2022/7/9, Sat.

 遊歩者に関して唯一厄介なのは、それがひとつの人物類型あるいは理想として、あるいは文(end335)学上のキャラクターとして以外には存在しなかったということだ。しばしば遊歩者はよそよそしい視線を他人へ向ける探偵のようなものといわれる。そしてフェミニストの研究者らは女性の遊歩者が存在したか、存在し得たかこれまで議論してきた。しかしいかなる文学探偵も、遊歩者と呼ぶにふさわしい、あるいは遊歩者として知られた実在の人物を捜しあてたことはない(仮にあれほど多作でもなくデンマーク人らしくもなかったら、いちばん有力な候補はキェルケゴールであったかもしれない)。だれひとりとして、カメを連れて散歩していた人物を確認した者はなく、この奇習に言及する者はみなベンヤミンを出典としている(遊歩者の全盛期とされる時期、作家ジェラール・ド・ネルヴァルがシルクのリボンにつないだオマール海老を連れて散歩していたことはよく知られるが、その行き先はパサージュではなく公園で、理由も気取るためではなくて哲学的なものだった)。遊歩者という理念を十全に体現した者はいない。しかし誰もがそのいずれかの変種に与していた。ベンヤミンの言とは裏腹に、「街のいたるところを歩きまわることができる」だけではなく、それが幅ひろく実践されていたのだ。他所の街では、孤独な散歩者はたいてい周縁的な存在で、親密圏およびせいぜい屋内で展開される私生活の域外に締め出されていることが多かった。しかし十九世紀のパリでは、公共圏において、すなわち街路で、社会の只中で本当の生活が展開されていた。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、336; 第十二章「パリ――舗道の植物採集家たち」)





 二首:

 夕暮れに出会うひとびとみな仲間頬に西陽を分かつかぎりは

 おだやかにことばを尽くせ曇天の下でまごつくどこかの君に


―――


 二首:

 大仰な恋に笑えよペシミスト腹が減ったら野草を採って

 テーブルに置きたいものがない暮らし訪問者には嘘をつかれる


―――

  • 「ことば」: 1 - 9
  • 「英語」: 458 - 471


―――


 九時半に覚醒。そのときにはゆめをおぼえていたはずだが。なんだったか? 午後三時現在、わすれてしまった。れいによってしばらく臥位のまま深呼吸をする。そうしながらこめかみとか頭蓋とかを揉んだり、枕(代わりの座布団)をどけて首を左右にごろごろやってすじを伸ばしたり、足の裏を合わせたり、両手を組んで腕をまえに伸ばしたりする。そして一〇時ちょうどくらいに起床。洗面所に行って顔を洗う。鏡にうつる顔は冴えず、髪の毛はぼさぼさとしている。それを梳かしたのは書見後か瞑想後のことである。室を出ると冷蔵庫から浄水された水を入れてあるペットボトルを取り出し、マグカップについで飲みながら一息。ウェブもちょっと見て、一〇時半から布団のうえにもどって書見した。チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)。なかなかおもしろい。きょうはなぜかするする読めて、181からはじめていま249まで行っているから、もう七〇ページくらい読んだわけだ。訳者あとがきも入れて314までなので、あるいはきょうじゅうに読み終わるかもしれない。ブコウスキーがいちばん好きで敬愛していた作家はジョン・ファンテだという。これは未知谷から(たしか)『バンディーニ家よ、春を待て』という本と、あともう一冊か二冊くらい出ている作家だ。未知谷の本はどれも装丁が白くてきれいなのでそれだけで気になってしまうところがあり、ジョン・ファンテも図書館とか書店でみかけて名を知っていた。ほか、イレーヌ・ネミロフスキーとかナターリア・ギンズブルグとかも気になっているが、しかし未知谷の本をいままで読んだことは一冊もないはず。
 一一時半くらいまで読み、椅子にもどるとまた水をカップについでちびちび飲んで、それから瞑想。きょうも深呼吸をしばらくしてから静止。左足があいかわらずしびれる。姿勢の問題なのだろう。右足の置きどころがうまくなくて圧迫されるのだろう。それでも二〇分か二五分くらいはやっていたか。ひさしぶりにあたまのなかが自動筆記的な感じにすこしなった。姿勢を解いて足をおろすと、左足がしびれているのでそれが解けるのを待つあいだにまた本を読む。そのあとだったかそれとも瞑想のまえだったか、背伸びをしたり屈伸をしたりとからだを伸ばしたときがあった。両腕をまっすぐうえにかかげて息を吐きながら背伸びをするあいだ窓のほうを向いていたが、この時点ではカーテンのいろは曇りの日のそれで、全面に平らかな白さがくまなくひろがってはいるもののそれは布地じたいの白さで、明暗の差はほぼなくつやも影もなく、窓ガラスにほどこされている斜めの格子模様も日差しがなければうつり出てこない。
 食事を取る。洗濯機のうえでキャベツを切り、トマトも一個切って添えた。ベーコンを乗せると刻みタマネギドレッシングをかける。あとは豆腐と、冷凍のハンバーグ。それぞれ準備してものを食べているさいちゅうに、もう洗濯をしてしまおうとおもって席を立ち、洗濯機に汚れ物をひとつずつ投入。パワフルモードでスタート。しばらくして水が溜まるので、エマールをキャップにそそいで入れた。まだ水が出ている段階で入れたので、洗濯機内に落ちる水流でもってキャップをゆすいでおく。食事を終えても洗濯が済まなければ洗い物はできない。洗ったあとの皿などを洗濯機のうえに置くからだ。それでNotionを準備したりウェブを見たりしながら待ち、便所に行ってクソを垂れているあいだに洗濯が終わると、洗われたものを干しにかかった。このころには陽が出てきており、吊るせば問題なくよく乾きそうな陽気だった。タオルやバスタオル、肌着の上下に、赤褐色の幾何学Tシャツと真っ黒なズボンも洗っておいた。そうして洗い物をするのだがそのまえに靴箱のうえとかガスコンロの脇の隙間に置いておいたプラスチックゴミを袋に始末。きのう食ったねぎ塩チキン弁当のパックはあまり細かくせず、六等分にとどめておいた。そうしてものを洗うと流しの内側がけっこう汚れている。排水溝には白い筒状の物受けがまずはまっており、そのうえにさらに網状のちいさな蓋が乗るかたちで、さらに水を溜めるためのぴったり閉じることのできる蓋もあるのだが、その白い筒なんかもかなり汚れてきている。歯ブラシをそろそろあたらしいのに替えていまのを掃除用にし、それで擦るべきかなとおもったところで、(……)くんが来たときに買ってきてくれた金束子(かれはそれをつかってみずから流しまわりをゴシゴシ擦ってきれいにしてくれたのだが)があることに気がついた。ガスコンロの脇のすきまにずっと放置してあったのだが、これをつかえばいいやというわけでシンクの内側をこすって掃除した。ステンレスと金属製束子がこすれる音に、鼻から吸いこむと首すじあたりがゾクゾクしてくるようなあの特有の金臭さだぜ、へ、へ、へ! という感じで隅まできれいにこすっておく。
 それで席にもどって音読。しかしそのまえにGmailをのぞくと、(……)さんからメールの返信が来ていた。パニック障害がちょっと再発してということにたいして、パニック障害というよりは夏バテなのではという気もしないではないけれど、というコメントがあって、いやー、そうじゃないんだけどなあ、とおもった。じぶんも大学生のころ、暑い夏場はつねに吐き気のような感覚があって食欲がなくなっていたというのだが、それはそれでつらいだろうけれど、こちらの症状はそういうかたちでの吐き気とは違う。それで、やっぱり電車に乗るだけで不安とか緊張がはげしく高潮して苦しいとか吐きそうになるとかいうのは、やっぱりあまり想像がつかないだろうなあとおもった。とうぜんのことだが。そもそも人生のなかで、緊張はだいたいだれでもするだろうが、あまりに緊張しすぎていまにも吐きそうになるというほどのそれは、多くのひとはほとんど体験しないんじゃないだろうか。そうでもないのか? わからないが、そういうことがないとパニック障害の症状は理解しづらい気がする。発作のときの状態をじぶんの体験をもとにある程度想像できたとしても、つねに不安があって、という予期不安とかふだんの状態はなおさら想像しづらいのではないか。だれもみずからの体験だったり伝聞情報だったり本で読んだことだったりをたすけにして他人の感覚や経験を理解した気になるしかないわけで、(……)さんもじぶんのむかしの体験から類推をはたらかせたのだが、このばあい、その体験は正確に相応するものではなかったとおもう。
 このように、じぶんの症状や経験がうまく理解されなかったような、「誤解」を受けたような感覚を受けてひっかかったということは、パニック障害というじぶんの症状のことをただしく理解してもらいたいという願望があるということだろう。もうひとつ、おもうに、パニック障害というより夏バテではないかと書かれてあるのを読んだときに、じぶんのなかには、夏バテ程度のことではない、そのようなありふれたものではないとか、ことによると、もっと苦しいものだとかいうおもいが湧いた気がする。ということは、「誤解」されたという感覚のなかには、じぶんの症状を「矮小化」されたという感覚がふくまれているということである。不幸なにんげんはおのれの不幸を自慢するというのはひじょうに一般的な現象だろうが、ある種の病気のにんげんがその病気をむしろ誇りのようにするという心性もおそらくよくあるもので、トーマス・マンの『魔の山』のなかでそれは滑稽に描かれていた。国際サナトリウム「ベルクホーフ」においては熱が高かったり病気が重かったりすればするほど貴族的だとみなされるのだが、パニック障害という精神疾患にまつわって、じぶんのなかにもおそらくそういう貴族精神みたいなものがある。貴族精神などと言っては言いすぎだが、たんじゅんに病気自慢的な心性ということで、ただその「自慢」のより詳細な内実はあきらかではない。おおくの他人にはおとずれることのない貴重な体験をしているということなのか、苦しい経験を耐えてきたぞということなのか、(病気によって?)選ばれたというある種の選民思想なのか。いずれにしてもくだらないことではあるのだが、ただそういうふうにじぶんじしんの不幸や病気が誇りや自負や自慢めいたものに転化するというのは、それが身体や精神というよりは実存的に癒着して、そのひとのアイデンティティの一部になっているということだろう。だからそれをただしく理解されないと、誤解されたとか矮小化されたというような疎外感が、まさしく実存的に(つまり病気ではなくて、じぶんじしんが誤解されたかのように)生まれるということではないか。
 というかこのメールを見て食後に精神安定剤を飲んでいなかったということに気づき、服用した。家にいればもうそのくらいの心身の感じにはなっている。とはいえまだ飲まない日というのはつくらずに、いちにち一錠は飲んでよりからだをととのえていったほうがよいだろう。
 それはそれとして、前回のメールに、たまには外に出て歩いたほうがいいぞと兄に言っておいてくださいと書いておいたところ、(……)さんによれば、スイミングに通い出したというのでおどろく。テレワークの日は隣駅まで電動のチャリで行って、一五往復くらい泳いで帰ってくるらしい。すげえ。プールが二五メートルのもので一往復五〇メートルと仮定すると、七五〇メートルくらいは泳ぐわけか。これが多いのか少ないのかわからないが、こちらじしんは水泳が大の苦手で、子どものころから運動神経がなくスポーツ全般大の苦手だったのだけれど、そのなかで水泳はいちばん苦手な分野であり(二番目はバレーボール)、からだのうごかしかた息継ぎのやりかたがどうしてもわからないから往復どころか二五メートルを泳ぎきったことすらいちどもない。しかし兄がいつのまにかそんな運動習慣をはじめていたとは、馬鹿にできないではないか。こちらのほうが見下されてしまう。
 そうして音読。すでに二時をむかえていたのでみじかめに切って、そのあとまた席を立ってしばらく屈伸したり、開脚したり、背伸びしたり、壁に手をつきながら腰をそらしたり、前後に開脚して脛を伸ばしたり、足先を手でもって背面に引き上げたり、椅子のうえにかかとを乗せて足の裏を伸ばしたりとストレッチをした。それから日記にかかり、ここまで書くともう四時だ。きょうは(……)についてのはなしあいで通話をしたいということなのだが、日記を優先したいので参加できたらというかたちで、とLINEにつたえておいた。
 

―――


 そのあとちょっと休んだかもしれない。おぼえていないが。五時くらいからぜんじつの日記を書きはじめた記憶がある。そして仕上げて投稿すると九時になっていたから、四時間ほどずっと書いていたのだ。とちゅうで休んだ間もあった気がするが。そうだ、六時半くらいでからだがこごったから寝床に逃げて、そうすると眠気がちょっと重くあたまにかかっていて耐えられず、目を閉じてほんのすこしまどろんだ時間があった。だから実質三時間くらいだったかもしれない。このあとの通話のさいごのほうでもはなしたが、さいきんはもう一時間二時間書けばそれでなんかからだがつかれたなとなって逃げてしまっていたので、このくらいつづけてながく書いたのはひさしぶりかもしれない。よいしごとぶりだ。いつもこうでありたい。やはり深呼吸をよくしながらストレッチでからだをほぐしておかないとながくモニターのまえにとどまることができない。ここ数日はよく柔軟できているし、また作業とちゅうでもちょっとからだがこごったなとおもえば椅子を立って屈伸したり背伸びしたり、上体をひねったり脚を伸ばしたり、腕を前後につきだして背面をほぐしたりとやっているのでよろしい。耐久力を確保しよう。
 投稿したあともすぐにはLINEをひらかず、ストレッチをしばらくしてからログインし、まだやってるかと問うと肯定がかえってきたので、いまから飯の支度をして参加すると告げた。そうしてキャベツやトマトキュウリを切ったりハンバーグとメンチカツをあたためたりして膳を用意。コンピューターの左にずっと敷いたままにしてあるランチョンマットのうえに乗せる。サラダの大皿と、それよりすこしちいさな木製皿と、パックに入れたまま鰹節と麺つゆをかけて生姜を添えた豆腐。準備ができてZOOMにはいり、あいさつをしたあとはミュートにして、映像はうつしたままなのでもぐもぐやっている顔をさらしながら飯を食った。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 それで一時になって通話を終了。そのあとはシャワーを浴び、ブコウスキー書簡集をさいごまで読み、(……)三時一八分に消灯。