2022/7/3, Sun.

 歩く場所をめぐる対立が由来していたのは土地の捉え方の違いだった。野山をひとつの大きな体と考えると、土地所有はそれを経済的な単位で分割するという考え方にもとづいている。ひとつの体を内臓や食肉の部位のように分けるということであり、食糧生産のために風景を構造化する堅実なやり方だ。しかしこの考え方では、湖沼や山や森林をも同様に垣根で区切らねばならないということを満足に説明できない。そうやって大地を細分化する土地所有の境界ではなく、循環系のように機能して、全体をひとつの有機体に結びつけている道にこそ、歩く(end268)ことは関心を向ける。その意味で、歩行は所有のアンチテーゼである。歩くことは、大地において、動的で抱えこむもののない、分かちあうことのできる経験を求める。流浪の民は国家の境界を曖昧にし、穴を開けてしまう存在としてナショナリズムに敵視されることが多かったが、歩くことは、私有地というやや小さなスケールの相手に対して同じことをしているのだ。
 家畜用の低い段を踏み越えて牧場を横切り、実利的で、それでいて美しい農地の脇をかすめて歩く。イギリスにおけるウォーキングの愉しみには、たしかにこうした通行権の対象となっている道がつくりだす共生の感覚がある。通行権というもののないアメリカの土地では、生産とあそび [﹅3] の領域がきっちりと分断されている。おそらくこのことが、アメリカの擁する莫大な農業用地がほとんど認識も意識もされていない理由のひとつだろう。市民にもっとひろいアクセスの権利が保証されているほかのヨーロッパ諸国、デンマーク、オランダ、スウェーデン、スペインといった国々の制度に比べれば、イギリスの通行権はそれほど顕著な特徴をもっているわけではない。しかしこの通行権の考え方は、所有権のみを絶対視することなく、小道を土地境界と同じくらい重要な原則に据えるという、土地に対するひとつの別の見方を伝えている。ブリテン島の九割近くの土地は私有されているため、野山に足を踏み入れることは私有地への立入りの問題となる。他方、日曜日に散歩に行くには便利とはいえないものの、合衆国にはかなりの公有地が残されている。それゆえに、イギリスのウォーキング運動家が境界に反抗して闘う一方で、シエラ・クラブは境界を護るために闘った。イギリスでは公衆を排除するために土地に境界が引かれたが、合衆国の土地境界は公有地を公共のままに、手付かずのまとまりと(end269)して保ち、民業の進出を阻むために引かれていたのだ。
 ストウの大庭園を見に行ったときに出会った案内人は、この庭園は教会の周囲の村を取り壊し、「薄汚い村人たち」を一マイルほど移住させて造られたのだと教えてくれた。彼女によれば人びとはのら着 [﹅3] を着なければ庭園に立ち入ることが許されず、その理由は眺めの趣きのためだったという。三時間ほどして、いまや木々と低木の背後に隠れてしまった教会のそばで再びこの反骨精神に富む魅力的な女性にばったり出会い、わたしたちは話し込んだ。通行権についていえば、彼女は幼い頃、「不法進入者は告訴する」と書かれた看板を掲げる農園のそばで暮らしていたという。彼女はそれを死刑のことだと思い込み、他人の首を刎ねるような人間がよく教会に来れるものだと訝しんでいたという。のちに外交官の夫とロシアに住んだが、ロシアでも他所でも、ほとんどの国で不法侵入自体はそもそも考えの埒外だったという。わたしが出会ったイギリス人の多くは、土地の景観は彼らの受け継いだ遺産であり、自分たちにはその場に足を運ぶ権利があるという感覚をもっていた。合衆国ではそれよりはるかに私有財産が絶対視され、その正当化に寄与する存在として莫大な公有地がある。個人の権利を公共の利益に優先させがちなイデオロギーと同じように。
 だからこそ、イギリス文化においては通行という行為が大衆運動として存在し、私有権の範囲がいまだ議論の対象たりうるという発見は、わたしにとって心の震える出来事だった。歩行が所有によって分断された大地を縫い合わせる行為だとすれば、不法進入はその政治的な身振りとなる。自由党の議員だったジェームズ・ブライスは、一八八四年に私有の草原や野山の通(end270)行を認める法案を提出するが、これは不首尾におわった。数年後に彼はこう宣言している。

大地は、我々が限度なく使い尽くすべき資産ではない。大地は、我々が身をおき、生きる糧を得、さまざまな楽しみを得るために不可欠なものである。したがってわたしは、法によって、あるいは自然的正義によって無条件の進入禁止を命じる権能などというものが存在するあるいは認められるということを否認する。

 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、268~271; 第十章「ウォーキング・クラブと大地をめぐる闘争」)




  • 「英語」: 241 - 267; 268 - 280
  • 「読みかえし1」: 102 - 107


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 いまもう四日に日付が変わったところ。この日の起床は九時一六分。きょうはまったく出かけていない。自販機で飲み物を買ったり、ゴミを出したりするときに短時そとには出たが。雨が降っていた。飲み物を買ったのは三時か四時くらいだったとおもうが、そのさいには熱されたアスファルトが雨を受けたときにたちのぼらせるあの特有のにおいがすこし嗅がれた。起きたあとはれいによって書見して、ホッブズリヴァイアサン』は読了。第四部は「暗黒の王国について」という題で、それはつぎのように定義されている。「この世の人々にたいして支配を獲得するために、誤りに満ちた暗黒の教義によって、人々のなかにある自然の光と福音の光を消し去り、その結果、彼らが来たるべき神の王国に入れないようにする詐欺師たちの連合体」(338)と。なかなかの言いようだが、第四十七章「こうした暗黒から生ずる利益について、およびそれはだれに帰属するのか」では、聖書の誤った解釈や都合の良い教義によって利益を得ているのはまさしくローマ・カトリック教会であるとじつにはっきりと非難がなされている。いままでもこれ教会にかなり喧嘩売ってるのでは? という部分はあったが、さいごにいたってもうかんぜんに名指しであからさまに糾弾していた。「したがってさきに述べた原則、「利益はだれに」によって、私たちは霊的暗黒の真の張本人がだれであるかを正しく公言することができる。それは法王、ローマの聖職者たち、そしてさらに人々の心のなかに、現在の地上の教会こそ、新約、旧約に述べられている神の王国であるという誤った教義を植えつけようと努力しているすべての人々である」(362)。だからホッブズにいわせればローマ・カトリックは「詐欺師たちの連合体」なわけで、教会ディスりすぎでしょ、だいじょうぶなのかとおもったのだが、かんがえてみればイギリスは英国国教会なわけで、そのへんの歴史や制度はぜんぜん知らないのだけれど、国教会というからにはイギリス(ホッブズの時代にステュアート朝がはじまり、イングランドスコットランドの同君連合王国になる)というコモンウェルスの教会なわけで、まさしくこれはホッブズがこの本のなかで主張しているような、政治的主権者に従属する教会なわけだろう。英国国教会とローマには緊張関係があったはずだから、国教会牧師の息子として生まれイギリスに属しているホッブズカトリックをディスってもまあ問題はないのかもしれない。ただ年譜によれば『リヴァイアサン』がロンドンで出版された一六五一年当時、ホッブズはパリに亡命しており(一六四〇年~五一年末まで)、のちのチャールズ二世も四五年におなじくパリに亡命して、ホッブズはかれに数学をおしえていたのだけれど、『リヴァイアサン』の出版によって、「ホッブズにたいするキリスト教会からの非難が高まり、亡命宮廷への出入りを禁止される」(399)という事態になっている。
 『リヴァイアサン』を読み終えたあとは三〇日に図書館で借りてきた西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)を読みはじめた。詩なんてだいたいそうだがなんだかよくわからん部分も多いし、また西脇順三郎の訳は意外と読みやすくはない。マラルメの原文じたいもそうなのかもしれないが、この部分がどこにかかってんの? というのがあいまいで、行き先がどこやねんとか、これここで切れてんのか、それともつぎの行につづいてんのか、みたいなことがままあった。それはべつにマラルメに限ったことではないだろうが。
 書抜きもそこそこやった。きょうはさっさと日記にかかる気が起こらなかったので、書抜きをさきにやることになり、それでかえってたくさんできたかたち。あと五時台にまたギターをいじって携帯でふたつ録音し、それらをnoteにあげておいた。五番と六番にあたる。まあ弾いているときもれいによってぜんぜんだめだなとおもっていたし(まずゆびがよくうごかなくて単純にミスりまくるし)、聞いてみても五番はとくにおもしろくないのだが、ブルースではなく自由にやった六番はまだおもしろさがふくまれていた気がする。ミスがありまくって一向にかまわないので、こういう即興を日々やって録音しておき、アーカイヴを溜めていきたい。しかし弾いていてもぜんぜん集中できない。いい感じにならない。
 飯は昼も晩も冷凍のパスタを食った。きのう電子レンジをもらったのでようやくあたたかいものが食えるということで、夜にスーパーに行ったときに買ってきたのだ。ほかはいつもどおり豆腐とかサラダとか。水菜も買ってきてあったのでそれもつかった。キャベツと水菜だから色味もおなじだし、味としてももうちょいなんか組み合わせあるだろうという感じだが。トマトも買っておけば良かったかもしれない。サラダチキンはまえより細かめに切って散らしたがそれもわるくない。
 きょうは基本曇りもしくは弱い雨の天気だったし、エアコンをつけずに窓をあけていた時間もそこそこあった。しかし夜になってくるとなぜかかえってまた暑くて、やはり入れてしまう。燃えるゴミの始末をして出しておいたり、プラスチックゴミも回収が火曜日なのでそれにそなえてべつの袋にうつしておいた。プラゴミ用の一〇リットルくらいの袋を調達したい。また、兄から送られてきた浄水ポットをようやく開封してつかいはじめた。包みのなかに箱や説明書もあわせて入っていたのだが、さらに(……)さんからのみじかい手紙と、オーマイのパスタ用ソースとか差し入れがいくらかあったので、お礼のメールを送ろうとおもったがこれはまだ書いていない。洗濯もしたい気がしたが天気があまりよくなかったしやめた。さくばんはまた疲労してシャワーを浴びずに寝てしまったので昼間に浴びたが、その後部屋にいても汗をかいて肌がベタベタしているからこれからもういちど浴びたい。
 音読それなり。あした(……)くんたちとの通話があり、エマソンを読むことになったのでさきほど予習しておいた。emersoncentral.comというページにテキストがまとまっている。エマソンもおもしろそうなんだよな。ソロー方面から来る関心もあるし、あとウルフとかニーチェとかプルーストとかもエマソン愛読していたらしいから。



 浄水ポットはおおきな容器のなかにもうひとつ、縦ではんぶんくらいまでのおおきさの小容器をはめこむかたちで、その小容器の底に浄水フィルターをとりつけるもの。そうすればそそがれた水がフィルターをとおってしたに落ちて溜まり、ポットの口からそれをそそげるようになる。上部の蓋は持ち手から開口部から注ぎ口まですべてをあわせて覆うようになっており、ちいさな注ぎ口は注水のさいにそこだけひらけるようになっている。説明書を読みながら容器を洗ったり、溜めた水のなかにフィルターをつっこんでかるく振って気泡を抜いたり、セットアップをした。フィルターはさいしょ二回は水をとおさないと駄目で三回目からつかえるというのでそのとおりにして、はじめはポットじたいを冷蔵庫に入れておくイメージでいたのだけれど意外とおおきかったためにはいらない。どうするかとおもったところで、二リットルの水のペットボトルをまだ捨てずに何本か置いてあったことに気づいたので、それに水をうつして冷蔵庫保存すればいいじゃないかとなった。ただペットボトルは蓋をもう捨ててしまっていたので、プラスチックゴミを入れておいた袋からそれを探し出さなければならない。ついでにもう火曜日のために半透明の袋にうつしておこうというわけで、そのついでにキャップを発見し、それでペットボトルに浄水ポットから水をそそいで冷蔵庫に入れておいた。二回分そそげばいっぱいになる。