2022/7/5, Tue.

 マーゴリンの出版社ヘイデイ・プレスには、自社の刊行物と並べて、ほかの小出版社や企画の本が陳列されていた。彼は自分の机から『オファレル通り九百二十番地』と題された本を手に取り、わたしに差し出した。ハリエット・レーン・レヴィが記したこの回想録には、一八七〇年代から八〇年代にサンフランシスコで育った彼女の目を見張るような経験が綴られている。彼女の時代には通りを歩くことはいまでいえば映画を観に行くようなきちんとした [﹅6] 娯楽だった。

土曜の夜には、マーケット・ストリートの遊歩道に街中の人が集まった。この道は幅の広い目抜き通りで、海岸近くからツイン・ピークスまで、まっすぐに何マイルも続いている。歩道も広く、湾に向かって歩く人びとと、太平洋側に向けて歩く人びとの群れがすれ違う。(end184)人びとはまるで、束の間の祝祭を求めるように湧き集まる。すべての街の隅々が住人を吐き出して、洋々とした人の群れをつくりだす。名望ある紳士淑女。その使用人を務めるドイツ系やアイルランド系の娘たち。その腕をしっかりと抱えている恋人たち。フランス系、スペイン系、勤勉な瘦身のポルトガル系の住民たち。メキシコ人。赤味のある皮膚の、頬骨の高いインディアン。誰もがみな、家や店や、ホテルやレストランやビア・ガーデンを空っぽにしてマーケット・ストリートの色彩の河となる。船乗りたちは国籍を問わず岸壁に停泊した船を捨ておいて、大小の群となってマーケット・ストリートへ急ぐ。そして街灯りと賑わいのなかへ、人込みに浮き立つ人の波に加わっていくのだった。これがサンフランシスコなのだ、と彼らの顔は叫んでいた。お祭りだった。紙吹雪の代わりに、空には幾千の言葉が舞い、仮面の代わりに、顔には衒いのない意気が溢れていた。マーケット・ストリートをパウエル・ストリートからカーニー・ストリートまで大きなブロック三つ分下り、カーニーから今度はブッシュ・ストリートまで小さなブロック三つ分を上る。何時間もいったりきたり、ほのかな好奇心が興味に変わり、興味が笑顔を輝かせ、笑顔がなにか別のものへ変わってゆくまで。土曜日の夜には、父とわたしはいつでもダウンタウンに出かけた。やわらかで輪郭を失ったような世界のなか、灯りの点る通りを歩いた。どこにいても途切れることなく、何事かが、なにかうれしくなるようなことが起きていた。……歩いても歩いても、止むことなく新しい何かが湧き出してくるのだった。

 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、284~285; 第十一章「都市――孤独な散歩者たち」)




  • 「ことば」: 1 - 9
  • 「英語」: 331 - 371
  • 「読みかえし1」: 128 - 135


―――


 目を覚まして携帯をみると一〇時四三分。昨夜はだいぶ夜更かしして五時過ぎに消灯したのでねむりがみじかいが、そこでもう正式な覚醒になってしまった。それいぜんにゆめをみていたが、あまりおぼえていなかった。家族と買ってきた菓子を食べるみたいな。しばらく深呼吸して起床。カーテンをあけるときょうも空の白くて陽のつやのない曇天。洗面所に行って顔を洗い、椅子について水を飲む。それから寝床にもどって書見。きょうはマラルメではなく、チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)を読みはじめた。真っ赤なカバーの本。表紙に右上にはタイプライターが描かれている。おさめられている書簡は一九四五年から九三年まで。ブコウスキーは一九二〇年生まれらしい。四四年四五年くらいにちょっとだけ雑誌に詩などが載せられたことがあったものの鳴かず飛ばず、その後不遇で、酒を飲みすぎて病院にはいったことなどもあり、五五年、六年くらいからまた本格的に書きものをはじめたもよう。50まで読んだ。じぶんの詩を酷評した批評家にたいする悪口などおもしろく、すぐれた作家はみんな悪口雑言罵詈罵倒がうまくておもしろい。
 二時間くらい読んだのかな。とちゅうで便所に行ったり、そのついでに洗濯をしたりした。きょうは曇り、というかなかば雨で、ガラスやそとの物干し棒に雨粒がかかる音が聞こえるときもあったし、洗っても部屋のなかでじめじめと干すしかないのだけれど、洗濯物は溜まっているし、きょうを措いたところであした以降もしばらく似たような天気がつづくようなので、もう洗っておくしかねえと。乾燥は最悪部屋のそとの通路にある乾燥機をつかえる。それでニトリのビニール袋に入れてある汚れ物をひとつずつつまみあげて洗濯機のなかに落としていき、パワフルコースをスタートして水が溜まるのを待つ。蓋をあけたままにしておくと適量まで水が溜まったところで勝手にうごきが止まるので、寝床から立ち上がって洗面所にある「エマール」を持ってきて、キャップに液体をそそいでまわしいれる。この洗剤もだんだんすくなくなってきたが、つぎになにを買うか、ほかにもっとよいのがあるのかもしれないが、いまのところこれで特に問題や不便を感じていない。そんなに服が汚れる生活でもないし。まえにちょっと調べたときに、エマールに漂白剤をすこし合わせるみたいなはなしをみかけたおぼえがあるが、そういうことをやってもよいかもしれない。
 洗濯機が稼働しているあいだも臥位で書見をつづけ、洗濯が終わるとさきに干したのだったかな。カーテンレールにならべていくかたち。窓の上部が衣服やタオルでおおわれてそれだけレースのカーテンの白さがさえぎられるわけなので、なんとなく鬱陶しい。エアコンをドライ設定で稼働させておく。そうして食事。洗濯機のうえでキャベツを切り、水菜も洗ってこまかく切って、さらに大根をスライス。サラダチキンはプレーンがなくなって、ハーフのハーブ風味のやつ三個セットに移行。こまかく切って散らす。ワサビ風味のごまドレッシングはなくなった。きょうアイロンを買いに出かけるつもりなので、ついでにスーパーに寄って買ってきたい。いまは四時一〇分で、まだ降っているのかいないのかわからないが、せっかくなので(……)まであるいていこうかなという気になっている。そのほか食べ物は、冷凍の安っぽいマルゲリータピザと、オールドファッションドーナツ。
 ウェブを見ながら飯を食い、ロラゼパムも一錠飲んでおき、すこし息をつきつつさらにウェブを見たあと、洗い物を済ませてから音読。たくさん口をうごかして文を読むとやはりそれだけやる気が出るぞという感じがある。それでたくさん読み、その後きょうのことをここまで記述。まず(……)さんへのメールを書こうかな。


―――


 以下が(……)さんへのメール。

(……)


―――


 帰宅後に一年前の日記を読みかえした。そのあと2014/1/10, Fri. - 11, Sat. も。この二日間はなぜかブログにあがっていないので、あげておかなければならない。
 一年前の七月五日(月曜日)には、「トランプ支持者は一一月からずっと選挙が「盗まれた」と言っているわけだけれど、盗まれたと言うからには、それはまず所有されていなければならないはずである。しかし、いったいだれが公的制度としての選挙を所有していたというのか? もっぱらじぶんたちのものだったとでも、彼らはおもっているのだろうか?」との言。風景も。

別れて坂に折れ、のぼっていく。沢の音はきのうよりはおとろえていたものの、まだいくらかごうごういっている。その水からたちのぼってくるのか、そういうわけではないだろうか、風がここでもながれつづけ、肌に涼気を吸わせて、それが坂道の出口までずっとつづき、浴びていると、何万年まえだか何億年まえだか知らないが、人間がこの世にあらわれるはるかいぜん、すくなくとも大気の組成がいまと似たようなものになって以来、世界のいたるところでおなじような風が、ときには吹いたりときには吹かなかったりして、いまもおなじように吹いたり吹かなかったりしているわけで、それこそがこの世界と星の堅固な一貫性であり、それはひとつのすくいだとおもった。

     *

(……)空はあいかわらず雲がかりだがいくらか隙間も生まれたようで、車もとおらぬしずかな街道から南をあおげば暗い青がやや混ざってほつれている空が多島海めいていたものの、しかしその黒染めの海の領分に星のすがたはひとつもうかがえなかった。裏にはいっていき、家のまぢかで坂が尽きれば、近所の家々のなかや川向こうの闇に浮かぶ街路灯はちいさくまばらながらに黄色くきわだち、うがたれたようなくりぬかれたような空間に縫いつけられたようなかんじだった。

 その他ニュース関連。

帰宅後は休み、零時ごろ飯へ。都議選の結果をあらためて見て、多少分析。一議席しかない地域で自民党が勝っているというところは二つか三つくらいしかなかったし、複数の議席の選挙区でも自民が一位というところがすくなかったとおもうので、自民党の衰退ぶりがあらわになっていると言えるのではないか。とはいえ、一位と二位の票差は基本的にはどこでも小さめだったが。差が大きかったのは(八〇〇〇票から一万五〇〇〇くらいの規模)、世田谷、八王子、あと府中だったか、たしかそのあたり。こまかくおぼえていないが、八王子では公明党の候補が一位で、これは、とくに典拠がないのだけれど、八王子市というのは創価学会の勢力がつよいのではないか。(……)も八王子出身でいまも住まっているし。府中だかはたしか無所属の候補が一位で、小金井市も一議席を無所属が取っていたような気がする。無所属で勝てるってよくわからんのだが、今回当選した無所属の候補はたぶんどれも現職だったとおもうので、もう実績と地盤と支持が確立しているということなのだろう。あと、「ネット」という表記の候補者がひとりだけどこかで当選していて、このネットというのはなんなのか知らなかったのだが、「生活者ネットワーク」という団体のようだ。北多摩第二選挙区(国分寺市および国立市)で当選。立憲民主党が唯一の議席を、あるいは複数でも一位で取っていたのがたしか三鷹市武蔵野市小平市あたりで、立川市も一位ではなかったとおもうがはいっていたはずなので、このあたりの、立川~武蔵野あたりの中央線沿線、都心からややはなれた郊外地域はリベラル層がつよい風土なのかもしれない。

     *

いま午前二時ちょうど。風呂から出てきて、菓子を食い茶を飲みながら一年前の日記を読んだ。2020/7/6, Mon. ははじめてWoolf会が開催された日だったらしい。ほか、ニュースや都知事選についてが下。「珍しく国際面にウイグル関連の報が出ていた」とあるあたり、このころはまだ紙の新聞ではウイグルのニュースはそんなに頻繁に報じられていなかったようだ。じぶんが見落としていただけかもしれないが、やはりアメリカが中国を批判するようになってから、ということはすなわち、おおむねバイデンが当選し就任してからよく伝えられるようになったのだろう。

新聞の話題は色々あるが、珍しく国際面にウイグル関連の報が出ていた。ウイグル自治区の抗議デモと警官隊との大規模な衝突から五日で一一年、とあったか? 中国共産党のやり口は収容から強制労働へと移りつつあるようで、ウイグルの人々が働かされている工場の寮の入口には「諸民族は一つの家族として団結しよう」みたいな標語を掲げた絵があるらしいのだけれど、これ、大日本帝国が濫用したレトリックそのままやんけと思った。都知事選の結果も出ており小池百合子がぶっちぎりで再当選なのだがむろん重要な点はそこではなく、桜井誠が五番目で、立花孝志が六番目だという事実のほうだろう。開票率が六割だったか八割だったか忘れたがその時点のデータで桜井誠は一三万票を得ていて、ということは我が(……)に住んでいる人が全員桜井誠に入れたくらいの規模で支持を得ているわけで、そう考えるとマジでやばいなと思う。


 この時期はその日読んだ本の範囲から気になった箇所をいちいち日記に書き抜いてメモしておくというやりかたをとっており、これはいままでに二、三回こころみたことがあるのだが、とうぜんながら労力がかかりすぎるのでつづかない。レス・バック/有元健訳『耳を傾ける技術』(せりか書房、二〇一四年)を読んでいる。興味深かったり、良かったりする記述がいくらかある。

  • 116: 「「図書館の中には人がいるから安心できる」と彼女は書いている。図書館を選ぶのは全てのベンガル系少女たちに共通していて、彼女たちにとって図書館は少年たちによる嫌がらせもなく、親や親類たちによる監視もない安心できる場所なのだ」
  • 116: 「図書館に行くのは良いことだとして大人からも認められるが、実は図書館それ自体は彼女たちにとって自由の空間となったのである」
  • 116: 「ロンドンにおいて公立図書館は自分を伸ばす場所であり、彼女たちがそれを用いるとき、そこには社会的流動性や「品位」をめぐる欲望への敏感な洞察が、あるいはより正確にいうならば、大人の権威と同年代の圧力に対する個人的な反抗が含まれていた」
  • 120: 「調査に参加した若者たちは、写真を撮ることによって遠くから危険な場所を記録でき、あるいはこの事例のように、その中に写りこむことによって一時的にこの場所を自分のものにすることができた。リーがこの最も嫌いな場所で、カメラに微笑みながら楽しそうにリラックスして写真に写っているのは印象的である」
  • 120~121: 「ある意味で、この調査は所属のパフォーマンス――この事例ではカメラの前でのポーズである――が生み出される文脈を提供したといえる。その写真は一つの恐怖の歴史とこの場所で怯えた感情とを映し出している。しかし同時に、写真による表象行為それ自体が、存在の主張となっているのだ。(end120)若者である彼女自身が管理し実行した観察という行為によって、彼女は好きではなかったはずの場所への所属を主張できたのである」
  • 125: 「彼女たちがホワイトチャペルやポプラー周辺のベンガル系コミュニティにいるところを見られると、それは大人たちのゴシップの対象になるかもしれなかった。これらの場所は同じ民族の人々が多いために安全が保証されてはいるが、同時に日常的な監視にさらされる場所でもあった。したがって、ベンガル系少女のグループがアイル・オブ・ドッグズの外に出て、「人種差別的な場所」という噂のある地域をぶらつくのも驚くようなことではない。なぜならその地域が白人中心だということは、とりもなおさず、そこに大人たちの詮索の目が届かないということだからである。もし安全だと思われる場所にいても快適でなければ、他の場所で快適さを探すだろう。たとえ人種差別のリスクがある場所に行くことになろうとも」
  • 128: 「都市の内部には目に見えない沈黙した街がまだ数多く存在する。それは"まだ見ぬ"空間を与える場所である。アイデンティティや、単一で安定した自己からなる場所ではなく、現代の都市生活という地獄のただなかで、そこへの所属を演じ、主張する空間なのだ。権力と排除という都市の幾何学が与える傷にもかかわらず、若者たちは避難場所と都市風景を通り抜ける道を見出す。そうする中で、ホームは家から離れた場所で作り上げられていくのである」
  • 135: 「投獄する側の人間たちが囚人たちにタトゥーを彫ったり、烙印を押したりすることはもはやない。今や囚人たち自身が刑務所というスティグマ化された世界の中に入った永遠の印を刻む。タトゥーは権力者たちによって奪われることのない永遠のアイデンティティ表現であり、否定だらけの環境にあって自己の肯定性を表象しているのである。たとえ囚人たちが服を剥ぎ取られ、髪を刈られ、ちっぽけな房に押し込まれ、他の囚人や看守によって傷つけられ血を流すことがあっても、タトゥーは彼らの過去を語り、その絆の強さを示し続けるのである」: Susan A. Phillips, 'Gallo's Body: decoration and Damnation in the Life of a Chicago Gang Member', Ethnography 2, no. 3 (2001): 369-70.より。


 2014/1/10, Fri. - 11, Sat. はブログに投稿しておいたが、これは祖母の容態があやしくなったという連絡を受けて病院に行き、両親や(……)さん(叔母)とともに泊まりつつみまもった二日なのだ。それでめずらしいことだが、二日をまとめて一記事に書いている。しかしはてなブログの投稿画面でみてみると四三〇〇だか四四〇〇だかそのくらいの字数で、分量を書けばよいというものではないが、二日分でその程度というのがとうじのじぶんの実力だったのだ。とはいえ、書きぶりはぜんたいになかなかよいというか、やはり死に向かいつつある祖母と、じぶんもふくめてそれをみる生者たちのようす、要するにこの日このときのことをしっかりと書いておかなければならないという意識があったのではないか。この時期のじぶんは日記で小説をやる/日記を小説にするというテーマに惹かれていたとおもうが、いま読みかえしてみると、わりとそれができているような気もする。「日記で小説をやる/日記を小説にする」ということがどういう意味なのか、いまもってもわからないが、これは(……)さんのブログから来ているもので、かれのブログを発見して読んでいるうちに、まるで小説みたいだ、このひとは日記で小説をやっているんだ、という感触をいつからか得たので、じぶんもそういう感触をあたえるような日記が書きたいとおもったのだった。たぶんそう感じたのは主に(……)との交流や恋愛関係を書いているあたりの記事にたいしてだったはずで、だからいまからおもうに、それは「小説」というよりは「物語」とか「フィクション」みたいな手触りということだったのかもしれない。たしか「祝福された貧者の夜に」というタイトルだったとおもうが、そういう題の一日があって、たぶんかなり感傷的なものだったとおもうのだけれど、それがめちゃくちゃおもしろくて、すげえ、日記がこんなふうになるんだ、と感動したのをおぼえている。2014年のこの二日も時系列順にあったことを書いているだけなのだけれど、祖母の死にゆきという出来事があって(じっさいに死ぬのはここから一か月ほどあとのことだが)、それがこちらにも感情的なものをもたらしたり、病室にもいろいろひとが来たりして、それまでの日常のながれからちょっと違った時間のありかたになっているので、それがいくらか物語的な感触をあたえているのかもしれない。二〇一四年のじぶんにしちゃあがんばっているんじゃないかとおもう。ぜんぶではないが、いくらか引用しておく。まず冒頭から。

 岸 政彦「断片的なものの社会学: 第一回 イントロダクション」(http://asahi2nd.blogspot.jp/2013/12/danpen01.html)を読んでから眠った。
 九時半に起床した。目が覚めてからも夢のなかにいるような浮遊感を覚えた。混ぜご飯、野菜スープ、肉の炒めものを食べた。昨日熱を出して会社を休んだ父は今日もまだ眠っているようだった。
 『古今和歌集』を読んでいると、母から電話がかかってきた。祖母の具合が悪いのでできるだけはやく病院に来るようにとの連絡があったという。夕方からバイトだったが上司にその旨を伝えて、風邪ひきの父と病院へむかった。美しい日だった。峠道の左右を囲む木々の葉の一枚一枚に午前十一時の陽光が刺さるようにそそいで白くたまっていた。光は車のフロントガラスにも眩しい膜をつくり、視界が全体として発光していた。父は時折り発作的な咳をもらし、呼吸も荒かったので車の運転が危ういのではないかと思われたが、危なげなく到着した。プリウスは駆動音がほとんど聞こえないほど静かで滑るように走る車だった。
 祖母の意識は朦朧としているようだった。青白い顔で、緑色の酸素吸入器をつけていた。頭がくらくらした。体が不安の膜で密閉されたような息苦しさを感じた。父と二人で言葉も交わさずベッド脇で祖母を眺めていると、看護士が来て点滴を外した。もう管が入っていかず、入ったとしても液体がもれてしまうのだという。いよいよこれで栄養も水分もとる手段を失ったわけだった。十二時過ぎに一人でロビーへおりて飲み物を飲んだ。
 病室に戻ってすぐに母とYさんが到着した。彼女らはことさらに慌てても悲しんでもおらず、表面上はいつもどおりに見えた。本当だったら倒れたその日に失っていたはずの命をかろうじて拾って一年と五か月伸ばしてきたのだから、誰も心の準備はできているのだった。
 医者に呼ばれて話を聞いた。不在の主治医の代理医はこちらの感情に気を遣いながらも冷静に事実を伝えようとしたが、迂遠な説明を取り払ってしまえば今日もつかもたないかだろうということだった。呼ばれる直前に祖母は目を見開いて苦しげな様子を見せた。咳をしたいのにできないような表情で、何かいいたくてもいえないようなうめき声をもらした。戻ってくると眠っていた。このまま二度と目を開けることはなく、静かに眠るように逝くのだろうかと思われた。
 二時前に祖母の弟であるHさんを母がむかえにいって連れてきた。八十年近くも生きていると肉親の死にも慣れたもので、姉さん寝てんのかや、このまま永遠に眠っちまうだんべ、などと不謹慎な言葉を吐いたが、その無遠慮が無礼や侮辱にはならない親しみが言葉のうちにあった。このぶんだと朝までもつかもしれねえぞ、Iさん(祖父)が連れていっていいもんか迷ってんだ、もうすぐそこには来てんだろうけどな。
 二時を過ぎて母が持ってきたおにぎりをラウンジで食べた。病室に戻ったあとはどうにも眠くてベッド脇の車椅子に座ってなかば眠っていた。待つということは――とりわけその先にあるものがひとつの生の終わりであるときには――気力のいる仕事だった。


 「美しい日だった。峠道の左右を囲む木々の葉の一枚一枚に午前十一時の陽光が刺さるようにそそいで白くたまっていた。光は車のフロントガラスにも眩しい膜をつくり、視界が全体として発光していた」という景色の感触はよくおぼえているのだけれど、ただこれはそれまでにも見舞いに行くときにこの峠道をとおってたびたびおなじようなうつくしく澄んだひかりのすがたを目にしていたので、このときの記憶そのものというわけではないだろう。
 「本当だったら倒れたその日に失っていたはずの命をかろうじて拾って一年と五か月伸ばしてきたのだから、誰も心の準備はできているのだった」とか、「このまま二度と目を開けることはなく、静かに眠るように逝くのだろうかと思われた」とか、「待つということは――とりわけその先にあるものがひとつの生の終わりであるときには――気力のいる仕事だった」というふうに、段落のさいごで総括的な感慨や、三つ目のようにアフォリズムめいたことばを置いているのが、なんだか小説っぽい。
 つぎのような記述も。

 六時半ごろに祖母の姉の息子であるIさんが到着した。Iさんは祖母の顔をのぞきこむと早くよくなって畑でもやりなよ、などと声をかけた。事がここにいたっているのにそのような場違いな言葉を吐くのに最初は無言で苛立ったのだが、しばらく挙動を見ているとそれも彼なりの優しさなのだと理解した。彼はI.Yさんと一緒に昔話を色々語ってくれた。祖父母の結婚前のエピソードがおもしろかった。当時はHさんが市内で乾物屋だかなにかをやっていて祖母がそこにつとめていた。そこにIさん(祖父)がよお、自転車に乗って誘いにくるんだわ、んで乗ってけよ、なんつってよ。Mさん(祖母)もうしろに乗っていっちまうんだわ、結婚前でな、二十五、六だったんじゃねえかなあ――なんということだ! あの二人にもそんな時代があったのだ。もちろんどんな老人にも青春時代はある、しかし祖父母のそれを聞いたのははじめてだったため、自分の知らなかった過去の存在がまざまざと迫ってきた。以前にも一度こういうことがあった。祖母と畑に出たときのことだった。畑の隅に立った祖母が雑草の葉を手にとり、両手で口にあてがって背すじを少し伸ばして草笛を吹こうとした、その姿を見た瞬間に、彼女が幼い子どものように見えた、想像上の少女の姿が現実の老いた祖母に重なって見えた、そして瞬時に、祖母にもこういうときがあったのだということがなかば衝撃とともに感得されて、泣きそうな気分になった。無邪気に草笛を吹いていた少女の時分から数十年もの時を重ねて、それらの厚みを背負って祖母はそこに立っているのだった。今やそのときと同じことが起ころうとしていた。実際には写真ですら見たことのない若かりしころの祖父が祖母を迎えに来て、幸せそうに二人で笑いあう情景が脳裏に描かれた。感傷を禁じ得なかった――なぜ過去は過去であるというだけでこんなにも美しいのか!


 読み書きをはじめて何年かのちまでのじぶんは感傷に屈することにかけては人後に落ちない自信をもっていたので、過去が過去であるというだけで感じてしまう美しさにもたびたび撃たれていたのだけれど、いまも本質的にはあまり変わっていないのだとおもう。ところでこの一段落の記述は、おそらく磯崎憲一郎を意識している。ちなみに文中のIさんは(……)の(……)さん(祖母の姉だか祖父の妹のうちのいちばんうえだかわすれたが、そのひとの息子。母親である(……)のおばさんはだいぶ長生きしていたが、数年前に亡くなったはず)、I.Yさんは(……)さん(祖父の末妹で、(……)に住んでおり、いまもつきあいがあって彼岸などは墓参に来てこちらも顔を合わせることがあり、日記にもなんどか書いたことがある)、Hさんは(……)さんでありこれは祖母の弟(畑中に住んでおりまだ生きているはずだが、数年前からもうあたまがいくらかぼけているっぽいという噂を聞いている)、祖父の名は(……)であり、祖母の名は(……)である。
 二日目の午前二時ごろに一時帰宅して風呂に入ったあとすぐにまた病院にもどり、いったん持ち直したと判断して早朝五時半に帰ったのだが、その昼頃には、「本を読もうという気分が起こらない上に、そのことに対する自覚すら欠けている端的な無為のなかにいた。日記を書こうとしてもうまく書けず、ぼけっとしたり、どんなページを見たかすら覚えていないほどどうでもいいネットサーフィンをして時間を潰した」とあるから、それなりに動揺していたらしい。午後三時ごろにまた病院に行っている。「祖母は再び点滴をつけられており、酸素吸入器も外されていた。小康状態といってよかったが、依然として予断を許さぬ状況であることに変わりはなかった。『古今和歌集』を読みながら四時半頃まで見守った。時折り顔をのぞきこんでみるとうつろな瞳がこちらの目とあう瞬間がたしかにあったのだが、その目の奥で彼女が目の前の人間を理解しているのかどうかはわからなかった」とのこと。「十四日が俺の誕生日だからな、それまではもってくれよと言い残した」なんていうのはちょっと芝居がかっている。
 欄外にはまた全身いたるところがかゆいということが書かれている。だいぶひどい状態のよう。「尻はかきこわしてしまって数ヶ月前からひどいことになっているが、最近出て来たものとしては両脇腹と両腕。他の場所ももちろんかゆい。尻の上部、腰のあたりや太ももの内側などが鳥肌のようになっている。下腕も同様」と。


―――


 この日はアイロンを入手しなければならないというわけで(あしたが勤務なのだが持ってきたワイシャツ四枚はいままでにすべてつかってしまったので、洗ったあとの皺を伸ばさないと着ていけない)午後五時くらいだったか(……)に出向き、ニトリに行ったのだが、めんどうくさいので詳細ははぶいてしまおう。出るまえにどういう品があるのかなと検索してみたところ、意外にもアイロンはひとつしかないようで、ほかにハンディスチーマーのたぐいなど。めんどうなので省略するが、いざ行ってみるとアイロンは見本品はあるのだけれどそのしたに箱がなく、これ在庫あんのかなとおもいつつも聞くのがめんどうだったので、その隣にあったハンディスチーマー、事前にネットでもみかけていたが、アイロンのようにして服にあてて折り目をつけたりもできるというその品を買ってみることにした。台はまよったがいったん買わず。スチーマーだからハンガーにかけたままで処理することもできるわけだし、じぶんはきっちりアイロンをかけたいタイプだとおもっていたがそれで済めばそれに越したことはない。そのほかハンガーが足りないのでワンセット買い足し、あと味噌汁を食うための椀。箸や皿などもそうだが、ここでも二つ買ってしまった。あと電源タップ。これは冷蔵庫の裏のコンセントを拡張したいため。いまそこには冷蔵庫と洗濯機と電子レンジがつながっているが、それで埋まってしまうし電源をとどきにくい暗がりではなくその横に出したい。スチーマーはこのつぎの日につかったが、行けそうである。座布団を下敷きにしてアイロンのようにしてやってみた。帰りは(……)駅そばの(……)に寄っていくらか買い物。キャベツやキュウリにトマト、冷凍のハンバーグやジンジャーエールなど。あとのど飴も買っておいた。ボイスケアのど飴と龍角散のシークワーサー風味のやつ。国立音大が製作に協力したというボイスケアのど飴は、むかし地元のセブンイレブンで一時期だけ売っていたことがあって、なんだかんだ喋るしごとだからたまに喉をわるくすることがあり((……)先生なんかも龍角散のど飴をいつももっている)、そのときなめてずいぶん効果があるなとおもったのだったが、その後みかけることがなかった。