2022/7/4, Mon.

 歩くことを中心に組織をつくろうとすることは一見奇妙に思える。歩くことの価値を語る者はたいてい、独立、孤独、そして機構や統制の不在がもたらす自由について語っている。けれども、歩いて世界へ踏み出すためには三つの前提条件がある。自由時間があること、行く場所があること、そして身体が病や社会的拘束に妨げられていないこと。ごく基本的なこうした自由は無数の闘争の主題となった。はじめに八時間労働や十時間労働、次いで週五日労働を争点にしていた、つまり時間の自由への闘いを繰りひろげていた労働者組織が、勝ち取った貴重な(end278)時間を楽しむための空間の獲得に関心をもつのはまったく理に適ったことだった。空間のための運動を担っていたのは労働者たちだけではない。この章で注目してきたのは野山や田園の空間だが、都市公園の発展にも歴史の厚みがある。たとえばセントラル・パークは、街を離れる余裕のない都市住民にのどかな地方のよさを届けようとする、民主的かつロマン主義的なプロジェクトだった。もっといえば、妨げられることのない身体という主題はさらに捉え難い。ヴィクトリア朝時代の衣服は浅い呼吸、狭い歩幅であぶなげにバランスをとるという作法 [﹅2] に女性を絡めとるものだったことからすれば、付き添いのない女性でもマツの枝の寝床に横になり、ブルマーを履いて山登りをしていた初期のシエラ・クラブの様子は、カリフォルニアにおいて女性解放運動が、あるいはそのささやかな一部分が副産物として産み出されていたことを示唆している。ドイツやオーストリアの初期のアウトドア・クラブにみられたヌーディズムは、丘陵地に足を向けるという行為も自然への帰依という大きな企ての一部だったことを示している。それは性的な官能も含めた自然らしさだった。衣服を手放さない者も身体を晒すカジュアルなショートパンツなどを着用していた。他方でイギリスの労働者に関していえば、いったいなぜ、澄んだ空の下で開けた場所を闊歩するという行為が、多くの人びとにとって闘ってでも勝ち取りたい解放を意味したのか。それを理解するためには、フリードリヒ・エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』に書かれた、身体を蝕み、歪めるほどに劣悪な工場労働者の生活と労働の状況を一読すれば足りる。自宅と執務空間に縛りつけられ、時代から取り残されてゆく中産市民の身体。あるいは産業機構に組込まれてゆく労働者の身体。大(end279)地を歩くことは、それらをもたらした変化に抗うことだったのだ。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、278~280; 第十章「ウォーキング・クラブと大地をめぐる闘争」)




  • 「読みかえし1」: 108 - 123


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 八時のアラームで覚醒。それいぜんにも覚めて、からだをちょっともちあげて机の端に置いてある携帯を取り、時間を確認したおぼえがある。六時台だったのではなかったか。アラームで覚醒する直前までたぶんゆめをみていたのだが、覚醒時に一気に消え去ってしまい、ゆめをみていたということすらしばらくわすれていて、あおむけのまま深呼吸しているあいだにあれそういえば、とおもいだしたが、記憶はまったくもどってこなかった。八時一〇分で離床。きょうは月曜日なのでそとでは保育園がまた稼働しており、子どもの声や、かれらかのじょらを送りに来た親のあいさつの声などがきこえる。紺色のカーテンをあけるときょうは青空もひかりもない朝で、雨の音が起きたときから聞こえていたとおもう。洗面所に行って顔を洗い、それから椅子について水を飲む。一気に飲まず、マグカップについだ冷たい水をすこしずつ飲んでいるあいだは消毒スプレーとティッシュでコンピューターを拭いたり、鼻のなかを掃除したりする。そうして寝床にもどるときょうはひさしぶりに勤務で(……)くんの授業があるから、まず河合塾のやっておきたい英語長文500を読んだ。さくばんにも読んだがそのつづきで、さいごの二〇番まで読み切ってしまう。きょうやるのはおそらく一八番、もしくは(……)くんがじぶんですすめてくれば一九番だろう。したがって終わりが近く、つぎになにをやるかやりたいかかれに聞かなければならない。英語長文を読んだあとは西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)。フランスの詩ってこういう感じだよね、とおもったりする。いまのところ、そんなにピンとは来ていない。
 一〇時から通話だった。九時半ごろに切り上げて、けっきょくきのうはシャワーを浴びたいと書きつけながらやはり疲労のために休んでいるあいだに力尽きてしまい、気づけば二時五〇分だったのでそのまま消灯して寝てしまい、湯を浴びられていない。髪の毛がぼさついていたのでドライヤーで梳かしておいた。それで九時三五分から椅子のうえで瞑想し、しかしこのときはあまり集中できず一五分で切り上げ。便所に行ったりなんだり、髪を梳かしたのはこのときだったか。そうしてNotionを用意しつつZOOMにログイン。きょうの記事を作成しているとちゅうで一〇時にいたった。Chromebookのほうにはemersoncentral.comにある"HISTORY"の原文とか、邦訳とかを表示。じきにみんな来たのであいさつして通話開始。さいちゅうのことはいつもどおりあとまわしにする。(……)
 一二時四〇分ごろ終了。食事へ。れいによってキャベツを切り、きょうは水菜をつかわず大根をスライスしてベーコンを乗せた。ワサビ風味の胡麻ドレッシングをかけて食す。それとオールドファッションドーナツをひとつ食い、それで満足した。食器や包丁、まな板などを洗う。プラスチックゴミはきのうの夜にちょうどよくあった半透明のビニール袋にうつしておいたので、きょう帰ってきたあとに縛って出すのみ。浄水ポットは便利である。水道水をそそいで冷蔵庫のそばに置いておき、フィルターをとおった水を二リットルのペットボトルにうつして冷蔵庫に保存している。それをカップについで飲み、てきとうなところでまたポットからボトルに追加しておく。フィルターは一個八週間が適正な期間らしいが、これで水を買う必要はないのでよろしい。フィルターが一個いくらするのか調べていないが、費用としてもふつうにかなり安くなるだろう。兄と(……)さんに感謝。(……)さんにもお礼のメールを送っておかないと。
 洗い物を済ませたあとはコンピューターでNotionを準備し、音読した。「読みかえし1」。たびたびおなじことを書いているがやはり口をうごかすとやる気が出る気がする。あまり意味の読み取りにこだわらず、ともかくただ読んでいくという感じでずんずん行くのがよさそう。よくわからなかったり、内容で気になる部分があったりしたばあいは、一時口をうごかすのをやめてもどって見ればそれでよい。切りをつけると二時前で、瞑想をすることにした。椅子のうえにあぐらをかいて静止。このときの静止はよい感触だった。ただ座ってじっとしているだけという感じ。作為がほぼ起こらなかった。時間としては二〇分で切ってしまったが、充実があった。それからきょうのことをここまで記して二時三六分。シャワーを浴びよう。


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  • 「英語」: 281 - 330
  • 「ことば」: 1 - 9


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 (……)さんのブログ、最新七日三日付から。

上海市民の個人情報が大量にリークされたという情報をTwitter経由で知った。市民10億人分の個人情報(姓名、住所、携帯番号、身分証明番号、犯罪履歴、快递や外卖の利用歴など)が公安当局から流出。全23TBのデータで、すでにダークウェブで売買がはじまっている模様。どこまで確定情報なのかわからないのだが、とりあえず上海市民の個人情報が政府機関からとてつもなく大量に流出したのはガチっぽい。モーメンツや微博ではすでに検閲開始している様子——と書いたところで、「上海泄漏」で微博を検索するとヒットする投稿もある。検閲が追いついていないのだろうか? なんだかんでこれもコロナと同じくアメリカの仕業というふうに世論を導く手筈を整えてから大々的に報道開始するんじゃないのという気がするが。あとは香港入りした習近平と一緒に記念撮影した政府の役人がコロナ陽性確定みたいな情報もあった。


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  • 日記読み: 2021/7/4, Sun.; 2014/1/8, Wed., 2014/1/9, Thu.


 帰宅後の深夜。2014/1/8, Wed. を読んでみると午前から散歩をしており、「今日が始業式の中学生も続々と帰宅しはじめており、これは誰か塾の生徒に出くわすなと思っていたら案の定遭遇した。バス停の屋根の下にいる四人の女子生徒のうちの二人に見覚えがあることをすでに遠くから気づいていた。通りすぎる際に視線を送ると柵に腰掛けていた少女が気づいて、あーっ、と声をあげた」とあったが、このとき出くわしたのはたしか(……)みたいななまえの子と、あと(……)さんではなかったか。もしかのじょらがこのとき中三生だったとすると、それから八年だから二三歳、順当に行けば大学を出てもうはたらきだしているころではないか。
 瞑想もしている。「わずか呼吸三十回分の時間だったが、意識がふっと浮かんで頭が前後に倒れかける瞬間が何度もあった」というので、まだ静止方式にはいたっておらず、呼吸法式の集中性のやりかただろう。
 体調にかんしては、「風呂から出てスーツに着替えたあたりから、白雲に覆われた窓外の空と呼応するようにして心中にもやが立ちこめはじめ、吐き気未満の不快感と得体のしれない不安による息苦しさを感じた。今まさにストレスを感じていると自覚した。普通に立っていてもなんとなくふらふらするような感じがあり、最初の発作を起こす以前の微熱が長く続いた時期に似た印象を受けたため、これはまずいなと薬を二粒ずつ飲んだ。午前には澄み切っていた空はいつの間にか白に染まり、家から出るころにはぱらぱらと雨さえ降りはじめていた。母が医者にいくついでに送ってくれるというので甘えた。教室に入ってしばらくのあいだ目の前の空間を正常に認識できていないような離人症めいた感覚がつきまとっていたのだが、仕事に集中したためか薬がきいてきたのか、いつの間にか消えていた」「とはいえストレスを感じているのはまちがいないようで、帰ってきて食事をしていると妙に皮膚が敏感になったようでかゆくてたまらず、あっという間に腰回りや腕に蕁麻疹めいた発疹が広がった。風呂に入っているあいだもかゆく、もともと乾燥するこの時期は体はかゆいのだが、いつにもましてひどかった」との記述。まだまだ体調がよくない。



 2014/1/9, Thu. も。「ほとんど全身がかゆいといってもおかしくはないほど」だと。「部屋にはもうひとつ、あかぎれなどに効く黄色のユースキンAもあるのだが、これは祖母が常用していたもので床の間の机の上にいつも置かれていた。オレンジのふたを開けて手指に塗っていた祖母の姿を思い出す」とあるが、この祖母のすがたはもはやほとんど記憶によみがえってこない。この時期は『族長の秋』を音読しており、この日もはじまりから七ページ分読んで、「こんなにもすばらしい文章がどうやったら書けるのか」といっている。
 「母が図書館に行くついでに送ってくれるというので貴重な運動時間を自らなくしてしまうのはまずいと思いながらも怠惰に負けて昨日と同じく車に乗った。帰りもちょうどよく電車の時間に合ったので徒歩をとらず、いよいよもって運動不足が極まっている。人間は歩かなくてはならない」ということで、歩くことへの志向がすでに記されている。直接には運動時間の確保が理由とされているが、たぶんそとをあるいて風景を見ることの快楽もすでに発見していたのではないか。
 「マフラーをつけなくても余裕でやりすごせるような暖かい夜だった。電車が止まる寸前に一瞬の沈黙があった。人声も機械音も絶えたその瞬間には一日を終えた人々が放つ倦怠だけで車内が満たされた。刹那ののちには低く響く駆動音が復活し、点灯したドア横のボタンを押すと無機質な音が響いて扉が開き、静寂と密閉は破られ、よどんだ空気とともに疲労を顔にまとった人々が夜闇のなかに吐き出された」というように、労働からの帰りの電車内でのようすに印象を受けたらしく、がんばって書こうとこころみている。まだいかにもこなれず、かたくるしいような、まあ、まあ、がんばってんな、とちょっとほほえましいような感じ。こういう記述をしているのは、当時は日記で小説をやりたい、日記を小説にしたいという欲望があり、じぶんの生活を書く文なのだけれど、それを小説の描写みたいにして書けたらという望みがあったのだろう。
 「夕食をとって風呂に入ったあとに窪田章一郎『古今和歌集』(角川ソフィア文庫)の仮名序のみ読んでから日記を書いた」という一文でこの日の記事は終わっており、前日の八日も「Jose Feliciano『And The Feeling's Good』を流しながら日記を書いた」がさいごの文で、このころははたらいてきたあとでも日記を書いているらしい。分量がいまとはぜんぜんちがうのでやりやすかったのだろう。熱意の差もあるかもしれないが。当時はいまよりも日記を書くということ、本を読むということにたいして大仰な熱情をいだいていたはず。
 あと、このときは恥ずかしかったのだろう、欄外に書いているが、亀頭包皮炎になっている。男性器はひとによっていわゆるズルムケ、包皮がまったくないものと、包茎に分かれ、後者はチンコの先端、つまり亀頭と呼ばれる部分を包皮がおおかれすくなかれ覆っているタイプであり、仮性包茎と真性包茎に大別される(あとカントン型とかいうのもあったか?)。仮性包茎は包皮があまっており亀頭部分を覆っていながらも、それを剝いて亀頭を露出させることができるタイプの包茎であり、後者の真性包茎は包皮と亀頭が癒着していてそれができない種のものである。日本人男性の七割だったかわすれたがそのくらいは仮性包茎だといわれており、こちらもこれにあたるが、亀頭を皮被りのままにしておくと衛生上あまりよくなかったり、また亀頭が外部刺激に慣れないのでセックスのさいなどに堪え性なくさっさと射精してしまういわゆる早漏になるといわれたりする。そこで仮性の民はあるテクニックを開発し、それがあまった包皮をチンコの根元のほうに剝いたままにしてとどまらせ、亀頭をつねに露出した状態にしておくという解決法だが、これをやったところで皮が亀頭のてまえの陰茎部分にかさなるかたちになり、襞や層が生まれるので、いずれにしても湯浴みのさいなどによく洗って衛生的にたもたなければもろもろの不都合が出てくることにはちがいがない。このときこちらがなっている亀頭包皮炎もそのうちのひとつで、これは読んでそのまま包皮部分に炎症が起こるもので、じぶんはこれいぜん、二〇一三年中にもいちどなったおぼえがあり、このあとにもあったかもしれない。むかしは皮膚が弱くてアトピー的なところもあったのだが、チンコの皮膚もそれはおなじだったのだろう。なったことがないひとは想像がつかないかもしれないが、亀頭包皮炎になるとばあいによってはチンコの皮が水ぶくれする。ひじょうにおおきくふくれてなかなかすごいことになる。このまま破裂するんじゃないかというくらいで、はじめてなったときにはそれはおそれおののいたものだ。二〇一四年のこの時期はとにかく全身いたるところがかゆいようなようすらしく、チンコも腫れているし、尻の皮もかぶれているし、「顔の鼻の両側も赤みがあってがさがさになっている」と書かれているが、死にちかづいた祖母を夜通し見舞った病室でも顔がカサカサしていたのをおぼえている。祖母が死んだのは二〇一四年の二月七日である。この一月九日の翌日にいちどあぶなくなってみなで病室に行ったのだが、顔がカサカサしていた記憶はそのときのものかもしれないし、二月七日付近のものかもしれない。たしかプルーストを読んでいたような記憶があるのだが、一月九日の記事をみると『古今和歌集』の名があるので、プルーストはおそらく二月のほうだ。いま確認してみると、やはりそうだ。「持参したプルースト失われた時を求めて』の一巻を読んで気をまぎらわせつつも、生気を奪われているような意識の重さに耐えかねて、廊下の壁のへこみに設けられた座席に窮屈な姿勢で眠りながら朝をむかえた」とある。ところでブログのほうには2014/1/9, Thu. の翌日・翌々日の記事がなく(一〇日と一一日は一体のものとして書いた)、九日のつぎは一二日になっている。死にかけている祖母の状況を書いた記事を衆目にさらすのが忍びなかったり、倫理的にためらわれたりしたのだろうか。それか、読むひとが読めば素性がバレてしまうから、とかおもったのかもしれない。いっしょに見舞った親戚のひとがなにかのまちがいで目にしたらじぶんだということが一発でわかってしまい、そうすると死にかけているじぶんの祖母を文章のネタにして、みたいな非難を受けそうでめんどうくさそうだから、その可能性をつぶしておこうという先回りの配慮がはたらいたのかもしれない。
 チンコのはなしにもどると、子どものチンコがみんなさいしょは皮被りなのか、それともさいしょからズルムケのやつもいるのかわからないが、しかしたとえばユダヤイスラームの民には割礼の風俗があったわけで、だから基本みんなさいしょは皮被りとして生まれてくるわけだろう。割礼はかんがえるだにこわすぎるしぜったいにやりたくないが、こちらも子どものときはずっとチンコは皮を被っており、そもそもそれが剝けるだなんてかんがえたことがまったくなかった。発想のそとだったのだ。しかし小五か小六くらいのときに父親といっしょに風呂にはいったときに、チンコの皮を剝けるようにしとかないと子どもをつくるときに困るぞ、あと皮のなかをよく洗わないと、みたいなことをいわれて、かつ父親はじぶんのチンコの包皮をじっさいにとぅるんとぅるんと容易に剝いたりかぶらせたりとうごかしてみせたので、そういうもんなの? とそこではじめて皮が剝けるということを知った。しかし当時のじぶんの包皮は大部分亀頭に癒着していたからいわばほぼ真性の状態で、それが剝けるなんぞほんとかよという感じだったが、風呂にはいるたびに剝けるところまで剝いたり洗ったりしているうちに、だんだんと癒着が剝がれてきたのだ。けっこう痛かったとおもうが。それで無事仮性包茎に進化したじぶんのチンコだったが、いままで包皮に保護されていたいわば箱入り息子がいきなり外界にさらされて、いままで知らなかったそとの水や風やひかりにふれようといってもやはり刺激がつよいわけである。だからさいしょのうちは皮を被ったままにしていたし、包皮のほうでも形状記憶的にそういう癖がついているから、仮に剝いたままにしておいてもいつの間にかすぐにもどってしまっているわけである。しかし年を経るにつれて当時まだまだ初期段階だったインターネットでエロサイトを見たり、性についての知識を検索して知ったりしはじめるから、そうすると皮をかぶらせたままだと衛生的に悪いし、なるべく刺激に慣らしていかないと、という言説にふれるわけである。そうなのかというわけで、そこでなるべく剝いた状態のまま過ごすようにして、もどっていたらまた剝いておくみたいな習慣にすると、だんだんそれに慣れてきて、包皮のほうもおれたちはこの付近に溜まってりゃあいいんですねと形状記憶的に理解して亀頭ではなく陰茎にまとわりつきだすから、そんな調子で露出型仮性包茎になった。しかし亀頭包皮炎で皮が紅潮し水ぶくれになったさいには、これをそのまま外界にさらしておくのはよくなかろうというわけで、これはたしかはじめてなって泌尿器に行ったときだが、ふくれた部分を薬剤を塗ったうえでうまく皮のなかにつつみこんで、入り口をテープでとめて出てこないようにした、という記憶がある。ちなみにそのころから陰毛がもじゃもじゃして鬱陶しいからとたまに切ったり剃ったりする習慣で、医者に見せに行ったときはちょうど剃ったばかりのときで(いまは剃るまでは面倒くさいし、剃ったら剃ったでチクチクしてわずらわしかったりするので、たまに短く切る程度にとどめている)、かなりつるつるに近かったから、医者のおっさんに、これはなんで毛がないの? 剃ってるの? ときかれて、そうですと肯定した覚えがある。


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これまで大塚さんは、戦時下の日本のメディアの研究をされてきましたが、『大東亜共栄圏のクールジャパン』では日本国内のことではなく、外地、すなわち植民地や占領地での文化工作が中心になっています。

本書の冒頭では、戦時下日本のプロパガンダ新聞まんが『翼賛一家』のキャラクターが海外の植民地・占領地でも使われていたことが指摘されていますね。



もともと『翼賛一家』は戦時下、国民に模範的な生活や隣組などを推奨するために作られたまんがです。

そこにはプロアマ問わずさまざまなまんが家が参加していましたが、当時すでにプロの作家だった長谷川町子も『翼賛一家』を描いていました。『翼賛一家』に登場する家族は、いわゆる当時のステレオタイプな日本人像を描いているので、お父さんの髪の毛は薄く、女の子は全員おかっぱ頭です。それが『サザエさん』の磯野一家の基になっていることが明らかなわけですが、そのような「古き良き日本の風景」と思われている戦後の町内だとか、標準的家族のイメージ、あるいは『サザエさん』を中心とした戦後の新聞まんがは、実は『翼賛一家』から生まれたものなのです。

そうしたまんがを用いて国家が望む生活様式を啓蒙する政策は、対アジアに対しても行われていました。台湾では、台湾の人たちを日本人化するための皇民化政策の中で、台湾版の『翼賛一家』が作られていきます。また、中国では、北京漫画家協会と日本の新日本漫画家協会の各国のまんが家集団と協働し、宣伝工作をおこなっていたことも、近年になってわかりました。

戦時下の日本の国策により、各地のまんが家たちは組織され、それを政府は文化工作の要員として使っていたのです。ちなみに漫画家協会というとパブリックなものに聞こえますが、今でいう同人誌のようなものです。今どきの同人誌というと1人で作っている場合も多いのですが、かつての同人誌は数人、10人、20人、30人ぐらいのグループで作っていた。その同人誌グループのような非公式な集団を、国策推進のために取り込んだのです。

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一方、朝鮮半島では『翼賛一家』とは別のキャラクターが使われていたそうですね。



朝鮮半島が特異だったのは『翼賛一家』のキャラクターをローカライズさせ、『朗らか愛国班』という新たなまんがを生み出したということです。このまんがは、日本人一家と朝鮮民族一家の2家族が出てきて、そしてその双方が「愛国班」、いわゆる日本の「隣組」のような制度を通じて交流していくという設定になっています。

朝鮮半島では皇民化政策として、創氏改名や国語常用化などがおこなわれていくのですが、その一環として『朗らか愛国班』は創られました。ですから、まんがに登場する朝鮮民族一家は「金山」という日本風の姓になっている。この金山一家と日本人の敷島一家という二つの家族のキャラクターを設定し、そして日本語普及のために作った総ルビつきの新聞で連載された。さらに日本人向けのプロパガンダ雑誌にも『朗らか愛国班』は連載されていましたが、その連載ページだけは、比較的言葉が平易で、総ルビつきになっている。つまり『翼賛一家』を巧妙にローカライズすることで、朝鮮半島の人々を日本人と「同化」させようとしたわけです。

そして読者たちも、この『朗らか愛国班』のキャラクターを使ってポスターを作ったりしたことがわかってきました。こうして多メディア展開をしながら、読者にも二次創作をさせていく。これは『翼賛一家』を用いて日本でおこなわれたことでもあります。

こうした事実が明らかになったのは、2020年の初頭です。台湾などでは『翼賛一家』が現地の新聞に載っていたことがわかっていたのですが、韓国はいくら調べても出てこない。韓国では抗日運動の強さから見て、『翼賛一家』はなかったのかなと思っていたら、それどころか、むしろ日本の国策に沿ってローカライズをさせられていたんだということがわかって、そのことにかなり茫然としました。

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地域ごとのローカライズ、という話がありましたが、本書の第二章では満州で漫画教室が開かれていたということも書かれています。



満洲の開拓村では、子どもたちに漫画を教えていくことで、プロパガンダの要員を作っていくことがおこなわれていました。

先ほども触れたように、すでに漫画家たちが育っていた北京などでは、現地の漫画家たちを組織し、そして日本の漫画家たちとの交流や協働という名目で、国策に合流させていけばよかった。しかし、既存の日本人の漫画家や現地の作家だけだと、そうしたプロパガンダはいま一つ機能しない。だから作家を育てるところからしなければいけないという機運が高まって、台湾や中国本土や、朝鮮半島では漫画教室が盛んに行われていました。

その流れを汲んで、満洲では漫画教室が満洲の開拓村で少年義勇兵(16~19歳の少年開拓移民)に向けて開かれ、その講師を務めたのが『のらくろ』の田河水泡と『タンクタンクロー』の阪本牙城でした。なぜ田河と阪本が選ばれたかといえば、『のらくろ』や『タンクタンクロー』の読者たちが少年義勇兵に応募できる年齢に達していたからです。田河は戦争動員ためのまんがを描かされていたことがしられていますが、満州を訪れてまんがを教えることになった。阪本の場合は自らも満洲に住みながらまんがを指導し、結果としては現地の雑誌にプロパガンダまんがめいたものを教え子たちの何人かが発表もしていく。そうした流れが生まれたのです。

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情報空間の話に引き付けての話題にはなりますが、今、ロシアによるウクライナ侵攻に多くの人が耳目を奪われています。もちろんロシア側がウクライナ側に一方的に攻め込んでいる状況で、ウクライナの方々には大いに同情しますが、一方で、ロシアのプーチン大統領ウクライナのゼレンスキー大統領の舌戦を聞くと、両方ともSNS時代に合わせた宣伝合戦をしているというふうにも見えます。



ついこないだも「歴史戦」みたいな言い方がSNS上で流行っていましたし、文化工作や宣伝工作が、SNS上ですごくカジュアルになっていますよね。今まさにそのカジュアルな宣伝戦が現実の戦争に持ち込まれています。日本もそのプロパガンダ合戦に距離を取ることができずに巻き込まれているわけですが、宣伝戦の渦中に国際社会を巻き込んでいくのが戦時プロパガンダなんだと冷静に認識する視点が必要です。

もちろん、ウクライナのほうが侵略された側だし、対プーチンではゼレンスキーが正しいように見える。ただ、第三者である日本が彼らの宣伝戦に巻き込まれて、今度は自分たちの国の選択を間違えるようではいけない。ゼレンスキーの国会での演説が、どのような世論が巻き起こって、それがどのように選挙に使われていくのかはもうシナリオとして目に見えていたじゃないですか。


案の定、国会演説の後、山東参院議長が「閣下が先頭に立ち、貴国の人々が命をも顧みず、祖国のために戦っている姿を拝見して、その勇気に感動しております」と、いささか上ずった調子でぶち上げました。



ウクライナ市民が市内にとどまり市街戦のため銃を持つ姿が「美談」として日本でも報じられているけれども、ゼレンスキー演説や戦争美談報道が有権者の戦争認識を情緒的に作り替えて、改憲論などに与える影響は大きい。戦争に感動を求めたらダメだし、それによって自らの政治的な選択を間違えてはいけないという自制が、ぼくたちには必要だと思いますね。


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 この日は勤務である。四時半かそのあとくらいの電車で行った。いま毎日一錠はロラゼパムを飲んでいて、長めに電車に乗るし勤務だからもう一錠飲むか否かとまよったのだけれど、わずかに緊張をおぼえないでもなかったし、ここはやはり無理にがんばろうとせずに二錠キメて安心の心身で行こうではないかと決断した。それで出るまえにもう一錠服用。そのおかげで道中に問題はなかった。ただ二錠飲むとやはりからだはかなり重たるくなるが。それで帰ってきたあとなどどうにもうごけない。徒歩中や電車内でのことなどおぼえていないが、たしかこの日はイヤフォンを持っていってFISHMANSで耳をふさいだんだった気がする。二錠飲んだわけなのでそうするとかなり眠くなり、あたまもかたむいてほぼまどろんでいるような状態。
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