜんは国家の法とはいえないとか、そういう議論。ホッブズ的には「教会」と世俗的コモンウェルスはおなじもののべつの呼び名で、そういう区分けは権力が二重であるかのように説くことでいたずらに誤解を生むだけだから、もしコモンウェルスの主権者がキリスト教徒ならばそれは同時に教会の首長でもあると明言している(317~318)。あきらかにローマ法王よりも世俗的国家の主権者を上位に置く論述だが、その根拠としてはまたしても聖書が引かれていて、いわく、「この世におけるキリストの代行者たちが命令権を持たないもう一つの論拠は、キリストが、キリスト教信者と不信仰者の別を問わず、すべての王公たちに委ねた合法的な権限から推測することができよう」(299)という。たとえば聖パウロは、「召使たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい」と述べている(「コロサイ人への手紙」三・二二)。また、「ローマ人への手紙」(第十三章)では、「人は皆上に立つ権力に従うべきです」、「今ある諸権力は神によって立てられたものです」、「だから服従が必要です、怒りのためだけでなく、良心のためにも」といわれている。聖ペテロも、「あなた方は、すべての人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、あるいは、悪を行なう者を罰し善を行なう者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。それが神の御旨 [みむね] なのである」といっている(「第一の手紙」)。キリストは復活と審判ののちはかれの王国で「神として王であり、この意味ではすでにその全能性によって地上すべての王であり、またその後も永遠に王でなければならない」(284)が、それまではかれに地上の権力はなく、したがってその代行者にも強制や命令の権限はない。
 ほか、三位一体を代表の原理で理解しているのがおもしろかった。「人格は、〔すでに第十三章で示したように〕代表される人であり、代表されるたびごとにひとつの人格であるわけである。したがって、たとえ『聖書』において、「人格」(パーソン)という語も、「三位一体」(トリニティ)という語も、神について用いられてはいないにせよ、三たび代表された〔すなわち、人格化された〕神は、三つの人格であるといっても十分正しいであろう」(292~293)。「父なる神は、モーセによって表わされたものとして一つの人格であり、またその子によって表わされたものとして、もう一つの人格であり、さらに使徒および使徒から受けた権限によって教えた博士たちによって表わされたものとして、第三の人格である。しかも、いずれの人格も、同一の神の人格である」(293)。
 あと、315には王権神授説的なかんがえがみられる。「最高の牧者を除く他のすべての牧者は、その世俗の権利、もしくは権限において、つまり「ユレ・キウィリ」(世俗的権利)によって、その職務を遂行する。しかし、王および他のすべての主権者は、神からの直接的権限、すなわち「神の権利」あるいは「ユレ・ディウィノ」(神権)によって最高の牧者の職務を遂行する」。ここでは「最高の牧者の職務」といわれているので、それは政治権力全般というよりはキリスト教にかかわる宗教的なことがらのみに限定されているようにも見えるが、さらにベラルミーノという枢機卿の著述に反駁する320の記述のなかでは(この部分は訳者による要約だが)、「政治的なものにすぎないばあいでも、キリスト教コモンウェルスにおける合法的司法権で、神の権利によらないものはない。キリスト教徒王は、その政治権力を神から直接に得ており、また彼のもとで権限を持つ者たちは、間接的にそれを得ている」と断言されている。ここの権力も文脈として直接的には「司法権」を指しているのだけれど、「キリスト教徒王は、その政治権力を神から直接に得ており」というはっきりしたことばもふくまれている。だからホッブズの理論における主権者の権力の源泉としては二種類あるはずで、ひとつは人民相互の契約によるほぼ全面的な権利の譲渡がそれである。主権者がキリスト教徒でないばあいはこれのみがコモンウェルスの成立の根拠となるだろう。しかしキリスト教徒の王のばあいは、うえのごとく「その政治権力を神から直接に得ており」といわれており、この二種類の源泉のあいだの関係がどうなっているのかはいまいちよくわからない。聖書におけるモーセについては、かれがシナイ山の麓において神との契約を更新し、「神の代理者」(260)となったわけだが、「しかしモーセには、アブラハムの権利の継承者としてイスラエルの民を支配する権限はなかった」、「したがって、神が彼に語ったと信じられるときを除けば、人々には彼を神の代理者と考えなければならない義務はまだなかったように思われる。すなわち彼の権威は、〔人々が神と結んだ契約にもかかわらず、〕たんに彼の神聖さ、彼が神と話すという現実、および彼の奇跡の真実性などについて人々がいだく観念にもとづくものにすぎなかった。その観念が変化すれば、彼が神の名によって示す何ものをも人々は神の法として受けとる義務はなかったのである」(260)と語られている。つまり、モーセが神と契約したことや、神とはなしたりできるということを人びとが信じなければ、その政治的権限もみとめられなかったということだろう。「したがって、彼の権威も、他の王公たちのそれと同様、人民の同意と彼にたいする服従の約束とにもとづかなければならない」(261)。これとおなじ線がかんがえられているとすると、キリスト教徒王の権力はたしかに「神から直接に」得られるものなのだが、その事実だけではじゅうぶんではなく、ひとびとが契約によってそれに同意していなければならないということになるだろう。
 だいたい一時間で三〇ページ前後というのがじぶんの平均的な読書のペースだ。二分で一ページ。書見をきりあげると椅子についてまた水を飲み、コンピューターを消毒スプレーとティッシュで掃除して、さきにNotionも用意したんだったかな。わすれたが、それから椅子のうえにあぐらをかいて瞑想をした。起きてすぐに深呼吸をしておくと血のめぐりがよくなるからからだは軽いし筋肉も伸びてこごりはすくないのだけれど、血がよくながれるととうぜん体内は動的になるから、なにもせずにじっとしているのがかえってちょっとやりづらいというか、からだのなかがうごいて落ち着かないみたいな、はやく切り上げて活動にうつりたいみたいな感じにもなる。このときはしばしばギターを弾くあたまになって、抽象的な指板図が脳裏によくあらわれた。そのうえでフレーズのルートが勝手にかたちづくられるわけだが、ある程度まではそこに、こう弾けばこういうメロディになるだろうという観念的旋律もついてくる。ペンタトニックはもう慣れているのでだいたい同期する。それでなかなか心身がおちついた静止にまとまらないなという感じだったが、じきに脳内の演奏も止んでからだの感覚のほうに意識が行きだし、それでもきょうはそんなに座らなかっただろうというおもいとともに目をあけると、しかし意外と三三分だか経っていた。一一時半前だった。
 食事のまえに部屋をたしょう掃除することに。きょう(……)がお母さんと電子レンジをとどけに来てくれるので。べつにそんなにとりつくろう必要もないのだが、それでもすこしはきれいにしておくかと。まずさくばんつかったバスタオルをすでにハンガーに吊るしてカーテンレールにかけてあったのをそとに出し、布団も干すことに。シーツを洗おうかともおもったのだけれど、洗濯はきのうやったしめんどうくさいしいいかと払って干すのみに。窓をあけて柵に乗せ、抱えるようにして柵の向こう側とこちら側の長さを調節し、それからピンチで左右を留める。きょうは左右にそれぞれ二つずつつかってみた。そのあと雑巾でシーツのうえについていたこまかなゴミをこするようにして少々落としていく。柵の向こう側はもちろんたいしてできない。座布団も二枚柵の内側に置き、あとで足拭きマットも柵の右のほうにとりつけておいた。天気はよいが雲もあって、きのうやおとといにくらべるとまだ暑気はましなようだ。
 それで布団が除かれたそのしたの床を拭き掃除。まず濡らしていない雑巾でゴミをながしのほうに送ってあつめたが、そうしているとやはり箒がほしくなる。あるいはハンディクリーナーが。それから雑巾を濡らして各所を拭き、ゴミをちょっと取ってはゆすいでということをくりかえした。汚れがみえやすいのはやはり椅子のした、床保護用の透明なシートのうえやその裏である。シートの裏に髪の毛がよくはいりこんでいたりする。それなのでシートのうえを拭き、椅子もたしょう拭いたあと横にずらしてシートをめくり、その裏も拭きあらわになった床も拭き、とやっていき、さらに扉前の、水上にはりだした樹々の色が溶けた夏の川みたいな深緑の靴脱ぎ場所も、トイレのルックを持ってきてちょっと吹きつけながら拭っておいた。そうしてつかった雑巾はゆすいで集合ハンガーにつけ、これもそとへ。そのままトイレのほうも掃除する。浴槽はおくとしても便器のまわりや、排水溝の蓋(洗面台からの排水管をはさむかたちでちょっと斜めに置いているのだが)のうえに毛がたくさん落ちているのが気になっていたので、ここはティッシュペーパーとルック泡洗剤で拭いておいた。便器のなかもたしょうペーパーで拭いておく。クソを垂れるときに尻の穴から垂れ落ちたクソが便器の内面にまず当たるわけだけれど、クソの消化ぐあいややわらかさによってはそこにクソの細片がくっつくことがあり、そうなったら水をながしたあとにペーパーに洗剤をつけて拭いておくのだが、そうしていてもほかの汚れがいろいろなところに意外とついていたりする。
 そのあと手を洗い、電子レンジは冷蔵庫のうえに乗せる予定なので、いまはつかっていない皿とかカップとかプラスチックコップとか醤油とかが置かれてあるそこのものをひとまず寝床足もとの段ボール箱のうえに移動させておき、冷蔵庫のうえはクレラップしかない状態にしておいた。そうして食事。洗濯機上のまな板でキャベツを切る。さらに大根をスライスし、牛乳パックをつかってサラダチキンも細切りにして散らす。ドレッシングはクリーミーオニオンドレッシングがなくなっていまゆすいだのをガスコンロ周りの隙間に置いて乾くのを待っており、ワサビ風味のドレッシングをこのあいだ買っておいたのだけれど、たまにはマヨネーズで食うかという気になった。メニューはその大皿いちまいだけ。ウェブをみながら野菜と鶏肉を食い、食器や道具をすぐに洗う。干す場所がないので洗濯機のうえに引いたタオルのうえに乗せておくほかない。
 それで一時くらいだったのか? (……)はお母さんと食事をしてから来るらしく、二時から二時半くらいには行ける見込みときのうつたえられていた。歯を磨いた。磨くあいだはまたウェブを見たり、あときのうとちゅうまで読んだ柳澤協二×伊勢﨑賢治×加藤朗×林吉永「ウクライナ戦争以後の世界と日本――新・安全保障論」(2022/4/26)(https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/ykikkahy/17191)の続きを読んだり。いちど磨いたもののあとで意外とうえの歯の前面から汚れが取れていないことに気づいて、のちほどもういちど磨いた。それから爪切り。手の爪が伸びるとその固さがわずらわしく、もうやりづらくてしかたがない。机上のランチョンマットにティッシュを置いて切り、やすりがけをしながら記事を読む。読了。その後記事中の気になったところを日記に引いて音読用ノートにもコピペしておき、あといちおうひとを迎えるのでとおもってジャージに肌着のラフな格好からTシャツと黒ズボンにきがえた。制汗剤シートで上半身もぬぐっておく。そうしてきょうの記事を書いていると、二時すぎになって連絡のためにひらいておいたLINEに、いまから行くと来ているのに気づいたので、いつでも来い! と受け、エアコンの温度を下げて待つと付言しておいた。そうしてじっさい二七度に下げておき、打鍵しているうちについたようだったのでカーテンと窓をあけてみてみると、たしかに赤い車がしたのみちに停まっていて(……)母娘のすがたが見えたのでありがとうございますと笑いながら声を放った。靴を履いてそとへ。下りていき、あいさつ。後部に乗っていた電子レンジをいただく。こちらひとりで抱えると、お母さんは車のなかで待ってるのでというので、(……)とふたりで階段をのぼって部屋へ。レンジはすぐに冷蔵庫のうえに置いておいた。とはいえあらかじめ気づいていたのだけれど、そこのコンセントはもう冷蔵庫と洗濯機で埋まっているわけで、レンジをつかうときは洗濯機のものを外すか、それか延長プラグを導入しなければなるまい。ともあれこれでようやくあたたかいものが食えると感謝した。(……)はまた、(……)くんからだということでボトルの味噌とカットわかめもくれた。椀にこれらを入れて湯をそそげばそれでもう味噌汁が飲めると。ボトル型の味噌は実家でも一時つかっていたことがある。味噌汁飲みたいが、しかしまだ椀がないのでそれも調達しなければならない。それで(……)に部屋内をすこし見てもらった。だんだん城ができてるな、とのこと。そとにタオルが干してあるのをみたかのじょは、洗濯よくしててえらいじゃんといったがきょうのこれは洗濯をしたわけではない。飯はここで(洗濯機のうえで)いつもキャベツを切ってる、とはなす。洗ったものを置くスペースがないからここに置いておくしかないと。(……)もさいしょこちらの部屋を見に来たころに調理用のテーブルとかをちょっと調べてくれたらしいのだが、しかしこのスペース、この感じだとどうやる? みたいな雰囲気だったので、そうおれもかんがえたんだよね、折りたたみのやつをどっか置いといて、ここにこう出してやるかとか、でもまあ、洗濯機のうえでギリギリどうにかなるような気もするよ、と受けた。そのへんの足もとに放置してあった包みにこれなに? とかのじょが気づいたので、きのう兄貴から送られてきた浄水ポット、と教え、ついでにその隣に小袋ふたつにもう分けて置いてあったクッキーをとりあげ、これお礼なんでと言ってわたした。(……)くんといっしょに食べてくれといい、お母さんにもあるともう一袋を持つと、じゃあ待ってるし行くかということで靴を履いてそとへ。下りていき、操縦席の窓をあけた(……)母に、これお礼です、ありがとうございましたと言って袋をわたした。え! そんな、いいの? という反応が母娘でわりといっしょ。ひとり暮らしをはじめたって聞いて、ねえ、なれるまでたいへんでしょうから、あんまり無理せずにね、とあったので、そうですね、でもまあ、じぶんでぜんぶつくんなきゃならないんで、場所を、けっこうおもしろいですけどね、とかえすと、(……)が、そうよ、あたまもつかうしね、と言を添えた。(……)のお兄さんもつぎの一月か二月でひとり暮らしをはじめる予定らしい。そういう「噂」を(……)(つまり目のまえの母)から聞いた、と言っていた。そうしてあいさつし、別れ。道の端にしりぞいて発車を待ち、礼を送って見送り。空はやはり雲混じりで青と白と、ばあいによっては灰の味がシャーベット風に交雑しており、保育園の建物上にはややさえぎられてつやを抜かれた太陽が、それでも汗ばむ暑さを降らしてくる。
 室にもどると干していたものを取りこみ。布団を入れるときはだんだん引き入れながらシーツの各部分を払ってゴミを落とす。そうして床に置き、シーツの裾をしたに折りこんで寝床をセッティング。座布団や足ふきマットも入れ、服もジャージと肌着にきがえたが、Tシャツは洗うほどではないとしてもちょっと陽にあてておくかとそれだけまた出した。そうしてここまで記すともう四時前だ。きのうのことはすぐ終わるとして、おとといの外出時のことをちっとも書けていない。あとそういえば、電子レンジをかかえて(……)といっしょに階段をのぼっているときに、痩せた? とうしろからいわれたのだが、いやいやべつに変わってないでしょと一回は否定したものの、しかしすぐに、たしかにキャベツとか大根とか豆腐ばっかり食っててそのほかそこまでたいしたものを食っていないのだから(なにしろ肉を食っていない)、痩せていてもおかしくないなとおもい、まあ実家にいたときと比べるとやっぱ量を食ってないだろうからねと受けなおした。


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  • 「英語」: 201 - 240


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 からだはわりと充実しているのだけれど、それできのうおとといのことを書く気になるかというとまたべつで、どうもやる気が起こらず、また寝転がって本でも読むかと、陽を浴びてそのぬくもりがのこっている布団のうえにあおむけになり、ホッブズリヴァイアサンⅡ』を読みすすめた。しかしなんだかねむいようで、とちゅうで本をひらいたまま逆さにしてかたわらに置き、目をつぶって深呼吸したり、両手をあたまのうしろに組んでしばらく休む時間がままあった。あいまに胎児のポーズなんかもやっていたのだけれど、五時をすぎると起き上がってちょっとストレッチ。合蹠と座位前屈。座位前屈というのは両手で足の先をつかんで上体をまえにたおすとともに脚の裏側のすじを伸ばすようなやつのことをいっているのだけれど、これを一日二日やらないでいると脚の裏側というのはほんとうにすぐ固まってぎこちなくなる。そうして椅子にもどってみてもやはりすぐやる気にならず、ウェブをてきとうに見まわったりして無為に過ごしていたけれど、そのうちにとりあえず音読やって口をうごかしてみるかとおもって「英語」記事を読み出した。そうすれば口はまあそこそこよく動き、そのあとここまで書き足してもう七時。八時半から通話することになった。食い物が野菜とサラダチキンしかないので買い物に行きたいところだが、そうすると時間がとぼしい。エアコンは書見中だったかに切って、窓を網戸にしている。夕方がちかづくと曇ってきたし、きょうはそれでもなんとか行けるくらいの暑さにとどまっている。
 わりとどうでもよいのだけれど、椅子についてなんかねみいなあとおもっているあいだに、「ねむたい人の国」というフレーズが出てきて、これなにかの本か音楽かバンドかのなまえだったような気がしたのだけれど、検索してもそれらしき情報が出てこない。勘違いだろうか。と書いたあと、いま、もしかして(……)さんがむかし書いた小説の題名ではなかったかとおもってかれの作品を保存してあるフォルダをみてみたら、やはりそうだった。「歌いながら眠っていた」はちょっともういちど読みたいな。


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 通話前に買い物に行っておきたいと思い、七時半だかに家を発った。道中の記憶はないし省略。スーパーでは電子レンジが来たというわけで、冷凍食品が買えるぞとパスタとかピザなんかを購入。あとキャベツにベーコン、水菜も買ってみた。メインとしては唐揚げ弁当。これもレンジが家にあるからあたためられるというわけで。
 帰宅して野菜を切ったり食事の準備をして机上にランチョンマットにならべるともう八時半だったのでZOOMに入り、飯を食いながら通話。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 そのあともすこしなにか雑談をしたとおもうが内容はわすれた。通話を終えたのは零時過ぎ。疲労感があった。やはりほぼ座ったままでからだもうごかさずにモニターをずっと見ているような状態がながくつづくから、心身がこごって疲れるのだろう。それなのでその後はたいしてなにもせずにねむったはず。